色彩のブルース (5)
来月になったら電話すると言うことは、来月にならなければ電話は寄越さないと言うことのはずだったけれど、女は自分の言ったことなどしれっと忘れた振りをして、月末すら待たずに電話をして来た。携帯の電源が入れたままだったのは、あるかも知れないアルベルトからの連絡を待つためだったのに、女はそれを、やはり自分の連絡を待っていたのだと解釈したようだった。
お願い、とまた甘ったるい声が言う。ほとんどすがりつかんばかりのその声音が鬱陶しくて──あるいは、他の誰かなら、気が咎める余りに──、最後にはこちらが折れるのだと女はちゃんと知っている。女が読んだ通りのタイミングで、ジェロニモは結局、客に会うことに同意する羽目になった。例の、ジェロニモに会いたいと言っていたと言う女だ。
珍しいことに、指定された場所は高速沿いのモーテルで、貧相な構えが埃っぽく、午後の半ば、不躾けな明るさに人気もないそこは、そろそろ空腹を覚えても人間の顔色を窺うのにすでに疲れ果てて地面にくったりと伸びている野良犬の自暴自棄と自堕落な様子を思わせ、久しぶりに居留地の淀んだ空気の匂いを、突然鼻先に突きつけられたような気分になって、ジェロニモは勝手に湧いた不愉快を、奥歯のさらに奥で噛み潰した。
いかにも薄っぺらいドアを叩くと、ぎいっと音を立てて開いたドアの中に、女がすらりと立っている。襟が深く胸元を割っている、黒いワンピース。白熱灯の安っぽい明かりの下でも、その奥深い艶を隠せない、触れれば手に吸いつく様が容易に想像できる、店で見掛けたなら、値札の数字をちらりと見ただけで心臓発作の起こせそうな類いの身なりだ。
中に招き入れられドアが閉まると、女の姿は、部屋の中で余計に周囲から浮き上がって見えた。
女がそう言った通り、この客は確かに今までのどの女たちよりも歳上で、細かなしわの寄った顔も手も首筋も、けれどそれを特に隠したり何とか補修したりはしていないらしい女の立ち姿に、ジェロニモは好意に近い感情を抱く。
白い肌とほとんど同じ色合いの髪、ゆるく肩へ掛かり、一部は耳の下辺りで内側へかすかに巻かれて、頬からあごを包むように流れている。瞳の色は案外と濃い。ワンピースの黒さと、それはよく釣り合っていた。
客の女は、もうストッキングだけの素足だった。その爪先で、すり減って色褪せた絨毯の上を滑り、ジェロニモの巨きな体へ寄り添って来る。彼女に触れられるまま、ジェロニモも黙って彼女をそっと抱いた。
「映画でよくあるじゃない、こういう、場末のモーテルで恋人に会うの。夫に隠れて、こっそり。」
ワンピースの背中のファスナーを下ろさせて、女がくつくつ笑いながら言う。肩の揺れる様が、女を奇妙に無邪気に見せる。
夫、と言う言葉を、客の女は微妙なニュアンスで発音した。何となく、この女に夫とやらはいないような気がして、黒いワンピースの下から現れた驚くほど鮮やかな赤の、覆うのにぎりぎり必要な分量しかない下着の縁辺りへ視線を当てて、ジェロニモは、女がここへ手繰り寄せようとしている非日常へ、隠し男の役で入り込んでゆく。
女は、午後の明るさ──カーテンを引いたところで、避けようもない──に怯みもせず、ジェロニモの下で白い躯を存分に伸ばして、一番端の部屋にまで届きそうな声を上げた。
その声の高さを正直に信じるほど自信過剰でもなく、女が乱れて見せれば見せるほど、女がどんどん期待外れに失望しているのがジェロニモには露わに見えて来て、機械的に女に応えるだけで精一杯になる。
愉しめなくても、躯だけは素直に反応するのが若さだ。女の触れ方は確かに的確で、こすれる皮膚の乾き様とは裏腹に、思いも掛けない女の熱さと豊かさは、難なくジェロニモを促して受け入れる。上から見下ろされた時、女の中に自分が引きずり込まれて行くのを感じた。女が満足そうに微笑み、ジェロニモの盛り上がった胸の筋肉に、ピンクがかった真珠色の爪を、ぐっと押し当てて来た。
