色彩のブルース (3)
母親がいる施設は、街の南側の外れにある。市のバスが近くまで行くけれど、施設の敷地までには少し歩くことになる。不便な場所ではない。それでもここを訪れるのは決して愉快なことではないからか、背のあまり高くない建物全体の雰囲気がひっそりしているように感じて、ジェロニモは必要もなく足音を消すように歩いてしまう。控え目な笑い声が聞こえることはあっても、派手に泣く声を耳にすることはない。せめて最期が近いなら、できるだけ明るく送りたいと思うのが人情なのか、ここを訪れる誰もできるだけ普通の笑顔を浮べて、今この瞬間にも消えてしまうかもしれない命へ、そんな気振りを見せないようにするのが暗黙の礼儀のようだ。
母親は今日も、2階の病室で数人のルームメイトと一緒に、点滴の痛み止めでうつらうつらしている。床に届きそうなカーテンで、ぐるりベッド周りは仕切れるようになっている。家族によっては、それで自分たちの姿を見せないようにしているのを見掛けるけれど、ジェロニモは滅多とそのカーテンに触れることもない。
ベッドの傍のパイプ椅子を引き寄せながら大学からそのままの大きなカバンを床に置き、音をさせないように腰を下ろす。自然に半ば眠っている母親の顔を覗き込むような近さになり、そうと意図しないまま、彼女の今日の寝顔をしげしげと眺めることになった。
ジェロニモが幼かった頃は、まだ黒々としていた長い髪も今はただ灰色になり、根元は黄ばんで、深いしわに刻まれた浅黒い皮膚よりも、彼女をひどくやつれさせて見せる。実際の年齢よりずっと老い込んで、体の中を腐らせている病気ともう闘う体力も気力もない。もう、闘う必要もない。彼女はただ、自力で呼吸をしているだけに過ぎない。ここでは、生きていると言うことはそれだけで充分だと見なされている。
「・・・母さん。」
耳元で普通に呼び掛ける。反応はない。ふた拍置いて、ジェロニモは自分たちの言葉で彼女を小さく呼んだ。
「──カチャ?」
ジェロニモの声へ向かって、彼女がそっと頭を揺らす。開かない目はまぶたが震えて、眠ってはいてもジェロニモの声はそうと聞き分けられるのだ。力なく開いた唇も、まぶたと同じように震えた。ほとんど残っていない歯が中で合わさって、かちかちと小さな音を立てた。
開けば、ジェロニモとよく似た色の瞳だ。皮膚の色もよく似ている。父親そっくりだと言うジェロニモと彼女のもうひとつよく似ているのは、指の爪の形だった。
点滴の入った左腕は体を覆うシーツの上に出ていて、針の太さが痩せ細った腕に痛々しい。鎮痛剤の通ってゆく管の方が、もう彼女の脆い骨よりもよほど頑丈そうに見える。
頬骨の目立つ丸い顔、ジェロニモを腹に抱えて産んで育てたとは、到底思えない、今は嵩のない薄い体。シーツすら重そうに見えて、触れる時には恐ろしいほど気を使う。ジェロニモは自分の方にある母親の右手を、シーツの中でそっと握ろうとした。
乾いた皮膚。枯れ木のような感触の、骨ばかりの手指。手首はごつごつしていて、それが人の体だと知らなければ、机や椅子の脚だと言われても信じるかもしれない。
「カチャ。」
もう一度、ジェロニモは母親の耳へ唇を寄せて、彼女を呼んだ。
「・・・──。」
彼女が何か言う。顔をジェロニモの方へ向けて、唇を動かして、けれどそれは夢の中で起こっていることなのか、実際に彼女の声はどこからも聞こえず、ジェロニモは、涙を耐えるように長い間のある瞬きをした。
シーツの下からそっと彼女の右手を抜き出し、自分の両手の間に挟む。冷たいその手をそうして温めるように、握っても決して力は込めないようにして、ジェロニモは力のない母親の手と指を、自分の指で静かに撫でた。
家族や友人の間の親愛は、もっぱら抱き合うことで示すジェロニモたちの習慣だったけれど、もうジェロニモに彼女を抱きしめることはできず、取った手さえしっかりと握ることはできず、今にも朽ち果てようとしている母親の、その乾き切った皮膚をそっと撫でるのが精一杯だった。
ぬくもりすらかすかな、その小さな薄い手が、時々ジェロニモの指の動きに応えるようにわずかに曲げ伸ばしされ、それでもきっと、夢の中で彼女が握るその手は恐らくジェロニモのそれではなく、彼女の子どもたちの父親の誰か──ジェロニモの父親かもしれない──の手なのだろう。
ジェロニモがそう考えたことのあかしのように、不意に彼女の、ほぼ空洞でしかない口元がはっきりと笑みの形に上がる。それを見下ろして、ジェロニモも思わず釣られて微笑んだ。
「カチャ。」
また、応えはないと知りつつ呼んだ。呼んで、また母親の手の甲をそっと撫でて、自分の体温でようやく少しぬくまった彼女の手を、ジェロニモは取り出した時よりももっとそっと、白いシーツの下へ戻す。
触れなければそこにあると分からなくなりそうな彼女の手を、シーツの上から肩近くまで風のように撫で、彼女の白くごわついた髪を撫で、骨に張りついただけの頬の皮膚の線も、軽く曲げた人差し指の関節でなぞり、それから自分の大きな掌を精一杯広げて、彼女の腹の辺りへ静かに置いた。
そこから体全部に拡がる病魔は、もう誰の手でも癒すことはできず、内臓全部を取り除いて──もちろん、そんなことは不可能だ──も、彼女を救うことはできない。意識の朦朧とするような量の鎮痛剤だけが、彼女を安らかに眠らせる。眠ったままもし逝けるなら、それは恐らく幸せなことだろうと、母親が薬なしなら味わうことになる苦痛のことを想像して、まるで胸でも突き刺されたように、ジェロニモはごくりと喉を鳴らしてから、もう一度彼女の額の辺りへ目を凝らした。
