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色彩のブルース (7)

 週末に、アルベルトに連絡をしたのはジェロニモの方だった。また──勉強をしに──行ってもいいかと、送ったメッセージに即座にYesの返事が返って来た。
 進み具合を予想して、テキストを2冊に講義のまとめ用のノート、それに、まだ締め切りははるか先のレポートのアウトラインのメモまでカバンに入れて、ジェロニモは土曜の午後早く、アルベルトのアパートメントをまた訪れた。
 守衛はもうジェロニモを見ても手すら上げない。エレベーターの中で足踏みしたいような気分を必死で抑えて、廊下は短距離走のダッシュみたいだった。
 前の時とまったく同じに、アルベルトはジェロニモのためにカプチーノを淹れ、後はあのキーボードの部屋にこもる。ジェロニモはまた床に座り込んで、膝の上にテキストを広げた。
 静かさもそっくりだった。互いの邪魔はしない。ドアに隔てられて、互いにすべきことをしながら、それでも同じ空間にいるのだと言うことに、心が端からゆっくりとぬくまってゆく。
 2冊目のテキストを、予定分の半ばまで読み進んだところで、アルベルトが突然部屋から出て来た。ジェロニモの方を見もせずに大きな歩幅でキッチンへゆくと、冷蔵庫から水のボトルを取り出して、ぐいっと大きく天井を仰いでそれを飲む。ふうっと息を吐くのがいかにも苛立たしげで、ボトルを放り込むように冷蔵庫の中へ戻して、また同じような歩き方で部屋へ戻ってゆく。すぐ傍を通っても、そこにジェロニモがいることなどすっかり忘れているように、むっと唇を結んだ横顔を見せてそのままドアの向こうへ消えた。
 ジェロニモはアルベルトの背中を目で追って、作業が思うように進まない時は、誰も同じような態度を見せるものだと、レポートの締め切り前には、書き損じのルーズリーフの束を抱えて、キッチンのテーブルへ移動したり、部屋の中をむやみに歩き回ったりする自分の姿と重ねて、ペンを手の中で回してちょっと笑った。
 その日は、ちょっと疲れた様子のアルベルトがジェロニモに2杯目のカプチーノを淹れ、自分には少しだけワインを注ぎ、どちらが誘ったとも定かではなくそれを手にしたまま、ふたりはベッドルームへ移動した。
 アルベルトの躯に反応のないのは変わらず、けれどそれを気にする様子は少し減って、ジェロニモが唇でそこへ触れるのをアルベルトは拒まなかった。
 唇と舌で包み込むと、それはいっそう柔らかく触れて来る。壊れもののように、ジェロニモはそれを丁寧に扱った。文字通り食むように、手応えはなくても熱っぽさはきちんとたたえたアルベルトのそれを、ジェロニモはいつまでも離さない。
 その内体の位置を変えて、手指と唇で互いに触れ合い始めると、それはただ触れ合うことが目的になって、果てることを目指さずにいつまでも抱き合っていられる。
 それでも一度だけは達してから、ゆるく二度目が兆して来ると、アルベルトはまたジェロニモを促して、上から躯を繋げる姿勢を取った。
 ジェロニモはそれをさせずに体を起こし、引き寄せたアルベルトを自分の下に敷き込んだ。正面から足を開かせる形が多少無理を強いるのは承知で、この間よりももっと近く躯を寄り添わせたくて、ジェロニモはアルベルトを傷つけたりしないように、できるだけそっと、そこへ入り込んで行った。
 アルベルトが自分で塗った潤滑剤が、ぬるりと先端で滑る。そうして触れると、アルベルトの腹筋ははっきりと浮かんで、その眺めに、一瞬で血が沸いた。
 何度か引き返しながらやっと全部入り込むと、それでもすぐには動き出せず、アルベルトの内側が馴染むのを待っている間に、アルベルトの方が焦れて先を促し始める。
 動くと、熱さに引きずり込まれそうになる。そこで張りつめた皮膚が溶けて、血も何もかも、アルベルトに全部飲み込まれると思った。
 躯の動きが揃い始めて、むやみに先を急がなくなると、アルベルトの全身がジェロニモの下で伸び縮みし、短く切れる浅い呼吸で、みぞおちの辺りが震えるような動きを見せる。
 水の中をただ漂う、白い魚のようだと思った。いつの間にかジェロニモの額から汗が滴り落ち、その魚の白い鱗を濡らしている。鱗の上で、ジェロニモの汗とアルベルトの汗が、一緒に混じり合う。
 アルベルトは短い声を漏らす合間に、熱で霞む視界に時折ジェロニモを認めて、また躯を小さくのたうたせると、ベッドの端に投げ出していた右腕を持ち上げて、ジェロニモの頬へ触れた。
 冷たい指先が、額に伸びて汗を拭ってゆく。顔の位置をずらして、ジェロニモはアルベルトの義手の親指を唇の間に誘い込んで、力は入れずにそれを噛んだ。
 首筋も腹もまだらに赤く染めたアルベルトが、そうされて、にやっと笑う。ジェロニモの唇を、金属の指先でなぞって、自分の内側と同じくらい熱い、ジェロニモの唇の裏側へ、ほんものの指先そっくりの金属片の塊まりを、差し入れて押しつける。
 その手はあごから首筋を滑って、それからジェロニモの髪へ伸びた。また髪の根に指先を差し入れ、まとめられた髪をわざとほどく。ばらりと汗に湿った髪が落ちて、それに向かって体を伸ばしたアルベルトは、ざりりとジェロニモの髪の半ばに歯を立てる。
 跳ねる魚を抱きしめて、耳の後ろで聞いたその音に誘われたように、ジェロニモは爆ぜて、二度目の熱をアルベルトの奥に放っていた。


 アルベルトが、CDを聴かせてくれたのは、3度目の訪れの時だった。
 何もかも同じに、アルベルトはカプチーノを淹れ、部屋にこもり、ジェロニモは自分の勉強をして、それがひと区切りすると、それが休憩のように──あるいは、ある種の褒美のように──抱き合う。抱き合った後は、あの小さな店で一緒に食事をする。
 2度目までは、食事で終わりだった。けれど3度目は、その後でアルベルトのアパートメントにまた戻り、アルベルトはその時に、キーボードの部屋でCDを掛けてくれた。
 「ドイツで、一番最後に録ったやつだ。」
 見せてくれたジャケットは、ただ黒い背景の左下に、ぽつんと置かれたピアノ──これも黒くて、ほとんど背景に溶け込んでいる──を弾いているアルベルトを上から撮った、と言う風で、鍵盤と手とアルベルトの髪が、その中で白く浮き上がって見える。
 アルベルトがキーボード用のベンチに坐るとジェロニモが一緒に腰を下ろす余裕はなく、ちょっと考えた後で、アルベルトの脚を抱え込むようにして床の上で脚を組んだ。
 そして始まった力強い最初の音の、鍵盤を叩きつけるような音圧にまず驚いて、白く塗られた壁がちょっと震えたような気がした。
 嵐の中を、何もかもを踏み倒し乗り越えながら進む戦車のような、そんな凄まじさが意外で、ピアノで弾く曲と言えばクラシックしか思い浮かばず、クラシックと言えばどこまでも穏やかな、悪く言えば眠気を誘う類いの音楽だと思っていたジェロニモは、頭から水でも浴びせられたように、ひと区切りの残りをきちんと背筋を伸ばして聴いた。
 「この曲は疲れるんだ。コンサートで演る時は、ちゃんと筋力トレーニングをしてから弾くんだ。」
 楽しそうにアルベルトが説明する。無意識かどうか、現在形で語るのを、ジェロニモは気づいていても指摘はしない。
 戦車は山を越えて、森を突き抜けて、町中を仰々しく通り過ぎてゆく。不思議と、強大な車輪の下に何かを踏みつけている光景は浮かばない、ひたすら前へ前へ進む戦車の必死さだけが耳に伝わって来る、物哀しさはあっても、悲惨さは感じられない曲だった。
 聴いている方も、10kmも全力疾走した気分になれそうな曲が終わり、次は、タイトルは知らないけれど聞き覚えのある曲が流れて来る。アルベルトが、小声で作曲者の名前を言った。知らないと、短く首を振り、ジェロニモはまた部屋を満たす音を目で追って、アルベルトが自分の頭の上に置いた掌へ向かって、軽く体を傾けた。
