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色彩のブルース (8)

 恐ろしいほど静かに、時間が過ぎてゆく。講義のために大学へ通う以外は、せいぜい母親を見舞うだけの日々がまた戻って来る。同じことの繰り返しを、もう退屈とすら感じない鈍麻した神経は、それでも女が仕事のために連絡をして来る時だけは、火に焼かれるような苦痛を取り戻す。
 もうこんなことはやめると、女には言えないまま、また新しい初めての客がふたり、ジェロニモはまるで何かから目をそらして逃げるためのように、女から言われるまま彼らと週末を過ごした。
 次第に、あらゆることが苦痛に変わってゆく。元々少ない口数がさらに減り、ノートや本にうつむいていても、読んでいるはずの文字がまったく頭に入って来ない。大学の図書館の隅で数時間過ごした後に、やっと講義のノートが1ページまとまっただけと言うこともあった。
 アルベルトのことを考えながら、会いに行くことも連絡を取ることもしない。アルベルトからも、あれきり何も言っては来ない。あまりに急に近づき過ぎて、だからきっと、少しだけ頭を冷やした方がいいのだ。あんな風に、また仕事の邪魔をされたら困る、そう自分に言い訳して、ジェロニモは努めてアルベルトのこと──を考えながら同時に──を忘れようとしていた。
 あれからもう一度だけ、大学のコンピューターでアルベルトのことを調べた。あのブログ記事をまた見つけ、あの長い文章をもう一度最初から最後まで読み、今は耳の中にきちんとあるアルベルトの弾くピアノの音を手元にたぐり寄せながら、記事に書かれた"色彩を欠いた世界"に目を細める。
 今なら、この記事を書いた誰かの気持ちが分かると、ジェロニモはモニタを見つめて思った。思いながらまた、アルベルトのことを考えずにはいられなかった。
 

 珍しくあまり間を置かずに、初老の男が連絡して来る。前回のアルベルトの闖入をやはり快くは思ってはいなかったのか、今回はバーではなく直接部屋に来てくれと言う。
 部屋では男はもうくつろいだ姿で、ネクタイのないボタンを幾つか外したシャツ姿が、同じような姿だったアルベルトを思い出させ、それを男に悟らせないために、ジェロニモは似合わない作り笑いを浮かべる。
 やあ、と何事もなかったように男は軽く手を上げ、傍らの酒を、けれど今夜はジェロニモに勧めることはしない。
 男の息から匂う酒に、ふと自分も飲んで酔っ払いたい気分になりながら、ジェロニモはひどく冷めた気分のまま男の肩へ腕を伸ばした。
 男はきっと、氷でも抱きしめている気分ではないかと、そんな風に感じて、自分の躯が触れられればきちんと反応することには感謝しながら、ただ黙々と男の上で動き続ける。
 なめらかとは言い難い男の柔らかいだけの皮膚が、シーツの上で小さくさざなみを立てる。それを見下ろして、考える間もなく男の姿がアルベルトにすり替わり、水音を立てて跳ねる青い鱗の背の魚の、ぬめぬめ濡れて光る白い腹へ、自分が今熱を注ぎ込もうとしているのはそこだと、想像の視界の中で起こる誤解をもう正しもしない。
 掌の中に掴もうとすれば、するりと逃げ抜けてゆく、白い魚。水の中で生きる魚を、乾いた陸の上へとどめておくことはできない。そしてジェロニモは、水の中では生きられない。
 つまりはそういうことだ。
 やはりそうかと、動きながらジェロニモは考えている。
 ひと時過ごす水の中は、確かに気持ちが良かった。息継ぎのためだけに水面に顔を出し、そしてまた水の中へ戻り、けれど水の中に居続けることはできない。陸へ戻らなければならない。ジェロニモが吸うのは汚れた空気で、すするのは泥水だ。水を通して浄化された酸素は、アルベルトだけのものだ。白い魚は、水の中で泳ぐからこそ生き生きと在れるのだし、水から上がった魚は、呼吸ができずに死ぬしかない。
 それでも、とジェロニモは考え続ける。男が、枕に横顔を押しつけて小さな声を耐えている唇の震えを眺めながら、そこへアルベルトの白い横顔を見て、ジェロニモは淡々と考え続けていた。
 水は、アルベルトにとっては檻ではないのだろう。あらゆることが檻であるジェロニモとは、そこが違う。切り刻まれ、ずたずたにされた自由を与えられて、掌の上に空気のように軽いそれを見下ろして呆然とするしかないジェロニモたちとは違う。アルベルトたちの持つ自由は、もっと大きくてもっと広くて、それはつまり、彼らの持つ皮膚そのものだ。
 体全部を覆うことができる大きさの自由、それを服のように身にまとい、彼らは気が向けばそれを脱ぎ捨てる──後で再び着るために──こともできる。
