ゆですぎそうめんえれじぃ 12
下着姿で、台所で麦茶を一緒に飲み、そこでまたしばらくただ抱き合った。床は椅子の脚やらテーブルやらでごちゃごちゃスペースがなく、冷蔵庫の背に押し付けられて、冷蔵庫の背はひんやり冷たかったのに、ふと触れた側面が案外熱くて、ふたりで苦笑いしてそこで手を止めた。
シェーンコップはもう一度シャワーを浴びて汗を流し、ではと言って帰り支度を始める。ヤンのベッドは、ふたりで一緒に眠るには狭過ぎるのだ。
玄関前の薄暗い廊下で、シェーンコップは長々とヤンに口づけた。
今夜、それなりにシェーンコップに馴染んだとは言っても、まだこんな風に近々と顔を近づけられるのに慣れず、ヤンはほとんど目を閉じたまま、ほんの時折薄目に、シェーンコップの方を窺うのが精一杯だった。
荷物を片手に、もう片手にヤンを抱き寄せて、ヤンがそれを許せばこの場に押し倒されそうだった。
肉を噛みちぎられ、歯列と舌で粉々にされ、そうして喉へするりと飲み下されてゆく、ひ弱な小動物の自分が思い浮かび、文字通りすっかり食べられてしまったのだと思いながら、そうめんを、案外上品にすすっていたシェーンコップの口元と箸を使う指先が、自分を同じように扱うシェーンコップの全身と重なって、ヤンはついシェーンコップを引き止めたい気持ちになる。
シェーンコップの腕の中に閉じ込められて、また視界が青く染まってゆくのに、そこから逃れたいとは思わずに、四角く区切られた世界に、ふたりでならとどまってもいいかもしれないと、ヤンはふと思った。
やっと唇が外れ、ではまたと、シェーンコップは何もかもを断ち切るように短く言って、素早くヤンに背を向けた。靴を履き、開いたドアの間からもう一度ヤンを見て、では、と言い残して消える。
また、と言われたのをそのまま素直に信じるほど子どもでもなく、ヤンはパジャマ代わりのシャツの胸元をぎゅっと握って、無人になった玄関をしばらくそのまま見つめていた。
暑さは変わらないはずなのに、ひとりになった途端、首筋や肩の辺りが薄寒い。涼しいのではない。
ろくに知らない赤の他人をここに上がらせて、夜を半分一緒に過ごした自分の軽率さが今になって信じられずに、ヤンはそこでひとり頬を赤らめる。
近頃あまり人と交わってなかったからとか、金魚のラップが死んで淋しかったからかもとか、シェーンコップがあまりにあっさりこちらに入り込んで来たからとか、あれこれ言い訳を探して、それなら他の誰かをこんな風に自分の方へ引き寄せたろうかと想像して、それはまったく具体的な像を結ばないのだった。
誰でも良かったとはさすがに思わずに、それはやはりあの男だったからなのだろうと、ヤンはそこでじっと佇んで思う。
見当違いに、自分のベッドの狭さを申し訳なく思いながら、ヤンは眠るためにそのベッドへ戻ろうとした。途中で通り抜ける居間で、そう言えば持って帰ってもらおうと思っていた、シェーンコップの忘れ物の万年筆のことを思い出す。
卓袱台にちゃんと置いておいたはずなのに、見た記憶がない。まさか失くしてしまったかと、ヤンは慌てて天井の明かりを点け、それをあるべき場所に探した。
畳んだ新聞の陰に、挟まるように万年筆はあって、手渡すのをすっかり忘れていたから、目に入らずに探しもしなかったのだと、ヤンは困ったように眉を寄せた。
大切な物なのだから、どこで失くしたかと、シェーンコップは探しているのではないだろうか。失くした記憶のない失せ物を探すのは手間だ。気分も悪い。悪かったなと思って、次に来た時は絶対に忘れないようにと、ヤンは心の中に刻みつける。
そうして、次、と声に出してつぶやいている。
次があるのかな。万年筆を取り上げて、ヤンは無意識に空の水槽を振り返った。相変わらず先が決まらずに床に放置されたままの、金魚のラップの住み処だったそれ。四角く囲まれ区切られた、小さな世界。