「もう行く。」
母親の平たい腹から手を離し、同じ動きで立ち上がる。取り上げたカバンを肩に掛け、
「また来る。」
そう言う声だけはしっかりと腹から出して、そこから体を引き剥がすようにして、ジェロニモは母親のベッドの傍から離れた。
真っ白でむやみに明るい廊下で、ふと死神とすれ違ったような寒気に襲われる。止まって振り向けば背中に取り憑かれると、他愛もなく信じてしまう自分の爪先を必死で動かして、ジェロニモは引き結んだ唇の中で固く歯を食い縛る。
外へ向かって歩きながら、あの男の、アルベルトの、義手の右手の硬さと冷たさを思い出さずにはいられなかった。思い出して、さっきまで触れていた母親の、手のか細さと体温のなさと比べてしまう。
陽の差す駐車場を歩いて横切る間に、自分は生きて動いているとまるで言い聞かせるように、胸いっぱいに空気を吸い込んで、そして吐いた。
女からの連絡が入る。初老の男から会いたいと連絡があったと言う。予定を聞いてYESと答えて、またあのホテルのバーへ行く。レポートを続けて2本提出した後の、やっと息のつける週末だった。
ホテルの部屋に入って服を脱いで脱がせて、暗い部屋の中で体を寄せた途端、男はちょっとためらう様子を見せながら、
「彼と──その、私の知り合いとは、会ったのかね?」
ジェロニモの長い腕を胸元へ引き寄せて訊く。ジェロニモは一瞬答えに詰まり、そのまま素直に答えて良いものかどうか、その間に考え込んだ。見えるようにうなずいて、言葉を出さないと言うことは、それ以上は訊かれても答えるつもりはないと言う意思表示だと、さすがに男も悟って、
「そうか・・・。」
ただ相槌を打ったような、あるいは何かに落胆したような、どんな風にも取れる複雑な声音で低く言った後で、ジェロニモの指先を握って来る。気をつけながら握り返して、ジェロニモは、男の薄い肩を穏やかに抱き寄せた。
知り合いとしか言わないのは、親しい友人であることは隠しておきたいのか、それともほんとうに単なる顔見知り程度の仲なのか、ふとふたりともが自分と寝たいと言ったと言うことは、元々このふたりこそそういう関係だったのではないかと、突然ジェロニモの思考が飛躍する。まさかと否定しようとしてから、有り得ないことではないと、改めて考えた。
男にはそんな素振りも見せずに、相変わらず無表情なまま向き合って、男の背中の乾いた皮膚を撫でる。男の唇が鎖骨へ当たったのに、気まぐれを起こして男を近く抱き寄せた。男が、少しだけ驚いて肩を引こうとしたけれど、構わずもっと体を寄り添わせて、胸と胸を隙間もなく重ねた。
ふたりが恋人同士だったことがあるとしても、ジェロニモには何の関係もない。あの夜、別れの挨拶のために抱きしめられて抱き返すこと以外しなかったアルベルトの躯に、この男はこんな風に触れたことがあるのだとしても、それはジェロニモとはまったく無関係のことだった。
それなのに、この男の、乾いた皮膚がアルベルトの躯──ジェロニモは知らないままだ──に触れてこすり上げて、弾む息を重ね合ったのだと思った瞬間、ふと腿の辺りへ血が集まって、代わりに頭の後ろから血が引いて行く音が聞こえた。
また心が乱れて揺れる。自分で自分が理解できずに、ジェロニモはひとまず何もかもをごまかすために、目の前の男を自分の体の下に敷き込んで、さっき自分がそうされたように、男の首筋へ顔を埋めた。
珍しくジェロニモが自分から動くのに、男は驚いたように背中へ回した腕を迷わせ、それでも数瞬の後にはジェロニモを抱きしめて、皮膚のたるんだ喉をのけぞらせている。男の枯れた細い声は、それでも空気を求めて喘ぐ時には、ジェロニモの耳へ刺激になって伝わって来た。
穏やかに触れられるに任せるだけのはずが、今はジェロニモが男に触れて、そうされるうちに自然に学んだものか、動く手指に惑いがないのが自分でも不思議だった。男の体がいつもより熱い。熱は皮膚を張りつめさせて、そうして、男の年齢を少しばかり取り去ってゆく。下から伝わって来る声も弾みも手応えも、いつものあの潤いの失せたそれではなく、今ではまるで20も若返ったように、男はジェロニモの下で体全部を波打たせていた。
ようやく、男が我に返ったようにジェロニモの体を押し返し、上と下の位置を入れ替える。シーツの波にさらわれたように、ジェロニモもいつの間にかにじんだ汗に体を濡らして、男と同じように喉を伸ばして短い息を吐いていた。
口を塞ぐように、唇に伸びて来る男の指を、思わず掴んで引き寄せて、礼でも言うように口づけている。一体何の礼だと、頭の後ろで声がするのに、自分ひとりで笑っている。
あの男から──アルベルトから、心が離れない。もう会わないと分かっているのに、あちこちに気配を見つけて、思い出してばかりいる。
今もそうだ。この男を抱きしめて、アルベルトの気配を探そうとしている。この男が触れたかもしれないアルベルトの、たとえばあの銀色の髪や広い肩幅や背中や、そんなものを男の皮膚の上に探そうとしている。
なぜ、と自分の中で声がする。見下されていると感じなかったからか。あの右手のせいか。それとももっと直裁に、受け取った金の、思いも掛けなかった額のせいか。
金が理由と思うのは、あまりに自分を卑しめる考え方だったけれど、案外それがいちばん正解に近いのかもしれないとも、どこか冷静に思った。まさにその通りだ。金で体を売る人間が、その金のことを気にして何が悪い。
