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色彩のブルース (4)

 急ぎ足に、バス停へ向かっているところだった。
 夕べの騒がしいパーティーの続きのように、ひどくざわざわした家の中の落ち着かない様子に耐えられず、ジェロニモはテキストとノートをカバンに放り込んで、大学の図書館へ行くことにした。騒がしい家の中の、自分の部屋でないならどこでもいい。
 空のビール瓶の散乱するリビングとキッチンを横目に見て、明らかに二日酔いの同居人たち──お互い、ろくに話をしたこともない──に声も掛けずに家を出る。誘われなかったパーティーのことで、ジェロニモが機嫌を悪くしていると思っているのかもしれない。ばか騒ぎなどいくらでも好きにやればいい。勉強の邪魔にさえならないなら、彼らが何をしようと知ったことではなかった。
 とは言え、同居の家主まで参加した夕べの騒ぎは少々ひど過ぎて、深夜を過ぎても止まなかった酔っ払いの大音量のだみ声に、近所の誰かが警察を呼ぶ羽目になった。
 やって来た警官は、飽き飽きしたと言う顔──多分、同じような苦情で何件も回っているのだろう──で、家中にあふれている酔いどれどもの中の、少なくとも警官をそうと見分けて話を聞ける誰かを見つけて、とにかく静かにしろと言い残してさっさと去って行った。
 その後はさすがに塀で区切られた裏庭に出たりはせずに家の中に閉じこもり、パーティーはそのまま続いたものの、奇声は確かに減った。
 それでも、ジェロニモのその夜の勉強はまったく思ったようには捗らず、寝不足の頭で今朝は、殊更むっつり家の中の誰とも口を聞かなかった。
 今日はもう、予定の分が終わるまで──夕べの分と今日の分──は図書館にいようと決めて、だったらサンドイッチでも作ってくればよかったと思いながら、テキストとノートの他は何も入っていないのに重いカバンを、肩の上に揺すり上げる。
 その時、上着のポケットの中の携帯が慎ましく、けれど耳障りな着信音を立てた。
 小さな画面に、見慣れた女の番号が現れていて、ジェロニモはちょっと舌を打ちたい気分になりながら、うんざりした表情を隠さずにそれに応える。
 ──あら、元気?
 いつ聞いても、弾むような甘い声だ。女の使う香料の匂いすら、こちらに漂って来るような気がする。
 ああ、と断ち切るように短く返事をして、さっさと用件を言って電話を切れと、遠慮もなく言葉の外に匂わせる。女はジェロニモのこんな態度には慣れっこだから、別に機嫌を悪くする風もなく、相変わらず甘ったれた声のまま、あなたに会いたいって言うお友達がいるのよと、お茶にでも誘うような言い方で続けた。
 歩きながら携帯を使うのが嫌いなジェロニモは、速めていた足をぴたりと止め、歩道の端へ寄って車道側へ背を向ける。どう立とうと狭い歩道を塞がないわけには行かず、他に歩いている人たちの邪魔にならないように、せいぜいカバンを背中に引きつけて肩を縮めた。
 ──ちょっとあなたより年上過ぎるかもだけど、こういうことには慣れてる女(ひと)だから。
 友人とやらのことを、女がそんな風に言う。その友人とやらには、ジェロニモのことをまたいかにもそそる風に言うのだろう。会う前に、期待だけが勝手に高まってゆく。そうやって求める誰かと差し出す誰かを引き合わせ繋げてゆく女の手腕と話術は、確かに大したものだった。
 ──だからきっと、あなたも愉しめると思うわ。
 言葉の最後が含み笑いで終わる。ちょっと下品なその語尾が、こんな電話を通すとひどく淫らに聞こえた。淫猥な響きはきちんと聞き取るくせに、その声は耳から先へはどこへも届かず、ジェロニモはぴくりとも動かない心のまま、
 「悪いが断ってくれ、しばらく忙しい。」
 とりつく島もなく言い捨てた。予想通り、女がちょっと息を飲んで、それから明らかに機嫌を損ねた声音で、
 ──あら、また試験なの?
 何様のつもりかしらと、言葉の間に女が言わない声が聞こえた。
 ──レポートの提出はこの間終わったんでしょ? 今は期末の時期でもないし──。
 息子がジェロニモと同じカレッジへ行っていた女は、学期のスケジュールを意外にきちんと把握している。それでも、専攻によって微妙に違いがあるのは事実だったから、ジェロニモは女の声の調子に怯まずに、無理だとまた言った。
 「今成績が下がると、来年大学にいられなくなる。」
 大学をやめる羽目になったら、この街にいる理由がなくなる。この街を去れば、もう女とも無関係になる。そのことを言外に伝えたつもりで、女が自分を惜しむとは実は思っていないのに、とりあえずは立場が弱いのは今はそちらの方だと言う態度を崩さないことにした。
 女からの連絡がなくなって、"仕事"ができなくなって困るのはジェロニモの方だけれど、だからと言ってそれを笠に着てジェロニモ──や他の持ち駒たち──に高圧的に振る舞うのは得策ではないと、さすがに彼女はきちんと理解している。すっと鼻先を引っ込め、また甘い声を出した。
 ──じゃあ仕方ないわね。彼女にはまたの機会にねって言っておくわ。
 女が折れた途端、じゃあと電話を切ろうとして、まだ女の声が続く。
 ──それなら、例の教授のお誘いも断った方がいいのかしら。あなたに時間ができたらって言われてるんだけど。
 今度は、最初からひどく残念そうな声で女が言った。初老の男の、いつもこちらを包み込むような優しげな瞳を思い出して、ジェロニモの心の端が、今日初めてわずかに揺れる。
 それでも、女がこちらの隙につけ入る間は与えない素早さで不機嫌を手前に引き出し、ジェロニモは、
 「時間が空いたらこっちから連絡する。」
 有無を言わさず会話を終わらせようと、もう携帯を耳から遠ざけ掛けていた。
 ──来月になったらまた電話するから! その前に時間が空いたら必ず連絡して!