それを見て、ヤンは自分の世界が急に小さくしぼんだように、薄い肩をいっそう縮めた。
ひとりには慣れている。それでも、その慣れたひとりには、金魚のラップが含まれていたのだ。自分を見返してくれる瞳、話し掛ければ、呼吸のためにせよぱくぱくと動いた口、ヤンはひとりだったけれど、独りではなかった。
白く濁った腹を浮かせていたラップを、ヤンはできるだけ丁寧に弔った。10年も一緒にいれば、普通の同居人と変わらない。ラップはもう、ヤンにとってただの金魚ではなかったし、友人と呼ぶのが気恥ずかしいにせよ、ヤンにとってラップは正しくそのような存在だった。
ラップを飼い始めてから、結局他に金魚を連れて来ることもせず、ラップは水槽の中で1匹きり、ずっとヤンとふたりきりだった。
ヤンは、空の水槽の中に、そこで泳いでいたラップの姿を蘇らせて考えている。
もしかすると自分は、わざとラップを1匹のままにしておいたのかもしれない。他の金魚をそこに入れて、ラップがヤンなど相手にしなくなってしまうのが怖かったのかもしれない。異種よりは、同種の方がいいに決まっている。同じように水の中で泳ぎ、呼吸し、伝わる言葉でおしゃべりする。ひらひらと触れ合う尾やひれ、ぱくぱくエラを開いたり閉じたり、そのリズムで伝え合えることもあったろう。
ヤンでは駄目だった。ヤンは金魚になれず、水の中では暮らせず、ラップの言葉も仕草の意味も分からず、小さく区切った水の中にラップを閉じ込めて、ヤンはラップをひとり占めした。
その罪滅ぼしだったのか。ラップを丁寧にタオルに包み、土に還したのは、ごめんとラップに謝るためだったのか。
掌のくぼみにためた水の中に、ラップをすくい上げて、そうして見つめ合う数秒、自分の皮膚に触れるラップの体の、ぬるりとした曲線、人の膚とはまるきりちがう鱗の感触、そうでもしなければ、ラップは自分と一緒にいてはくれなかったろうと、ヤンは今思う。
ラップがいて、今はラップはいない。
もう、誰もいないと思っていた。空の水槽にひとり残り、自分は永遠にそこにひとりでいるのだろうと、ヤンは思っていた。
その水槽を差して、自分が試合をした檻のようだとシェーンコップが言う。そこに入って、相手と殴り合って、どちらかが負けるまで出れないのだと言う。
水の代わりに、血の滴る檻の中。四つ足の獰猛な獣のような、全身の毛を逆立てたような男。
その男が、水も血も檻も水槽も隔てずに、ヤンに触れる。人を殴るその手で、ヤンを傷つけずに触る。
水槽──あるいは檻──に入る代わりに、ふたりは狭いベッドで抱き合った。狭い台所で一緒にそうめんを茹でて、めんつゆを作った。ひとつのタブレットを、頬を寄せ合うようにして覗き込み、くすくす一緒に声を合わせて笑った。
ふつふつ泡の立つ煮えたぎった湯の中に放り込まれ、くるくる踊るそうめん。火責めでアルコールを飛ばされて、出汁汁と合わされてできるめんつゆ。薬味は用意できずに、ふたりはただそうめんをすすった。向かい合って坐って、同じ卓袱台で、一緒に作ったそうめんを食べた。
あの箱に入ったコンドームは、まだあるだろう。そうめんも、まだ木箱の中に残っている。シェーンコップが作っためんつゆも、冷蔵庫にまだある。
そうして、シェーンコップがいない。祖父のお下がりの万年筆と言う気配を残して、シェーンコップは立ち去った。
君はまたここに来るんだろうか。わたしに、会いに。
ラップが、そうしてここでヤンをひとり待ったように、ヤンもここでひとり、シェーンコップを待ち続けるのだろうか。
ヤンの足音に耳を澄ませていたラップと同じに、ヤンもシェーンコップの足音に耳を澄ませ、この、コンクリートでできた四角い部屋の中で、じっとシェーンコップを待つのか。
また、視界が青く染まる。それは、シェーンコップといる時ほど鮮やかではなく、舗装された路面に降った雨のせいの小さな水たまりのように、空を映した時だけ青くなれる。