女が言った通り映画の筋立てなら、終わった後できっと、男は女の足にでもキスしながら、夫とやらと別れることを約束させようと必死になるのだろう。女を自分だけのものにしたくて、男は必死で女を口説く。女が、夫よりも自分を気に入っていると知っていて、けれどそれはあくまで、こんな時にこんなやり方で心地好さを分け合えると言うだけのことなのに、男は女があらゆるすべてを自分と分け合いたがっていると思い込んで、自分を選んでくれと言いすがる。
女の頭の中が、透けて見えるような気がした。女の頭の中にすっぽりとはまり込んで、ジェロニモは女の思う通りに動く人形だ。女が、手指と言葉で示す通りに動いて、反応を返す、体温のある道具。倒れても自分で起き上がる程度の知性はある、ゴムやプラスティックやシリコンでできた道具よりはましな人形。
自分の身に、恐ろしいほど金の掛けられるらしいこの女が、その同じ金を費(つか)って、ジェロニモを人形扱いする。自分を、使われる道具だと割り切れば、それはそうだと言うだけの話になる。女は自分の好きに使える道具を欲しがっていて、ジェロニモはその道具になることに同意した。これは単なるビジネスだ。
金さえ払われれば、客がジェロニモのような人間をどう扱おうと自由だ。傷つけなければ、殺したりしなければ、逃げられないように永久に閉じ込めてしまわなければ。そうして、自分の上で体を揺する女を薄目に眺めて、ジェロニモは、自分はまた別の檻に飛び込んだだけなのだと突然気づく。
野生の、四つ足のけもののつもりでいて、生き延びるためだと自分に言い聞かせて、結局は野生でも何でもなく、檻の中で飼われて、餌と寝床のために従順な仕草を必死で見せる、自分はそのような檻に閉じ込められた見せ物なのだと気づく。
見せ物であり道具であるジェロニモはただ、正常に使用されているだけだ。この女もただ、道具であるジェロニモを、正しく道具として使っているだけに過ぎない。
女が、天井へ向かって上向いて、また高く響く声を上げた。鼓膜に突き刺さるようなその声に、長い瞬きで耐えながら、ジェロニモは窒息寸前のように喘ぐ。女がそれを、別の意味と取って、控えめな赤に塗られた唇で満足げに微笑む。
そのあくまで上品な微笑み方にも関わらず、女の唇は、ざっくりと耳まで裂けたようにジェロニモには見えた。
月の変わった瞬間に、大学教授のあの男が、会いたいと連絡して来たと、女が、まるで自分が誘われでもしたように、うきうきと電話を寄越す。
「もう大丈夫なんでしょ?」
言い逃れさせないように、素早くジェロニモの忙しいと言う言い訳の口を塞ぎ、女は承諾するものと決め込んだ口調で、恐らく場所も時間もいつもと同じだと続けて告げた。
ああと応じる他なく、それでも、あの初老の男は別に嫌な客──不愉快と思うほど、心の動くことも滅多とない──ではなかったから、まあいいと女との電話を切りながら内心でひとりごちている。
この間、まさしく貪るようにジェロニモを食い尽くしたあの女客に比べれば、初老の男の扱いはただ穏やかなものだし、試験はまだ先とは言え、テキストと悪戦苦闘するせいの恒常的な睡眠不足を考えれば、肉体的な消耗を避けられるのは単純にありがたかった。
無茶を出来るのも君の若さだな。男はどこか淋しげに微笑んで、ジェロニモを見上げて言う。ジェロニモが今その真っ只中に在る、男にも以前確実にあった若さとやらは、様々なものにこすり取られて日々目減りしてゆく。だから、若さを過信してはいけないよと、男は言葉にせずに伝えて来るし、ジェロニモはその男の言葉を、きちんと理解している気でいた。
できるだけ冷静でいるために、心はどこかに置き去りにして、こうして体を、外側も内側もすり減らしている。女は、楽しめばいいと言う。少々好みではない相手でも、気に添わない相手でも、若い体は感覚に反応するし、心をそれに伴わせる必要はない。そもそも、心の成長し切っていないまだどこか幼さの残る稚(わか)さは、先に成長してしまった体を完全に支配することもできず、だから、後から従(つ)いて来るだろう心とやらなど今は気にする必要もない。磨耗してゆくのは体だけだ。
