ゆですぎそうめんえれじぃ 10
配達伝票を見たのか、シェーンコップはヤンに、何時頃に伺ってもよろしいかと、きちんと電話をして来た。承諾の返事をする声が上ずらないように気をつけながら、ヤンは固定電話の子機を充電台に戻しながら、居間の卓袱台を振り返る。すぐに返せるようにと、シェーンコップが置き忘れて行った万年筆がそこにあり、たたみにはい草の座布団が2枚並べて置かれ、視線をさらに窓の方へずらすと、年代物の扇風機がきこきこ首を振っている。
扇風機は、ヤンが大学時代に買ったもので、エアコンを入れてからはずっと押入れの奥に入れたまま、ただ捨てるのが面倒だったのに、エアコンが故障中の今は、捨てなくてよかったとヤンはちょっとため息を吐く。
い草の座布団は、昨日買って来たばかりだ。
ここに客が来ると言うことはなく、何もかもヤンの分だけ、しかも学生時代から増えた物と言って、一部の衣類と本だけで、そうめんを作るのにそれを盛り付ける器も棚に見当たらず、座布団と一緒に、それもまとめて買って来た。
調味料がちゃんと足りるかなと思ったけれど、最低限は用意してあるし、なければその時買って来ればいいさと、ヤンは新しいガラスの器を洗ってシンクの傍のかごに伏せ、冷蔵庫に麦茶がたっぷりと入っているのを確かめた。
シェーンコップはそう言った時間通りにやって来て、片手に下げて来たビニール袋から、台所にさっさと入って来て取り出したのは、みりんと醤油だった。
「隣りの酒屋が、そうめんのつゆならこれで作れと──。」
並べたびんの傍に、例のタブレットを開いて書見台のようにして、また画面を何やらいじってめんつゆの作り方を表示させる。
「君、そうめん茹でたことあるかい。」
「ありません。」
「わたしもないよ。」
「じゃあめんつゆを作ったことは?」
「ないよ。そうめんなんて、ひとり暮らしで作る献立じゃないよ。」
「なるほど。そうめん初心者同士、素直にレシピ通りにやりましょう。」
シェーンコップは苦笑いしながら、またタブレットをいじり、そうめんの茹で方と言う動画を再生し始めた。突然始まった音に驚いて、ヤンは思わず画面に見入る。
並べた材料の説明、実際に湧いた湯にそうめんが放り入れられ、沸騰したところで水を入れる、これを2、3度、と言う手順を、実際にやりながら説明している、まるで料理番組だった。
「こんなのもこれで見れるんだ。知らなかった。」
「大抵のことはこれで用が足りますよ。そうめんの後でめんつゆの作り方を見ましょう。」
結局狭い台所で、料理を始める前に、ふたりで小さなタブレットの画面に見入る。まるで頬を寄せ合うようにして、互いの間の距離のなさに、シェーンコップは戸惑いもない風に、ヤンが離れようとしても腰に回った腕が逃げさせてくれない。
そうしてその腕を、ヤンは払いもしないのだった。
動画を2度ずつ見て、互いの手順を確認して、冷やすのに時間の掛かるめんつゆを先に、と言うことになった。
小鍋を出し、材料をテーブルの上に並べて、おっかなびっくり、こうかなこうかなとみりんのアルコールを煮切ったり、しょうゆをそこに混ぜたりする。みりんを煮切るやり方も、動画でやっていた通りに、その通りにできればふたりで思わず喝采になる。
普段、ヤンが話す相手もなく──以前は、金魚のラップがいた──、ひとり本を読んで過ごすのがもっぱらのここで、珍しい騒がしさだった。
スプーンでひとすくい、ヤンがまず味見をし、それからシェーンコップが味を見て、ふたりでうなずき合ってから、それは冷蔵庫へ入れる。
熱いままでは、すでに中にあるものが傷む、と言うことまでは動画は教えてくれなかった。けれど、どうせ麦茶と酒くらいしか入ってないヤンの冷蔵庫だったから、あまり心配もない。