 ジェロニモたちの自由は違う。それはほんのわずかの断片で、ただの切れ端で、大切に扱わなければすぐにすり切れて朽ち果ててしまう。後生大事に抱え込んで、失くせば二度と手に入らないその小さなかけらを、押し頂いて、与えられたことに感謝して、ジェロニモたちはそうしてひっそりと頭を垂れて生きてゆく。
 おれとあの男は違う。皮膚の色が、何もかもを隔てている。あの男は自由とともに生まれ落ちて、おれは生まれる前からあらゆるものを奪われていた。だから、その自由の切れ端を、おれに施そうとあの男は言う。自分は十分に持っているから、持つことすら許されていないおれに、少しばかりくれてやろうと、悪意のないただの善意であの男は言う。それがどれだけおれと言う人間──にんげん?──を傷つけるのか、考えもしないのがあの男の持つ自由の大きさのあかしだ。
 だが、と少し間を置いて、ジェロニモは続けて考えた。
 おれはあの男の優しさが恋しい。欲情だけではなく、素足を床に投げ出して、ただ抱き合って音楽を聴くだけの時間を一緒に過ごせた、皮膚のこすり合いに頼らないそんな繋がりを持てたのは、確かにあの男だけだった。そんな風に自分を求めて、あんな風に寄り添わせてくれたのは、アルベルトだけだった。
 音楽に満ちたアルベルトは、ジェロニモの中にも音楽を見出して、ジェロニモ自身には聞こえないその音を、引き出してこちらに聴かせてくれる。アルベルトもジェロニモも、まるで自身が楽器そのもののように、音を出して、音を合わせて、ふたつの音はひとつの音になり、次の音へ繋がり、音の連なりはどこまでも広がり続いてゆく。
 その音を、聴き続けていたかった。今はもう聴くことのかなわないアルベルトのピアノの音の代わりに、そうしてふたり一緒に奏でる音の、彩る世界を見ていたかった。
 それは、アルベルトとジェロニモだけの音であり色であり、そして、ふたりだけが見ることのできる、"色彩に満ちた世界"であるはずだった。
 失うものなどないと思っていたのに、今初めて、自分が失ったものに気づいて、ジェロニモは愕然とした。手に入れたことにすら気づいていなかったそれが、自分の腕の中から消えてしまったことに、ジェロニモは今ようやく気づいて、アルベルトのあの右腕のように、自分の左腕が欠けてしまったような、薄寒い気分にふと襲われる。
 男の薄い体を抱いて、ジェロニモの両腕は間違いなくそこにある。それでも、体の一部が失せてしまった気分が消えずに、両腕も両脚もある男の体を自分の下に見下ろして、目の前に砂漠の茫漠とした風景を見た。
 空の青さすらなく、ただ砂色だけの広がるその光景に、ジェロニモだけが、ぽつんとひとり立ち尽くしている。聞こえるのは、風の音だけだった。


 肌を合わせていると、考えていることが何となく伝わるようになるものか、どこか上の空のジェロニモに、男もどこか沈んだような面持ちで、充分に楽しかったと取り繕う表情も浮かび切らないまま、ごく自然に口が重くなる。
 いつものように、シャツのボタンを留めるジェロニモの指先をふたり一緒に見下ろして、言葉を探すようにわずかに動く唇が、実際に声を発することはない。
 続けてネクタイを結ぼうとしたジェロニモの手を、男は押さえて止めた。
 「いいよ、自分でやろう。」
 男の声はあくまで穏やかで、それなのにきっぱりと拒絶されたように感じながら、ジェロニモは男から手を離し、自分の上着を取り上げるために男へ背中を見せた。
 男も、そのジェロニモへ背中を向けて、乱れたベッドへ向き合いながら、薄暗い部屋のどことへもなく、低い声を滑り落とす。
 「──余計なお世話だろうが、大学はきちんと卒業した方がいい。君が将来何をやるつもりか知らんが、教育と言うものはどこへ言っても無駄にはならんよ。」
 上着へ片腕だけ通して、ジェロニモはそこで動きを止めた。ゆっくりと男へ振り返り、まだこちらを向いている小さな背へ、眉根を寄せて目を凝らす。
 男の、横へ軽く突き出した肘が、小さく動き続けている。ネクタイを結んでいる男の手つきが、目の前にはっきりと浮かぶ。
 一体、ジェロニモから何を読み取ったのか、男の言うことはそれでも決して見当違いとは感じられず、ジェロニモは首をねじるようにして男を見つめたまま、男が言葉の間に息を継ぐ音を黙って聞いている。
 「君のように、学生をやりながらこういうことをしていた若い連中を何人か知っているが、彼らの半分くらいは途中で勉強を投げ出した。元々目的があって大学へ通ってたわけでもなかったんだろう。目先の楽しさに迷うと、大事なことを簡単に見失う。若さと言うのは、迷いも失敗も許されるものだが、それは永遠に続くわけではない。」