金がすべてを解決するわけではなかったけれど、それでも自分の抱えている問題のほとんどは、金さえあれば即座に解決するような気がした。金は母親を救うことはできないけれど、彼女の病魔をもっと早く察知して、取り除くことはできたかもしれない。金さえあったら、彼女はあんな不運をひとりで抱え込まずに済んだかもしれない。けれどそうしたら、自分はきっとこの世に生み出されることもなかったのだろうと、ジェロニモの考えはそこへ行き着いた。
行き着いた時に、男の唇がいつものようにジェロニモの腿へ触れて、それから、熱の元へ触れた。
自分に触れている男の手を感じながら、アルベルトの右腕を、この男は見たことがあるのだろうかと思う。それとも、見ることなしに別れたのだろうか。
ふたりはとにかくも恋人同士だったに違いないともう思い込んで、ジェロニモは男の口元に果てた。
男と抱き合いながら、アルベルトのことを考えることをやめられなかった罪悪感はひどく苦く、相変わらず父親のように優しげに別れを惜しんでくれる男を真っ直ぐ見ることもできないまま、ジェロニモは部屋を後にした。
受け取った金がひどく薄汚く思えて、それは恐らく、金が薄汚いのではなく今夜の自分が薄汚いだけだと、ロビーへ降りてゆくエレベーターの中でじっと床ばかり見ている。
上着のポケットの中で紙幣の束が鬱陶しく嵩張って、引き返して男に金を返そうかとまで考えながら、とりあえず落ち着くために、同じポケットに入れておいた携帯に代わりに触れて、意味もなく探り当てた電源のスイッチを押した。
途端に、電子音が甲高く鳴って、メッセージがあると伝えて来る。女からかと思いながら、意識を向ける先ができたことを内心喜んで、急いで取り出した携帯の小さな画面を見た。
アルベルトからだった。信じられないものを見たように、ジェロニモは息を止め、目を見開いて、エレベーターの扉が開いたことにも気づかずに、液晶の画面を凝視し続けていた。
また同じ金曜の夜だった。ホテルの部屋も同じで、今夜は迷うことなくエレベーターを出てから真っ直ぐそこへ向かった。
廊下に落ちる照明の色も絨毯の色も同じ、ノックするドアの色も固さも同じ、ジェロニモの心臓の鼓動だけが、前の時の夜よりも大きく打っている。同じように滑る足音が聞こえて、同じようにドアが開いた。そして同じように現れる、白いアルベルトの姿。
「やあ。」
微笑みが、前の時よりも自然にアルベルトの頬の線をゆるませていて、ジェロニモはそれに向かってややぎこちなく浅くうなずきながら、部屋の中へ爪先を滑り込ませる。
アルベルトは、シャツの裾をだらしなく外に垂らして、まるで自分の部屋──現実に、ここは今は彼の部屋だ──のようにくつろいだ姿で、よく見れば絨毯を踏む足は素足だ。白いかかとに自然に目が吸い寄せられて、ジェロニモは、知らず目を細めていた。
「君が、忙しくなくてよかった。」
ちょっと肩をすくめてそれに答えを返し、
「おれは精神科医じゃない。」
この間のアルベルトの物言いを写して、やや皮肉交じりにそう付け加えた。
毒を含んだジョークを聞いた人がそうするように、アルベルトはちょっと困ったように苦笑し、それから腕の長さより近いところへ爪先を進めて来ると、今夜はすでに剥き出しの右手でジェロニモの左手を取って来る。
「・・・来てくれて、ありがとう。」
それは、単なる挨拶のような言い回しに過ぎない。それなのに、声音にひどく実感がこめられていて、ジェロニモは思わず自分の頑なな冷たさ──特に、今夜の──を少しだけ恥じた。
仕事なのだから、呼ばれれば来るのは当然だと、そう言葉だけは頭の中に浮かんだけれど、取られた手の中に、アルベルトの右手の指先をそっと握った時に、それは一瞬で霧散する。
考えることが、端から無駄になってゆく。体が勝手に動いて、アルベルトの指先を危うく強く握りしめそうになる。生身ではない感触に、これは義手なのだからもっときちんと手加減しなければと、慌てたように考えた時に、すっとアルベルトが伸び上がって来る。体を引く暇もなく、目を閉じる間もなく、ジェロニモの唇に、アルベルトのそれが触れた。
空いた方の手が肩へ乗ったのを、自分への許可と判断して、ジェロニモは右腕をアルベルトの腰へ回した。先夜感じたよりももっと、自分に自然に添って来る体だと感じた。あつらえたように、回した腕のぴったりと収まる背中から腰へ落ちるくぼみ。固さや厚みが、抱きしめるジェロニモを安堵させる。回した腕の中で泳いでしまうこともなく、アルベルトの体は、ジェロニモの大きな体に圧倒されて、萎んだように存在を薄くしてしまうこともなかった。
誘い込まれるように唇が開いて、舌先が行き交う。右手と左手は握り合ったまま、片腕だけで互いを抱いて、金を払う側と金を払われる側の、けれど満更無理矢理の演技でもない熱っぽさだった。
そうと意識しなくても、仕事の時には白っぽく醒めている頭の隅に、今夜はその薄寒い気配が這い寄って来る様子はなく、ジェロニモは次第に本気の力を腕に込め始めていた。
会っただけで終わってしまった前回の、あの呆気なさを取り戻すように、アルベルトの様子を窺いもせずに、ジェロニモは、アルベルトの腰を覆ってまとわりつくシャツの裾に指先を伸ばし、そこから手を差し入れた。下は素肌だった。けれど脇腹の辺りへそっと触れた途端に、驚いたようにアルベルトの右手が、ジェロニモの左手の中からすり抜けてゆく。ジェロニモはすぐにシャツの下から手を抜き出し、アルベルトから唇を外した。
