ゆですぎそうめんえれじぃ 14
シェーンコップは、照れたように顔を隠してヤンから離れ、そっぽを向いたまま映画でも見るかと訊く。ヤンは首を振り、冷めた紅茶を取り上げて、「飲み終わったら帰るよ。」
と何気ない風に言った。
シェーンコップが、意外そうにヤンを見る。
「万年筆を届けに来ただけだし、君、明日も仕事だろう。長居すると邪魔になるから。」
「邪魔じゃありませんよ。」
ヤンはシェーンコップに見えないようにソファの座面を撫で、ここは涼しくて、ちょっと居心地が良過ぎるんだと、胸の中でひとりごちた。
「あなたの方は、仕事はいいんですか。」
探るようにシェーンコップが訊いて来た。ヤンはちょっと決まり悪げに肩を縮めて、マグの影でもぐもぐ歯切れ悪く言う。
「わたしは、今、夏休みだから・・・。」
「ずいぶん優雅ですね。仕事は、どこで・・・。」
昼間配達に来て在宅なのだから、一体何だろうと、きっとずっと思っていたのだろう。隠すつもりもないけれど、言えばいつも微妙な反応をされるのが嫌で、あまり自分からは言わないことにしている。それを、ヤンはちょっと心配しながら口にした。
「大学の図書館の、司書。」
聞いた途端、それで夏休みかと、腑に落ちたと言う顔を、シェーンコップがした。
資格の必要な専門職だと言うのに、世間にあまり実態の知れてないせいか、本棚の間をうろつき回って何やらの本を探すだけだと言う風に思われている。そうではないと説明するのはまた面倒で、ヤンはそれ以上は訊かれても詳しくは答えないことにしていた。
給料は安いけれど、本に囲まれていれば幸せだったし、濃密な人間関係よりも読書の時間を優先する同僚ばかりで、ひとりが苦にならないヤンには気が楽な職場だった。
「珍しい仕事ですね。」
「両親とも早く死んで、大学卒業までの学費で貯金が尽きる計算で、確実に就職しなきゃならなかったんだ。入学前から、大学の事務局には学費の支払いや身元の保証のことで面倒を掛けてたから、顔を覚えられててね、もう1年の時には図書館の司書に空きが出るからって言われてて、ならそれでいいかなって。」
「気の早い就職活動だ。」
「おかげで路頭に迷わずに済んだよ。」
ヤンが笑うと、シェーンコップも一緒に笑った。
それからちょっと声の調子を落とし、シェーンコップがそっと質問を重ねる。
「両親がいなくて・・・他に家族は?」
「いないよ、金魚のラップだけだった。」
さらりとヤンが言う。
仲の悪い父親でもいないよりましだろうか、家族なんかいらないと言う風の物言いが失礼ではなかったかと、ヤンの答えを聞いて、シェーンコップが考えているのが、ヤンには手に取るように分かった。
同情の言葉をシェーンコップが口にせずに、そのまま黙ったのが、ヤンにはありがたかった。
不便はあっても、両親のいなかった自分の境遇を嘆いたことは特にはなかったし、気の毒にと言われても反応に困るのだった。
辛かったろう淋しかったろう悲しかったろうとたたみ掛けられて、いや別に特にはと返せば、相手は必ずヤンを血の通わない化け物みたいに見て、ヤンはただそれに向かって肩をすくめて見せるしかない。
シェーンコップは、父親との不仲について何も言わなかったヤンに倣ってか、自分もヤンには何も言わず、ふたりは少しの間黙って見つめ合う。
冷めてしまった紅茶を口元へ運びながら、シェーンコップがヤンの空いた方の手の指先を取ったのを、ちらりと横目で見て、けれど振り払うことはしない。
指先が滑り込んで来て、逃げずに手を握り合う形になって、ヤンは最後のふた口をのろのろと唇の先に遊ばせながら、誰かと手を繋いだのなんていつ以来だろうと、母親が死んだ頃にまで記憶を遡っている。
わずかずつでも、ひとりではないことに馴染み始めている。シェーンコップの体温を感じながら、ヤンは引き止められるまま、ここへ落ち着いてしまいそうだった。