 アルベルトの出す音には、確かに色があった。無色ではあっても、それは確かに色で、耳の中に流れ込んで来て脳の内側を染めてゆく。まぶたの裏の闇が青になったり赤になったり、その中間の複雑な色を眺めて、色の複雑さと旋律の複雑さが呼応していると気づくと、とても口遊めるようなメロディーではないそれを、何とか感知する色で記憶できないかと、ジェロニモは慣れない風に自分の頭を使おうとする。
 講義のために本を読むのとはまったく違う。音を追うのに夢中になり過ぎて、頭の片側が痛み始める。いつの間にか、アルベルトの膝へ頭を乗せて、ジェロニモは瞬きも忘れたように、アルベルトの音を聴いていた。
 その曲が終わると、アルベルトは立ち上がってステレオの方へ行き、CDを別のものに入れ替える。
 「これは俺のじゃない。俺のピアノの先生のだ。」
 そう言われて、ジェロニモはあの、きちんと発音のできない名前を思い出そうとした。スト、ナー、どういう綴りだったか、スト、リ、ナー、そうだ、ストリンドナーだ。
 アルベルトがジェロニモの傍へ戻って来る。ベンチには坐らず、そのままジェロニモの隣りの床へ腰を下ろし、胸の前に片膝を引き寄せて、それからそっとジェロニモの肩に頭を寄せて来た。ジェロニモは空になったベンチへ腕を伸ばし、さり気ない風にアルベルトの右肩へ掌を置いた。
 ストリンドナーの音は、アルベルトのそれ同様色があふれていて、そして形すらはっきり手に取れそうな、そんな音だった。
 アルベルトの事故にショックを受け、心臓発作で死んでしまったと言う老人、写真は探さなかったから、どんな風貌かは知らない。何となく、人の好さそうな体の大きな男を思い浮かべて、その男が、きちんと正装のアルベルトと肩を並べているところも一緒に思い浮かべる。それでも、両方の腕のちゃんと揃っているアルベルトは、ジェロニモの想像の中ではうまく像を結ばなかった。
 音に聞き惚れて、メロディーを追っているつもりだった唇が、勝手に動いていた。
 「・・・ストリンドナー?」
 頭の中で綴っていた綴っていたその名が、うっかり声に出る。アルベルトがジェロニモの肩から頭を浮かせて、眉を寄せた表情を浮べた。
 「先生を知ってるのか。」
 「・・・ネットで、あんたのことを書いた記事を読んだ。」
 「──そうか、今時は、昔の話も簡単に調べられるんだったな。」
 たった2年前のことを、アルベルトはそんな風に言う。ステレオの方を見て、まるでこの音を出した当の本人がそこへ立っているとでも言うように、遠くを見つめる目をした。
 ストリンドナーの、輪郭のはっきりした音を妨げるのを恐れて、ジェロニモは自然に声を低め、アルベルトの方へやや首を伸ばしながら訊く。
 「あんたの、家族は?」
 ストリンドナーとは肉親同様だったと、読んだ記事には書かれていたけれど、アルベルトの家族についての記述はなかった。ここには親しい友達がいないとうそぶくアルベルトの、それでも気に掛けている人たちはいるに違いないと思いながら、ジェロニモはアルベルトが答えるのを待った。
 アルベルトはあちらを向いたまま、言葉にはせずにただ首を振る。
 「兄弟はいないのか。」
 まるで尋問みたいだと思いながら、止められずに問うのを続けた。
 「いない。」
 アルベルトが、ジェロニモの普段の口調を真似てか、恐ろしいほど素っ気なく言う。
 明らかに、触れて欲しくはなさそうだと分かるのに、ジェロニモは重ねて訊かずにはいられない。無意識に、アルベルトの右肩に置いた手に、力を込めていた。
 「ほんとうにひとりなのか。」
 ひと拍、言い淀んだ呼吸があった。アルベルトは軽く首を振り、どうしようもない──一体何が、かは分からない──と言う表情を横顔に浮かべてから、渋々と言った風に口を開いた。
 「親は離婚してる。元気だと思うが、付き合いがないから知らない。」
 特に目新しい話でもない。離婚した親と音信不通になってしまうことは珍しいことではなかった。けれど、ピアニストとして成功して、師である人とは肉親同様だったと言うアルベルトが、実の親との縁が薄いと言うことが何となく有り得ないことのように思えて、自分の勝手な思い込みだと言うのに、ジェロニモはアルベルトの言ったことがすぐには信じられなかった。
 ジェロニモの表情を読んだように、アルベルトは唇の端だけ上げる笑い方をして、もう一度小さく首を左右に振って見せた。
 「俺は12で先生に引き取られて、親のところには滅多と帰らなかった。俺がピアニストとして何とかやってる間はまだ良かった、でも事故で何もかも全部おじゃんになった。お袋はドイツからすっ飛んで来て、こんなことならピアニストにするなんて考えなきゃ良かったって、ずっと泣き通しだった。俺はまだひとりじゃ何もできなかったし、お袋の助けはありがたかったが、親父の絶望したみたいな目に耐えられなかったんだ。後はお定まりのコースだ、親父はすっかり気力を失くして、俺は世の中全部を恨んで、お袋は、大の男ふたりが日長1日黙りこくって酒だけ飲んでるのに付き合う気はないって言って、ある日出て行った。しばらく後で、東側に帰ってもう西には戻らない、離婚してくれって親父に連絡が来た。俺には、ごめんなさい、元気で、だとさ。」
 とっくに終わった昔話だと言う風に、苦い笑いをこめてアルベルトが言葉を連ねる。ジェロニモは相槌も打たずにアルベルトの話を聞きながら、いつの間にかアルベルトの右肩に置いた自分の手を、アルベルトが右手の先でつかんでいるのに気づいて、そっと指先でだけそれを握り返した。
 「親父は、離婚よりも何よりもお袋が東に戻っちまったことにショックを受けて、後はもう俺でも嫌になるくらいの落ち込みようだった。俺が事故で右腕を失くさなきゃ、お袋が俺たちを捨てて東に戻ったりすることなんかなかったそうだ。」
 くつくつ笑って、アルベルトは一度言葉を切った。アルベルトが黙った間に、ジェロニモはまたアルベルトの右手を握った。
 「・・・事故は、別にあんたのせいじゃない。」
 「わかってるさ、そんなこと。でも、理屈じゃないんだ。親父にとっては何もかもが俺のせいで、親父のところから逃げ出すまで、俺は毎日親父のその泣き言を聞かされ続けてたんだ。」
 ストリンドナーの音は続いていた。軽やかなメロディーの、そのうきうきするような明るさが、アルベルトの話の暗さを救ってはいても、アルベルト自身の気分を明るくすることはなく、アルベルトが落ち込んでいる陰鬱の波の中に、ジェロニモも一緒に漂っている。それは決して愉快な感覚ではなかったけれど、アルベルトとこうして寄り添っている限りは、それほど嫌な気分と言うわけでもなかった。
 アルベルトは床に向かって首を垂れて、そこでまた、どうしようもないと言いたげに首を振る。
 「・・・俺はまた、君を精神科医代わりにしてるな。」
 言いながら、アルベルトは握っているジェロニモの手を離したりはしない。まるですがるようなその仕草に、いくらどれだけ話して吐き出したところで、鬱屈すべてが晴れるわけではないのだろうと、ジェロニモはこの男のことを、同情はせずにまた気の毒に思う。
 「別にいい。訊いたのはおれだ。あんたが話したいならいくらでも話せばいい。」
 仕事抜きでアルベルトと寝ていなければ、ここでまた、おれは精神科医じゃないと言う例の台詞──アルベルトには冗談として伝わる──が出て来るところだ。今はもう恐らく、互いのことを友人と呼んでも嘘ではない関わりになりつつあるのだと、ジェロニモはこの瞬間はっきりと自覚していた。
 友人が友人の、泣き言交じりの話を聞いている。楽しい会話ではない。けれどこんな風に、人と人は心を近寄せて行くのだと思った。
 どこが次の曲の切れ目かよく分からないまま、また曲の調子が変わる。今度はひどく淋しげな、胸のどこかに痛みを覚えるような音が漂い流れて来た。
 「俺にとっての家族は、ずっとストリンドナー先生だった。結局先生だけが、俺の家族だったんだ。」