 女が、最後に叫ぶように言った。ああ、と慇懃無礼に返事だけは送って、ジェロニモはやっと電話を切った。
 車道側へ振り向いたところで、乗るつもりだったバスがエンジンを響かせて走り過ぎてゆく。さっさと無人のバス停を素通りして、見送る視界の中にみるみる小さくなって行った。
 手の中に携帯を握りしめたまま、ジェロニモは、周囲に聞こえるほど大きく舌を打った。


 人の気配はあっても、さすがに図書館の中は静かだ。ごく自然に誰も足音をひそめて、時々聞こえる咳払いや椅子のきしむ音に、迷惑そうな視線を投げる間すら惜しむように、本やノートへうつむき込んでいる。
 視界部分をぐるりと塞ぐように仕切られた机は、ジェロニモには少々小さ過ぎるから、無造作に置かれただだっ広いテーブルの、誰もいないのを探し出して、自分以外誰もそこへやって来ないことを祈りながら、手早くカバンの中からテキストとノートを取り出す。
 今週の講義分のノートの整理がまだ終わっていない。まずはそれから手を着けようと、ノートの中身と開いたテキストのページを合わせて、書き殴りの自分の文字へ視線を走らせ始めた。
 紙の上へ集中しながら、女のまといつくような声が耳から去らない。ほとんど考えもせずに断れたのは、アルベルトから手渡された金のおかげだった。事前に伝えた金額よりも大分多く、そうして受け取ってしまった金を後から突き返すわけにも行かず、返そうとして、あの男が今さら受け取るわけもなかった。そのせいで銀行口座の残高は、今月と来月の家賃を払った後もほっと胸を撫で下ろせる数字になっている。それに感謝する気持ちを、けれどジェロニモは抱かないようにしていた。
 アルベルトと会うのに女は通さず、だからジェロニモは仕事が途切れた気がしていないのに、女の方はジェロニモを放っておいたと思っている。もしかすると、しばらく間が空いたからジェロニモがへそを曲げているとでも思っているのかもしれない。
 あの騒がしい同居人たちと同じに、女も、ジェロニモが選んでひとりでいるのだとは思っていない。誰かと関わりたいと特に思いもしなければ、誰にも気に掛けられないのを淋しいとも思わない。そうジェロニモが考えていると、彼女らは想像もしない。
 ひとりでいる方が気楽でいい。外の人間たちと関われば、否応なしに自分の出自を思い煩うことになるし、かと言って、同じ血の"兄弟"たちのように、居留地に閉じこもって体の内側から腐って行くような生き方はしたくなかった。
 あそこから外へ出れば、何か明るい風景が見えるのだと思っていた。それを、今は単なる思い違いだったと悟っていても、すでに死に掛けている母親を連れて戻る気にはならず、どちらが居心地の悪さの点でましかと言えば、卒業さえすれば一段階段を上がれるような気のするここでの生活の方が、まだ希望が見える気がしている。
 そうして、ノートの上に、きちんと読める字を書きながら、ペンの先に母親の顔がちらついた。
 もう長くはない。会いに行っても、それは文字通り顔を見せるだけで、母親はろくにジェロニモの言葉も聞き取れず、顔を見せたところでそれが自分の息子と見分けているかどうかも分からない。会うたびベッドの中の体はより小さく萎びて、人の形をした枯れ木だと言われた方がまだしも直視できる今の母親の姿だった。
 あなたのお母さんは、まだあなたが会いに来てくれるだけ幸せだと思うわ。たまたま訪れた時に母親の傍にいた看護婦が、そう言って淡く微笑んだ。ジェロニモよりは少し年上らしい、消毒液の匂いはしても、香料の類いは一切匂わない看護婦だった。 
 いかにも清潔そうな彼女の、小柄でも背筋の伸びた姿に、その前の晩に寝た客の女の姿が重なって、自分はほんとうに泥水に頭までつかって、汚れた臭いを放っているのだとジェロニモは思った。
 今だけだ。もう何度考えたか分からないことを、また思う。こんなことは今だけだ。卒業して、仕事を見つけて、普通に暮らせるようになれば、こんなことで金を稼がなくても良くなる。そしてその頃には、ジェロニモはきっとほんとうにひとりぼっちになっているだろう。母親の入院に掛かる費用を、いつ打ち切られるかとひやひやする必要も、その頃にはもうなくなっているに違いなかった。
 今ですら、一体いつ政策が急に変わって、政府がもう大学の学費も生活費の一部も負担はしないと言い出すか分からない。いつそうなっても困らないように、どんな汚い仕事でも十分な金さえ手元に残るなら今はそれでいい。内臓を売るよりはましだと、あの女のいつまでも耳の奥から消えない甘い声を思い出しながら思う。
 内臓を売って得る金と、誰かと寝て得る金と、どちらがどれほどましだろう。どちらも身を磨り減らすことには変わりはない。ただ肌を売る方が、実際の減りようが直には見えにくいと言うだけのことだ。母親より先に死ぬわけには行かない。だから、内臓を失うよりは現実の負担の少ない方を選んだと言うだけのことだ。
