ゆですぎそうめんえれじぃ 15
ヤンが金魚のラップを買った個人経営のペットショップは、餌や水槽などのペット用品は置いてあっても、金魚はもう売っていない。ペット自体を買うなら、駅の向こう側のずっと先、高速沿いの大型店だとシェーンコップが調べて、ヤンの水槽を先に引き取りに来て、ヤンを連れてその店とやらへ向かう。もうずっと、金魚用の買い物など、水草を新しくしたり餌を買ったりと言う程度で、ヤンも新しいことは何も分からないのだった。
「祭りでもあれば、金魚すくいって手もあるんだけどな。」
「ああいうのは、見た目よりずっと弱っていて、連れて帰ってもすぐ死んでしまうことが多いそうですよ。」
それも、事前に例のタブレットで調べて来たのか、前を向いたままシェーンコップが言う。
滅多と車に乗らないヤン──いつもは徒歩か電車だ──は、制限時速を守っているはずのスピードにすら慣れず、緊張してずっと助手席でドアのハンドルを握ったままだ。それをちらりと横目で捉えたシェーンコップが、できるだけなめらかに運転しようと、ブレーキやアクセルの加減に気をつけているのに気づくはずもない。
家にある、金魚の飼い方と言う本を、水槽と一緒にシェーンコップに渡せばよかったとふと思ったけれど、きっとそんな本がなくても、シェーンコップは知りたいことは全部タブレットで調べてしまうのだろう。
やっぱりあったら便利なのかな、とヤンは自分の掌を見下ろした。
店は、店自体も駐車場も恐ろしく広く、ひとりで来たら絶対に迷子になって家に帰れないところだったと、車から下りて、ヤンはぴたりとシェーンコップの隣りをついてゆく。
明るい、広々とした店内は、ペットショップと言われなければ普通のスーパーのように見える。ここは犬をそのまま連れて入れるらしく、通り過ぎるレジの列に、リードつきの犬が何匹もおとなしく並んでいた。
左手奥の壁際に、ずらりと魚の入った水槽が並び、色の派手な大きな魚たちはさすがに目立つ場所に、ごく普通の金魚は、ひっそりともっと奥の水槽に泳いでいる。さらに奥へ進むと、珍しい爬虫類もいるらしく、そこには妙に真剣な顔つきの人たちが、生真面目に電灯に照らされた水槽の中を覗き込んでいた。
飼う生き物によって、飼い主の性格の違いってあるのかなあ。深くも考えずに金魚を選んだ時のことを思い出しながら、ヤンはシェーンコップと肩を並べて、金魚の水槽の前に立った。
ラップは丸かったけれど、目の前にいる金魚はほっそりとして、鱗の赤さも浅いように見える。きっと幼いからだろう。ひらひら、好き勝手な方向に泳いでいる金魚の群れの中に、ヤンとシェーンコップの視線を避けるように、水槽の奥でひっそりと身を寄せ合っている2匹がいた。
片方は少しだけ体が大きく、色が浅く、もう片方はひれと尾がずっと大きくて、鱗の赤が鮮やかだった。
「何匹飼うんだい、1匹?」
ヤンは、金魚たちを驚かせないようにしながら、それでも水槽へ額をくっつけそうにしていた。
「いきなりたくさん飼うつもりはないですが・・・。」
ヤンと同じに、水槽の中を、シェーンコップは同じ高さに覗き込んだ。
「もし2匹だったら、あのすみっこにいる2匹、どうかな。」
ヤンが指差す方向へ、シェーンコップは視線を移し、それで話は決まった。
近くにいた店員を呼んで、ヤンが指差した2匹を水槽から出してもらい、大きなものはすでにヤンから引き取っていたから、シェーンコップは餌と底に敷く砂利と水草をとりあえず買った。
2匹の金魚は、小さなビニール袋の中でいっそう近く体を寄り添わせ、大きい方がオスだと、そう予想した通りに店員から告げられていたけれど、こちらの方が気弱そうに、メスだと言う尾とひれの大きい姿の優雅な方に、守られたそうに離れない。
ヤンはビニール袋を顔の高さに上げて、赤と銀白の全身に、目の黒さの目立つ金魚たちを、似た色の瞳でじっと見た。
「名前、つけるんだろう。」
「ええ、もちろんです。」
それがいかにも重要だと言いたげに、ゆっくりと駐車場から出ながらシェーンコップが答える。
水をこぼしたりしないように──金魚のためと、車を汚さないためにだ──、ヤンは揃えた膝の上にしっかりとビニール袋を抱えて、今度は車の速度は気にならなかったけれど、金魚たちの無事が心配で仕方がなかった。
ラップが長生きしたのは、たまたま運が良かったに過ぎないと知っているヤンは、このシェーンコップの金魚が2匹仲良く長生きしてくれることを心の底から祈りながら、これからシェーンコップとヤンが作る新しい水中世界を気に入ってくれるといいと思った。