 ステレオの方へ顔を向け、まるで師であったその人が今そこで演奏しているのだと言うように、アルベルトが遠い目をする。その目を自分の方へ無理矢理向けさせる気にはならず、ジェロニモも、同じようにアルベルトの眺めている方へ目をやった。
 鍵盤のいちばん端へ、精一杯腕を伸ばしたような高音が、ぽつんと響き、いつまでもその音が宙へ残る。音が自然に小さくなって消えてゆくのを、まるでその色形が見えるように、ふたりは一緒に見送っていた。
 無音になった時、まるで曲の続きを引き取ったように、今度はアルベルトが訊いた。
 「君の家族は? 一緒に暮らしてるのか?」
 今ではジェロニモの腕を胸の前に抱え込むようにして、アルベルトは無理に明るくした表情で、ジェロニモを斜めに見上げて来る。
 突然の問いに面食らって、ジェロニモはすぐには言葉を集め損ねて、思わず妙な声を出した。
 「一緒にはいない。おれは父親を知らないし、兄弟はみんな散り散りばらばらでどこにいるか分からない。母親は病院にいて、病気で死に掛けてる。」
 嘘をつけたのに、つけば良かったのにと、素直に答えてしまってから、ジェロニモは思った。正直に言う必要はなかった。話したがっているのはいつだってアルベルトの方で、ジェロニモにはわざわざ語りたいことなどなくて、だから、わざわざほんとうのことを言って、アルベルトの気分を一層落ち込ませる必要はなかったのに。
 案の定、アルベルトは一体どういう風に相槌を打てばいいのか分からないと、一瞬途方に暮れた表情を浮べて、後は言葉を探して唇をぱくぱくさせるだけだった。
 「・・・俺は、つくづく精神科医には向いてないみたいだな。」
 やっとそれだけ言って、自分の肩からジェロニモの腕を外し、立ち上がってステレオの方へ歩いて行く。機械から取り出したディスクを丁寧にケースに戻し、何か他のCDを見繕っているような素振りで背中を向けたまま、そこでまたぼそりと言った。
 「ストリンドナー先生が、俺がまともに人前でピアノを弾けるようになった頃に、俺に言ってくれたことがある。俺を見つけたから、先生はもう自分で弾かなくてもいいんだと、よく見えない目やもうよく動かない指先に腹を立てながら無理矢理ピアノを弾かなくても良くなったと、俺にそう言ってくれたことがある。俺が先生の代わりに弾くから、先生はもう満足して、ピアノを弾くってことに執着しなくて良くなったと、先生が俺にそう言ったんだ。」
 アルベルトの右手の指先が、並んだCDのケースの背を撫でている。きゅっとプラスティックを削る鋭い音が、かすかに聞こえた。
 「近頃、先生の言ったことをよく思い出すんだ。そして考える。俺ももしかしたら、先生みたいに、ピアノを弾くってことに執着するのをやめればいいんじゃないかって。」
 アルベルトの広い背中が、少しだけ丸まったように見えた。
 「そうしたら、俺は多分、自分に起こったことを恨み続けなくて済むんだろうな。」
 言葉の終わりが細くなる。アルベルトは今きっと、泣くまいとしているのだろうとジェロニモは思った。
 静かに立ち上がり、足音をさせずにその背に近づいて、慰めるために首筋に掌を添えた。アルベルトの体がくたりと傾いて来るのを抱き止めて、後ろから抱きしめる形になる。
 ふたりの目の前の、ずらりと並んだCDの中に、ジェロニモはアルベルトの名前とストリンドナーの名前を見つけて、かつて祖父と孫のように仲睦まじかったと言う師弟の、肩を並べた姿をそこに思い浮かべようとしてみた。
 身じろぎもせず、ふたりはただ抱き合っている。とうに家族を失くしたアルベルトと、家族を失くそうとしているジェロニモと、こんなにも違うふたりは、ある意味とても良く似通っている。ストリンドナーの死に対峙したアルベルトのように、自分はこれからやって来るだろう母親の死に直面できるだろうかと、ジェロニモは恐ろしい予感にひとり震えた。
 アルベルトが、自分を抱くジェロニモの腕を撫でる。そうして、ひどく優しい声で、床に向かってつぶやきを落とした。 
 「君のお袋さんが、あんまり苦しんでないといいな。」
 恐ろしいほど穏やかな声音だった。もう、痩せ衰えて抱きしめることもできない母親の代わりに、今アルベルトを抱きしめているのだと突然思いついて、ジェロニモはいっそう腕の輪を小さく縮めた。力を込めてもびくともしないアルベルトの体の厚みに、生きている人間の健やかさ──損なわれてはいても、健やかであることは確かだ──が現われている。
 アルベルトが生き延びたように、自分も母親の命を継いで生き続けるのだと思った。思って、久しぶりに居留地のことを思い出している。なぜか今、あそこのあの空気を懐かしく感じていた。
 
 
 電話が鳴ったのは、アルベルトがその日2杯目のカプチーノを、ジェロニモのために淹れている時だった。
 床に足を投げ出して講義のノートの整理をしていたジェロニモは、デジタルの呼び出し音にさっと眉をひそめ、上目に窺ったアルベルトが、キッチンから肩越しに自分を見ているのと目が合って、さり気ない振りでそこから視線をそらすと、カバンの外ポケットへ手を伸ばして携帯を取り出した。
 アルベルト以外には、あの女しかジェロニモへ電話をして来る相手はなく、番号を見た途端に現実に引き戻されて、ジェロニモは頬の辺りから血の気が引くのを感じた。
 応えなければしつこく掛け続けるか、メッセージを送り続けるかすると知っているから、ジェロニモは覚悟を決めて電話に出て、女の甘ったるい声を遠くに聞いた。
 アルベルトが、背中でジェロニモの応答を聞いている。少しでも届く声を遠ざけようと、ジェロニモは体を横向きにした。
 ──この週末なんだけど、例の人、教授。
 まるで女自身が恋人に会う算段でもつけているように、声が浮き立っている。ああ、と短く答える声が恐ろしいほど平たくなり、素早くジェロニモの声音の調子を聞き取った女は、意味もなく声をひそめて、誰かそこにいるのかしらと、ちょっとからかうように言う。ジェロニモはぎくりとして、ほとんど間を置かずにまさかと言ったけれど、その反応が少し早過ぎたようだった。
 ──まあいいわ、あなたにだって普通に大学生の生活があるんだし。
 自分の言っていることをまるきり信じていない風に、女が上っ面だけ物分かり良さげにつぶやく。
 アルベルトが、カプチーノのカップを片手に、電話を続けているジェロニモをキッチンからじっと見つめていた。
 ──じゃあ、時間と場所は大丈夫ね。あなたが指定の通りに行くからって、彼には伝えておくから。
 分かったと言って、女がじゃあと言う声を最後まで聞かずに電話を切った。放り投げるように携帯をカバンの中へ戻し、特別なことは何もなかったように、ジェロニモはまたノートへ向き直った。
 アルベルトがそれを見てやっとキッチンを離れ、ジェロニモの目の前へカップを運んで来る。
 「何か、用でもできたのか。」
 アルベルトはあの女のことを知らない。だから、咄嗟に口をついて出たのは、
 「──次の課題で、グループでやる分の打ち合わせの話が──」
 アルベルトの目を、真っ直ぐに見ることができなかった。すらすらと嘘が口から出て来るのに、自分の目が泳いでいるのがよく分かる。ごまかしや嘘をそれほど悪いことと思っているわけでもないのに、今突き刺さる罪悪感は、喉の辺りを押し潰すほど大きかった。
 「そうか、課題か。君も相変わらず忙しいな。」
 そこへ立ったまま、アルベルトが淡く微笑む。それは皮肉でも何でもなかったろう、けれどジェロニモには、アルベルトが白々しい嘘をすっかり見抜いている証拠のように思えた。
 アルベルトの顔を見ずに済むように、カップを取り上げてその陰に口元を隠して、舌を焼くコーヒーの熱さと苦さに、ジェロニモはもう一度眉を寄せる。
 何か言いたげにジェロニモを見下ろしていたアルベルトは、結局それきり何も言わず、キーボードの部屋へ戻ってしまった。