 男の肘の動きが止まり、腕が落ちる。振り返った男の口元には薄い微笑みが浮かんでいて、それはあのいつもの、慈しみの色をたたえていた。
 「・・・わかってる。」
 短く、けれど素っ気なさはなく、ジェロニモは男に返事をした。
 小さな歩幅で男の前へ行き、結ばれたばかりのネクタイの、わずかなねじれを直す振りで、男の首へ両手を伸ばす。骨の線の目立つ男の首筋は頼りなげで、それでも、生きて来た時間の長さゆえの、何かしたたかさのようなものを確かにそこに浮かべて、年上の人間たちへはつべこべ言わずに敬意を抱くようにと教えられているジェロニモは、男のその首筋へただ穏やかに視線を当てた。
 「今時、大学を出たくらいでは何にもならないが、それでも途中で投げ出すよりはずっとましだ。口当たりのいいことばかり言う連中も、君の周りにはたくさんいるだろうが、それが全部優しさや親切とは限らん。」
 ジェロニモは、まだ男のネクタイに触れたままでいた。
 男はジェロニモの指先を見下ろし、そこで一度言葉を切った。結ばれた唇の間から、小さくため息がこぼれたのを見逃さずに、男の屈託をそこに読み取って、ジェロニモは神妙な面持ちで男の次の言葉を待つ。
 「・・・君はまあ、どうやら真面目な学生のようだし、こんなことをいちいち言われる筋合いもないだろうが──私のところに来た学生が、先週大学を辞めると言って来てね。去年他の大学からわざわざ編入して来て、単位のことであれこれ手を貸した揚げ句、だ。腹を立てる気にもならんよ。」
 「編入?」
 「ああ、よその大学に行っていてね、専攻を変えたいがそこでは無理だと言うのでうちに来たんだが、すでに取った単位がうちで認められるかどうかは、ある程度はまあ話をする先の教授次第と言うのでね、色々無理を聞いて便宜も計ったんだが・・・全部無駄になった、と言うわけさ。」
 男が力なく笑う。落胆と失望を露わにすると、男は10も老けて見えた。
 「それは──」
 残念だったとか気の毒だったとか、うまく伝える言葉が見つからずに、語尾のすぼまり具合にだけ匂わせて、ジェロニモは唇を途中で止めた。
 垂れたまぶたを数度上下させて、ゆるく瞬きをしてから、男はジェロニモが真っ直ぐにしたネクタイを胸元に馴染ませるように撫でて、自分のその手を見下ろしたまま、細くかすれそうな声で最後に言い足す。
 「君も色々あるだろうが、やり抜いて良かったと、後で必ず思う時が来るよ。私も君の年頃には、年寄りの説教なんぞ聞く耳持たなかったが、君ももう少し生きれば、多分私の言ってることが分かるようになるさ。」
 冗談めかして、言葉の最後には笑いが混じる。男に合わせて笑みを浮かべて、けれど男が思っている以上に、男の言葉は重くジェロニモの心に響いていた。
 ジェロニモの個人的なこと──大学生であると言うこと以外──など、何ひとつ知るはずのないこの男の、半ば愚痴めいた言葉のひとつびとつが、なぜかひどく的確な叱咤のように聞こえて、生みの父親が傍にいてくれたら、こんな風に今の自分に言い聞かせてくれたのだろうかと、男を見下ろして思った。
 父親を知らないジェロニモは、死に掛けている母親のことを思い出して、そして自分がひとりぼっちになりつつあることに気づくと、またあの砂漠のような風景が目の前に甦って来る。
 喉元へせり上がって来て、次には心の端を噛んで来る孤独の恐怖に必死で耐えて、大丈夫だとまた空疎な声を聞きながら、目の前の男へ、にっこりと礼の笑みを見せる。男も、それを見て、ジェロニモへまた微笑み返して来た。
 足元を、さらさらと砂の流れてゆく感触が、その夜はいつまでもいつまでも消えないままだった。
 
 
 やっとカフェテリアの片隅の席で、先週の分の講義のノートをまとめ終わって、ジェロニモは椅子から立ち上がった。まだ読まなければならないテキストが残っているけれど、それはもう諦めて、次のバスに乗るために足早にカフェテリアを出て行く。
 今日は母親を見舞う日だ。1日か2日置きには、母親に会いに行く。毎日ではないのは、講義とその後の勉強の時間が理由だったけれど、本当のところは、母親が死を待つ場所で気が滅入るのを止められないせいだ。どれだけ清潔だろうと明るかろうと、まだ死から遠い人間には、死神の気配はかすかではあっても確実に彼の在る場は、ただひたすらに気力を削り取られる場所でしかない。
 母親に対する薄情さをひけらかすほど開き直ることもできず、数日置きに訪れるジェロニモを、孝行息子だと評する病院の人間たちの顔を真っ直ぐ見られもせず、あらゆることに嘘をついているような気分で、ジェロニモは母親に会いに行く。