シェーンコップの家に着き、ふたりであれこれ手順を確認して、金魚たちのために水槽の用意をする。ただのガラスの箱が、ポンプやフィルターと一緒になり、砂利が敷かれ水が入り、水草が揺れるその傍らに陶器の置き物──金魚たちの隠れ家になる──が据えられると、少しばかり色味に乏しい風景画のように一変する。
そこはもう、ヤンのラップの住み処ではなく、シェーンコップの檻でもなく、新しい2匹の金魚の世界だった。
泡の見えるただの水の中に金魚を放すと、さらに眺めが変わる。鮮やかな、銀朱と呼ばれる鱗の色が、ひらりひらり水の中を舞い、突然そこには命の色が噴き溢れた。ヤンには、少しばかり懐かしい眺めだった。
水槽は、あの、大きな空のテーブルの上に置かれ、近いうちにこのテーブルを片付けて、水槽用の棚を置き、食卓用にはもっと小さなテーブルを置くつもりだとシェーンコップが言う。
「ふたり用のテーブルにするつもりです。」
言いながら、何気なくヤンを見つめて来るのに、ヤンは当意即妙の軽口も思いつかず、ただ黙って金魚を眺めている振りをした。
「水を換える時は、呼んでくれれば手伝うよ。ポンプの使い方とか、やって見せた方が早いだろうし。」
2匹の金魚は、突然自分たちだけになった水槽の中で、やはり戸惑う素振りで寄り添ったまま、巨大な人間たちから少しでも遠ざかろうとしてか、水槽のあちらの隅を泳いでいる。少なくとも、この水槽の中は居心地は悪くはなさそうだった。
シェーンコップがひとりで過ごすこの空間で、水の中にひらひらと動く金魚の明るい緋色は、以前ヤンの部屋がそうだったように、空気を軽く鮮やかにしてくれるだろう。
耳を澄ませれば、水の動く音がかすかに聞こえて、それへ聞き入るヤンの首筋に、シェーンコップの掌がそっと触れた。
そう思った通り、この家は奥がさらに広く、元々シェーンコップに与えられていた部屋、彼の祖父母の部屋、そして今は物置代わりと言う空き部屋があって、中学からずっと使っているのだと言うシェーンコップの部屋は、ベッドの広さが変わった以外は特に変化がないのだと説明された。
きちんと整えられたベッドよりも先に、机の傍にある本棚に並んだ背表紙が気になるヤンを、シェーンコップは笑いながら抱きしめて、そうされてヤンはふと、高校生のシェーンコップが、その頃の恋人と、今の自分と同じようにここで抱き合ったのかと、単なる好奇心とも嫉妬ともつかない気分を味わう。
もてたんだろうなあと、下に敷き込んだヤンを見下ろして来る、ゆらゆら揺れる長い前髪に縁取られたシェーンコップの頬を、そっと両手で包んだ。
他人の家でシャワーを浴びたり裸になったりするなんて、ヤンにはほとんど経験がない。すでにカーテンが引かれ、薄暗くなった部屋の中で、恐らくシェーンコップは何度も経験して来ただろうことが、ヤンにはろくに憶えがなく、この間の夜とは別の緊張で体を固くして、ヤンはそれでも精一杯シェーンコップの動く手指に応えようとした。
ここは何もかもが、シェーンコップの気配に満ちている。自分だけが異物のような気がして、それでもシェーンコップに触れられるたびに、皮膚に匂いが移って、ゆっくりとシェーンコップの一部になってゆくように感じた。
シェーンコップの唇が、ヤンの躯をくまなくたどってゆく。ベッドがきしむと、板張りの床も一緒にきしむ。その音が高く響くのに、そのたびヤンは肩を縮めて、
「誰にも聞こえませんよ。」
からかうように、シェーンコップがヤンの耳元で囁いた。
そうだ、ここで立てる音は、誰にも聞こえない。だから心配せずにとでも言いたげに、シェーンコップはヤンの声をそそのかす。どこにも届かない音と声だ。外はまだ明るいけれど、ここにふたりで閉じこもって、ひと足先に夜の気配を引き寄せている。
シェーンコップの髪が、ヤンの頬をくすぐって、それは光も音も遮る紗幕になった。閉ざされた視界の中にシェーンコップだけを収めて、ヤンはシェーンコップの息の音だけを聞いている。
ふたりが揺らす空気はドアと窓で断ち切られ、どこにも行かない。ここは、ふたりだけの世界だった。
次第に躯をやわらげながら、端からうっかりはみ出て床に転げ落ちる心配もなく、ベッドが広ければそうなるかと思ったのに、ふたりの躯は隙間もなく寄り添って片時も離れない。どちらかの脚にどちらかの手足が絡みついて、ヤンは改めてシェーンコップの筋肉ばかりの躯を、隅々までなぞった。