 2杯目のカプチーノは、アルベルトの作業の休憩の時間だと何となく決まっているのに、今はジェロニモの傍へやって来ようともせずに部屋に戻ってしまったのは、やはり何か妙だと気づいているに違いなかった。
 今さら、とジェロニモは、カプチーノをまたひと口乱暴に喉の奥へ流し込みながら思った。アルベルトは、ジェロニモが何をしているのかちゃんと知っている。それを今さらはっきりと告げたところで、何が変わるはずもない。何も変わらないと、そう思いたいのが自分の恐ろしいほど楽観的な希望だと、もちろん気づいている。
 変わらないはずがなかった。金をもらって誰かと寝る、そうやって出会った自分たちのことは棚上げにして、ジェロニモが"仕事"へ呼び出されるのに、アルベルトが気分の良いわけがなかった。
 大学へ通うことと母親を病院へ見舞うこと、それにアルベルトに会うことが加わって、これが自分の日常なのだと思い始めたこのタイミングで、ジェロニモは今否応なしに現実に引き戻されている。いつの間にか、空手の右手──さっき、携帯を掴んでいた方の手──の指先が冷え切っていた。血の気の引いたままの頬も冷たい。カプチーノのカップを両手の中に包み込んで、ジェロニモはちょっと肩を丸めた。
 そうだった、とカップの中でかすかに揺れるいかにもあたたかみのあるコーヒーの表面を見つめて、アルベルトと心を通わせていたこの数週間こそが、自分にとっては非日常だったのだと改めて思い知る。
 ただの大学生の振りをして、金をもらって誰とでも寝る自分の、足元の泥の深みが、つまりは今自分の心を重くする罪悪感の深さだ。アルベルトに嘘をついたこと、アルベルトに嘘をつかなければならなかったこと、何もかも打ち明ける必要はないにせよ、この後ろ暗い秘密を抱えて、それを隠し続けるために、そこからふたりで目をそらし続けるために、これから多大な努力を払わなければならないだろうこと、目の前の白紙のページへ頭の中に浮かぶ思考が次々に映し出されて、もうノートへ目を落とすこともできなくなっていた。
 カップを包み込んだ両手の指先に、ひどく力がこもっているのに、ジェロニモは気づいていない。
 考え続けるその先で、当然のように、だったらやめてしまえばいいと、あっさり言う声が聞こえた。そうだ、やめちまえばいい。そうすればもう、何の心配もなくアルベルトだけ過ごせる。
 そして声が続けて言う、やめてどうする? 授業よりも小銭稼ぎを優先するような、別の仕事を見つけるのか。卒業も覚束ないことになったら、一体どうする気だ。勉強の時間を削られることもなく、せいぜい月に数回、数時間だけで、ちょっとしたフルタイムくらいの稼ぎにはなるこの仕事を、今やめるわけには行かなかった。どうにもならない。今だけと言う言い訳で、ジェロニモは仕事の呼び出しを受け入れ続けている。
 今だけだ。ほんとうに、今だけだ。卒業したら、大学さえ終えたら、普通の仕事を見つけて、ただ普通の人間として生きて行く。その頃には恐らく、母親を見舞う必要もなくなっているだろう。ひとりきり生きて行く術さえ手に入れられれば、こんなことを続ける必要もない。今だけだ。ほんとうに、こんなことは今だけだ。
 アルベルトのいる部屋を、ジェロニモは肩越しに振り返った。相変わらず気配の漏れては来ないそのドアへ目を凝らして、キーボードへ向かって丸まっているアルベルトの背中を想像しようとした。数歩で行けるはずのそのドアが、なぜかひどく遠く見える。
 また飲んだカプチーノが、さっきよりも苦い気がした。


 小一時間ほどでまた姿を現したアルベルトへ、ジェロニモは帰るとできるだけ素っ気なく告げる。そうかと、アルベルトはわずかに間を置いたものの、ジェロニモに負けず平たい声で応えて、荷物をまとめ始めたジェロニモを止めようとはしない。
 午後遅くやって来て、数時間過ごした後に食事に出掛けて、それからまたここへ戻って来る、そうすると夜もずいぶん遅くなることもあって、そのたび何となく、アルベルトはジェロニモを引き止めたそうに、泊まって行けばいいとはっきり言われたことはなかったけれど、成り行きでそうなっても構わないと、ふたりとも思っているような雰囲気があった。
 今日は、朝までここで過ごすことが当たり前になっていなくて良かったと初めて思いながら、ジェロニモは取り上げたカバンを肩に掛けて、そのまま玄関のドアへ向かった。
 アルベルトは胸の前に両腕を組んだまま、大きな歩幅でジェロニモを追って来る。いつもと何も変わらないように見えて、ふたりの間の空気が何となく重いことに、ふたりは当然気づいている。この気まずさが、数分後にはこのドアを開けて閉めて、エレベーターで下へ降りてしまえば終わるのだと、考える自分をジェロニモは卑怯だと感じていた。
 ドアの前でさすがに立ち止まり、呼吸を整えて少なくとも強張った頬の線はややゆるめたつもりで、ジェロニモはゆっくりとすぐ後ろのアルベルトへ振り返った。
 「気をつけて。」
 「ああ。」
 いつも通りのやり取りが、ごく自然に口をついて出る。
 ドアのノブに手を掛けたまま、爪先はもうそちらに向いているのに、まだ手が動かない。さっさとここから消えろと、内心では自分に言うくせに、ジェロニモはぐずぐずとそこに立ってアルベルトを見下ろしていた。
 他の誰に対しても、ほとんど無味無臭の薄い感情しか抱かないと言うのに、今ジェロニモの心はひどくざわめいていて、それをそのまま写したように、アルベルトも動揺しているのが空気の中から伝わって来る。
 楽譜でなら、さしずめクレッシェンドやスタッカートの記号が載っていて、感情を込めてと注意書きでもしてあるところだと、アルベルトが皮肉っぽく考えているところまでは分からず、ジェロニモは、ノブに掛かった自分の手と自分の足元を交互に見て、うつむいたままで、横目にアルベルトを見やった。
 アルベルトも、すいと視線を外し、用もないのに何かを探すように自分の後ろを眺めて、そうして、そちらに顔を向けたまま、いかにもたった今思いついたと言う風に口を開く。
 「・・・週末は、また、来るのか。」
 次はいつ会えると、訊くのは決して不自然ではない。けれどこの空気の中では、それはまるでジェロニモを問い詰めているような響きを帯びた。そう感じるのは、自分に後ろめたさがあるせいだと思って、ジェロニモは聞こえないようにそっとひとつ息を吐き出し、いや、と口の中でだけつぶやく。
 「週末は、課題の打ち合わせで集まることになってる。」
 金曜の夜とも、土曜か日曜のいつとも、はっきりとはさせずに言う。まるで金曜の夜から日曜の夜まで、ずっとその課題とやらに掛かり切りになるのだと匂わせて、ジェロニモはアルベルトを見ている自分の瞳が、暗い虚(うろ)のようになっているのを自覚していた。
 「そうか。」
 やっと顔を上げたアルベルトが、何か吹っ切れたように微笑みを浮べる。怒りや憤りが振り切れると、人はまるきり逆の感情を表情に出すのだと、アルベルト自身が気づかないことを、まだ若い──稚ない──ジェロニモが知っているはずもなかった。
 アルベルトはまだ腕を胸の前に固く組んだまま、ジェロニモはその眺めに痛みを感じて、今夜こそここに泊まって、ひと晩中アルベルトを抱きしめているべきかもしれないと思った。
 そんな風にごまかしてごまかされることを、ふたりとも望んではいない。正直になれば互いが傷つくだけだ。これ以上アルベルトを傷つけないためにこそ、この場をやり過ごして、嘘をつき通すしかない。
 アルベルトの気持ちをやわらげるためではなく、自分の良心を少しでも救うためでもなく、できるだけ今夜をいつもと同じ夜にするために、ジェロニモはそっと体を前に折った。アルベルトへ向かって顔の位置を落として、近頃はいつもそうしているように、ひと時別れるための挨拶に、アルベルトの唇を探った。