アルベルトが、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべて、明るさの足りない部屋の中でもそうとはっきり分かるほど、頬を赤く染めている。ジェロニモは、性急過ぎたと一瞬の内に反省して、アルベルトの体から腕を離し、それからできるだけ静かに、アルベルトの右手の指先へまた触れた。
「・・・向こうに行こう。」
ジェロニモに取られた手をそのまま手前に引いて、アルベルトがジェロニモを、あのソファの置かれた壁の向こうへ連れてゆく。
そこはいっそう暗く、だからベッドに掛かったシーツの白さが薄闇の中でひどく浮き上がって見えた。ひとりで寝るには明らかに大き過ぎるベッドの足元の端へ、膝裏の触れる近さに寄ってから、アルベルトはまたジェロニモへ向き合って喉を伸ばして来る。アルベルトの顎を両手で包み込むようにして、ジェロニモは最初は頬の線に触れてから、唇を目的の場所へ滑らせて行った。
始める前に、きちんと話しておかなければならないことがあるのに、いつもならさっさと始めてしまおうとする客を止めるのはジェロニモの方なのに、今夜はどこか必死な様子のアルベルトに引きずり込まれるように、何もかも後で大丈夫だと、先夜アルベルトが何もせずにただ払った分のことを思い出して考える。今夜何か手違いや勘違いがあったとしても、全部前払いだったと思えばそれで済む。あの女が聞いたら、眉を吊り上げそうな話だ。アルベルトとの件に、あの女は関係ない。アルベルトは、完全にジェロニモの個人的な客だ。だから、ジェロニモがアルベルトにどう接しようと、誰も関係がない。ふたり以外の誰も、文句を言う筋合いはない。
こちらにつけ込むために、わざわざ先夜にあんな物分かりのいい振りをしたのかもしれないと、そんな考えも浮かばないでもなかった。浮かんだ端からどうでもよくなってゆく。金はすでに受け取っていると思えばいい。それだけだ。ベッドへ倒れ込んで、ジェロニモの下でアルベルトがシャツを脱ごうとしている。手を貸そうと差し出した指先は、さり気なく避けられた。じっと眺めているわけにも行かず、ジェロニモも自分のシャツを、剥ぎ取るように首から抜き取った。
アルベルトがそう言った通り、シャツの前をはだけると右側に金属の鈍い光が見え、首筋ぎりぎりの肩が全部と、右側の胸は半分以上、脇の部分も半分近くが鉛色に覆われている。ジェロニモがそれをじっと見ているのを確かめるように、アルベルトがじっとジェロニモの視線の動きを追っていた。
アルベルトは上体を起こし、それから完全にシャツを脱いだ。そこへ放ったシャツが滑ってベッドの端から姿を消し、ふたりとも、アルベルトの腕を見ないために、シャツの行方を一緒に見つめていた。
アルベルトが、明らかに、どうする、と問い掛ける目の色を投げて来て、ジェロニモは、その腕に触れることを許されているのだと思い出すのに数瞬掛かり、ジェロニモがアルベルトの右肩へ巨(おお)きな掌を乗せた時、アルベルトがはっきり安堵の息をこぼして、今はすべて剥き出しの右腕をジェロニモの背に回して来る。
そう想像していた通り、アルベルトの腕は冷たかった。固くジェロニモの皮膚をこすり、時々、金属片の重なりの部分に、皮膚を切り裂かれてしまいそうな気がした。義手だと言う感触はどうしようもなく、それでも触れることにも触れられることにもためらいは湧かず、ほとんど常に重なっている唇がまれにほどける合間に、鎖骨の形を確かめる続きのように、義手の繋ぎ目へ唇を滑らせてもみる。
ベッドをひどくきしませながら抱き合う間に、何とかきちんとベッドの中に入り込んで、ジェロニモが脱いで脱がせた服がベッドの回りに散らかり、シーツの端はいつの間にかマットレスの下から引き出されていて、ふたりの今夜の性急さを表すように、ここだけすでにひどい乱れようだ。
無我夢中の間にも、アルベルトの右腕を自分の下へ敷き込まないようにそれだけは気にしていると、アルベルトが体の位置を入れ替えてジェロニモの上に乗って来る。右腕はジェロニモの胸に伸ばして置いたまま、そこから体をずらしてゆく。みぞおちの辺りへ頬をすりつけるようにして、左手は脇腹から腿を撫で下りて、迷うように膝へ届いた後で、また腿を撫で上げて来た。
体温で熱せられた空気にぬくめられたらしいアルベルトの右手を、ジェロニモは自分の胸の上にしっかりと引き寄せていた。アルベルトの左手がようやく自分へ触れた時もその手を離さず、じきに左手の指先へ濡れた舌が加わって、喉を伸ばして果てるのを耐える間も、ジェロニモはアルベルトの右手を握ったままでいた。
アルベルトの、あまり慣れてはいないらしい触れ方では終われず、しばらくはアルベルトのやりたいようにさせた後でやんわりそれを切り上げさせると、ジェロニモはいたわりのつもりでアルベルトの唇の端──あまり長く続けると、その辺りや顎が痛み始めるとジェロニモも知っている──を優しく撫でた。まるで立場が逆だ。
今度は自分がそうする番だと、体を起こして膝の間にアルベルトを抱き寄せ、次はジェロニモがアルベルトへ触れようとする。ところが腿の内側へ指を伸ばした途端、アルベルトが意外な素早さでジェロニモの胸を押し、
「いい、俺はいいんだ。」
吐息交じりのささやきしか聞かなかった今夜初めて、はっきりと目が覚めたような言い方をする。
でも、と思わず声を返すと、アルベルトは向こうを向いたまま、ジェロニモから体を離そうとした。
「いい、俺は──」