 ひとりぼっちになったら、使える臓器を可能な限り全部売り払って、それから母親のように萎びて死のうかと、突然投げやりに思いついた。寝不足と苛立ちと、そんなもののせいで神経が立っている。だからきっと、こんなことを考えてしまうのだ。
 ひとりになったら、もう何にも煩わされることはなくなる。今度こそ、ほんとうに自由になるのだと、ジェロニモは自分を励ますように思った。
 ひとりと思いながら、アルベルトの淋しそうな笑顔が不意に思い浮かんで、跳ねた心臓の周りを、薄寒い空気が通り抜けて行ったように、かすかな寒気に襲われた。
 ひとりになることが怖い、母親がいずれ死んでしまうのが怖い、求めることも求められることもない自分自身の虚ろさが怖い、どこへ向かうとも知れない未来が怖い、小さな恐怖に取り巻かれて、けれど必死にそれから目をそらして、ジェロニモはノートに字を書き続ける。ペンを握る指先が、白くなっていることには気づかないままだった。
 無数の棚にぎっしり詰め込まれた本に囲まれた空間で、声と気配を抑え込んだ時間が息苦しく過ぎてゆく。ペンを走らせるノートの紙面の白さにまたアルベルトを思い出した途端、ぎりっとペンの先が滑って、文字の途中からノートを破った。
 動きの止まった指先から、空気の中を漂っていたありとあらゆる恐怖が体の中に入り込んで来る。ジェロニモは息を止め、それから胸のふくれるほど大きく息を吸い込んで、吐いた。吐きながら、たった今自分を乗っ取ろうとした恐怖を、一緒にすべて追い出すつもりだった。
 大丈夫だ。今だけだ。また同じ事を、自分に向かって言い聞かせる。大丈夫だ。
 何の根拠もないその言葉に、頭の後ろが空ろになる。その空ろへ、また恐怖が迫って来ようとするのを、居留地を、新しい未来を求めて離れた時と同じほど強い意志で、また呼吸を止めながら押しとどめた。
 母親はまだ生きている。ジェロニモは、ここで何とか前に進んでいる。だから大丈夫だ。そう信じる以外、他には何もできない。
 上滑りする言葉が、頭の中に空しく響く。その響きに気づかなかった振りをして、新しくめくったページに、ジェロニモはまたペンの先を滑らせ始めた。
 
 
 何か予感でもあったのだろうか。女との──そして客との──連絡以外には使わない携帯の電源を、ふと入れる気になったのは、月末にはまだ少し間のある、水曜の午後のことだった。
 立っている神経をさらに逆撫でする能天気な短いメロディーの後に、小さな画面は一人前にようこそと鮮やかな画像を粗く流して、何も期待せずにそのまま上着のポケットに入れてしまうつもりだったのに、続けて鳴ったのは、未読のメッセージを知らせる電子音だった。
 2件。女からかとまず思って、女からなら、どうしても必要なら家の方へ直に掛けて来るはずだから、それなら多分単なるご機嫌伺いだろうと思った。だったら中身を見ても返信はしないつもりで、小さなボタンを押して受信箱を開く。
 アルベルトからだった。素っ気ない画面にその名前を見た途端、息が止まった。
 "会いたいんだが、空いている時間を教えてくれないだろうか。"
 2件目もアルベルトからだった。
 "頼むから会って欲しい。頼むから。"
 思うより先に指先が動いて、両方のメッセージの日付を確かめる。最初が10日ほど前、2件目は5日前だ。
 2件目の、2度出て来るPleaseの、2度目のPleaseに、ジェロニモは心臓をナイフで刺されたような痛みを感じて、思わずぎゅっと目を閉じる。
 短い文面の、けれど切実さだけが増してゆく文字は、まるでジェロニモ自身の叫びのように見えた。
 アルベルトが、自分に会いたいと言っている。何を求めているのか一向に理解できない、あの義手の男が、ジェロニモに会いたいと言っている。誰かと寝る代わりに金を受け取るジェロニモと、まともに寝ることもせずに金を払うあの男が、会いたいと言っている。
 目の前の小さなテーブルに広げたノートやテキストが、視界から一瞬で消えた。ジェロニモは両手の中に携帯を抱え込むようにして、画面に顔を近づけて返事を打った。素っ気なく味気ない内容にするのに、随分と努力が必要だった。
 "場所と時間。"
 うっかり、Pleaseと最後に打ちそうになって、慌てて指先をキーから外す。息を一度吸って、ひとつ吐いて、送る。
 そのまま画面をにらんで待っていると、2分経たずに受信の音が鳴る。ここがカフェテリアで良かった──図書館でなら、一斉に突き刺す視線が矢のように飛んで来る──と思いながら、ジェロニモは素早くメッセージを開いた。
 "もし、大丈夫なら、今夜。時間はいつでもいい。"
 文面を読んで、ちょっと眉を上げる。まさか今夜とは。性急過ぎるにも程があると思っても、指は勝手に返事をさっさと打ち込んでいる。
 "それなら6時に。場所は?"