心はそのまま、汚れないまま在れる。そのはずだと、そう信じていたはずなのに、ジェロニモの心は近頃揺らぎ始めていた。
消せない疲れが、内側に積もってゆく。それは、体の疲れではない。心が、前へ進む気力を失い始めていた。
もういい。ここで足を止めて、逆らうことはない。皮膚を切り取って売り渡す。削れても皮膚は再生するのだし、少々残るかもしれない傷跡など、代わりに受け取るものの大きさと重要さに比べたら、別にどうと言うこともない。
そうして、皮膚の再生が追いつかなくなってゆく。皮膚を失くし始めてようやく、削っているのは皮膚ではなく、それはいわゆる自尊心と言うものなのだと気づく。皮膚は再生を見込めるけれど、失われた誇りは、二度と同じ形と色と重さでは取り戻せない。削り落とされた自尊心は、地面に落ちてそこで腐る。腐って、いずれすっかり消える。そうして、永遠に失われた誇りを、失った後で死ぬほど惜しむのだ。文字通り、それは死と同じほど苦しく重大な喪失だ。
自分が売り渡しているのが皮膚や肉体ではなく、若さですらなく、誇りなのだと、ジェロニモはうっすら気づき始めている。心とやらも誇りとやらも、体の外に置いて、自分は上手くやれるはずだと信じていたのに、まだ大丈夫だと言う内側で聞こえる自分の声が、少しずつ空虚になってゆく。それでも、まだ大丈夫だと言い続けるしかなかった。
「勉強は、相変わらず大変かね。」
ネクタイを外して、ベッドの端に置きながら男が言った。ジェロニモはそのネクタイを取り上げて、椅子の背に、しわを伸ばしてそっと掛ける。
「先月は、君は忙しかったようだから。」
こちらに、負い目を感じさせるような言い方ではない。男は相変わらずジェロニモを気遣って、恐る恐ると言う風に手を伸ばして来た。
後はいつものように、男の手で服を脱がされて、男の服をゆっくりと脱がせて、ベッドの中ではただゆっくりと触れ合うだけだった。手指の動く合間に、男が優しい口調でぽつりぽつり話し掛けて来る。会いたかったと、聞こえない声が指先から伝わって来て、それに好意を込めて応えるつもりで、ジェロニモは男の白い髪をそっと梳いた。
教授と呼ばれる威厳は今はすっかり振り落として、初老の男は肉の落ちて薄くなった手で、ジェロニモの頬を撫でて来る。まるで、幼い子にするような仕草で、額に乾いたキスが押し当てられた。
「あまり、無理はしない方がいい。」
どこか父親めいたこの男の前では、つい油断して取り繕うことも忘れてしまうのかもしれない。ジェロニモの隠れない疲れを敏感に読み取ったのか、男はいたわるようにまたジェロニモの頬を撫で、それから、自分とは違うその骨の線を珍しがるように、ちょっと目を細めた表情を見せた。
無理と言うのは、一体何のことだろう。勉強のことか、この"仕事"のことか、それとも、場違いな場所に必死に自分の居場所を見出そうとしていることか。あるいは、削れた自尊心で空ろになってゆく心が、ジェロニモをそうと分かるほどはっきりと干乾びさせているのか。
触れれば、どんな体もあたたかい。この男の、優しい物言いと思いやりの仕草にすら、ジェロニモは今ひどく心を揺さぶられそうになっていた。
確かに疲れている、と思った。このまま眠ってしまいたい誘惑に駆られて、もちろんそんなわけには行かず、ジェロニモはわざと大きな仕草で体を起こすと、それでも丁寧な動きで男を自分の下へ敷き込んで、さっきの口づけのお返しに、自分も男の額に唇をそっと押し当てた。
男が、驚くほど可愛らしく肩を縮めて、老いの刻まれた皮膚の上にさっと赤を散らす。その色に目を凝らしながら、ジェロニモはゆっくりと男の下肢へ向かって顔の位置をずらして行った。
すでに身支度を整えたジェロニモは、男がネクタイを結ぶのに手を貸し、それなのに途中で迷った指を、男が心底おかしそうに笑う。
「他人(ひと)のを結ぶ方が難しいよ。」
男の口調はすっかり打ち解けていて、ジェロニモも、今夜は男の穏やかさにささくれていた心をなごめられて、ふたりはまるでじゃれ合うように、ネクタイの上でわざと指先を絡めていた。