「ごちそうさま、ありがとう。」
ヤンが空にしたマグを差し出すと、シェーンコップは渋々と言う風にヤンから手を離して受け取る。その隙に腰を上げ、ヤンも実のところ、少しだけ不承不承なのを決して見せはせずに、じゃあ、と短く言った。
シェーンコップはマグをその場に置いて立ち上がり、先にゆくヤンの後をついて来た。キッチンのどこかから車の鍵を取り上げたのを見て、
「もしかして送ってくれるつもりなら、大丈夫だよ、歩いて帰れるから。」
でも、とシェーンコップがまだ鍵から手を離さないのに、
「途中で寄りたいところもあるし、大した距離でもないから。」
やんわりと拒むのに、やっとシェーンコップは鍵を置いた。
来た通りをたどって、家の裏口まで出て、靴を履くヤンと一緒にシェーンコップも靴を履く。
「ここでいいよ。」
「外まで送りますよ。店の外から表に回るのに、暗くてよく見えませんから。」
それは譲らないと言う風に、シェーンコップがにっこりするのに、そこまで固辞するのも大人気ないかと、ヤンは素直にシェーンコップと一緒に裏口を出た。
「今度、店の定休日に会いませんか。」
裏口と店の倉庫の出入り口の間で、小さな電灯ひとつの薄暗さの中、ヤンの背中へ向かってシェーンコップが言う。
またそうめんかなと思いながら、ヤンは足を止め振り返って、いいよと小声で答える。答えながら、頬が赤らんだのを自覚して、軽く目を伏せた。
「金魚を買いに行くのに、付き合って下さい。」
「金魚?」
ヤンが訊き返すのに、シェーンコップがちょっと面白そうに微笑む。
「君が、金魚?」
「あなたに選んでもらえば、長生きするかと思いまして。」
「別に、いいけど・・・わたしが選んでも、長生きする保証はないよ。」
真顔になったヤンに、シェーンコップはいっそう笑みを深くして、
「生き物を飼ったことがないんです。一から教えて下さい。」
妙に生真面目に言うのも、笑顔につられてどこまで本気なのか読み取りにくい。うんとうなずく以外なく、帰ると言ったくせに、家の外に出て立ち去り難く、ヤンはぐずぐずと薄闇の中に立ちあぐんでいた。
時間稼ぎのように、言い継ぐ言葉を探して、元々気の利いたことをすらすら言える性質(たち)でもないから、ここにいつまでも黙って立っているわけには行かないのだと、あれこれ巡らせた考えを、ヤンは結局ろくに吟味もせず口にした。
「君が金魚を飼うなら、うちにある水槽とかポンプとか、全部持って行っていいよ。わたしはもう、次の金魚を飼う気はないから。」
すっと笑みを消して、シェーンコップが唇を結んだ。何か余計なことを言ったかと、ヤンも一緒に黙り、上目遣いにシェーンコップが何か言うのを待った。
「・・・あなたに飼われた金魚は、幸せだったでしょうね。」
しばらくして、シェーンコップがぼそりと言う。足元に言葉を落とすような言い方だった。
ヤンは無意識に頭を傾け、
「それはどうかな。金魚に訊いてみないと分からないよ。金魚はもう死んでしまったから、訊きたくても訊けない。」
水と水槽に隔てたられた、言葉の通じない者同士。ヤンの元にいて、ラップは幸せだったのだろうか。ヤンは、シェーンコップの肩の向こうに視線を泳がせた。
「あなたに名前を呼ばれて、死んだ後はちゃんと弔ってもらえた、十分幸せだったと思いますがね。」
シェーンコップのいたわるような声音に、ヤンは奥歯を噛んで、あごを胸元に引きつけた。
「そうかな・・・君は、そう思うかい。」
ええ、と短く言う声が、きちんと真摯に聞こえた。
だったらいいなと思い、そしてそうだったのかもしれないと、素直に信じる気持ちになり始めていた。シェーンコップがそう言うからだと気づいて、ヤンはこんな時こそ家に帰って、金魚のラップを話をしたかったと思った。
ラップは土の下に眠っている。ヤンの目の前には今、シェーンコップがいる。