客がそう言うなら、こちらは言われた通りにするだけだ。ジェロニモは、触れるなと言われたところは注意深く避けて、自分から離れたアルベルトをまた抱き寄せた。ジェロニモに体を預けて、右腕は何となく自分の胸の前へ引きつけて、アルベルトは時々ジェロニモの首筋に鼻先をこすりつけて来る。抱きしめて、肩や胸に触れながら、言われた通り下肢の辺りへは腕を伸ばさない。アルベルトは立てた膝を器用にねじって、ジェロニモから躯を隠している。
体温と汗の湿りは確かな反応を伝えて来る。それでも、このまま直に触れずに終わらせられるようなやり方に心当たりはなく、ジェロニモはただアルベルトの脇腹や首筋を撫でるしかなかった。始まりの熱っぽさが嘘のように、今はただ抱き合って、アルベルトはそれでもジェロニモにもういいとも言わず、左腕をねじり上げるようにして、時々ジェロニモの髪の先に触れた。
まるで、それ以上は触れられない代わりのように、ジェロニモはいつの間にかアルベルトの右腕をずっと撫でていて、触れている感触が果たして伝わるのかどうかも分からないそこを、ジェロニモは何度も何度も撫で上げて、撫で下ろしている。
ジェロニモの髪から手を離し、アルベルトが自分の膝の上へ不意に両腕を投げ出して、がくりと首を折るように大きくうつむいた。
「・・・すまない。」
言いながら、右腕を撫でるジェロニモの掌を押さえて止め、振り払うようにジェロニモの胸から背中を浮かせる。まだアルベルトの体に半ば腕を巻いたまま、
「謝るのは、おれの方だと思うが。」
言葉ほどはそう思っていない声の浅さで、一応は心に浮かんだままを口にする。
おれが気に入らないならはっきりそう言えばいい。また、心の中でひとりごちる。この男が一体何をどうしたいのか、また一向に理解できなくなっていた。理解する必要などない相手だと言うのに、先夜からずっとこの男のことばかり考えていた自分の、持て余すばかりだった気持ちの揺れが悔しさを呼び返す。
「いや、君のせいじゃない。俺の方の問題なんだ。」
くっきりと肩甲骨の形の見える背中の、右肩の周りも鉛色に覆われて、大きなはずの背中がうつむいているせいか小さく見えた。左手で頭を抱え込むような仕草をして、それからそのまま右腕を撫で、
「俺が悪いんだ・・・。」
付け加えたのは、まるでひとり言のように聞こえた。
ジェロニモは、アルベルトには見えないように小さく首を振り、礼儀知らずを承知でため息も一緒にこぼしそうになる。それはさすがに押しとどめて、
「帰った方が良さそうだな。」
恐らく自分からはそうは言い出せないだろうアルベルトの代わりに、きちんと聞こえるように言ってから、ベッドの外へ足を出す。
床へ足を着けてから、脱いだ服がそこら中に散らばっているのを見て、ベッドの回りをぐるりと1周しなければ身支度もできそうにないことに気づいて、ジェロニモは今度こそはっきりと舌を打ちたくなった。今度は自分に向かって首を振り、幸いにすぐに視界の端に引っ掛かった下着を取り上げて、親切のつもりではなくアルベルトの服も拾い上げて、ベッドの端へそっとまとめて置く。
思った通りシャツがそちら側には見当たらず、仕方なくアルベルトがいる側のベッドの端へ回り、アルベルトを見ないようにして、見つけたシャツを背中を向けて着た。
「・・・次は、いつ頃なら君に会えるかな。」
背中で聞こえた声に、ジェロニモはシャツを引き下ろそうとしていた手を止め、思わず振り返る。
まだおれと寝るつもりかと、ついさっき不首尾に終わったばかりの今夜の成り行きを再び反芻する羽目になって、思わず険しく眉の間を寄せそうになった。
ジェロニモに、あれこれ要求するなら分かる。金さえ払えば何をしてもいいと、そう思う相手とばかり寝て来て、やりたくないことはやらないとそう口にして興を殺ぐのはいつだってジェロニモの方だった。何もさせず、むしろ触るなと言っておいて、また会いたいと言うのは一体どういうことなのか、何かろくでもない意図でもあるのかと疑心暗鬼にさえなりかける。
シャツをきちんと着終わるまでに呼吸を整えて、ジェロニモは何とかいつもの無表情に戻り、少し乱れた髪を、額から撫でつけて直した。
「──おれじゃない方が、いいんじゃないのか。」
意地悪い言い方にならないように気をつけながら、まだぼんやりベッドに腰掛けたままのアルベルトにそう言うと、アルベルトは力なく微笑んで、
「いや、俺は──君がいいんだ。」
言葉の間の間(ま)は、言い淀んだと言うよりも、そこに確かに混ざる自嘲のせいのように思えた。
アルベルトはやっと顔を真っ直ぐ上げてジェロニモを見ると、もうすっかり身支度の済んでいることにたった今気づいたのか、まだ裸のままの自分の姿を恥じる仕草で薄い毛布を肩まで引き上げて、その陰に口元を隠しながらぼそぼそと言い継ぐ。
「もちろん、君がもうごめんだって言うなら──」
「おれはただ、無駄なことに金を使う必要はないと言っているだけだ。」
「無駄かどうか決めるのは君じゃない、俺だ。」
アルベルトの語尾を断ち切るように先を引き取ったジェロニモの言葉の終わりを、今度はアルベルトが強引に奪い取る。すっと空気が硬さを増し、ふたりはなごやかさなどかけらもなく見つめ合って、結んだアルベルトの唇がかすかに震えているのを見つけて、そこから視線を外したのはジェロニモの方だった。
「──その通りだ。」
金のために体を売る自分の立場を弁えて、ジェロニモは静かにアルベルトに同意を示し、刺々しくなった空気をせめてやわらげるためにけれど何も思いつかず、結局黙ってここから立ち去ることを選ぶことにした。
まだ床に落ちたままだった上着を取り上げ、それきりアルベルトの方は見ずに、ジェロニモはベッドに背を向けて歩き出す。部屋と部屋の仕切りを越えたところで、ばたばたとアルベルトがベッドから飛び出して来た。