 受け取ったアルベルトが、時間を見て憤ることを期待して、きっとそれはちょっとと言って来るだろうと思った。それなら今日は無理だ、またいつかと、そうやって終わるだろうこのやり取りを想像していると、ほとんどためらいの間もなく、アルベルトがまた返事を送って来る。
 OKと示された後に、見たことのない住所が続き、今度こそジェロニモは、濃い茶色の目を大きく見開いた。
 切迫していた空気がやわらぎ、アルベルトがほっと息をついた表情が、小さな画面の向こうに見える気がした。6時と言ったジェロニモのちょっとした悪意に気づきもしない様子で、会えるならそれでいいと、ほんとうにそれだけを待っていたアルベルトの姿が、今目の前に見えるような気がした。
 あの鉛色の指で、小さなキーを叩く姿は、何だか微笑ましいような気すらして、笑いのこぼれた自分の口元に、ジェロニモは自分で驚いている。
 6時と決まってしまってから、今日は母親に会いに行く予定だったのにと思って、それは明日にすることにした。母親にではなく、ろくでもない理由で男に会いに行く自分のことを軽蔑しても、今はその苦さは喉の奥にこみ上げて来ることはない。
 自分もアルベルトに会いたかったのだと、携帯をカバンのポケットに放り込んで気づく。小さな画面をいつまでも眺めて、テーブルの上のテキストへ心を戻すのにしばらく掛かった。


 アルベルトが知らせて来た場所は、街の西側、よそ者のジェロニモすら高級住宅地だと知っている辺りだった。そちら側へは、この街へ来て以来近寄ったこともない。
 初めての道を、通りの名前を確かめながら進み、構えの古い小さな店がぽつりぽつりと並ぶそこから少しだけ奥まったところへ、その背の高さをきちんと周囲に溶け込ませている、着いたのはレンガ造りの外観のアパートメントだった。
 10階まではなさそうだと、ちょっと上を振り仰いで、ジェロニモは意外に重いガラスの両開きの扉を押して中に入り、つやつやの床と壁の、奥へ深いロビーに驚いて、少しの間そこで足を止める。
 真っ直ぐ先には階段が見え、左側にはエレベーターが2基、その向かいには小さなガラス張りのブースがあって、制服姿の守衛らしい男がその中でモニタを眺めている。守衛はもうひとりいて、そちらはエレベーターの前辺りへ何となく立っていて、入って来たジェロニモをじろっと見やった。
 「何か用かね。」
 エレベーターの男は腰に手を当てて、最低限の愛想は込めて訊く。
 「──知人に、会いに来た。」
 精一杯滑らかにそう言って、それでも自分の場違いさは、この守衛の不審を拭い去りはしないだろうと思った。
 「どこの部屋?」
 「はち──802。」
 「802? おい、上から何か聞いてるか?」
 ジェロニモが部屋の番号を伝えると、男はブースの中のもうひとりへ荒っぽく声を投げ、ちょっとそちらへ体を傾けながら、それでも横目にジェロニモから視線は外さない。
 「802っと・・・ああ、6時に人が来るから上に上げてくれって聞いてる聞いてる。」
 中の男は軽い声で、こちらは口元が笑みでほころんでいそうな明るい声だった。ブースの中からやっとジェロニモの方へ顔を向けて、手元に何か書いてあるのか、それを見比べるように視線を動かした後で、
 「どうぞ。」
と、エレベーターを手で指し示した。
 そこにいた守衛は、ならまあいいと言いたげにジェロニモへエレベーターのボタン前を譲り、ベルトに両手を掛けてからぐっと胸を反らす仕草をする。
 それをちらりと見てから、すぐに開いたエレベーターの中へ、ジェロニモは大きな歩幅で入って行った。
 新しい建物には見えないけれど、エレベーターの無音と滑らかさは明らかに新しいもので、斜め上を見上げると、小さなカメラがこちらを見下ろしている。あの守衛たちは今頃、ジェロニモの行方をモニタで見張っているのかもしれない。
 8階は最上階だった。上品なグレーの絨毯に、それよりはずっと淡くて明るい灰色に壁は塗られて、その色と同じくらいに辺りは無機質にしんとしている。壁ばかりでドアが見当たらない。廊下の真ん中で、先へ深く続く左右を、体を折るようにして眺めてから、ようやく視線の先へぽつんと臙脂色のドアを見つけた。
 やっと見つけたドアは目指す番号ではなく、壁沿いにさらに進んだ先のドアにようやくアルベルトが言った番号を見つけ、ジェロニモはあまりに静かな空気に知らず気圧されていて、最初のノックはドアを撫でただけのような小さな音になった。
 その音のかすかさにも関わらず、ジェロニモの曲げた指が2度目にドアに触れる前に、その臙脂色のドアは、これもまた音をさせずに大きく開いた。
 「やあ、今下から、君が来たって連絡があった。迷わなかったかな。」
 ノックのために上げていた手のやり場に困って、ジェロニモはその手を何となく背中の後ろへやってから、こちらへ背を向けたアルベルトの後へついて部屋の中へ入る。
 中は、ちょっと驚くほど広かった。建物の外観とは正反対の、何もかもが真新しく見えるキッチンが左手にあり、そこで簡易に食事もできるらしいカウンター部分のついた四角い台が、椅子を添えられて部屋の他の部分とを区切っている。真っ直ぐ先はほぼ全面が大きな窓で、そちらは表通りには面していないらしい白いバルコニーが見えた。
 だだっ広いスペースに、無造作にソファや背の低いテーブルが置かれ、そこまで行って部屋の残りをぐるりと見渡すと、周囲にいくつか閉まったままのドアが見える。寝室やバスルームだろう。