次はそうめんだ。大きな鍋を出して、湯を沸かす。ヤンが湯の見張りをするようにそこに立つと、シェーンコップがヤンの肩に顎を乗せ、腰へ両腕を回して来た。
火を使うと温度が上がる。すでにシャワーを浴びて来たのか、かすかに石鹸の香りのするシェーンコップはもう汗に濡れて、ヤンもシャツの襟元がびっしょりだった。
「暑いね。」
「ええ、暑いですね。」
エアコンが使えないことを見越してか、シェーンコップはゆるめのTシャツに、下は風通しの良さそうな素材のパンツだ。ヤンはクレープ素材のシャツを、パジャマかと見紛うようなだらしのない着方をして、もちろん裾は出しっ放し、下はぺらぺらの半パンだった。
足裏も汗でべたつく。エアコンの修理はいつ来てくれるんだろうなあと、近頃は常に開け放したままの、網戸の窓を眺めてヤンは思った。
「裸で料理した方がよさそうだ。」
「もっともな考えですが、火傷しますよ。服は着ていた方がいいです。」
シェーンコップが、ヤンの肩の上でくつくつ笑った。
「もっとも、あなたが脱ぎたいと言うならどうぞお好きに。」
言葉の最後をヤンの肩口で塞いで、シェーンコップの、削り取ったような鋭い鼻先が、ヤンのシャツの中へもぐり込んで来る。
脱いだらそうめんどころではなくなるなと、ヤンは必死で冷静さを保って、さり気なく肩を揺すった。シェーンコップの顔が離れ、沸騰し始めた湯へ気持ちが戻る。
「えーっと、何束入れるかな。」
体を回し、テーブルからそうめんを取るためにシェーンコップから離れ、ヤンはそうめんの木箱へ向かってうつむいた。一緒にシェーンコップもついて来て、またヤンの腰へ両腕を回す。
「そうめんを作りに来たんだろう、君。」
「ええ、そうめんを作りに来ました。」
ヤンがそうめんと言う時と、シェーンコップがそうめんと言う時と、何となく発音が違うような気がして、ふたりでそうめんを作っているのに、目的はそうめんではないように、
「・・・じゃあ、そうめんを茹でよう。」
言い聞かせるようにシェーンコップに言うと、
「ええ、そうめんを茹でましょう。」
そう返して来る言葉は、やはりヤンのそれとはわずかに響きが異なるように聞こえる。
すでに沸騰している鍋を置いて、ここで少しの間、ふたり分は何束かと言う話し合いになった。ひとりにひと束だろうと言うヤンに、それでは足りないと言うシェーンコップと、では間を取って3束でとヤンが言うと、それでも足りないと思いますがねとシェーンコップが言うから、今日は一応客の顔を立てることにして、4束と言うことになった。
沸騰したところに冷たい水を入れるのは、シェーンコップに任せることにした。
君が食べるって言ったんだから君が茹でるべきだと言うのはヤンの言い分で、あなたがそう言うならそうしましょうと、シェーンコップはいつもより少し緊張した顔つきで言った。
「まあ、何とかなるでしょう。」
額の汗を拭いながら、シェーンコップが鍋の前に立って、その間にヤンはタブレットをこわごわいじり、
「そう言えば、そうめんのことばっかり考えてて、おかずのことを忘れてたよ。」
ああ、とシェーンコップも、今思いついたと言う顔を振り向けて来る。
「薬味のことをすっかり忘れてた。何か買って来ようか。」
「卵とねぎがあれば、とりあえず──。」
どうかなと、ヤンは冷蔵庫を開け、野菜入れの中を調べた。ねぎはある。卵もある。そうめんと言う体裁は、これで何とかなりそうだ。
「君、卵焼き作れるかい。」
「あなたは?」
「焦げたのが食べたければ作るよ。」
「・・・わたしも似たようなものですがね。」
不意に生真面目な顔で、シェーンコップが鍋に水を入れる。一瞬静まった湯が再び泡立ち、そこでシェーンコップは火を止めた。