「ちょっと待ってくれ。」
毛布を体に巻きつけて、左手で押さえながらもたもたとジェロニモを追って来て後ろから腕を取る。その触れて来た右手の冷たさに、今夜だけですっかり慣れてしまったことに気づくと、ジェロニモはなぜか胸の辺りに痛みを感じて、簡単に振り払えるはずのその手を振り払わずに、素直にアルベルトの方へ振り返った。
「これを──。」
一度ジェロニモから手を離し、すぐ傍のソファの片端の、小さなテーブルの上から取り上げた何かを差し出して来る。アルベルトの手の中のそれが、先夜と同じ、金の入った封筒だと気づくと、ジェロニモは今度こそはっきりと大きく首を振って見せた。
「受け取る理由がない。」
アルベルトは引かずにそれをジェロニモの手に押し付けながら、
「俺は君の時間を買った、それだけだ。」
低い、よく通る声で、あの時と同じことをまたきっぱりと言う。有無を言わせない声音に、ジェロニモの方が気圧されて、それでも掌は開いたまま、感じていたのはそこに押し当てられた紙の手触りよりも、アルベルトの鉛色の指先の方だった。
封筒と一緒に、ほとんど無理矢理にジェロニモの手を右手の中に握り込んで来るアルベルトのその必死さに、ジェロニモもついに諦める羽目になる。それでも、喜んで受け取るわけではないと言う態度はまだ消さない。もう一度ジェロニモは、呆れたと言う仕草でアルベルトに向かって首を振って見せた。
「言ったろう、精神科医に会うのには半年待たなきゃならないんだ。」
「精神科医に会う方が安上がりじゃないのか。」
「俺が会いたいのは、精神科医なんかじゃない。」
声にも言葉にも、微塵も嘘が感じられない。寝るためにジェロニモを呼び出して、そしてまた果たせずに終わったと言うのに、次に会えるのはいつだと訊くこの男の頭の中は、彼自身には筋の通った理屈があるにせよ、ジェロニモにはいまだ理解の埒外だった。むしろほんとうに顔を合わせただけで終わった先夜よりも、今夜謎がさらに深まっただけだ。
好きにすればいい、どうせ金だけのことだと、投げやりに考えて、顔に泥でも投げつけられたような気分になる。
体を切り売りする輩が、客の理屈など気に掛ける必要はない。ただ言われるまま、体を投げ出して右と言われれば右、左と言われれば左を向けばいいだけだ。そのために受け取る金だった。金を払うと言うなら払わせて、黙って受け取って消えればいいだけだ。考える必要はない。自分のような存在に、考える頭があるとすら思われていないことは知っている。体以外はすべてどこかへ置いて、目の前の客の好きにさせればいい。
自分にまた会おうとする──それがほんとうに本気だとして──アルベルトに憐れみを感じて、それはそのまま自分の身に即座に跳ね返って来る。ジェロニモは、その代償に、受け取った封筒をアルベルトの目の前で無造作にジーンズの後ろのポケットへねじ込んだ。
「──じゃあ、また。」
アルベルトがほっとしたように、やわらいだ声でそう言った。
「ああ、また──。」
するりと、相槌が唇から滑り出ていた。
ほんとうに、また会うのかどうか、信じ切れないくせにきっとそうなると思いながら、ジェロニモはアルベルトの部屋を後にする。
エレベーターへ向かって大きな歩幅で歩き出すと、ポケットの中に嵩張る封筒が立てる乾いた音が、絨毯に吸い込まれる足音に追いすがるように重なる。その音に追われるように、ジェロニモはさらに足を早めて、少しでもアルベルトから遠ざかろうとしていた。
乱れたベッドにひとりきり横たわって、アルベルトは眠れずに寝返りばかり打っていた。
シャワーを浴びてベッドを形だけでも整えれば、多少はこの滅入った気分もましになると分かっていて、そうはせずに毛布の中にもぐり込んでいる。
自分以外の誰かがここにいたのだと言う気配を、消してしまいたくはなかった。誰かに触れて眠るはずだった夜を、結局またひとり過ごす羽目になって、心のどこかで予想していたことだったからそれほどショックではないはずだと自分に言い聞かせて、少なくともまたと言い残して出て行った赤銅色の膚の青年の、触れた髪の冷たさを思い出している。
アルベルトの右腕と同じに、どれだけ熱くなっても髪は冷たいままだ。あの皮膚の色に、何となく親(ちか)しいものを感じているのはアルベルトのひとり勝手だし、あの膚の色合いとこの腕の金属の色が似ているような気がするんだと言ったら、彼は一体どんな顔をするだろう。
そんなことはないと、言下に否定する表情を瞳にだけ浮かべて、黙ったまま自分を見つめるジュニア──ジェロニモと言う名を、アルベルトは知らない──を想像して、アルベルトは丸まった体に、もっと近く手足を引き寄せた。
顔色も変えずにこの右腕に触れた、あの指の長い大きな手。巨大な弦楽器も、あれなら楽々扱えるだろう。弦を指板の上に押さえて、そこを滑る指の腹が立てる、きゅっと言う、ひどく切ない音。自分の弾くピアノの音にそれが重なるたび、演奏はいつもやり直しだった。アルベルトはその音がとても気に入っているけれど、合奏には邪魔なだけの音だった。
そんな音を、アルベルトは今夜確かに自分の皮膚の上に聴いた。彼が触れると、自分がひどく軽やかに音を奏でる簡素な楽器のような気分になった。あの大きな手指が、確かな音程を求めてアルベルトの皮膚の上を滑ってゆく。それに応えて、アルベルトが音色を立てる。
最初からすっかり上手く行くほど、アルベルトはきちんと手入れされ演奏され慣れた楽器ではないし、あの青年もまた、初見で1曲丸ごと弾き終えられるだけの腕もない。