男が作った結び目を、ジェロニモがきちんと襟元まで押し上げる。男はすっかりジェロニモの手に自分の身支度を任せて、両手をだらりとそこに突っ立っていた。
鋭く尖った襟もついでに指先でつまんで伸ばし、教授と呼ばれるこの男に相応しいように、襟の折りも真っ直ぐに整えた。さらに続けて、ジェロニモが肩の埃を払うような仕草をすると、男はその手の動きを追っていた視線を上向かせ、何か言い難そうに唇の線を動かし、やっとと言う風に言葉を滑り落とす。
「──君は、誰にでもこんな風にするのかね。」
言葉はふたりの足元へ落ち、男の視線はジェロニモの瞳に真っ直ぐ据えられたまま、ジェロニモはすいとその視線を外すと、襟の形がまだ気に入らない振りをして、そこではっきりと首を振って見せた。
「いや、しない。」
「・・・そうか。」
ジェロニモの答えを、信じているのかいないのか、どちらとも見極めのつかない相槌で、男は自分自身に向かってうなずくように、ちょっとあごを襟元へ引きつける。
「あの男は、だが──着替えに手がいるだろう。」
あの男と唐突に言われて、本当に誰のことか一瞬分からず、ジェロニモは無意識に眉を寄せていた。そうして、それがアルベルトのことだと気づいてから、さり気なさを装うのも間に合わず、振り払うように男から手を離してしまった。
もう手伝いはこれで終わったと言う風に、努めて自然に両手を背中の方へやり、男から1歩あとずさる。部屋の中を見回して、自分の身支度はほんとうに完全かと確認しているように、男から目をそらした。
「さあ、自分のことは自分でできるようだ。」
声が震えたりしないように、もし声が動揺で割れてしまっても、それは顔がよそを向いているからだと見せるために、無理に首をねじ曲げて、ジェロニモはやっと男の上着を取りに行くと言う作業を視線の先の椅子の背に見つけた。
動く間、男と視線を合わせる必要はなく、上着を着せ掛ければ、男はくるりと背中を向けて、だからふたりは、互いを見ずにアルベルトの話題を続けることができる。男は、ジェロニモに背を向けたまま言い継いだ。
「彼も気の毒にな。あんな事故さえなければ、今も世界中で演奏を続けていたろうに。」
背を丸め、男が上着を体に馴染ませるのを、ジェロニモは自分のみぞおち辺りに見下ろして、その自分の腹の底から出る低い声で、思わずつぶやいていた。
「・・・事故?」
襟をきちんと並べて合わせながら、男が軽く振り向く。
「コンピューターでちょっと調べれば、多分新聞の記事くらいいくらでも出て来るよ。あれで彼も、ここでは随分注目されてたピアニストだったからね。」
あの右腕は、何かの事故のせいなのか。この場で訊けば、男は知りたいことを全部聞かせてくれそうだったけれど、ジェロニモはそうはせずに、表面は興味のない振りで口を閉じたままでいた。
「もっとも、あの事故がなかったら、私なんぞが彼とお近づきになれたわけもないんだが。」
ちょっと苦笑を含んで、男が似合わない軽口を叩く。それが、あれはお高い男だと言っているように聞こえたのは、ジェロニモの考え過ぎだろうか。
初めて、この男に対して距離を感じて、ジェロニモは頬の辺りを強張らせた。自分すら近づけない男なのだから、おまえなぞが近寄ると痛い目に遭うぞと、そう言われていると感じたのは、疲れのせいの自分の僻みだと思おうとしたのに、上手くそうできずに、ジェロニモは気がつくと冷たい目で男を見下ろしている。
その目の色に気づいたのかどうか、男はひとつ咳払いをして、誤魔化すように自分で上着の肩を撫でる仕草をした。
大学にはいくつもコンピューターの部屋があって、学生は自由に出入りして好きな機械を使うことができる。
10台程度の小さな部屋から、50台はありそうな大きな部屋まで、次の講義までの時間潰しの学生もいれば、何か一心不乱に打ち込んでいる学生もいる。ジェロニモが入った部屋はちょうど中間くらいの規模の、そこは今は半分ほど学生で埋まって、ジェロニモは一番後ろの、できるだけ人のいない席を選んで、コンピューターの前に坐った。