その水たまりの中では、金魚は泳げもしなければ、生き延びることもできない。
金魚のラップのために、整えた水の世界。そしてここは、ヤンが自分のために整えた世界だ。シェーンコップには、シェーンコップが整えた彼のための世界があり、それが一体ヤンのそれと交わるのかどうか、ヤンにはまだ分からなかった。
浅い水たまりの中に半身を浸して、ヤンはシェーンコップがそこから自分を引き上げてくれるのを待っている。
薬味のないそうめんは、さぞ退屈だったろう。食べ続ければ飽きるに決まっている。あの木箱を空にする前に、シェーンコップはもうそうめんはいらないと言うかもしれない。
そして、まだそうめんの残る木箱の、空いたスペースに手足を縮めて入り込んで、ヤンはまたひとり、身動きもせずに時間の流れに身を任せる。
そこは水に満ちた水槽ではなく、血の匂いのする檻でもない。きちんと束ねられたそうめんと並んで、そうめんの振りをして、ヤンは木箱に収まる。シェーンコップが来て、取り出して、湯に放り込んで茹でて、めんつゆにひたしてからするするすすり上げられる、そうめん。
冷やされて、そうして熱い口の中にすすり込まれる、そうめん。あのきれいな歯列に噛み切られて、舌から喉に送られて、つるりと胃の方へ滑り落ちてゆく、そうめん。
めんつゆは、ほんの少し甘かった。シェーンコップのあの、ミルクがたっぷり入ったチョコレートを思わせる髪色と、よく似た甘みを思わせた。
シェーンコップは、スクランブルエッグには砂糖は入れない。きっと卵焼きにも砂糖は入れない。ヤンの卵焼きは、塩は入れずに砂糖を入れる。
君は、わたしの卵焼きは好きだろうか。きっとひどく焦がしてしまうだろうけど、それでも食べてくれるだろうか。
ヤンの茹でたそうめん。シェーンコップの作っためんつゆ。ふたりでじゃんけんでもして、どちらかが作った卵焼き。それからねぎとしょうがをたくさん切って、他にそうめんの薬味と言ったら何だろう。
料理なんか、食べられればいいのだし、腹さえ満たせればそれでいいヤンは、そうめんとめんつゆだけだって文句はないのだ。
でも君は違うんだろう。きっと。
木箱の中のそうめんと、醤油やみりんやだしの素は、店で同じ棚には並ばないのだ。
水ではなく、もっと別のものに隔てられている、ヤンとシェーンコップ。
ヤンはここから動かずに、シェーンコップはあちらこちらと跳ね回って、その合間の気まぐれにヤンを思い出して、ああそう言えばそうめんを食べたなと思い出すのだろうか。
胃が、不意にきゅっと縮んだような感覚があった。ヤンは腹に掌を当て、まだ空腹のはずもないのに、じわじわと這い上がって来る飢えの気配に、押しとどめるように、もう一方の手の中にシェーンコップの万年筆を握りしめる。
確か冷凍庫には、数日前に炊いた米がある。解凍すればすぐに食べられるけれど、おかずが何もない。
味気ないと自分で言ったシェーンコップの、鶏肉料理が食べたいなあと、ヤンは思った。
ほんの少し、汗の塩辛さのあった、シェーンコップの肩。君の肩でもいいと、思わず縮んだ胃を掌で押す。
タブレットの中から、ヤンをにらみつけて来る、髪の長い、少し若い、傷ついたシェーンコップ。想像しただけで怖気を振るうはずの血の、その匂いと味が、少しばかり猟奇的にヤンの舌の上に再現された。
君と一緒に作ったそうめんが食べたいなあ。
血の気配などどこにもない、平和な食事。栄養は明らかに足りない。でも、君と一緒に食べられたら、それだけで何だか妙に満たされる。ヤンはゆっくりと瞬きした。
開いた目の、その前に、去り際に見せたシェーンコップの、淡く浮かべた微笑みが見えて、突然の空腹をそれでなだめながら、ヤンは再び眠るためにベッドへ向かう。
手には万年筆を握り込んだまま、シェーンコップの汗の匂いのまだ残るベッドへ、ヤンはひとり戻ろうとしていた。