もういいのかな、多分、とふたりで言い合いながら、ヤンがざるを出し、シェーンコップがそこにそうめんを開ける。シンクが、熱い湯に低い悲鳴を上げ、その音にふたりで一緒に声を立てて笑い、流れる水の下でそうめんを冷やしながら、ヤンが薬味のねぎを不器用にばらばらな大きさに切り、シェーンコップが幸いに焦がさずに卵を焼いた。
味が大丈夫なら大丈夫だと、ふたりで無言で目配せし合って、胃の中に入ればおんなじって父さんがよく言ってよなあと、ヤンは久しぶりに、昔のことなぞ思い出している。
父親も、不慣れな手付きで、台所でよく大騒ぎをしていたものだ。5歳で母親が逝って、男手で何とかヤンを育てた父親は15の時に死に、それ以来ヤンはひとりで、面倒なことはできるだけ避けて生きて来た。
わたしはなまけものなんだ。両親を失くして無気力になったのではと、心配した人たちもいないでもなかったけれど、ヤンは自分のことを、生まれつきのなまけものと認識していて、その通りに生きて、親しい人も特に得ないまま、ヤンの本心を語る相手と言えば金魚のラップだけで、シェーンコップのことも、シェーンコップが踏み込んで来たからと言うだけで、自分から動こうとはヤンは微塵も思っていない。
それでも、座布団とそうめんの器をわざわざ買って来たことを考えると、その程度には特別なことと受け取っているのかもと、シェーンコップの恐ろしいほど整った横顔の線をちらりと盗み見る。
自分と、あまりに違う男。他人と殴り合うために体を鍛え、血を流すような怪我に怯みもせず、ここにするりと入り込んで来て、我が物顔と言うほどでもなく、自由に振る舞い、そしてそれがヤンには不愉快ではなく、不思議に思いながらもシェーンコップが自分の傍らにいるのを、気がつけばヤンは受け入れてしまっている。
水にも水槽にも隔てられない関係が、ヤンにはただ物珍しい。シェーンコップといると、自分たちの周囲が淡く青に染められたように見えて、ふたりきりで水の中を漂っているような気分になる。今もそうだ。
水道から流れる水の中で、そうめんが泳ぐ。くるくるふわふわゆるゆる、生き物のように動き回り、白くつややかな身を、冷たい水で引き締められて、ヤンはそれを見つめながら、自分たちふたりが水の中の魚なのか、ざるの中のそうめんなのか、心の中でふっと迷う。
焼けた卵──ちょっと固めのスクランブルエッグ──を乗せる皿を見つけて取り出して、シェーンコップがフライパンを傾ける手つきを見ながら、菜箸を案外器用に使うその指の動きに、思い出すものがあって、ヤンは思わずそこから視線を外した。
「どこに運びますか。」
そうめんは、買ったばかりのガラスの器に氷水と一緒に盛られ、つゆはふたり分に分けて、薬味のねぎは小皿に出し、ヤンは卵の皿を取り上げた。
ふたりでそれを全部居間の卓袱台に運んで、ばたばたと配膳して、やっと座布団の上に腰を落ち着ける。
向こうの壁際、ふたりの間くらいに置かれた扇風機が、のろのろとふたりに風を送って来るのに、シェーンコップが苦笑のような笑みを見せた。
自分の普段使いの箸しかないことに気づいて、来客用の箸も買っておこうと、ヤンは自分の箸を取り上げながら考えている。
いただきますと、シェーンコップが手を合わせた。ヤンも慌ててそれに倣った。
「そうめんなんて、子どもの頃に食べたきりじゃないかなあ。」
何だかちょっと懐かしさにうきうきして、ヤンはそうめんをすすり込む前につぶやく。シェーンコップは最初のひと口を勢いよく喉へ真っ直ぐ送り込み、悪くはない、と言う表情を浮かべた。
「水を差すのは、多分2回で十分かと。」
反省点を、メモでもするように言う。ヤンはシェーンコップの焼いた卵をつつき、美味いよと微笑んで言った。