 床は明るい色の板張りで、顔の映りそうに磨かれていて、その上を歩き回るのに少しためらうほどだ。それでもよく見れば傷が見え、けれどそれも欠点ではなく趣きのある風に見える、新旧の巧みに混在した部屋だった。
 窓へ背を向ける位置にあるひとり掛けのソファの、その前には、テーブルの上にワイングラスとボトルが並べて置かれている。ワイングラスには赤ワインがすでに注がれ、どうやらここの主は、ジェロニモの来るのを飲みながら待っていたようだ。
 「ここに、住んでるのか。」
 白いシャツにはしわが寄り、裾は外へだらしなく出したまま、ベージュのコットンパンツには折り目が見えず、足元は素足だ。アルベルトの、このくつろぎ切ってまったく繕わない姿を見れば、問う必要すらなさそうだけれど、会話のきっかけのつもりで、ジェロニモはわざわざそれを訊いた。
 「そうだ。」
 どこか照れ臭そうに、アルベルトがちょっと首を傾げるようにして答える。
 「君も、何か飲む──」
 「酒でないなら何でも。」
 アルベルトがワインのボトルへ手を伸ばしながら言うのに、ジェロニモは語尾を待たずに返事をした。
 「じゃあ、コーヒーでも。」
 ジェロニモの素っ気なさにはいい加減慣れたのか、アルベルトは気を悪くした様子もなく、滑るようにキッチンの方へ向かい、その背を追ってから目の前の窓を眺めて、ジェロニモは瞳だけ左へ動かして、アルベルトの白いシャツの背中の輪郭を視界の端へ引っ掛ける。
 「カプチーノでいいかな。先週、初めて前の住人が置いていったカプチーノマシンを試したんだが、意外とコツを掴むのが難しくて──直火式の方が手入れも楽だって言われて──」
 糸でも紡ぐように、アルベルトがしゃべり続ける。その間に肩や腕がするすると動いて、シンクの傍で何かしているのを、ジェロニモは顔だけそちらに向けて眺めている。
 「何でも。」
 また答える時には素っ気なく、アルベルトの、切れ目もなく続くおしゃべりへ、音楽でも聞くように耳を傾けていた。聞き取るのは言葉の意味ではなく、その声の調子と言葉のリズムだ。上がり下がりする音の抑揚の間に合わせて、ジェロニモは長い瞬きをした。
 「だから週末はずっとひとりでカプチーノと格闘してたんだが、やっと毎回同じような味になるようになった。」
 頭の中で、こちらに流れて来る言葉は並ぶのに、話の筋は繋がらない。ただ聞いているその言葉の音の心地よさに、音楽に携わる人間と言うのは、皆こんな風な話し方をするのだろうかと、ジェロニモはぼんやりそこへ突っ立ったまま考えている。
 「細かく挽いたコーヒーを入れて、水を入れて、火に掛けて放っておけばいいんだ。長く火に掛け過ぎないようにだけ気をつけて、2、3分待ったらまともな味のエスプレッソができる。ここのコーヒーは薄くて水みたいだ。いっそエスプレッソをそのまま飲んで──」
 身振りも大きく話し続けるアルベルトが、やっとソファの傍へ戻って来る。
 ジェロニモはそっとワインのボトルの首へ指先を添えて、アルベルトの方は見ずに、静かに訊いた。
 「──酔ってるのか。」
 おしゃべりの理由を突き止めようと、今度は意地悪のつもりではなかった。もしかすると、普段の彼はこんな風なのかもしれないと、それが知りたかっただけだった。
 「・・・飲んでるが、まだ酔ってない。残念ながらワイン1本くらいじゃ酔えない。いっそ酔っ払えたらいいんだろうな。」
 それなら酔うまで飲めばいいじゃないかと、酒に飲まれる酔っ払い──即座に、幾つも顔が思い浮かんだ──は嫌いなジェロニモは思う。
 アルベルトが声の調子を落としたことに気づいて、夕食を済ませた様子もないのにもう飲んでいることが、多少は気が咎めているのかもしれないと思ったから、ワインのボトルからは手を離して、どさりとソファの中へ腰を落としたアルベルトに倣って、ジェロニモも、3人掛けのソファの真ん中よりも少しアルベルトに近いところへ腰を下ろす。
 軽く開いた膝の上に上体をかぶせるようにして、そこで合わせた掌を見下ろしてから、
 「入り口に見張りのいるアパートメントなんて初めてだ。」
 できるだけ軽く冗談めかして言うと、アルベルトが、その声音に誘われたようにまた唇の端をちょっとゆるめた。
 「ああ、俺のところに誰か来るなんて滅多とないから、きっと今頃噂してる。この部屋にはカメラがないのが幸いだ。」
 まるで自分の言ったことが正しいと確かめるように、アルベルトがちょっと天井付近へぐるりと視線を動かした。
 キッチンから、こぽこぽ沸いた湯が音を立てているのが聞こえる。コーヒーメーカーが立てるのとよく似たその音へ耳を傾けて、ジェロニモは漂って来るはずのコーヒーの香りを探して、ふっと心をさまよわせる。
 アルベルトは腕を伸ばし、飲み掛けのワイングラスを取り上げた。グラスを胸元へ引き寄せるのと一緒に、素足の爪先も座面に上げ、膝を立てた行儀の悪い坐り方でソファの中に体を全部収め、汗でも拭き取るように首筋に触れた右手は、今は剥き出しのままだ。
 次第に小さくなる湯の吹き出す音を、ふたりは今、そうとは意識せずに一緒に聞いている。
 

 黙ったままのジェロニモを見つめて、アルベルトは左手の中指の爪を噛んでいた。
 じきにそれに飽きたように指先を口元から離すと、ふいと立ち上がって、またキッチンの方へ戻ってゆく。シャツがふわふわと、アルベルトが歩くのに合わせて支えもなく揺れる。ジェロニモはそれを、じっと眺めていた。