 10分足らずでやって来るはずのバスを、建物の中からガラスの窓越しに外を眺めて待って、何気なく回した視線の先に、向かいの壁へ埋め込まれるようにある受付の、その傍らの掲示板の、珍しく貼り紙で埋もれているのが見えた。
 短い暇を潰すのに、ジェロニモは窓際から離れてその掲示板の前へ足を運び、一体何の知らせかと、辛うじて重なり合わないようにごちゃごちゃと画鋲で張り付けられている大量の貼り紙へ、ざっと視線を流す。
 新学期の始まるまでの、夏の休みの間の部屋の又貸しの貼り紙だった。秋までは、自分の家族の元へ帰る学生たちが、夏の間に空いたままになる自分の部屋や家を、この街にとどまる他の学生に安く貸すと言う、どれもこれも感嘆符を山ほど使った同じような文面の貼り紙だった。
 ジェロニモはちょっと肩をすくめ、居留地へ帰ることなど考えもしなかったことを今さらの様に思い出して、どれほど講義を詰め込んでも、丸々休みになる8月は一体どうしようかと、思った視線の先に、又貸しの貼り紙の間から覗く、どうか目立つようにと言う気遣いか、色のついた紙の貼り紙を見つけて、自然に引き寄せられた文面は、市内と市外周辺の公立図書館で、夏の間に本の整理をするので人手が必要だ、と言う内容だった。
 整理は1週間掛けて行われ、その間にその図書館は一時閉館、終わると次の図書館へ、と言う具合に、7月の終わりから8月一杯の予定だと書かれている。給料は安いとも高いともどちらとも言えない、よくある金額で、よほど切羽詰まっているか、本が好きかでなければ、まったく気をそそられる類いの話ではないように思えた。
 たった今、どうやって過ごそうかと思っていた時間にぴったりはまるその仕事に、ただちょうど良さそうだと言うだけで、紙の下辺を短冊のように切り込みを入れてちぎり取れるようにしてある連絡先を、ジェロニモは深くは考えずに1枚指先に取った。他の貼り紙に埋もれているその紙に目を止めたのはどうやらジェロニモが初めてだったのか、ちぎり取られているのは、ジェロニモが今取った紙片きりだ。
 振り返ると、ちょうどバスがこちらにやって来るところだった。カバンを肩に掛け直し、小走りにドアへ向かう。手の中には、小さな紙片がきちんと握り込まれていた。

 
 いつものように、自分には華奢過ぎるパイプ椅子をそっと引き寄せ、母親の傍へ腰を下ろす。見下ろす母親の顔は、相変わらず鎮痛剤の微睡みに弛緩して、こちらの声が聞こえているのかどうかも定かではない。
 薄い上掛けの上に投げ出された腕を肘から撫で下ろし、ジェロニモは彼女の手を静かに取った。訪れのたびに、皮膚さえ薄くなってゆくように感じられる、彼女の冷たい手だった。自分の巨(おお)きな掌の間に挟み込むようにして、黄色く乾いた爪を撫でると、とっくに絶えてしまった栄養のせいで、でこぼこざらざらと、まるで雑に均したコンクリートの表面でも撫でているような気分になる。
 髪も皮膚も干乾びて、残っているのは骨だけのように薄くなった母親の体は、もう触れるのも恐ろしいほどだ。掌を乗せれば、そこからぽろりと崩れそうに、ジェロニモは慎重に母親の手を握り、そして、まだかすかにふくらみは残る親指の付け根から、指先を滑り下ろして脈を探った。
 近頃は、母親の傍へいる間は、ずっとこうして脈に触れている。自分のそれよりもずっと間遠な母親のそれを指先に感じて、目の前の枯れ木のようなこの女はまだちゃんと生きているのだと、知っておくためだった。
 恐らくそこもぼろぼろだろう母親の血管は、ちょっと強く押さえればそのまま血の流れを止めて、そうすれば母親にはあっと言う間に死ねるのだと、そんな風に馬鹿らしいことを思いつく瞬間もあった。
 ほとんど意識がないと同じなのは、彼女にとっては幸せかもしれない。微睡む間に見る夢は一体どんなものなのかと、想像したところで、彼女の若い頃も、彼女を幸せにしたはずのあれこれのことも一切知らないジェロニモには、眠る間に彼女を微笑ませていることは、どれもひとつもきちんと像を結ばない。
 鏡を見て、これが、母親が恋に落ちた男の貌(かお)なのだと思うこともあった。そう思っても、生きているのか死んでいるのかも分からない自分の父親の姿をはっきりと思い浮かべることはできず、自分が今ここにいると言うことは、父親だと言う男は確かにこの世に存在したのだとは思えても、自分のためにそこへいてくれたことは一度もないその男を、実感として捉えることはできず、こうして死に掛けている母親が、その男の思い出を夢の中に引き寄せて幸福を感じているらしいことに、ジェロニモはかすかに嫉妬すら感じていた。
 その幸福を、母親は息子であるジェロニモと共有しようとはしないし、父親の記憶のないジェロニモには、彼女と共有する何も持たない。
