DMT編、独身なのに団地妻なヤン提督と昼下がりの情事シェーンコップの、おバカダダ漏れエロ。

ゆですぎそうめんえれじぃ 13

 万年筆の所在を確かめにでもシェーンコップから連絡がないかと待って何の音沙汰もなく、相変わらずエアコンの壊れたままの部屋の暑さに閉口したと言う口実で、ヤンは陽射しも路面からの照り返しもおさまった夕方遅く、閉店間近の時間を狙って忘れ物のそれを届けに、シェーンコップの店へ足を向けた。
 途中で、配達の彼に行き合ったりしないかといつもより歩調はゆるく、用もないのにコンビニへ入ったり、店まで訪ねてゆくのは明らかに図々しいだろうと自覚して、シャツのポケットの万年筆の重みに、何とか励まされて足を前へ出す。
 数日団地から出ない間に、何となく空気には夏の終わりの爽やかさが混じり始めていた。
 10分ちょっとで着く店へ、20分以上掛けてゆくと、思った通りもう店のシャッターは半分下り、体をかがめてガラスの引き戸から中を覗いて、棚の前で何やらしているシェーンコップを見つける。
 引き戸はもう鍵が掛けられていて開かず、ヤンはガラスを軽く叩き、中のシェーンコップを呼んだ。
 そうして、閉店の直後に訪ねて来る客の相手もするのか、シェーンコップは仕事用の表情でこちらを向き、ヤンと分かった瞬間に、気恥ずかしいほど明るい笑顔を浮かべる。
 足早に近づいて来て鍵を開け、ヤンを中に入れると、シェーンコップはもうシャッターを完全に下ろしてしまった。
 「店を閉めてから、電話しようかと思ってたんですよ。」
 ほんとうかどうか、そんな風に言う。
 「君、万年筆を置いて行ったろう。渡すのを忘れてしまったから、届けに来たんだ。」
 下りたシャッターを振り返りながら、どこから出してもらえるかと思って、ヤンはシャツの胸ポケットから取り出したそれをシェーンコップに差し出した。
 「やっぱりあなたのところでしたか。」
 「ないと、困るだろうと思って──。」
 筆記用具くらい、なければ別のを使えばいい。それでも祖父からもらったと言うのだから、失くすのはいやだろうと思ったからと、言わない部分をいい加減に消した語尾にこめて、ヤンはもう用は済んだ手持ち無沙汰で、何となく店の中を見渡す。
 「夕めしはどうしました。」
 万年筆を眺めて、胸ポケットにしまってシェーンコップが訊く。
 「適当に済ませたよ。」
 「そうめんですか。」
 「いや、今日は──。」
 こんな近さで、ふたりきりの時ににこやかにそうめんと言われて、ヤンは思わず頬を染めてうつむく。冷凍庫の米を解凍して、後はスーパーで買って来た惣菜だったとは言わない。この暑さでは、ひとり分の味噌汁を作るのも面倒くさいのだ。
 「君は、これから夕飯かな。」
 邪魔も長居もするつもりはないヤンは、もう帰るからと言う素振りで訊いた。
 「いや、そちらにお邪魔するつもりで、今日は早めに済ませましてね。」
 言いながらシェーンコップは、ヤンの背中へ手を添えている。
 「上がって下さい。お茶くらいしか出せませんが、エアコンは効いてますよ。」
 笑いながらそう言われて、ヤンは苦笑もこぼせず、拒む暇もなく、そのまま店の奥へ肩を押された。
 藍色ののれんをくぐり、袋に詰まった米の積まれた倉庫を通り抜けると、庭の切れ端に出て、目の前がシェーンコップの自宅らしかった。そこは裏口なのか、無愛想なガラスとアルミとドアを開けると、どうやら作業場でもあるらしい空っぽの土間が広がり、そこでやっと靴を脱ぐ。
 細い、けれどよく磨かれたつやつやの廊下を進んで、また同じ色ののれんをくぐって、家具の詰め込まれた広い部屋へ通された。
 入ってすぐ右手の壁際に大きなテーブル、椅子は4脚、食卓らしいけれど、このテーブルの上には何も置かれていない。
 向こうの左側の壁際はキッチンで、仕切りはないまま、少し間を置いて黒革のソファがどっしりと置かれていた。背の低いコーヒーテーブル、座布団くらいは置けそうなスペースを空けて、大きなテレビ。テレビの置いてある棚にはDVDが並び、本や雑誌も同じ棚にあった。
 部屋のいちばん向こうには廊下が見え、そことは仕切りのためのガラス戸が、今はすべて開かれて素通しだった。
 広い部屋の中全部が、心地好くひんやり冷えている。涼しいなと、正直にヤンは首と背を伸ばし、シェーンコップに勧められるまま、ソファの方へ近寄った。