 また滑らかに動く腕や肩。コーヒーの香りが揺れる空気の中に漂って来て、ジェロニモは目を細めながら、動くアルベルトからひと時も視線を外さない。
 真っ白いマグを抱えて、アルベルトが戻って来る。
 「砂糖がいるかな。」
 手渡されて、ジェロニモはすぐにそれに口をつけた。たっぷりと白い泡の乗ったそれは、なかなかコーヒー自体が唇に触れず、マグをぎこちなく傾けてやっとひと口用心しながら飲むと、確かに普段飲んでいるコーヒーからは想像もできないような濃さが舌の奥を襲って来る。それでも、それは泡の元のミルクに十分やわらげられて、素直に美味いとジェロニモは思った。
 「いや、大丈夫だ。」
 自分の前に立ったままのアルベルトへ、上目にそう伝えると、そうかと、ちょっと照れたような表情を浮かべて、アルベルトはやっと自分の椅子へ戻る。
 ジェロニモはマグを両手の中に抱えて──そうすると、マグはほとんどすっかり覆われて見えなくなる──、再びワインを飲み始めたアルベルトへ、
 「また、精神科医に会えなかったのか。」
 冗談のつもりか本気か、自分でもよく分からないまま、そう話し掛けた。
 アルベルトは、このふたりの間でだけ通じる言い回しが気に入った風に、大袈裟に唇の端を何度か上げ下げして、
 「まあそんなところだ。もっとも、俺にとっては、今じゃ君が俺の主治医みたいなもんだ。」
 「おれは医者じゃない。精神科医でもない。」
 「──だからいいんだ。君は医者じゃない。だが俺の友達でもない。俺は金を払って君に会う。俺のたわ言に付き合って、君の懐ろには金が入る。」
 まるで乾杯でもするようにワイングラスを上に軽く掲げて、アルベルトは頬杖を向かってちょっと大仰に首をかしげて見せた。ワイングラスを持った方の手──左手──でジェロニモを指差し、何が可笑しいのか、けらけら声を立てて笑う。
 「たわ言くらい友達に付き合ってもらえって言うんだろう? 君の顔にそう書いてある。」
 その通りだったから、ジェロニモは思わず反射的に片手であごの辺りを撫でた。
 「俺には、その友達がいない。残念ながら、俺はここではひとりぼっちだ。だから教授に、君を紹介してくれと頼んだ。」
 笑う声はそのまま、けれど声の調子が低くなる。アルベルトは、明らかにワインのせいで饒舌になっていた。酔っ払ってはいないのかもしれない。それでも、酒のせいでなめらかになった舌先と唇は止まらず、次々胸の中にたまったあれこれをするすると滑り落としてゆく。ジェロニモは相変わらずの仏頂面のまま、アルベルトの言うことをただ聞いていた。
 「君がとっくに俺にうんざりしてるのは知ってる。それでも君は今日ここに来た。俺が会ってくれと言ったら、君はここまで来てくれた。」
 「客に呼ばれれば会いに行くのがおれの仕事だ。」
 「もちろんそうだ。俺は君を──君の時間を買った客で、だから君は今ここにいて、俺のために精神科医の真似事をさせられてるわけだ。」
 「──おれは精神科医じゃない。」
 今度はごく生真面目な調子を、ジェロニモはアルベルトの冗談へ返す。アルベルトがそれが余計に可笑しいのか、またけらけら声を立てて笑った。
 「君が、俺にこんな風に会うのにうんざりしてるのと同じくらい、俺も精神科医に会うのにうんざりしてる。」
 そこで一度言葉を切り、アルベルトはグラスの中身を口の中へ流し込んだ。
 「腕を失くしたのは俺のせいじゃない。もう、演奏家としてピアノを弾けなくなったのも俺のせいじゃない。すでにされた償いに満足できないのも当然のことだし、俺が自棄になってるものごく当然の反応で、何もかも他の連中のせいで俺は何も悪くない、俺があらゆることに腹を立ててて、どいつもこいつもこの右手でぶん殴りたくなるのも当たり前、当たり前当たり前当たり前、俺が何を言ってもそんな風に返されるだけだ。体を見られるのがどうしても嫌で、とてもじゃないが誰かとまともに付き合おうなんて気にはなれない。そもそも、こんな俺と、喜んで何も訊かずに寝てくれる誰かなんか思いつきもしない。俺は何て言うか、行き止まりでうろうろしてるだけなんだ。そこから引き返して別の道を見つければいい。でもそれすら業腹で、何とかこの行き止まりをこのまま真っ直ぐ進めないかと、無駄なことを考えてる。ピアノの弾けない俺がもう無駄でしかないのと同じように、俺の考えることも全部無駄なんだ。」
 アルベルトが、息継ぎもせずに一気にまくし立てた。グラスを持った指の爪が、真っ白になっているのに目を止めて、グラスが割れはしないかと、そこへ満ちた赤い液体からごく自然に血を想像しながら、ジェロニモはちょっと心配になる。
 大人の男が、酒に呑まれて管を巻く姿には慣れている。正体もないほど酔っ払って、不様に抱え上げられて家まで運ばれる、幼い頃、ジェロニモの周囲では珍しくもない風景だった。どこまでもただ繰り返しなだけの愚痴ともつかないつぶやき、常に誰かか何かを責めて、己れの身の上を延々と嘆き続ける、聞いていると地面に生き埋めになって窒息しそうな、そんな風に気の滅入るだけの、終わらない繰り言。
 アルベルトの言葉を反芻しながら、ジェロニモは既視感に襲われたことを不思議に思った。どこにいても、こんな風なことは変わらないと言うことが奇妙で、結局皮膚の色は、人を完全には満足させもしなければ、救ってもくれないのだと、当然のことを今さらここで、アルベルトを目の前にして考える。