レポートや論文を清書して印刷する時くらいしかコンピューターには触らない。レポートのために、ネットで検索する手もあると教えられたけれど、小さなキーを打つのと、モニタ画面へ向かって背中を丸める姿勢が苦手で、ジェロニモのレポートはいつもほぼ図書館の本頼りだ。
ちょっと握り込むとすぐに壊れそうなマウスに、注意して掌を乗せ、デスクトップにブラウザのアイコンを探す。薄青いそれへカーソルを当てて、開けばすぐに大手のサーチエンジンだ。
使う機械によって、この最初に出て来るサーチエンジンのページが変わる理由が分からない程度に、ジェロニモはコンピューターには縁も知識もない。高校で、最低限の使い方は授業で習ったきり、便利な、けれど使い方を覚えるのに手間の掛かるタイプライターくらいの意識しかなかった。
白い検索窓に、まずはたどたどしく、ピアニスト、事故、とキーワードを打ち込んだ。ずらっと並んだ結果に、けれどそれらしい概要は見当たらず、結果を2ページほど進んだところで、キーワードへ、腕、切断、と付け加える。切断と綴る時に、字の並びに迷ったせいではなく、指が数瞬キーの上で動きを止める。
今度は、すぐにアルベルトのことらしい事件の詳細が、ずらずらと並んで出て来た。小さな文字に眩暈を覚えて、一体自分はこんなことをほんとうに知りたいのかと思いながら、並んだ太字のタイトルの中から、ピアニスト、アルベルト・ハインリヒ氏を心から惜しむ、と言う一文を選んで、深呼吸と一緒にマウスをクリックした。
白い背景に、やや薄い灰色文字の、流れるような字体がまず最初に目につく、どうやらニュースのサイト等ではなく、個人のブログ記事のようだった。ちらりと右側に見たスクロールバーの小ささで文章の長さを素早く悟って、ジェロニモはもうひとつ深呼吸をしてから、その記事を読み始める。
今から2年ちょっと前の日付と時間で記事は始まり、最初の段落は、"色彩豊かな彼の音を欠いて、我々はモノトーンの世界に閉じこめられたままでいる"と締められている。
アルベルトの名を、文字で眺めるのは妙な気分だった。聞いたことのない名字も一緒に、その記事ではハインリヒと主に姓の方で語られ、ぽつりぽつり小さく載っている写真の彼は、演奏中かコンサート前後らしいものが多く、隙のないフォーマルな姿で何の屈託もなさそうに笑っている顔も見えた。
旧東ドイツ生まれで、音楽に深い興味を持っていた両親に、国境の向こう側の電波を拾ってくれるラジオから流れて来る西側の音楽を子守唄に育てられ、東西の壁が崩れたのをきっかけに、家族はミュンヘンへ移住。貧しい暮らしにも関わらず、両親はアルベルトにピアノを習わせ始めた。
旧東ドイツと言う字面も、東西の壁と言う言葉も、ジェロニモには高校の歴史で習った知識に過ぎず、アルベルトはそんな空気を直にまとった存在だったのかと、あまり熱心に耳を傾けたわけではなかった授業の内容を今さら思い出して、あの男もまた、何かの檻に閉じ込められていたのだと知る。
いつの間にかちょっとモニタへ向けて乗り出すようにして、次の段落を読み進めていた。
11歳の時に、その時のピアノ教師からの薦めで、子どもを主にしたピアノ・コンクールに出場、見事1位を射止める。その時特別審査委員だった、当時ヨーロッパですでにピアニストであり指揮者であり優れた作曲家として名声を馳せていたストリンドナー氏に見出され、少年が両親の元から離れる形で師事が始まり、この師弟関係は、"ハインリヒ氏が事故によってピアニストの道を断たれるまで続く。"
アルベルトの師である人の名前を、ジェロニモは、綴りを見ながら口の中で何度もつぶやいた。どう発音しても充分になめらかには舌が回らず、最後には、気がつかずに声に出している。幸い図書館ではないここでは、少々のひとり言は非難の的にはならない。