 これだけで、ヤンの団地の部屋の半分は占めそうな、大きなソファだ。柔らかく、けれどしっかりと体を受け止めてくれて、けれど床生活に慣れているヤンには少しばかり居心地が悪い。知らず足を揃えて肩を縮め、そこから所在なさげにキッチンに立つシェーンコップの背を振り返った。
 「酒にしますか。ウォッカとジンがありますよ。」
 「はは、遠慮しておくよ。」
 初めて訪れた家で、さすがに酒と言う気にはならない。シェーンコップは断られて気を悪くした風もなく、続けてコーヒーか紅茶かと訊いて来る。
 「紅茶がいいな。手間でなければ。」
 「20kgの米を抱えてあそこの4階まで上がることに比べたら、この世に手間なことなんかありませんよ。」
 シェーンコップが叩いた軽口に、ヤンは思わず声を立てて笑う。
 薬缶に湯を沸かすシェーンコップの背に、
 「やっぱりあれは、大変なんだろう。」
 ヤンは、ちょっと同情をこめて声を投げた。
 「大変ですよ。やめる気はありませんがね。体が続く限りは続けます。」
 動くたび、肩や腕に筋肉の盛り上がるシェーンコップの後ろ姿を見て、自分なら1度で逃げ出すなあと、ヤンは正直に思う。
 ぶ厚いマグに入った紅茶を差し出され、熱い紅茶は久しぶりだなあと、案外いい香りのするそれへ目を細めた。涼しい部屋はやはり快適だ。早くエアコンを直してもらわないとなあと、マグの縁へゆっくりと唇を近づける。
 「上の声は、相変わらずですか。」
 自分もヤンの隣りへ腰を下ろし、同じように紅茶を飲みながら、シェーンコップが突然訊いた。
 「上の? あ、いや、最近は、昼間は静かかな。でも、引っ越しの荷造りみたいで、何だかばたばたしてる音は聞こえるよ。」
 ヤンは記憶をたぐるように瞳を上にさまよわせて、しどろもどろに答えた。
 可笑しかったのはヤンの様子か返事の内容か、シェーンコップが笑い声を立てる。それと一緒に、
 「今度は向こうの方が、下から声が聞こえると思ってるかもしれませんね。」
 冗談のつもりか、そんな風に言われて、ヤンは考える間もなく顔を真赤に染めた。
 「──お、お互いさまじゃないかな。」
 マグの陰に、顔を隠すだけで精一杯だった。こんな爽やかな声と表情では、こんなことを言っても品なく響かないのは得だなと、八つ当たりのように思う。
 殺したつもりのヤンの声は、そんなに響いていたのだろうか。あるいはシェーンコップの方は、住民ではないから遠慮はしなかったと言いたいのか。
 やっぱり早くエアコンを直して、窓をちゃんと閉めるようにしないとと、ヤンは明日また電気店に催促の電話を入れることを、胸の中で決意した。
 シェーンコップは、ヤンの反応をいちいち面白がって、隣りでくすくす笑い続けている。
 その笑いがおさまると、シェーンコップは当然のようにヤンの方へ顔を近づけて来て、ヤンの口元から紅茶のマグをそっと遠ざけた。
 紅茶をこぼさないように、ヤンはおとなしくシェーンコップの唇を受け止めて、再び頬を赤く染めながら、この男はどうしてこんなに自分に触れるのが好きなんだろうと、肩の力をわずかに抜く。
 深過ぎはしない口づけに間が持たず、ヤンは薄目を開けてシェーンコップの様子を窺ってから、部屋の中へちらちらと視線を走らせた。
 古いけれどきちんと手入れされた家。店の先代の、シェーンコップの祖父母がここに住んでいたのか。奥にさらに広そうな家だった。そちらの廊下の向こうには、多分小さくても庭があるのだろう。
 天井近くに、古めかしく額縁に飾られた、白黒の大きな写真を見つけて、目元や口元、鼻筋がシェーンコップによく似ているのはこれはまだ若い頃の彼の祖父か。右隣りの女性は祖母、左隣りは、今のシェーンコップよりさらに若い、顔立ちはどちらかと言うと祖母寄りの男の写真だ。誰だろう、とヤンは思った。
 ヤンがそちらを見ているのに気づいたのか、唇を外して、シェーンコップがヤンの視線の先を追う。
 「あれ、誰だい。」
 若い男の方を、ヤンは指差して訊いた。
 「親父です。」
 短く素っ気なく、シェーンコップが答える。目に、家族に向ける優しげな色はなく、そこから祖父や祖母の写真に移動して、やっと灰褐色の瞳がやわらいだ。
 君の、と確かめるように、まだヤンが写真を指差したままなのへ、ええ、とさらに素っ気なくうなずく。