 皮膚のないアルベルトの右手を、ふと見やった。冷たくて硬い腕。血の通わない、金属の腕。皮膚と言う世界との隔てを持たないその腕のせいで、この男は苦しんでいる。こんな醜態を晒すのに、酒の力を借りて、そして金を払ってジェロニモのような人間を身近に呼んで、そうしなければ本音すら吐き出せないらしいこの男の、右腕と同じくらい剥き出しの叫びを、ジェロニモは黙って聞いている。アルベルトの淹れてくれたカプチーノの苦さが、今はちょうどいい気がした。
 アルベルトはさっとひと息で残りの酒を空にすると、ボトルを取り上げてまたグラスをたっぷりとワインで満たす。ジェロニモはちょっとだけ眉を寄せて、アルコールの量を本気で心配した。
 喉を反らしてグラスをあおると、アルベルトは左手の甲でぐいっと唇を拭い、自嘲のように唇の端を曲げる。暗くて、直視するのにこちらの心の痛むような笑い方だった。
 「なぜ、おれだ。」
 そんなアルベルトから視線を外して、自分の手元を見ながら、まるきり見当違いのパズルのピースをそこへ置くように、ジェロニモはぼそりと訊いた。
 「なぜ、そんなことを聞かせるのに、おれを選んだ。黙って何時間でも、あんたの言うことを聞いてそうだったからか。」
 カプチーノの泡はまだしっかりと表面に残っていて、その白い泡の下から、薄茶色がところどころ覗いている。その眺めが、今は何だか、ひどく意味深いことのように思えた。
 アルベルトがワインに濡れた唇を結んで、少しの間、考えるように首を右へ左へ傾けていた。
 「──いや、そうじゃない。君が何だか、音の塊まりみたいに見えたんだ。」
 「音の、かたまり?」
 何かこれは、自分の知らない慣用句か何かだろうかと、ジェロニモはアルベルトの言った通りをそのまま真似て繰り返した。アルベルトは自分の言った言葉を自分で吟味するように、また少しの間黙り込んで、今度は少し落ち着いた仕草でワインを飲んだ。
 「君は、楽器は弾かないのか。」
 唐突な問いだった。今度も少し面食らって、ジェロニモは自分の今使っているのが外国語だったろうかと、一瞬思い掛ける。
 「いや──楽器は、触ったこともない。」
 ようやく素っ気なく答えると、そうか、とアルベルトが微笑んだまま、けれど残念そうにつぶやいた。
 「君なら、相当大きな弦楽器でも弾けるだろうと思ったんだが・・・まあいい。」
 とりとめもないアルベルトの喋り方は、酒のせいかそれともこの男の素はこんな風なのか、精神科医も確かに大変そうだとちょっと同情し掛けて、ジェロニモはそれでもアルベルトが自分に話し掛け続けるのが決して不快ではなく、自分の話下手に、案外いらいらしているのはアルベルトの方かもしれないとふと思った。
 アルベルトが、ふっと唇の端を片方だけ淡く上げて、言葉を続けた。
 「俺みたいな連中は、頭の中に常に音があって、それを外に出したくて仕方がなくて、楽器を演ったり自分で曲を書いたりする。気に入った音を見つけると有頂天になるんだ。君はその──そういう音そのものみたいに思えたんだ。君が動くと、空気が音を立てる。君がそこにいるだけで、音が聞こえて来る。それを、何とかきちんとしたメロディーにできないかと思ったんだ。だから俺は、君と──」
 最後まで言わずに、アルベルトはグラスを唇へ近づけて、そこでそのまま言葉を切った。
 話し続けている限りは、アルベルトの酒を飲むスピードは少しゆるくなる。途切れた言葉の先を促すために、ジェロニモはとりあえず唇を動かした。
 「ピアノを弾いていたと聞いたが──」
 またグラスを──中身はすでに半分になっている──乾杯するように掲げて、わざと得意そうな表情で、アルベルトは喉を伸ばして見せる。
 「ヨーロッパのツアーが終わったばかりで、ここでも東と西で2ヶ所ずつ演る予定だった。それが終わったら東欧とトルコを回って、その次はついにロシアだって、そういう具合に輝かしい未来を約束されたピアニストってね、雑誌が書いてたこともある──あった。」
 慌てたように過去形で言い直して、それからふっとアルベルトの視線がどこかへ泳いだ。自分を見ているのに、そうではなく別のところを、別の何かを見つめているのだと気づいて、ジェロニモは気づかない振りでカプチーノのマグへ唇を寄せる。その間に、アルベルトが小さくため息をこぼしたのが聞こえた。
 「もうどうでもいい話だ。俺はピアニストだった。今はそうじゃない。それでも、俺の頭の中にある音が消えるわけじゃないから、曲を書くことはやめられない。音を外に出さないと気が狂いそうになるんだ。」
 またワインを飲む。ごくごくと喉が動いているのが見えて、グラスの中身はたちまちほとんど空になった。アルベルトに合わせるように、ジェロニモもまたカプチーノへ口をつけた。用心深く、まだ全部は飲み切らないようにしながら、上唇に残る泡をそっと舌先で舐め取る。
 気がつくと、ここへ来た時はまだ宵の始まりだった窓の外が、今はもう真っ暗だった。今何時だろうかと、ちらりと壁を見渡しても時計が見当たらない。腕時計を気にする仕草は、何だかアルベルトに悪い気がして、ジェロニモは結局マグから視線を動かさないままにした。
 「おれと会うのも、その、頭の中の音を外に出すことの一部なのか。」
 「・・・そうかもしれない。君といると、何て言うか、頭の中の音がちゃんと音楽に聞こえるんだ。いつもは、酒でも入れないとまともな音にすらならないのに。まあそれは、俺の頭の中だけじゃなくて、普通に聴く音楽もそうだ。酒がないと、何もまともに聞こえない。精神科医曰く、酒がなくても色んなことを普通に知覚できないとまずいそうだ。」