「晩めしだと、おかずがいりますね。」
まるで反省会のミーティングだ。ヤンは同意しつつ、思ったよりよく出来たと思いながら、つるつるぷちぷち、口の中で滑るそうめんを味わっている。
「そういうのもアレで調べられるんだろう。」
ヤンは行儀悪く、箸の先で台所の方角を差して言う。台所の小さなテーブルに置きっ放しの、シェーンコップのタブレットのことだ。
「料理の本でも入れておきましょうか。」
「へえ、そういう風にするもんなんだ。」
「読書専用のタブレットもありますよ。あなたならそっちの方が良さそうだ。」
次々に差し出す箸の先でつまみ上げられるそうめんは、ぽたりぽたり氷水を滴らせ、つゆにひたってはふたりの口の中に冷たく消えてゆく。
シェーンコップの言うことに少しだけ心を動かされて、薬味のねぎと一緒にそうめんを噛んで、ヤンはそういうのもあるのかと思った。
そうめんは少しだけ柔らかい気がする。水を差すのは2回で良かったと言うのは、そういう意味なのだろう。つゆの味はいい。シェーンコップがわざわざ持って来た醤油とみりんのおかげかもしれない。
悪くはない。そして、誰かと一緒の食事と言うのも、決して悪くはない。
多いのではないかと思ったそうめんは、順調に売れ、残りの量を窺い窺い、ヤンの方をちらりと見ては、シェーンコップは箸を動かしている。
「君がいいだけ食べればいいよ。足りなかったらもっと茹でよう。」
ヤンの言い草に、ふふっとシェーンコップが笑いをこぼす。
そうめんが喉を滑ってゆく。まるで水のように。胃に、音もさせずに落ちて、けれど満腹の信号が、確かに腹に詰め込んだ量を伝えて来る。
ひとり分だけは、面倒の方が勝つ料理だ。作る量が多い方が確実に美味い。シェーンコップが一緒に食べてくれるなら、あの木箱もすぐに空になるなあと、またそうめんをすすり込んでヤンは思う。
そうめんが失くなっても、君はここへ来るんだろうか。そうめんがなければ、別の料理にすればいいと、あのタブレットにレシピを入れて、ここにやって来るのだろうか。わたしと、こんな風に食事をするために。
ちょうど、氷水の中に、ふたすくい分のそうめんが残っている。ヤンが先に、半分より少し少ない量を取った。軽く頭を下げて、シェーンコップが残りを水から全部すくい上げた。
後にはいびつに溶けた氷が残り、卵もねぎもすべて姿を消して、ふたりの夕飯が終わる。
食事の後の汚れた食器の眺めは、少しだけもの淋しい。主には後片付けを億劫なせいだけれど、今日はなまけ心はさすがに押し隠した。
シェーンコップがまた手を合わせてごちそうさまと言う。それを見て薄く笑って、微笑ましい気分のまま、ヤンは重い腰をやっと上げた。
食器を片付け始めるヤンに、当然と言う風に手を貸して、シェーンコップも一緒に皿を運ぶ。皿洗いはひとりで十分だったから、水を使い始めたヤンを、シェーンコップは冷蔵庫の傍からじっと見ていた。
手の中にまとめた2膳の箸を見下ろして、それから、ヤンはさり気なくシェーンコップを見た。
シェーンコップが自分に笑い掛けたのに笑い返して、ヤンは洗ってゆすいだ箸をそっと箸立てに置く。シェーンコップの方は見ずに、水音に負けないように声を少し張った。
「風呂を沸かすよ。入るだろう。」
シェーンコップが敗者復活戦と言ったのを、思い出している。これから満たされる、もうひとつの飢え。ヤンの頬に、暑さのせいではない赤みが差し、ヤンの視界に、さらにひと色濃く、青が刷かれた。より深く架空の水の中に沈み込んだヤンの肩に、そっとシェーンコップの掌が触れて来る。
皿洗いの手を止めて、自分の肩へ顔を埋めて来るシェーンコップの頬に、ヤンは水の滴るままの手をそっと近づけて行った。