ストリンドナー。アルベルトのピアノの先生。アルベルトが右腕を失って、この師もアルベルトの元を離れてしまったのか。新聞や雑誌の記事のように中立的ではなく、けれど一方的に盲目な書き方でもない、抑えた情熱の行間から見える文章のこの記事に、ジェロニモはいつの間にか引き込まれて、できるだけきちんと読もうとするのに、先へ進みたくて視線がさっさと動いてしまう。
この記事を書いた人間は、アルベルトのことをピアニストとして知っている。アルベルトのピアノに、恐らく心から惚れ込んで、今もアルベルトの出した音に魅かれ囚われたままでいる。ジェロニモは、アルベルトのことを直に知ってはいても、アルベルトの出す──出した──音を知らない。
そもそもおれは、あの男のことを何も知らない。知る必要があるとも思わなかった。
知る必要は今でもないのだ。アルベルトは、ちょっと変わった客で、ジェロニモはアルベルトに時間を買われて、その間益体もないおしゃべりに付き合うだけだ。アルベルトがピアニストだったと知る必要はない。あの右腕を、どうやら事故で失ったらしいと知る必要もない。どこで生まれてどんな風に育ったのか、ジェロニモが興味を持つ必要はなかった。
そう思いながら、記事をそれ以上読むのをやめようとは思わず、自然に視線を次の段落へ運び、スクロールバーを下へずらした。
"ストリンドナーとハインリヒは、愛情深い祖父とその孫のように見え、実際にふたりはそのように仲睦まじい師と弟子だった。"
アルベルトは、順調に優秀なピアニストへと成長し、ドイツ国外での演奏機会が増えるに従って、欧州でもっとも将来を嘱望される若手ピアニストとして語られるようになった。旧東ドイツ出身であることから、東側での演奏に意欲を見せ、いずれはロシアでもといくつかのインタビューで語っている。この"青二才の大言壮語"は口先だけには終わらず、実際に"彼はもう楽譜を抱えて飛行機に飛び乗るだけと言うところまで来ていた。"
いつの間にか、まるでレポートに使うためのような熱心さで記事を読んでいる。ところどころ、頭の中で引用符を振りながら読んでしまうのは、大学へ入ってからついた癖だ。
記事が同じ調子で続く。ヨーロッパでの成功を、その頃の新聞や雑誌の記事をいくつも引用して、感嘆符つきの素晴らしいだのこの世のものとは思えないだの呼吸すら忘れるだの、そうやって数行、様々な賞賛の表現を並べて描写している。字を見ているだけで熱狂が伝わって来る。輝かしい未来を約束されたピアニストと、アルベルトがそう言ったのは、あれで随分と控え目な言い方だったのだと思って、ジェロニモは思わずモニタの文字を指先で撫でていた。
そして、次の段落で、突然トーンが変わった。運命の、と言う文字だけ、段落の中で浮き上がって見えた。
この国では初めてのコンサートだった。誰もが緊張して、とにかく初日を無事に終わらせようと、リハーサルも殊更念入りに行われ、それが終わってようやくひと息ついたアルベルトは、控え室で少し休んだ後、ろくに外を眺める時間もなかったことを思い出して、ちょっと外の空気を吸おうと、会場のロビーへ出て行った。
開場まではまだ随分と時間があり、受付付近は準備の人間がちらほら動き回っているものの、ガラス張りで外からは中が丸見えの会場入り口は完全に閑散としていた。アルベルトは、そこから外へ出てみようかと考えながら、まだリハーサル後に着替えてもいない普段着のまま、ロビーをひとりで歩き回っていた。
突然、会場前面のガラスを突き破って、車が走り込んで来た。音と同時に姿の見えた車のスピードは、警察によれば、80キロ以上出ていたのではないかと推察されている。
車は、前部分にハインリヒの右腕全部を引っ掛けたまま、ロビーの壁に激突した。挟み込まれた腕は肩から完全に潰れ、病院へ搬送後切断されることになる。
警察と救急車が駆けつけた後、前面が壁にめり込んで完全に潰れた車を移動させるのに手間取り、加害者である運転手は車内で頭と胸を強打して意識混濁状態、衝撃で歪み開かないドアを切断して車外に引きずり出された後、病院に搬送中の救急車内で死亡。