 「高校の頃からろくに会ってませんがね。」
 なるほど、とヤンは思った。中学の終わりに父親を亡くしたヤンは、いわゆる思春期の男親とのぶつかり合いと言うものをよく知らない──何しろ、滅多と家にいない親だったから──まま、それでも世間的に、その年頃の少年たちが家族の中で荒れがちになると言う話は知っていたから、シェーンコップの、この声の響きに含まれるのも、その類いのことかと考えた。
 訊いていいものかどうか迷って、無意識に、くつろいだ時にそうするように、ソファに上げた足を行儀悪くあぐらに組んで、ヤンはちょっと肩をすくめて見せた。
 「あんまり、お父さんのことが好きじゃないのかな、君は。」
 「お互いに気に食わないと言うヤツでしょうね。顔を合わせると5分で殴り合いが始まりますよ。」
 「穏やかじゃないね。」
 「だから近づかないんです。」
 さっきヤンに触れた時とはまるきり違う、少し疲れたような表情で、シェーンコップはだらしなくソファの背へ体を伸ばしてもたれ掛かる。長く細く息を吐いて、どこを見ているのか、ぼんやり前方へ視線を据えて、うっそり再び口を開いた。
 「親父は警察官でしてね・・・祖父も祖父の商売も嫌いで、それとはまるきり逆の方へ行って──息子の私が祖父に懐くのが気に食わずに、ここに出入りするのも、子どもの頃はいい顔をしませんでね。」
 そこで一度言葉を切って、惚れ惚れするほど形のいい横顔に、自嘲のような色を刷く。
 「小学校前から、親父は私に剣道を習わせたんですが、私は剣道が大嫌いで・・・相手とやり合うのに、素手でないのが卑怯に思えて仕方なかったんです。親父に何度もそう言って食って掛かっては、殴られて終わり──。」
 ヤンは、黙ってシェーンコップの話を聞いた。
 「中学で格闘技と出会って、剣道の練習をさぼって、近所のジムを覗きに行くようになったんです。そういう話を祖父にして、祖母は私に甘かったので、家に居場所がないならここに住めばいいと言われて、親父への面当てに、その通りにしました。ここから学校に通って、受験もして、剣道はすっぱりやめて格闘技を習い始めて・・・格闘技の選手なんて、親父にすれば半端者でヤクザと変わらない、カタギじゃあない、そういうわけで、私が親父を敬遠する以上に、親父も私に息子面はされたくないと、そういうわけです。」
 できるだけ淡々と語ろうとしていてもも、声の根が震えているのをヤンは聞き取ってしまう。
 タブレットの写真のどれも、隙さえあればこちらに噛み付こうとしている、怒り狂った獣のように見えたのはそのせいかと、そんな風に簡単に納得されたくもないだろうと思いながら、ヤンはシェーンコップの硬い横顔を見つめ続けていた。
 シェーンコップの語った過去に比べれば、ヤンのそれは、両親が早くに死んだと言うことを除けば、そよ風の吹く春の野原のように波風もなく、穏やかと言えばそうとも言えたし、面白みのないつまらない人生とも言えば言えた。
 ヤン自身は、自分の人生を、他人から見て退屈だろうとは思いながら、それに不満もなく、こうしてたまに耳にする他人の波乱万丈の人生を、大変だなあと、文字通り他人事のように思うだけだった。
 それでも、シェーンコップのそれはヤンの胸中に波を立たせ、感想のための言葉の思いつかないヤンは、黙ってシェーンコップの額の辺りへ手を伸ばし、前髪を梳くようにそこへ指先を滑らせた。前髪を持ち上げた手指で、ついでの振りでシェーンコップの頭を撫でる。
 そうされて、シェーンコップは動物のように、気持ち良さげに目を閉じて喉を伸ばした。
 かき上げた額の、眉の近くに、ほんのかすかに傷跡が見える。それをもっとよく見ようと、ヤンはテーブルにまだ紅茶の残ったマグを置き、シェーンコップの方へ腰を滑らせる。
 近づいたヤンの肩へ頭を寄せて、シェーンコップはヤンの腕を自分の胸元へ引き寄せた。
 「少し、このままでいて下さい。」
 小さく言う声には落ち着きが戻っている。うんとヤンはうなずいて、シェーンコップの頭を両腕の中に抱え込んだ。
 傷跡を確かめることは忘れて、シェーンコップを抱き寄せてヤンは動かない。
 ふたりのマグの中で、飲まれもせずに紅茶がただ冷めてゆく。

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