この男は、檻の中で殴り合うことをやめて、今ここにいる。自分を抑えつける父親の手を逃れて、選んだ檻に自分から飛び込んだと言うのも面白い話だと、ヤンは今になって思った。
様々のしがらみを自分で断ち切ったからこそ、檻から出る決心もついたのだろう。
血まみれのこの男を、正視できたとは思わないヤンは、今はただ爽やかに笑うシェーンコップの頬へ、そこに傷もなく血にも濡れていないことを確かめるように手を伸ばした。
触れても触れても、ヤンの掌に余る、大きなぶ厚い体。あの水槽には片足くらいしか入らないだろう。ヤンの両掌で作った小さな水中で、尾とひれをばたつかせたラップと、こんなにも違う。
ヤンの掌へ頭を傾け、シェーンコップはゆっくりと瞬きした。
「──中に、戻りますか。」
そうしたいなと、ヤンは思った。頬に触れるだけでは足りないと、胃の裏辺りで声がする。空腹に似た飢えが、また胸の途中までせり上がって来るのに、帰ったらひとり分のそうめんを茹でようと思う。
ふたり分より美味くはないだろう。それでも、空の水槽と向き合って、今夜はひとり分のそうめんをひとりですすって、もう一度きちんと金魚のラップとの惜別を、そうめんと一緒に味わおうと思った。
「今日は帰るよ。」
やがてヤンは、微笑んでそう言い、シェーンコップから手を遠ざける。
そうですかと、残念そうに、それでも微笑みのままでつぶやいて、やっと向こうへ爪先を回したヤンと、シェーンコップは肩を並べた。
並んだ肩の間で、数歩進むうちに指先が触れ合い、いつの間にか倉庫の角を曲がる頃にはまた手を繋いでいる。明かりのないそこへ、ふたりはひっそりと共に闇に溶け込んで、触れ合う手指と一緒に肩も触れ合っていた。
「ああ、そうだ、金魚のために、水を──」
言いながら顔を振り向けた時、繋いだ手を引かれ、シェーンコップの腕の中にすっぽりと収まっていた。
抱きしめられるのと、唇が塞がれるのと、どちらが先だったか、ひと際暗い物陰に隠れて、不思議とヤンの髪の黒さよりも、ミルクチョコレート色のシェーンコップの髪色の方が、闇の色を吸い取ったように、さらに昏い。
薄目に窺う視界が、いつものように、ひと色薄青さを増していた。
ヤンはそろそろと腕を伸ばしてシェーンコップを抱き返し、腕の中に互いを閉じ込めて、唇がほどけても腕はほどかずに、額や頬を寄せ合っている。
「水が、何ですか。」
ヤンの首筋に息を掛けるように、シェーンコップがその姿勢のまま訊いた。
「金魚用に、汲み置きの水がいるんだ。バケツに、多分2、3杯くらい。汲んで、最低ひと晩置いて、でないと金魚が死んでしまうから・・・」
シェーンコップの金魚のために、新しい水の世界を作るのだ。ヤンのあの水槽の中に、再び水を満たし、新しい金魚がそこに棲み、泳ぐ。
その金魚を見守るのは、今度はヤンではなくシェーンコップだ。
「水槽を、受け取りに行きます。」
「うん。」
いつとは言わずに、そんな中途半端な言い方ですべてがきちんと伝わっているとでも言うように、話したいのはきっともっと別のことなのだろうし、交わしたいのは言葉ではないのだろうけれど、溶け隠れた闇の中から、ヤンの方が先にするりと抜け出す。
もう10歩も歩けば、街灯が見える道路に出る。まだ、そこで手指を絡めるほどは確かなものはないふたりは、名残りを惜しむ視線を交わして、ヤンは店の表へひとりで出た。
「おやすみ。」
「お休みなさい。」
手を振るシェーンコップへ手を振り返し、ヤンは自分の影の伸びる方向へ向かって足を出す。
万年筆の分軽くなった足取りは、けれど来た時よりもいっそうのろく、肩を半分だけ回すと、まだ自分を見送るシェーンコップが見えた。
またヤンは手を振り、シェーンコップも手を振り、角を曲がってしまうまで、ヤンは、前かがみの背中をちりちりと焼くシェーンコップの視線を感じ続けていた。