 いつもなら、すぐに首や背中に巻きついて来るアルベルトの腕が、今夜は一向に動かない。別れを惜しんで深さを増す重なりもなく、ただ触れ合って、わずかの間こすれ合って、それでも唇が外れる直前には、アルベルトの右手だけはジェロニモの肩へ掛かっていた。
 唇が離れても、鼻先の触れ合う近さで見つめ合う視線は離れずに、互いに、積み重ねた嘘とごまかし越しに、互いを見つめている。
 目の奥の痛くなるような切なさに襲われて、ジェロニモは、何もかもを放り出したくなった。全身の内臓を揺さぶるようなその気持ちの揺れは、けれど数秒足らずで薄れ、やはり声が、諦めろと諭すように言って来る。
 「お休み。」
 アルベルトが、体を遠ざけながら言った。
 「おやすみ。」
 返して、やっとジェロニモはドアの方へ体を回した。
 通り抜けて閉めるドアの隙間から、じゃあまたと、アルベルトの声が追って来る。声へしっかりを顔を向けて、アルベルトの薄青い瞳を捉えながら、また、と言い返す。
 エレベーターへ向かう足が、ひきずるほど重い。なるほど、人はこんな時に酒を飲みたいと思うのかと、初めて思った。
 ジェロニモの"仕事"がなければ、決して出会わなかっただろうふたりの間に横たわる皮肉を、笑える気持ちの余裕も今はない。
 下へ降りるエレベーターの中で、ジェロニモは、アルベルトが今夜最後に触れた自分の左肩へ掌を乗せた。少なくとも、アルベルトが自分を手ひどく突き放したりはしなかったことにこだわって、わずかに安堵も覚えて、大丈夫だと自分に言い聞かせる。一体何が大丈夫なのか、自分でもよく分からないまま、もう一度、大丈夫だと、今度は声に出してつぶやいていた。
 
 
 約束の時間の少し前に、バーの入り口へたどり着いた。早過ぎないように遅過ぎないように、自然と歩調を気にする癖がついたと、ジェロニモ自身は気づいていない。
 数分早くても、初老の男のちょっと丸まった背はもうカウンターの、大体同じ位置にあったし、彼はどうやらいつも小1時間前にはここへ来て、酒を飲んでジェロニモとの約束の時間を待っているようだった。
 バーテンが、入り口をほとんど塞ぐように入って来るジェロニモを認めて、驚きはせずに軽く目の端を上げる。それから斜め前の初老の男を見て、彼の視線を拾おうとするけれど、男はジェロニモが来たことにはまだ気づかずに、ちょうどグラスを唇の縁へ近づけたところだった。
 グラスの酒がまだ残っているのを見て、ジェロニモは歩幅を素早く縮めた。足の運びをゆっくりにして、決して遅れては来ないジェロニモがそろそろ来るだろうことを期待して、そのひと口で男が酒を飲み干すつもりなのだろうと、わずかの間、男の視界には入らない位置で足を止める準備すらする。
 思った通り、初老の男は傾けたグラスをそこですっかり空にして、そして腕時計をちらりと見てから、入り口の方へ流した視線の先にジェロニモの姿を認めて、ほとんど花の蕾がほころびるような微笑みを浮べた。少女のような女にこそ相応しいだろうそんな形容を、男の、いかにもうれしそうな微笑みに思い浮かべて、ジェロニモは思わずつられて男に微笑み返している。
 「やあ。」
 快活に男が言い、軽快に──本人はそのつもりだ──やたらと背の高い椅子から降り立つ。ジェロニモにそれ以上は店の中に入らせずに、さっさとバーテンに片手を上げて挨拶を残し、ジェロニモの方へ歩いて来た。
 「何だか、いつもより元気そうじゃないか。」
 社交辞令や単なる世辞の類いだったのかもしれない。それでも、ジェロニモは男にそう言われてどきりとして、思わずあごを胸元に引き寄せていた。
 「別に何も──。」
 体を回し、男と肩を並べて店を出て行きながら、ジェロニモは歯切れ悪くそう返した。男は何となく意味ありげにまた微笑んで、
 「他愛もないことに一喜一憂できるうちが花だよ。」
 その後が苦笑いめいた響きを帯びたのは、彼自身に対するもののようだった。
 特に相槌は打たないまま、ジェロニモは男の苦笑いをそっくりそのまま写して、背中を押されるようにして、ホテルのエレベーターへ向かう。まるきり、いつもと同じ順序だった。
 ロビーの端を通り過ぎようとした時に、ロビーに置かれたソファーの間から、誰かが小走りにやって来るのがちらりと見え、もうそろそろコートなど必要ない時期だと言うのに、長い裾をひらめかせたその人影の白っぽさを視界の端に認めた時、ジェロニモは思わず驚愕で足を止め、横顔を凍りつかせていた。
 エレベーターの前、フロントデスクからはちょうど陰になっていて見えない位置なのも、計算した上での行動だとしか思えなかった。
 「やあ。」
 そう声を掛けたのが、男へなのかジェロニモへなのか、どちら寄りと言うわけでもなくふたりの真正面に立ち塞がるようにして、アルベルトは白い頬をいっそう青白くしている。
 「やあ、君か。」
 男が暢気に、それでもちょっと驚いて見張った目はそのまま、間延びした声を返す。あまり喜ばしい遭遇ではない。ジェロニモはさり気なく男より前に爪先を滑らせて、ぶ厚い肩の陰にわずかに彼を隠すようにした。
 「今夜もまた、1杯ですか。」
 アルベルトの声はあくまで明るい。それが無理に作ったものだと、底にある震えが伝えて来る。それを聞き取れるジェロニモは、どんな顔をすればいいのか、今自分がどんな表情でいるのか分からず、意味もなくエレベーターの動きを確かめる振りで、ボタンの並んだ銀盤の張られた壁へ目をやった。
 「歳を取ると、飲む以外に楽しみはなくなるものだよ。」
 男は締まりのない、いかにも酔っている風の声を出し、それからにっこり顔中で笑ってから、ところで君は、とアルベルトに訊く。
 「俺は夜の散歩です。予定のない週末なんて、酔っ払わないなら散歩くらいしかすることがない。」
 もうすっかり考えていた台詞のように、どこか棒読み気味にアルベルトが答えて、それからジェロニモを見上げた。ジェロニモは何も言わずに、ただアルベルトのその視線を受け止め、瞳をよそへ動かさないだけで必死だった。
 男が、この場でうろたえた声や素振りなど出さないのがありがたかった。あくまで、たまたま知人に、たまたまここで会っただけと言う体に、アルベルトはジェロニモのことは何も言わず、男もジェロニモの方へ振り返りもせず、ただふたりの間だけのこととしてやり合っている。
 アルベルトがはっきりとジェロニモを見上げたのに、男が気づかないはずもないのに、男は屈託なげなほろ酔い気分の様子を徹頭徹尾貫き通し、最後にもう一度鷹揚に笑って、アルベルトへ向かって挨拶の手を上げると、
 「飲むつもりなら、帰る家が分からないほど酔っ払わないように。」
 冗談めかしてそう言うと、自分で腕を伸ばしてエレベーターのボタンを押した。
 ちょうどやって来たエレベーターがふたりの前で扉を開き、男がゆっくりと足を運ぶのを真似て、ジェロニモは強張った背中と肩がぎくしゃくと動くのを必死で隠しながら、男の姿を自分の体の陰に隠すようにしてエレベーターへ乗り込んだ。振り返ると、左右から迫って細まる扉の隙間に、こちらをにらみつけているアルベルトの薄青い瞳に出会い、この間の夜の別れ際に、閉じるドアの隙間から見た時とまったく同じ、けれど今夜は明らかに様々な激しい感情に揺れ動いているその色へ向かって、ジェロニモはうっかり目を細めている。思わず一緒にこぼしそうになったため息を、慌てて喉の奥に飲み込んだ。
 男は一体、気づいているのかいないのか、小さなあくびを皮膚の薄い手の甲の陰に隠そうとしている。
 額に汗が浮かんでいるのに気づいても、それを拭う仕草を男に見咎められたくなかった。ジェロニモはできるだけいつもの無表情を保って、いつもと同じに男を先にエレベーターから下ろし、部屋の鍵を取り出す男の後ろを、足音を消してついてゆく。