後に身元の判明した加害者は30半ば、事故発生当時酒と薬物で完全に酩酊状態だったと見られる。テキーラのボトルが空で2本発見された車は盗難車で、事故数時間後に持ち主から届けが出されていたのが分かった。
被害者のアルベルトは現場でも病院でもショック状態で意識不明のまま、医師側は結局本人の承諾を得られないまま、潰れた右腕の切断手術を決行。"救うにはそれしかなかった。右腕はもう全部ばらばらになったミンチみたいだった。"
アルベルトは結局、それから1週間目を覚まさなかった。その間に、ドイツのストリンドナーへ事故の連絡が行き、電話を受けたその場で、この気の毒な老人はショックのために心臓発作を起こした。すでに充分老齢だったこの名ピアニストに、肉親同様に可愛がっていた弟子の悲報は死にも勝る衝撃となり、ストリンドナーは最後までアルベルトの名前を呼び、容態を案じながら、この世へ別れを告げた。
"世界はこの日、ふたりの素晴らしいピアニストを、同時に失ったことになる。"
ようやく目覚めても、アルベルトに師のこの死はすぐに知らされることはなく、容態が安定し、少なくとも表面上事故のショックから落ち着いたように見えるまで、この件は厳重に秘された。
その死を隠されて葬儀に参列もできず、後にひとり墓参できるようになるまで、アルベルトは敬愛する師への、自分が原因のこの仕打ちに、体の傷よりも苦しみ、思いつく限りの関係者へ、"自分は大事な人すら殺す死神だ"と語って、一時は右腕切断後のリハビリさえ一切拒否していた。
この事件を世間は心から悲しみ、アルベルトに同情を示しながら、同時に様々な噂も飛び交い、ツアーやレコーディングのキャンセルにまつわる金に絡んだ話も、憶測とでっち上げの陳腐なゴシップにまみれることになる。
傷の治療と療養のためにドイツへ戻ったアルベルトは、ストリンドナーへの服喪を口実にして完全に沈黙し、煩雑な事故の後始末は代理人がすべて代行した。アルベルトは結局そのまま、ひっそりと表舞台から姿を消した。
長い記事のいちばん最後は、"彼の音色は、まさしく色に満ちていた。私はその色を、もう一度見てみたいと今も願って止まない"と書かれ、その後に続く数行の空白へ視線を当てたまま、ジェロニモはふうっと大きく息を吐き出した。
読み終わっても、すぐにはその記事のページから去る気になれず、あのアルベルトのことを、こんな風に情熱的に語る誰かがいると言うことに、感じていたのは小さな嫉妬だった。
それは、輝ける未来が在ったアルベルトに対してなのか、それとも、この、アルベルトへ向かう情熱をこんな風に持ち続けている誰かに対してなのか、ジェロニモにはよく分からなかった。
自分の、まったく知らないアルベルトがそこにいる。間違いなくそこにいた。右腕のないアルベルトしか知らないジェロニモは、両方の腕の揃って、ピアノを弾くアルベルトを知らない。自分の知らない、見たこともないアルベルトが、確かにそこにいたのだと言うことに、ジェロニモは嫉妬を覚えている。
アルベルト・ハインリヒ、と、できるだけ目の前の綴りに忠実に、小さく声に出して言ってみた。名字のあるアルベルトは、右腕があると同じくらい、ジェロニモには見知らぬ人のように思えた。
アルベルト・ハインリヒ。世界を彩る音色で、人々を魅了した、ピアニスト。
ジェロニモに金を払い、ジェロニモに自分の話を聞かせる。半ば酔っ払いながら、美味いカプチーノを淹れてくれる、アルベルト。
抱きしめて、腕の輪の中に触れるアルベルトの、腰や背中の厚みをふと思い出していた。
やっとブラウザを閉じ、ジェロニモは椅子から立ち上がる。次の講義へ向かう時間だ。
突然誰かの携帯電話が、安っぽいデジタルでは間抜けに聞こえる、荘厳なクラシックの一節を鳴らす。慌てたように、その携帯を耳に当てながら部屋を駆け抜けて外へ出てゆく学生の、ああとかうんとか答えている相槌を耳の先だけで追いながら、ジェロニモは、アルベルトの弾くピアノは、どんな音を立てたのだろうかと思った。