 父親である男と愛し合ったと言う記憶の証拠として、ジェロニモは今母親の目の前には在っても、ジェロニモ自身が両親に愛されたと言う証拠とは結びつかず、今となっては、少なくとも母親であるこの女には愛されたはずだと、心許ない感触に頼るしかない。
 そしてジェロニモは考える。自分は果たして、この女の息子である自分として愛されたのだろうかと。母親にとっては、自分はあの男の息子でもあると言うことだけが重要であり、母親の息子であることで、一度でも母親から愛されたことがあっただろうかと、幼い頃を振り返って考える。
 酔っ払って正体不明か、体が弱って気分が悪いか、どちらかでしかなかった母親しか記憶になく、酒臭い息で切れ目なくこぼすあれこれのことは、自分がいかに不運だったか、それでもどれほど男たちには愛されたか、けれど自分の産んだ子どもたちにはどれだけ冷たくされたか、その合間に、母親は一度でもジェロニモを愛していると言ったことがあったろうか。
 ジェロニモを抱き寄せ、その濃い茶色の目を深々と覗き込んで、愛していると言ったことは何度もあった。けれどあれは、ジェロニモを見ていたのではなく、ジェロニモの父親である男を見ていたのではなかったか。
 ジェロニモと呼ぶたび、母親が呼んでいたのはジェロニモ自身ではなく、あの男ではなかったのか。愛していると続けて言ったそれは、男に対して言ったものではなかったのか。
 ジェロニモの兄弟姉妹たちに見捨てられ、それでもジェロニモには捨てないでくれとすがりついたのは、あれは男にしがみついていたのではなかったか。ジェロニモに見捨てられることを恐怖したのではなく、男に捨てられることを、ひたすらに恐れたのではなかったか。
 恐ろしい考えに取り憑かれて、そこから目をそらすどころか、どんどん足を取られてその中へ沈み込んでゆく。溺れないために、必死で顔を上向けて、今足を引っ張っているのは誰だろう。引きずり込まれる泥の中から伝わるのは、母親の気配か、生死も分からない見知らぬ父親のそれか。それとも、あるいはそれはジェロニモ自身なのか。
 視界に影が差し、目を細めた先に、白い顔が見えた。淡い青の瞳が微笑んで、ジェロニモに向かって差し出す右手は鉛色だった。触れた指先が固くて冷たい。その手を取って、上へ引き上げられながら、ジュニアと呼ばれた。そうだ、あの男は、自分の名を知らない。父親と共有するその名を、あの男は知らない。自分を引き上げたその男の、肩を抱き寄せようと、泥まみれの両腕を差し出そうとした。その手は、ただ宙を空回る。
 はっと我に帰ると、母親がジェロニモの手を握ろうとしていた。枯れ枝のような指先が力なく動き、それでも確かにジェロニモの手を握ろうと、のろのろともがいている。ジェロニモは慌てて脈を取っていた指先を外して、母親の手を両手で握り締める。力を込めないジェロニモの代わりのように、母親の手が、ぎゅっと、弱々しくても拳を作り掛ける。
 「カチャ。」
 自分たちの言葉で呼び掛ける。うっすらと目が開き、動く瞳が確実にジェロニモを捉えた。近々と、呼吸の確かめ合える近さに寄った息子のその唇の先へ、母親が、花の蕾のほぐれるような、穏やかな笑みを送って来た。
 ジェロニモは、色の悪い萎んだ唇の作る、その笑みの美しさに思わず目を奪われ、息を飲んで、ふた拍呼吸を忘れた。
 「・・・ジェロニモ。」
 久しぶりに聞く、母親の声だった。久しぶりに呼ばれた、その名だった。優しく、ほとんど甘えているように耳に響く、ひび割れもかすれもせず、その声は真っ直ぐにジェロニモの耳に届く。母親がもう一度微笑む。その綻んだ口元に、不意に少女のような含羞(はじら)いが浮かび、黒ずんだまばらな歯並びにも関わらず、枯れ木のような母親の、その笑みだけが突然20数年も若返る。輝くような若い女の笑顔を、ジェロニモは確かにそこに見た。
 母親はまた目を閉じ、淡く笑みだけは唇の上に残して、微睡みの中へ戻ってゆく。力の抜けた指先を、ジェロニモはまた優しく自分の両手の間に挟み直して、それから、誰にとも何にとも分からない苦笑を、自分の唇の端へ刷いた。
 今母親が見て、呼んだのは、ジェロニモではなかった。母親は、ジェロニモの父親を、ここへ呼び寄せたのだ。愛する──愛した──男を見つめ、その名を呼び、愛を囁き合った時の声を甦らせて、そして同時に、その時の自分たちも、この場へ呼び戻したのだ。
 喉の奥から、笑いがこみ上げて来る。涙交じりのその笑いは、後から後から噴き出て、声にしないのに必死になりながら、いつまでも止まらなかった。