 アルベルトと違って、同じホテルで会っても、男は同じ部屋を選ばない。毎回違う階で、違う部屋だ。まったく同じに見えて、微妙に違う各部屋を、興味のある振りで見回してごまかすような余裕もなく、男が上着を脱ぎ始めたのに手を貸して、何とかいつもと同じように振る舞おうと、ジェロニモはただ必死だった。
 ネクタイをゆるめただけで、男はちょっと首をかしげて見せて、
 「今夜は、君の方が酒が必要なようだな。」
 アルベルトに見せたのとよく似た笑みで、男がまるでジェロニモをあやすように言う。
 男は自分で壁際の小さな冷蔵庫へ歩いてゆくと、さっさと酒の準備を始めた。
 振り向いた男の手にはグラスがふたつ、促され、窓際の小さなテーブルへ行き、椅子のひとつに坐ると、男がジェロニモの目の前にグラスを差し出して来る。
 「おれは、酒は──」
 頑なに断ろうとするジェロニモへ、男はグラスをほとんど押し付けるようにして、
 「飲みなさい。酔っ払う必要はないよ。ただ、少し気分を楽にした方がいい時には役立つこともあると、知っておいて損はない。」
 ぶ厚いグラスの底に、せいぜいジェロニモの小指の先くらいだけ注がれたそれが、一体何と呼ばれる種類の酒なのかも分からないまま、ジェロニモはやっと受け取って、似合わない仕草で両手の中に包み込む。
 男は自分のグラスへすでに口をつけながら椅子へ腰を下ろし、だらしなく両足を前へ投げ出した。
 「飲みなさい。」
 命令するような口調ではなく、それでも断固と言った響きで、男がもう一度言う。ジェロニモは男を斜め前にちらりと見て、それから手の中のグラスを見下ろし、やっとグラスの縁を唇へ運んだ。鼻先へ立って来る、強いアルコールの匂い。よく知っている安酒の匂いとは違って、そのどこか円い香りにちょっと安心して、薬でも飲むように、目を閉じて一気に口の中へ空けた。火の塊まりでも流し込んだように、喉と胃の入り口が焼ける。鼻の奥から、奇妙に甘い香りが流れ出して来て、むせて、ちょっとの間咳き込んだ。
 男が笑う。咳き込みながら、つられてジェロニモも思わず笑った。笑いの間に、涙がこみ上げて来たのに、慌ててぎゅっと目を閉じてそれを耐えた。
 男は、自分の酒をゆっくりとすするように飲む合間に、
 「彼は、その──君が言ったのかね、今夜私が君と会うことを?」
 ジェロニモは途端に真顔に戻ると、空になったグラスをテーブルの上に置いた。それからきちんと男の目を見て、首を振って見せた。
 「・・・私は、いつもここで人と会うからな。」
 ジェロニモの答えを疑う風もなく、男はひとり言のように言う。
 今夜ここで男と会うことを、アルベルトが知っていたはずがない。けれど、予測することは不可能ではなかったはずだ。それでも、来るか来ないか分からないジェロニモ──とこの男──を、ホテルのロビーで待ち続けて、その間アルベルトは一体何を考えていたのだろう。そしてふたりの姿を確かにあそこで認めた時に、一体何をどう感じたのだろう。
 結局何事もなく部屋へ落ち着いて、内心の嵐のような気分は次第に治まり始めていた。酒のおかげかどうか、まだ少し熱いみぞおちの辺りへ掌を当てて、今では椅子の中に背を伸ばして、ジェロニモは、男に向かってすまなかったと口にするべきかどうか迷っている。
 そう言うのは簡単だった。けれどそう口にすれば、アルベルトとの仲を男に向かって認めたも同然になる。あの場を、まるきり何も気づいていない振りでやり過ごした男へ、それははっきりと侮辱になる。男は何も知らない振りをした。アルベルトはジェロニモへはひと言も話し掛けなかった。だからジェロニモは、ふたりのために、誰に対しても何も認めないことに決めて、男を見つめたまま、少し強く唇を結ぶ。
 男は一体何を考えているのか、酒を飲みながら口元には淡く微笑みを浮べ続けている。ジェロニモか、あるいはアルベルトに対して、怒りのようなものはないのかと、ジェロニモは凝らした目の先に男の感情を探ろうとした。
 「あの男の弾くピアノの音を、聞いたことはあるかね。」
 男が、ちらりと瞳だけを動かしてジェロニモを見て、突然そう尋ねた。
 咄嗟にごまかすことができずに、ひと拍の後でうっかり素直にうなずくと、男は何か面白いものでも見たようにいっそう笑みを拡げて、グラスの縁に近づけたままの唇を、歌うようにゆっくりと開く。
 「あれはいい音だ。聞くと、色んなものが見える気がする。白黒から色つきになったばかりの頃の映画を見ているような──いや、私はさすがにその頃は知らないが──気になる。あんな音を出す男が、見た目通りに氷みたいな心の持ち主のわけがない。」
 ジェロニモに聞かせているようでいて、まるで自分自身への独白のように、男の声がどこかうっとりとした響きを帯びて、今男が、耳の奥でアルベルトの音を聞いているのだとジェロニモにも想像できた。
 そんな男から視線は外さずに、ジェロニモも、こっそりと頭の後ろ辺りへアルベルトの音をたぐり寄せる。色彩豊かと言われるあの音を頭の中に流すと、確かに今薄暗いホテルの部屋の中が、不意に夏の真昼の明るさを運んで来て、ふと空気に、爽やかな緑の匂いが交じり始める。ジェロニモは思わず男を透かして、世界のどこかへ向かって目を細めていた。
 男が、慈愛に満ちた表情でジェロニモを見やり、またグラスを口元へ傾けて、それからそのグラスを手にしたままゆっくりと立ち上がった。
 ジェロニモの、スニーカーの爪先を、よく磨かれた革靴の先でこつんと蹴り、見下ろしたジェロニモへ向かって、グラスを差し出して来る。
 「後は君が飲んでくれ。」
 わずかに、底に残った酒をあごをしゃくって示し、ジェロニモは言い返さずにそれを受け取った。男を上目に見上げたまま、さっきよりもゆっくりと男の残した酒をすする。舌に乗せ、喉の奥をわざと焼いて、ジェロニモはそれを、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
 男が、ジェロニモの頬へ掌を添えた。軽く持ち上げられたあごへ向かって、男が自分の顔を近づけて来る。酒に濡れている唇へ、男の乾いた唇が触れ、そこで行き交う呼吸が、今夜は同じ酒の匂いをさせている。
 男の邪魔をしないように、そっとグラスをテーブルへ置いて、ジェロニモは男の手に自分の掌を乗せて、それから静かに立ち上がった。男の体に腕を掛けてから、力の加減に気をつけなければと気がついて、そうして、自分の腕の輪の中では持て余す男の体の薄さに、止める間もなくアルベルトを思い出していた。


 いつも以上に思いやりを込めた仕草で男に扱われ、いつも以上に慎重に男を扱い、いつも以上に口数少なく終わった後で、ジェロニモはいつものように男の着替えに手を貸した。
 男の態度に変化はなく、部屋を出てやっとひとりになったところで、ふとまだアルベルトがロビーで自分──たち──を待っているような予感がして、ジェロニモは眉を寄せながら心の端をしっかりと自分の手の中に引き寄せる。
 幸いかどうか、深夜を過ぎてひっそりとしたロビーに、予想したような人影はなく、ほっとしてもまだ周囲をさり気なく見回すことはやめずに、ジェロニモは足早にホテルを出た。
 歩道を左に折れて歩き出す前に、携帯を取り出して、覚えてしまっている電話番号を押す。寝ているだろうと、思ったのは、恐らくそう願っていたからだ。心の片隅ではそう思っていた通り、電話は2度鳴っただけで取り上げられ、向こうもジェロニモの連絡を予想していたのか、応える声はあくまで静かだった。
 「──おれだ。まだ起きてるなら、今から行く。」
 行っていいかではなく、行くと決めてしまっている言い方を、アルベルトは咎めもせず、ああと言う。乱暴に通話を切り、ジェロニモはもう歩き出していた。
 今夜アルベルトに会って、一体どうするつもりなのか自分でも分からない。ただ、会わなければならないと、そんな焦燥感に駆られて、早める足音だけが辺りに響き渡っている。