恋人同士なら、それを笑って通り過ぎることもできるのだろう。慣れない仕草を詫びたり笑い合ったりしながら、少しずつ馴染んでゆくことができる。ふたりは恋人同士なんかではないし、金を間に置いてやっと関わり合う侘びしい間柄では、普通なら許される冗談すら冗談にならない。
役目を果たせない道具──楽器──は、ただの邪魔な置き物だ。彼は恐らく、そんな気分で今夜ここを去ったろう。アルベルトもまったく同じように感じていると、とにかくも肌を重ねた親しみが彼に伝えたかどうか、アルベルトには分からなかった。
彼が、いいと言うかどうか、私には保証しかねるよ。
教授が、苦虫を噛み潰したような表情でそう言ったのを、アルベルトは思い出している。
大学と言うところは、いつ訪れても無駄にエネルギーのあふれて感じられる場所だ。未来だけを明るく見据えていられる若者が、何の疑いもなく胸を張って自分を信じて、むやみに忙しそうに歩き回っている。その生き生きとした眩しさはほとんど攻撃的で、今のアルベルトには傲慢にすら感じられる。
自分も、少し前までは彼らそっくりだったと知っているから、そんな若者たちから目をそらして、アルベルトは真っ直ぐに教授──あの、初老の男──の部屋へ向かった。
ここには秘書を置かない彼の部屋は、直接廊下に面した、名前だけの記された素っ気ないドアに隔てられて、軽くノックすると、すぐにどうぞと中から返事が来た。
自分の見知った学生を期待していたらしい彼は、ドアの向こうから顔を覗かせたアルベルトに、ほとんど驚愕に近い表情を浮かべる。アルベルトはわざと、それに向かって無神経な振りでにやっと笑って見せた。
「一体、どうしたのかね。」
何をしに来たと、雑に訊いてしまいたいと頬の引き攣りが言っていたけれど、アルベルトはそれにも気づいていない振りをする。
「大した用じゃありません、ご紹介願いたい人がいて、そのお願いに上がったんです。」
「急ぎかね? わざわざここまで君がやって来なくても──。」
気まぐれに顔を出したこじんまりとした演奏会や、誰それの友人である誰それの義理の弟の前の妻のいちばん最近の恋人、と言う程度の輪の中に皆繋がってしまうような内輪のパーティーで、この教授とは何度か顔を合わせたことがある。
会えば挨拶もして、数分は立ち話が続く程度には親しい仲だけれど、ファーストネームで呼び合って肩を叩き合うほどの仲ではない。音楽を趣味にはしていても、仕事は音楽とは関係のない──彼がこの大学で教えているのは経済学だ──自分が、一体誰をどうアルベルトに紹介できるのかと、明らかに男は訝しがっている。
アルベルトは、そうしていれば他人は勝手に魅力的だと思ってくれるらしい邪気のない笑みを浮かべ、軽く肩をすくめて見せた。いつもそうしているように、両手は上着のポケットの中だ。そのせいで、アルベルトは自分の態度が、いっそう悪気のない無礼と見なされると言うことも知っている。
教授と奥行きのある机を隔てて向き合って、彼はアルベルトに、壁際にある椅子へ向かって手を指し示し、アルベルトが首を振ってそれを断る仕草をすると、さらに怪訝の色を濃くして、恐る恐ると言う風に自分の椅子へ腰を下ろす。
ややたるんで口元へ落ちている頬の下側へ、指先を突き通すようにしながら、
「それで、君の用と言うのは──」
「あの、背の高い髪の長い青年は、ここの学生ですか。」
ぎくりと男の肩の線がこわばり、頬へ触れていた手を下ろすと、そうやって自分を守るように、腹の上で両手を組んだ。眉の端が数回わずかに上げ下げされ、その間、アルベルトは一瞬も教授から視線を外さなかった。
「──違う。彼は、私のところの学生ではないよ。」
やっと絞り出した声の震えを、露わにしないのが精一杯のようだ。自分の倍ほどの年齢の男をいたぶる気はなく、アルベルトは極めて事務的に、話を続けた。
「ここの学生ではない。では他の大学の?」
「らしいが、詳しいことは知らんよ。あの彼とは、別に私も親しいと言うわけでは・・・だから紹介も何も──。」
ここまではっきり言われてもまだ逃げる気でいるのかと、アルベルトは内心でため息を吐いてから、できるならそこまでは言うつもりのなかった切り札を取り出すことにした。
「ホテルのバーで会って、一緒に立ち去って、そこまでは親しくはない、と?」
上から押さえつけるように、普段どんな時も使ったことのない高圧的な声音を出す。冷静に振る舞っているつもりで、心臓が早くなっていた。
この大学の教授である男は、今度こそ言葉を失って唇を半開きのまま、椅子の肘掛けを、指先の真っ白になるほど強く掴んだ。
「──君も、あそこにいたのか。」
「私は飲んでいただけです。ひとりで飲んでいて、あそこで、あなたと彼が一緒にいるのを見掛けた、ただそれだけです。」
安心させるために、そう言葉を重ねた。言い触らす気はない。自分だって、今から同じ穴の狢になるのだし、他人の些細な欠点──と、世間は間違いなく見なすだろう──を暴いたところで、アルベルトには何の益もない話だ。アルベルトはただ、自分もあの青年に会ってみたいだけだった。
カウンターで、男は背中を縮めるようにしてひとりでいた。奥の、壁際の席にいたアルベルトに、教授は気づかず、アルベルトもその背中の表情に何か近づきにくいものを感じて、声は掛けずにただぼんやりと彼を眺めていた。