 カチャ、と笑いを交ぜながら母親をまた呼ぶけれど、母親はもう聞こえないのか身じろぎもしない。母親を見つめながら、頬を涙がひと筋だけ流れて行ったのに、ジェロニモは気づかなかった。
 
 
 その夜、電話が鳴った時に、ジェロニモは自分の部屋で予習分のテキストを読んでいた。
 電話には家主が自分の部屋から応え、2階にいる彼は駆け下りて来た階段の途中から、ちょっと声を張り上げてジェロニモを呼ぶ。
 「お袋さんの病院からだ。」
 ジェロニモは飛び上がるようにして椅子から離れ、ベッドの傍の自分用の子機を取り上げた。
 深夜の病院も、やはり静かなのだろうか。母親が亡くなっているのを巡回の看護婦がついさっき見つけたと告げる内容の電話の、その背後には音がなかった。世界のどこかに存在する、真空の部屋からの電話のように、その声にも言葉にも色はなく、砂嵐のような雑音がどこからともなく交じって来て、声は近くなったり遠くなったり、受け答えをする自分の声もまるで他人のそれのように、これはきっと夢だと、ジェロニモは今まで読んでいた本を、開いて置いたままの机を振り返って、色の失せた世界の中で、自分も透き通って行くように感じている。
 「──明日の朝いちばんで簡単に検死をして、それから葬儀社の方へ──」
 今すぐここに来ても構わないが、無理なら朝になってからでも大丈夫だからと、平たい声が言う。気の毒にと言うような、作った感情は込めているけれど、死を余りにも見過ぎて、神経を鈍麻させるしかない人間の、この世のものではないような声の遠さが、いっそうジェロニモから現実味を奪ってゆく。
 声が男のものか女のものか知覚しないまま、ジェロニモは、唇だけを機械的に動かして、今から母親に会いに行くと言っていた。
 電話を切って、タクシーを呼んで、その後は一体何をしたかよく覚えていない。気がつくとタクシーにすでに乗り込んで、傍らには大学へ行く時のカバンがあり、掌を乗せるとしっかりと本の固さが伝わって来た。
 こんな時間に、母親のいる施設へ向かうのは初めてだ。そして、すでに死んでしまっている母親の元を訪れるのも初めてだ。そして、これが最後だ。
 タクシーの運転手は、この時間にこの施設へ向かうと言う意味を飲み込んでいるのか、さっさと明かりのついた裏口へ回ってくれ、ここだよと、ぼんやりしているジェロニモを促しさえした。
 思うように動かない手足を使って、何とか金を払い、カバンを持ってタクシーを降りて、右手と右足を一緒に前に出さないように気をつけながら、前へ向かって歩いた。
 むやみに明るい受付で、母親が死んだと連絡が来たと言うと、すぐにどこかから顔見知りの看護婦が飛んで来て、
 「こっちに。」
 ジェロニモの腕を引いて、行ったことのない建物の奥の方へ連れて行く。仄暗い廊下の、さらに暗く見える階段を下へ降りると、地下の廊下には、重く空気が垂れ込めていた。
 ジェロニモの前を歩く看護婦は、見回っていた彼女の同僚がジェロニモの母親の呼吸の止まっているのに気づき、すぐに当直の医者を呼んで死亡を確認したことを、押さえた声に同情を含んだトーンで、けれどてきぱきと伝え、さっき電話をくれたのはこの看護婦だったと、そこでようやくジェロニモは気づいた。
 母親の置かれた部屋には、母親が今横たわるベッドと椅子が数脚だけ置かれ、看護婦はそこへジェロニモを入らせると、何かあったら受付へ来てくれと言い残して、静かに去って行った。
 すぐには母親の死に顔を見下ろす気にはならず、ジェロニモは壁際へ置かれた──とは言え、小さな部屋だからそこからでも充分距離は近い──椅子へそのまま腰を下ろし、音をさせずにカバンを床に置くと、両手を上着のポケットの中へ差し入れる。肩を少し落とし、長い足は持て余し気味に椅子の座面の下へ押し込んで、まるで不貞腐れた子どものように、ジェロニモはやっとそこから横たわる母親を見据えた。
 とっくに死人のようだった顔色に、特に今変化は見られず、辛うじて上下していた胸の辺りがまったく動かないのが、むしろいっそ潔いように見える。すでに朽ち果てていた母親は、これでもう、ほんとうに朽ち果てることができるのだ。苦痛を和らげるための鎮痛剤はもう必要なく、死が、彼女の苦しみをすべて拭い取ってくれた。微笑にすら見える穏やかな表情が、死が眠りの中に静かに訪れたことを示しているようで、それが、生き残った者の自己満足の思い込みにせよ、ジェロニモには確かに今慰めになっていた。
 生きていて、決して幸福ではなかったらしい彼女は、恐らく死んで今幸せだろう。先に逝っている、愛した男たちと再会して、現世のことなどすぐに忘れてしまうだろう。今ここに生きて、自分の死に顔を眺めている息子のジェロニモのことなど、きっと思い出しもしないだろう。