 他の誰かと寝た後でアルベルトに会うと言うのは、それが仕事でなければ単に面映いだけで終わるのだろう。あの男に、それなりに人としての好感は抱いていても、それは決して好意ではないし、金が関わらなければ言葉を交わすこともないだろう相手だ。あの男と寝ることと、アルベルトと寝ることと、ジェロニモの中ではそれはくっきりと分かれてはいても、説明して納得してもらえるようなことではない。
 アルベルトは、ジェロニモを見て何と言うだろう。軽蔑し切った目で眺められるのか、怒りに満ちた視線を浴びせられるのか、それとも、憐れみを浮べて、今夜起こったことからはふたり一緒に目をそらそうと、そう言葉ではなしに提案でもするのか。
 おれは、金のために誰かと寝ている。アルベルトとも最初はそうだった。アルベルトと寝るのは金のためではないし、アルベルトと寝るのに、金を受け取ろうとは思わない。だが他の誰かと寝る時には、金のやり取りがない関係は考えられない。つまりおれは、アルベルト以外の誰とも、寝たくはないと言うことだ。
 金は免罪符ではない。そもそも、誰かと寝たいと思ってこんなことをしているわけではない。ジェロニモが抱きしめたいと思うのは、アルベルトだけだ。
 見下ろしていた爪先が、そこで突然止まった。片足を前に出したまま、ジェロニモはポケットに差し入れた両手を、その中でぎゅっと握り締めた。まだ口元を覆う息は淡くても白い。その白さを目で追って、やっと自分に向かって、音にならない言葉を絞り出していた。
 おれは、アルベルトと寝たい。それは、おれがアルベルトを好きだからだ。
 惚れていると言う言い方は、何だか体の繋がりばかりが強調されるような気がして、選んだ言葉はやけに純情な、少年めいた表現になった。
 アルベルトを好きなのだと認めてしまうと、アルベルトと他の客たちとの違いがようやく自分の中ではっきりとして、そうしてそれが明らかになった途端に、今度は胃の奥の辺りから恐怖が湧いて来る。
 アルベルトはどうなのだろう。アルベルトも、同じように自分を、たとえ同じでないにせよ、少なくとも同じ立場の人間として、受け入れているのか。売られる商品とそれに金を払う客ではなく、人間対人間として、アルベルトはジェロニモのことを見ているのか。
 それとも、おれのひとり合点の、ひとり相撲なのか。
 今まで、肯定的に受け止めていたあらゆる場面が、今度は疑いだらけになる。あの、精神科医と患者の真似事も、ふたりきりのひそやかな時間も、アルベルトのピアノを一緒に聞いたことも、何もかも、あれは単に、ふたりが時間を一緒に過ごしたと言うだけのことなのか。あのすべてを、アルベルトが自分に心を許したからだと、そう思うのは単なるうぬぼれの誤解に過ぎないのか。
 うぬぼれていたのは、一体どっちだったのだろう。最初にそう言ったのはアルベルトだ。自惚れてもいいのかと、そう訊いたのはアルベルトだった。けれど今は、ジェロニモが自分に尋いている。おれは、うぬぼれて、何もかもを勘違いしてたのか。あれはただ、客と娼夫の間で時々起こる、単なる遊びの恋人ごっこに過ぎなかったのか。
 不安に襲われて、足が止まったまま動かなくなった。アルベルトに会えば、真っ先に恋の告白をしてしまいそうな自分がいて、そして、こっぴどくそれを否定され、嘲笑われ、尻尾を巻いて逃げ出す自分の姿しか思い浮かばない。
 臆病風に吹かれて、ジェロニモは思わず足を引き寄せ、体を半分後ろへ回した。そうして、振り返った途端、バスのライトがまぶしく目を刺して来て、考える間もなくそれへ向かって腕を上げている。固い表情で乗り込み、停留所でもないそこでバスを停めてくれた運転手へ礼を行って、ジェロニモはいちばん後ろの座席へ坐った。
 窓の外を眺めながら、またアルベルトのことを考えている。もう、頭の中はアルベルトだけでいっぱいだった。あの瞳も、あの髪も、あの腕も、あの背中も、アパートメントではいつも素足のあのかかとの、折り目の取れたコットンパンツのくたびれた裾がまつわる様も、何もかも、ジェロニモの中はアルベルトでいっぱいだった。
 もう、金のために誰かと寝るのはやめようと、気がつくと口に出していた。ジェロニモ以外、運転手しかいないバスの中で、誰にもその声は届かず、だからジェロニモはもう一度はっきりと自分に向かってそう言って、そう自分で言う声を聞いた途端に、知らず唇の端に笑みが浮かんでいた。
 今すぐにでもあの女にこの場で電話して、そう言ってやると思う手は、エンジンの音のうるささが引き止めて、バスは市内をぐるりと迂回して、けれど確かにアルベルトのアパートメント付近へ向かっている。アルベルトに近づいていると思うたびに、心臓の音が、エンジンに負けず大きくなった。
 バスを降り、小走りにアルベルトのアパートメントへ向かう。車の数はそれなりでも、人通りはまったくなく、足音はジェロニモのそれだけだった。
 アパートメントの入り口は、いつもと同じに明るかった。けれど守衛はひとりしか見当たらす、彼はブースの中で椅子の背にもたれて居眠りの最中だ。声は掛けず、ジェロニモは気忙しくエレベーターを呼んだ。
 さすがに深夜のこの時間、ばたばたと廊下を走るのは気が引けて、いつもよりもさらに足音を忍ばせて、すっかり見慣れたドアへ向かう。ノックは2度で、滑るようにドアが開いた。
 青白いアルベルトの顔が見え、目が血走っているのに気づいた瞬間、勢い込んでいた気持ちが挫けて、部屋の中にはっきりと漂う酒の匂いに気づいてからは、もう後悔しか浮かんで来ない。
 それでも、まだ完全に諦めはせずに、ジェロニモは何とか自分を励まして、アルベルトへ話し掛けようとした。けれど、その言葉が浮かばない。
 アルベルトはホテルで会った時のまま、着替えてはいないようだった。黒いスラックスは坐りじわだらけで、シャツは襟元から3つボタンが外れ、靴は履いたままだったし、右手の革手袋も着けたままだった。
 ひとり掛けのソファの前のテーブルには、すでに空になっているワインのボトルが1本、半分以上空の2本目のボトルを、見せつけるように取り上げて、アルベルトは背の高いワイングラスへごぼごぼと荒っぽく注いだ。
 「・・・酔ってるのか。」
 ジェロニモの方へグラスを突き出すようにして、
 「言ったろう、ワイン程度じゃ酔わないんだ。」
 蒼白の頬に、酔いの赤みは見当たらなくても、まばたきの速度の落ちている瞳の動きには、アルコールの気配が濃厚だった。
 もう飲むなと言うのは、明らかにお節介だったし、そんなことを言える立場ではまだないことを悔やんで、ジェロニモは、グラスと一緒に顔を上向けるアルベルトを黙って眺めるしかなかった。
 ぐいっと、ワインに濡れた唇を拭って、俺は、とアルベルトが言う。呂律が怪しくて、ろれは、とジェロニモには聞こえた。
 「君に、何か言う資格はないのは知ってる。君が何をしようと、それは君の勝手だ。でも少しは思ってたんだ、もしかしたら、君があんなことをするのをやめてくれるんじゃないかって──」
 その通りだ、今夜、ついさっき、ジェロニモは決心していた。仕事はもうやめる。金のために誰かと寝るのはやめる。今夜きり、もうやめるのだと、そう決めていた。そのことを言うためにここへやって来たのだと思い出して、ジェロニモはアルベルトへ、それを告げるために唇を開き掛ける。それよりも早く、アルベルトがまた言葉を継いだ。
 「それなのに、結局同じだ、何も変わらない。君が俺から金を取らないのは、同情なのか? 俺が可哀想だからか? 教授は一体君に幾ら払った? 君に何をさせて、どんなことをした? ふたりで一緒に俺を憐れんだのか? 間抜け面であんなところに現われて、とんだ阿呆だって、ふたりで笑ってたのか? 俺より、さぞかし教授の方が良かったろうな。誰だって、俺よりはマシだろう?そうだろう?」
 今にもジェロニモに掴み掛かりそうに、アルベルトは声を荒げて、振り上げた腕の動きに揺れたグラスからワインがこぼれ、白い手を濡らしているのに、アルベルトは気づかないようだった。