不意に、明るくはない店の中の空気をより重くするように、あの青年が現れた。真っ先に目に入ったのは、もちろんあの背の高さだ。それから肌の色と髪の黒さを見分けて、いかにも学生じみた服装がバーの雰囲気から浮いているくせに、彼自身の存在は床でも這いずるように、その場に沈み込んでいた。
バーテンダーはちらりと青年を見て、けれどアルベルトが驚いたようには驚いた表情も見せず、それを見て、彼がここへ来たのが初めてではないと悟ると、それがもっとアルベルトの好奇心をそそる。
そして驚いたことに、青年は真っ直ぐにカウンターへ向かい、ひとり飲んでいた教授へ何か低く声を掛けた。途端に教授の背中が伸び、彼はさっとひと息でグラスを空にし、跳ねるように脚の長いスツールを飛び降りる。その時、青年の掌が、支えるようにさり気なく教授の背中へ添えられ、その仕草が、ふたりの親しさをはっきりと示していた。
バーを出て行く時には、まったく揃わない肩をちぐはぐに並べて、今度は教授の方が青年の大きな背に掌を添えるようにして、たとえば祖父が孫にするようなと、そう言えばそうとも見えるふたりの様子だったけれど、誰が何をどんな風に好むと言う噂話は光よりも早く駆け巡る、知り合いの輪のごく小さな世界で、アルベルトの耳にすら入って来ていた教授の噂は、孫のような年頃の男女に目がないと言う話だった。どこで会っても、同伴者のいたことのない男に、一体どこの誰が相手と流れる噂も大小様々、真偽はともかくも、あまり大きな声では言えない知り合いが意外な数いるようだと、忍び笑いとともにささやかれる。
他人に興味のないアルベルトには、この瞬間までどうでもいい話だった。けれどあの青年の、教授の背に添えられた手の、形のいい長い指を見た瞬間、その手が何かの楽器を奏でるところを想像して、その想像が頭から離れなくなる。あの長い指が滑らかに動いて、きっと驚くほど澄んだ音を出すのだと思った。あの青年が、実際に音楽に素養があるのかどうかはどうでもよく、頭の中にするりと入り込んで来た彼のイメージがアルベルトの頭の片隅に住み着いて、アルベルトを魅きつけていたのは、彼が奏でるのだろう架空のメロディーだった。
そこへ、自分のピアノの音を重ねることはできないのだと、右手を見下ろして考える。それならせめて、自分自身がピアノのように振る舞えないかと、ホテルのフロントの方へふたりの姿が消えた後も、アルベルトはひとり考え続けていた。
教授の元へわざわざ足を運んだのはそのためだ。こんな、さり気なく脅すような態度で、あの青年は誰かと問い詰める自分にアルベルト自身が驚いている。こんな振る舞いは自分には似合わない。自分を知る人たちは、自分のこんな礼儀知らずの強引さを想像もしないだろう。もちろん、この教授も含めて。
教授はうろうろと部屋のあちこちへ視線を迷わせた後で、ようやく上目遣いにアルベルトを見ると、観念したようにひとつ息を降りこぼした。
「その、君は、何と言うか──新しい友人が欲しいと、そういうことかね。」
体を全部アルベルトの方へ向けて机の上に両腕を置いて手を組むと、彼は説明下手な学生に向かっているかのように、アルベルト言っていることをきちんと確認しようとする。
「そういうことなら、君と趣味の合いそうな人を紹介してくれる女性が──」
そう言った時、教授はごく自然に声をひそめていた。なるほど、あの青年とはそうして出会ったわけか。アルベルトは一瞬で教授の利用しているシステムの仕組みを悟り、仲介人の女とやらをアルベルトへ紹介してお茶を濁そうとする彼へ、ぴしりと厳しい声を投げた。
「俺が会いたいのは、あの青年です。彼と直接会いたい、それだけだ。他の奴らはどうでもいい。」
自分でも驚くほど凄んだ声で、無意識に言葉遣いもつい乱暴になった。教授は息を飲み、またあたふたと視線を迷わせてから、今度こそ観念したのか、組んでいた手を指先から力なくほどいてゆく。
「・・・紹介と言って・・・いきなり君に彼の連絡先など教えるわけには行かんよ。そのくらい、君だって分かるだろう。」
彼同様、外出に同伴者のいたことのないアルベルトに、言葉の外に我々は同類なんだよと言う風を匂わせて、教授はアルベルトの追及の手を何とかゆるめさせようと悪あがきする。
「もちろんです。今ここで連絡先を教えろと言う気はありません。次にあの青年に会った時に、あなたから私のことを言ってくれればいいんです。」
はあ、と今度ははっきり聞こえるように、初老の男は大きく息を吐いた。
「彼に、君が──私の知人が、会いたがってるんだが、とでも言ってくれと?」
「そういうことです。あの青年が、私の考えているような類いの人間なら、こういう申し出は断らないはずだ。何しろ、あなたが私の身元は保証してくれるんでしょう。」
教授が、垂れたまぶたをゆっくり数回落とした。髪と同じく真っ白の眉がいかにも不快そうに動き、こんな頼まれ事には少々親しさの足りないアルベルトの非常識さを、けれど撥ねつけられない自分の立場を今は何より憎んで、彼ははっきりとアルベルトを睨みつける。
「いいだろう。君の言う通りにしよう。ただ、次がいつになるかは分からんよ。私も忙しいし、彼にだって予定がある。それに、私が君を紹介しようとしたところで、彼が一体どう言うかどうか、私には見当もつかない。」
「結構です。あの青年が、あなた経由で私に会いたくないと言うなら、その時は改めてその仲介の女性とやらをご紹介願いますよ。」
簡単には諦めないと、そう付け加えたつもりで言うと、教授の白い眉がまた大きく上がった。
ありがとうございますと、慇懃無礼に頭を下げて部屋を後にする。頭の中に、あの青年の奏でる架空のメロディーが、また流れていた。