 死んだこの女は、確かにジェロニモの母親だった。血肉を分けてジェロニモを産み、育て、だからこそ今ここに在れることを、ジェロニモ自身が感謝しているかどうかはともかく、この女は確かに、ジェロニモをこの世に生み出した母親だった。
 そしてジェロニモにとっては、長い間たったひとりの家族だった女だった。
 「・・・カチャ。」
 もう、ジェロニモの声が届くことはない。もうこれきり、ジェロニモがそう呼ぶ女はいない。
 椅子の背から体を浮かし、ジェロニモはのろのろと立ち上がって、足を引きずるように母親の傍へ行った。大抵の人間がきちんと横たわれるように作られているだろうベッドの上で、母親の体はあまりにも薄くて小さかった。体を覆う白布の、その儚い盛り上がりが、今は眠りのせいで身じろぎもしないのではなく、死によって母親は連れ去られ、もう誰も、ジェロニモをジェロニモとは呼んではくれない。
 捨てないでくれ、一緒にいてくれと、そうジェロニモにすがった母親は、ジェロニモを置き去りにして、ひとり逝ってしまった。とうの昔に予想していたことだ。母親は死に掛けていて、いつかはこうなると、日に数度、頭の隅をよぎり続けていたことだった。
 それなのに、今死んだ母親を見下ろして、想像することと、現実にその死を見つめることの間には、大きな隔たりがあるのだと、ジェロニモは我が身に思い知っている。
 想像なら、玩ぶことができた。どれほど頭の中でその裾野を広げて、埒もないことを考えようと、それはあくまで絵空事だ。けれど今ここに、呼吸を止めて冷たい体で横たわる母親は、痛みを伴う現実だった。
 「カチャ・・・。」
 まるで、そうして呼び続けていれば、そのうち母親が目を開いて応えてくれると言うように、ジェロニモはまた彼女に呼び掛ける。まばらなまつ毛はそよとも動かず、永遠に動きを止めた眼球は、まぶたに覆われてぴくりともしない。もう、瞬きも必要がないのだ。
 「──カチャ。」
 最後になったあの時すら、見つめていたのはジェロニモの父親である、愛する男だった自分の母親の死に顔には、もう穏やかさしか見つからず、母親の死を確かに悲しみながら、そうして、自分だけが置き去りにされたことに、ゆっくりと怒りが湧いて来る。
 「テジュ(父さん)・・・。」
 ジェロニモたち以外には、ほとんど正確には発音することのできないその呼び方で、今母親と再会しているだろう男へ、ジェロニモは声に出して初めて呼び掛けていた。父親である男と、母親であるこの女と、そのふたりの間に自分の姿はかけらもなく、自分の存在のないことを、ふたりが気に掛けている様子さえないのが、もうジェロニモには驚きさえ呼び起こさない。
 そうして、気がつくと泣いていた。頬を流れた涙があごから喉を伝い、シャツの襟を濡らしていた。落ちた涙は埃に汚れた靴の先へ垂れて、小さな小さな水たまりをそこに作った。
 力なく膝が折れ、床に崩れ落ちるように、ジェロニモはベッドの端に両手を掛けて、声を上げて泣いた。指の先に母親の腕が触れ、できればそれを両手の中に握り締めたくて、けれどそうすれば死んだ母親の腕を今さらへし折ってしまいそうで、それ以上触れることはできなかった。
 誰にも聞こえない声を放って泣きながら、ジェロニモはひとりぼっちだった。母親はただ、灰色の天井へ向かって、もう固まったままの淡い笑みを浮べ続けているだけだった。


 1階の待合室の片隅で坐ったまま朝まで少し眠り、検死が終わったと知らせに来た看護婦が、ついでに葬儀社の人間も連れて来た。
 小柄な、ひどく清潔そうな見掛けのその男は、ジェロニモの年齢を目を細めて推し量ってから、心底同情したような表情を浮かべ、この街での死亡届等の手続きはすべて代行できるが、居留地の方へは原本の書類を渡すから自分で届けてくれと、まずそう言った。
 「一応ご確認頂きたいのですが、生前には、火葬にするようにと言うご本人のご要望でしたが──。」
 待合室を出て、できるだけ人気のないところへ肩をすぼめるようにして移動してから、男がさらに声を低めて訊く。ジェロニモは、死んだ後は火で焼く弔いが普通のことの自分たちのやり方を、母親が望んでいたことを知っていたから、火葬と言うことにはさほど驚きもせず、
 「全部、母の言った通りに。」
 答える声が喉に張り付いて、言葉の間が少しかすれた。それをまた、男が痛ましそうに見上げる。
 「では、今すぐご遺体を移動させまして・・・全部焼き終わるのが、昼頃になるかと思います。わたくしどものところでお待ちいただいても、後でご連絡させていただいても──」
 「そちらで待ちたい。」
 男の語尾をさらうように、ジェロニモは空ろに言った。