 ちょっと嘲るように聞こえたのは、アルベルト自身に対してなのか、それとも精神科医の言い草についてなのか、ジェロニモにはよく分からなかった。
 酒を飲まないジェロニモには、酒を飲むと世界がまともに見えると言う感覚が、うまくは理解できない。それでも、アルベルトが何か必死に這い上がろうとあがいていることは分かる。這い上がるために、掴まる腕が必要なのだと、これはつまりそういうことなのかもしれない。
 それでも、なぜ自分なのかと、その答えは一向にクリアにはならず、そうして同時に、ジェロニモ自身がこの男を面倒くさいと思いもせず、今では好奇心ではない別の何かの理由で、この男の身の上話に、同情はせずに耳を傾けていることに気づいていた。
 こんなことを話せる友達がいないのだと、アルベルトは言った。御託を並べるだけの精神科医と話をする気も失せている。酒は一時(いっとき)世界を明るくしてくれるけれど、酔いが醒めれば元の木阿弥だ。だから、友達でもなく精神科医でもなく、一緒に酔っ払ったりしないジェロニモが、この男は傍に欲しいのかもしれない。
 その時、アルベルトの爪先が、ずっと小刻みにリズムを取っているのに気づいた。まるで、どこかから音楽でも聞こえているかのように、アルベルトの爪先は何かの旋律に乗せて動き続け、その音が一瞬、自分の耳にも届いたような気がして、ジェロニモは思わずスピーカーの所在を確かめるために、天井辺りをぐるりと見上げそうになる。何もない何処かから、胸に痛みを運んで来る、物哀しい曲が聞こえているような気がした。
 「・・・そろそろ、いい加減にしよう。」
 不意に、奇妙に明るい声で、弾むようにアルベルトが言った。聞こえていた音楽がその声に遮られて途切れ、ジェロニモは我に帰ったように2、3度瞬きをすると、
 「今日は、突然呼び出して悪かった。」
 もう椅子から立ち上がったアルベルトが自分の目の前に来ているのに、まだちょっとの間ぼんやりとソファに坐ったまま、ようやくもう帰れと言われているのだと気づいてから、ジェロニモは急いでマグの中身を空にした。
 目の前のコーヒーテーブルへ空のマグを置きながら体を起こし、思いがけず近々とアルベルトと見つめ合う羽目になって、ジェロニモは隙だらけのアルベルトの姿に、ちょっと胸を突かれた。
 ひと回りは歳上だろう男に、あまり飲むなと言うのも余計な差し出口だと思って口をつぐみ、自分のお節介を内心で素早くたしなめる。
 アルベルトは無理に微笑みを作り、坐りしわだらけのコットンパンツの後ろへ手をやって、これも坐った形にちょっと丸みのついた白い封筒を取り出し、ジェロニモへ向かって差し出した。
 一瞬だけ間を置いて、けれどジェロニモはもう何も言わずその封筒を素直に受け取り、上着の内側のポケットに入れて、両手の位置を元に戻してもまだすぐには立ち去らずに、何か言うことはないかと言葉を探してそこへ立っていた。
 「君が精神科医なら、じゃあ次は2週間後に同じ時間に、とでも言うところだな。」
 冗談めかして、間を繋ぐようにアルベルトが言う。それが、次に会えるのはいつだろうかと言う問いだと明らかでも、それをするりと受け入れてしまうのはあまりにアルベルトに対して気安過ぎる気がして、ジェロニモは結局また黙ったままでいる。
 諦めたように、アルベルトが薄く微笑んで、別れの挨拶のために、右手を握手のために差し出して来た。アルベルトの、酔いのせいかかすかに赤みの差した頬の辺りと、鉛色の金属の義手を交互に見て、ジェロニモは一瞬で心を決めて、その右手を、自分の左手で手前に引いた。
 思ったよりも抵抗もなく、アルベルトの体がジェロニモの方へ傾いて来る。あくまで挨拶のつもりだと自分の内側に言い聞かせながら、ジェロニモはアルベルトを抱きしめていた。左手の指へ力を入れると、アルベルトの右手が応えて握り返して来る。引き止めたいと思っているし、はっきり引き止められればまだ帰らないつもりだと、互いの思っていることが指先から伝わるのに、ふたりは片腕だけで互いを抱いて、これは今日の別れの挨拶なのだと、互いに自分の胸の内に向かってつぶやいていた。
 挨拶は挨拶のまま終わり、するりと腕がほどけ、重なっていた胸が離れ、柔らかな滑りのいい2本のリボンのように、ふたりの体はまた別々になる。掛ける言葉は何も続かなかった。ジェロニモはすたすたとドアへ向かい、アルベルトはそれを追っては来ない。
 エレベーターの中でやっとひとりになった時、ジェロニモはひどく疲れを感じて、思わず壁にぺったりを背中を持たせ掛けて、天井へ向かって大きく息を吐き出していた。
 視線の端にカメラが映る。あの守衛の男たちが、カメラで今のジェロニモを見ているかもしれない。
 どこからともなく流れて来るメロディーがあった。聞こえるはずもないその音に耳を傾けて、アルベルトがそう思ったように、自分が楽器のひとつも弾けて、音楽の切れ端でも理解できる人間なら良かったのにと、今まで考えたこともないことを思う。
 抱きしめたアルベルトから、酒の匂いが移りでもしたように、自分も酔っ払っているような気がして、ジェロニモは小さく首を振る。
 耳の奥から、まだ音が去らない。

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