 「おれは別に、楽しんであんなことをしてるわけじゃない。」
 できるだけ静かに、ジェロニモは言った。アルベルトは逆に、ジェロニモの冷静さに煽られたように、
 「そうだろう、俺とだって別に楽しいわけじゃない。君とっては──そうだな、義務みたいなもんだ。俺に同情して、楽しんでる振りで付き合ってくれて、まるでボランティアだ。いや、まるでじゃない、ボランティアそのものだ。そうだろう?」
 酔っ払いの揚げ足取りは、言った相手が困惑するのが楽しいだけなのだと知ってはいても、アルベルトの言い様に傷つかないのは不可能だった。ジェロニモは奥歯を噛んで、必死で怒りを抑えようとした。
 他人は、自分を映す鏡だ。ジェロニモがアルベルトこそがそう思っているのではないかと思っていたことを、アルベルトはジェロニモがそうだと言う言い方で伝えて来る。互いに、腹を割り切れず、探り合う腹の底を見せ切らず、そうするには、ふたりにはまだ時間が足りない。
 アルベルトの逆上ぶりに絶対に引きずられないように、ジェロニモは何とか冷静さを保って、会話を理性的に運ぼうと無駄な努力をする。酒を取り上げるのが先だと、そう思った時、またアルベルトが、見せつけるように酒を煽った。
 余計なことを言わないように、舌先を一度噛んで、ジェロニモは考えていることをひと言ひと言、ゆっくりと言葉を置くように話す。
 「ボランティアと思ったことは一度もないし、あんたに同情した覚えもない。あんたに起こったことは気の毒だとは思う。だがそれは、それだけのことだ。あんたから金を取らないのは、あんたを客扱いしたくないからだ。」
 濡れた唇を歪めて、アルベルトが鼻先で笑う。
 「客じゃなかったら何なんだ? 俺が可哀想以外に、金を受け取らない理由は何だ。」
 ジェロニモは、アルベルトを見つめたまま、一度、ほとんど目を閉じたままのように、ゆっくりと瞬きをした。
 あんたを好きだからだと、そう言ってしまえばいいと、胸の左側で声がする。そして右側からは、今夜は何を言っても無駄だと、違う声が聞こえる。残念ながら、今のこのアルベルトに、好きだからだと言ったところで、素直に受け取るとは思えなかった。恐らく逆に、それこそ上っ面の慰めなんか真っ平だと、さらに荒れる様が目に見えるようだった。
 ジェロニモは、ひとつ大きく息を吸い込んだ。 
 「あんたは客じゃない。今言えるのはそれだけだ。」
 静かに、けれどきっぱりと言うと、アルベルトがようやく口をつぐむ。それでも、グラスには唇を寄せたままだ。
 アルベルトを放っておくべきなのか、それともひと晩ここで付き合って、これ以上は飲み過ぎたりしないように見張っているべきなのか、あるいはあらゆる手を尽くして、アルベルトを落ち着かせるべきなのか、どれが最善なのか、ジェロニモには判断できなかった。
 立ち去るなら一体どのタイミングかと、アルベルトの様子を窺って、すっかり萎えてしまった、ここへ来るまでの自分のやけに高揚した気分を、ジェロニモは内心でだけ懐かしがっている。
 ジェロニモに横顔を見せたまま、しばらく黙っていたアルベルトが、不意にぼそりと言う。
 「・・・客の方がましだ。」
 ジェロニモは険しく眉を寄せた。
 「なんだって?」
 「──金を払えば、少なくとも君とは対等でいられる。俺は別に、君が同情して俺と寝てるなんて、そんな風に思わなくて済む。」
 アルベルトは、ジェロニモを真正面に見て、大きな身振りでグラスをテーブルへ置いた。
 「楽しんでるわけじゃないなら、君だって金のためにやってることだろう? だったら──」
 血走った目が、奇妙に輝いている。なぜか、喜びの表情のように見えた。
 「俺が全部払う。君が寝る、他の客の分を全部俺が払う。そうしたら、君は俺と寝るだけでいい。君が必要な金は俺が全部出す。だから──」
 いつの間にか、ポケットの外へ出していた拳が、握り締めた形のまま小刻みに震えている。ジェロニモは、心臓の辺りが冷えて行くのを感じて、視界の中でアルベルトの白い貌(かお)の輪郭が、ぐにゃりと歪んで見えた。
 「──そうやってあんたは、おれを飼うのか?」
 素晴らしい思いつきだと思ったらしいアルベルトの唇が、しおれた花びらのように、急に力を失くした。ジェロニモは、檻の中に閉じ込められた自分の姿をはっきりと思い浮かべて、この男も結局同じなのだと、そう悟っていた。
 「そうやって、今度はあんたがおれに施して、今度はおれが、今のあんたみたいに、憐れまれる番になるのか。」
 保護される野生動物、檻に閉じ込められて、骨抜きにされた野生を愛でられる、四つ足のけもの。アルベルトが欲しがっているのは、結局はそんなものなのか。檻の外で、自由に走り回る、飢えも病気も怪我も恐れない自分のままでは、誰にも愛されないのか。そんな風に在りたいと思う自分は、一体どこへ行けばいいのか。
 ジェロニモの中で、ぶつんと細い糸が切れ、今夜この場で耐えていたあらゆることが、ただ短い言葉になってあふれ出してゆく。アルベルトをただ静かな瞳で見下ろして、けれどそこへ含まれる感情は、アルベルトのそれ以上に激しかった。
 「いっそのこと、おれがあんたを憐れんで、次はあんたがおれを憐れんで、次はまたおれがあんたを憐れむ、その次は──そうやって、順番に憐れみ合うのはどうだ。おれは、そんなのは真っ平だ。」
 今は酔いのせいではなく、アルベルトが顔色を失って、瞳からもみるみる色が失せてゆく。ジェロ二モの目の前で、何もかもが色を失い始めていた。アルベルトがピアノを弾かない世界の在り様を、ジェロニモは今初めて、皮膚の上に感じていた。
 ちりちりと火に炙られているような痛みを感じて、それへ向かって目を細め、足元から這い上がって来る寒気に負けないために、足裏に力を入れて、次の言葉をできるだけはっきりと口にした。
 「おれは、施しなんか受けない。そのためだったら、何だってする。」
 そうだ、だから金のために体を売っている。自分の足で立つために、肌──誇り──を削り取って売り渡すような真似をしている。
 言い様、ジェロニモはくるりとアルベルトに背を向け、玄関のドアへ向かって歩き出した。いつもなら気にする足音を今は乱暴に響かせて、すぐに自分を追って来るアルベルトを、振り返りもしない。
 「待ってくれ。」
 追いすがり、ジェロニモの腕を取る。革越しの金属の感触に、一瞬だけ、ジェロニモの心が揺れた。それでも振り返らずに、ドアの取っ手に手を掛けると、今度こそもう一方の腕でジェロニモの肩を押さえて、アルベルトが必死に引き止めようとした。
 「ジュニア!」
 叫ぶようにそう呼ばれて、酔いの醒め果てた声の湿りが、ふたりきりの時間の、切ないほどの親密さをはっきりを思い出させて来る。ジェロニモの心が、またアルベルトの方へわずかに引き寄せられる。それでも耐えて、ジェロニモはアルベルトの方を見なかった。
 「これきりじゃないんだろう? また会えるんだろう? また、ここに来てくれるんだろう?」
 声が次々にジェロニモの首筋辺りへ絡んで来て、それにうなずいてしまいそうになる。目の前の臙脂色のドアを見つめたまま、ジェロニモは、そっとアルベルトから腕を引き取った。
 ここは檻の中だ。外へ出なければならない。自由を得るために、檻から出なくてはならない。
 ジェロニモは、最後までアルベルトを見返すことをしなかった。正面を向いたままドアを開けて閉め、閉まるドアの隙間から、またアルベルトがジュニアと自分を呼ぶ声を聞いて、そのすべてを振り払うようにして、その場を離れた。
 廊下の静けさの中をエレベーターへ向かって歩きながら、あのドアの色が目の中にちらつく以外には、もうどこにも色は見当たらなかった。

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