 何もかも、この男が手配してくれること、生前に、母親はこの施設ときちんと取り決めを交わして──ジェロニモも、もちろんすべて知っている──いて、政府が賄ってくれる予算内ですべてが済むように、華美なことはしないが死者の尊厳を損なうようなことはないように、簡素──最低限、と言う意味だ──ではあっても、きちんとした扱いをする、と言うようなことを、男はひと言ひと言、ゆっくりとくどくどしいほど丁寧にジェロニモに伝えた。
 男が何か言うたびに、ジェロニモは曖昧にうなずいて同意を示している振りだけして、死んだ者を送る儀式を、自分たちが思う通りにはできない以上、男たちがどれだけ心を尽くして死んだ母親を扱ってくれたところで、それはこちらが望んだこととはまったく違うのだと、いちいち心の中で反発する気力さえ湧かない。
 寝不足の頭の中はいつも以上に鈍くしか動かず、そこでごろごろと今うごめいているのは、悲しみと淋しさと虚ろさだけだった。
 男に言われたように動き、男の後をただついて歩き、自分が薄っぺらい影になったような気分で、運び出される直前の母親にもう一度だけ会って、その後は母親のいた部屋を片付ける看護婦に手を貸して、まとめられたわずかな荷物を手に、母親の灰を受け取るまで、どこで何をしていたのか、はっきりと記憶がない。
 自分で電話をしたのか、看護婦の誰かが連絡してくれたのか、いつの間にか現れた家主がジェロニモと荷物を車に乗せて、母親を焼く火葬場まで連れて行ってくれた。
 実際の焼き場とは建物の違う、待合室のあるその場で、家主とはひと言も口を聞かず、ジェロニモは夕べ読み終わらなかった本を開いて膝の上に乗せ、それに家主が呆れた顔をしたことにも気づかないままだった。
 本を読みながら、実際には字などまったく目の中には入って来ず、ただ機械的に視線を動かしてページの最後までたどり着くと、これもただ機械的に指先がページをめくる。きちんと読み終わっても、多分講義には出ないだろうから無駄になると思っても、自分の日常にしがみついていなければ、立ち上がることさえできなくなりそうだった。
 あの小柄な男が、朝見せたと同じ清潔な表情──かすかな笑みは、励ましのつもりだったのかもしれない──を浮べて、そう言った通り昼頃に、母親の灰を入れた骨壷を抱えて姿を現した。
 銀色のつるりとしたその蓋つきの壷は、受け取ると見た目よりもずっと軽く、そして焼いたばかりのせいかどうか、ほのかに掌にあたたかい気がした。一緒に、男が封筒を差し出して来て、
 「死亡届の原本と、コピーが3通入っております。わたくしの名刺も入っておりますので、何かございましたらご連絡下さい。」
 真っ白いその封筒は厚みがあり、母親の骨壷よりも手の中に存在感があった。
 ぼんやりしたままのジェロニモの代わりに、家主が男に礼のようなことを言い、後はジェロニモの背中を押して、ふたりは火葬場を後にした。
 街外れの、辺りには何もないそこから、家に戻るまでは随分とあり、ジェロニモは車が走る間、助手席で母親の灰を胸の前に抱え込んで、ひと言も発しない。家主も黙って車を走らせ、無言のままだった。
 カチャ、と唇だけ動かして呼ぶ。灰は壷の中でそよとも動かず、蓋を開けて中を見たい衝動に襲われながら、それのあまりの軽さに、母親が死んだと言うのはただの夢なのだと、ジェロニモは思い始めていた。
 信号の赤で、車が急に止まる。前を向いたまま、家主が普通の声でジェロニモに訊いた。
 「お袋さんを、連れて戻るのか。」
 物思いから突然引き上げられて、ジェロニモは一瞬自分がどこにいるか分からずに視線をうろつかせてから、隣りにいる男が家主であることに気づくと、自分の胸元を見下ろして、やはり母親はほんとうに死んでしまったのだと、改めて思う。
 「──戻るつもりだが、いつかはまだ分からない。」
 応える声が、我ながら恐ろしいほど平坦だった。
 どこにと言うところは互いにぼかしたまま、それが、正確な答え方かどうかは分からなかったけれど、家主はそうかと言っただけで、また無言になった。
 青信号で車が走り出す。窓に映ったジェロニモの顔は、面のように無表情に動かない。これは父親の貌(かお)ではなく、確かに自分の顔だ。テジュ、と呼び掛けようとした唇は、開いただけで動きを止めた。
 車体が切る風の音が、胸の中を荒々しく吹き過ぎてゆくのに、ジェロニモは微睡みの始まりのようなゆっくりした瞬きをして、上下するまぶたに引き寄せられたように涙がまたひと筋こぼれてゆくのを、ガラス越しの自分の顔の上にぼんやり見ていた。

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