ひと刷け、薄青さを増した視界に引きずられたように、ヤンはシェーンコップと体の位置を入れ替え、髪の中へ両手の指を全部もぐり込ませて、頭を抱え込む。そこすら形のいい側頭部や後頭部の線を手指に覚え込ませて、自分から、奪うようにふっくらとした唇を塞いだ。
ヤンがのし掛かっても、シェーンコップは重いとすら思わないようで、ヤンを乗せたまま体を起こそうとするのを、ヤンはぶ厚い肩を押して止める。
ヤンの手指に従って、シェーンコップはそのまま動かずに、ヤンが差し入れて来る舌を、素直に自分の方へ引き寄せた。
むやみに舌を動かしたところでそれが技巧とは呼べず、ヤンは上手(うわて)のシェーンコップに主導権を奪われる前に、唇と舌を引き剥がして、喉の方へ移動した。
ゆっくりと下がってゆくヤンの髪を、追うようにシェーンコップが梳き、今ではもう、そうしてシェーンコップの指先が触れるだけで体温が上がるのが分かる。ヤンは、全身の血が音を立てて流れてゆくのを感じながら、シェーンコップの筋肉の形を唇と舌でなぞった。
硬い線が、ヤンの舌の滑りにつれて、震える。頬ずりするように、ヤンはその震えをあやしてこっそり煽りながら、唇より先に、手指をそこへたどり着かせた。
シェーンコップの灰褐色の瞳がすっと細まり、ヤンの口元へ添えた手はそのままにして、ヤンが上目の視線を外さないのを、真っ直ぐに受け止めていた。
唇を近づける一瞬前、ヤンは、それをきれいだなあと思った。自分のは見下ろすしかなく、鏡を使ってまで見たいとはもちろん思わず、他人のそれは、こんな親しさを生み出さない限り、観察できる近さで眺める機会などない。
こんなものに美醜があると思ったことはなかったし、こんなにまじまじと見つめたこともなければ、眺めたいと思ったこともなかった。こんなところまで完璧なんて、ほんとうにずるいなあ、君。
指を添えて、掌で包み込もうとして、少し持て余す。浮き上がった血管の確かさに負けずに、ヤンの手の中で存在を主張して、ヤンが自分の首筋に感じる脈と同じくらい、シェーンコップのそれも血の流れを明らかにしていた。
すごいなあと、思わず声には出さずに言って、やっとヤンは目を閉じ、それへ舌を近づける。犬が骨をしゃぶるように、舐めた。
シェーンコップの両脚の間に這い込む姿勢で、ヤンは夢中で舌を動かす。上目に窺うシェーンコップが、ヤンが動くのと一緒に時折喉を伸ばすのを確かめて、人と話をする時さえ、面倒がってろくに動かしもしない舌を、今は付け根の痛むほど激しく使っていた。
無意識に、シェーンコップの脚を自分の両脚の間へ引き寄せ、勃起した自分のそれを、そこへこすりつけている。腰が揺れ、そのせいで肩の辺りも揺れていることに自分で気づかない。
シェーンコップはヤンの好きにさせながら、唾液に濡れたヤンの唇の端を親指の腹で撫でて、自分のそれがヤンの口の中へ出入りするのを、正視するには少々際ど過ぎる眺めだと思いながら、目を細めてすかすように見ている。
ぬるりと滑る唾液と舌のなまあたたかさ、時々、事故のように先端が喉の奥へ届いて触れ、そのたびヤンが、吐き気を誘われる直前に唇を遠ざける、その仕草のつたなさにそそられるのに、初心者をわざわざ選んで仕込む趣味はないし、仕込むとえらそうに思うほど自分だって慣れているわけでもないと、シェーンコップは案外本気で自分を押しとどめながら、シェーンコップのためにそうしながら、そうすることに明らかにかき立てられもしているらしいヤンの、血の色の上がった頬や首筋に、シェーンコップはさらに煽り立てられていた。
ヤンの勃起へ、腿を押し付けると、ヤンの腰がびくりと浮き、舌と手指の動きが止まった。その隙にヤンの唇を外すと、シェーンコップはヤンの躯を返して、自分の下へ敷き込んだ。
内腿を撫で上げて、滑るまま指を進めた。かすめただけでヤンの腰が浮き、シーツを噛まずに声を立てる。声の湿り具合に、シェーンコップの方が声を上げそうになった。
ヤンの耳朶を噛みながら、埋めた指先をさらに先へ送って、引き出すと粘膜の熱が上がるのがはっきりと分かる。
ヤンは腕を伸ばして来て、シェーンコップの腿へ指先を押し付け、自分の方へ引き寄せに来た。動作の意味するところを正確に読み取って、シェーンコップももう我慢ができずに、そのままヤン躯を押し開きに掛かる。
ヤンの躯が少し逃げ、それでも繋がる動きを拒みはせずに、ヤンの声はいっそう湿る。
汗に濡れた胸と背中を重ねて、後はシェーンコップも無我夢中になった。
触れ合う皮膚が同じように波打ち、全身の慄えが喉を裂く。シェーンコップがそうと促さなくても、ヤンはもう声を殺さなかった。
誰に気兼ねなく、シェーンコップに揺すぶられるまま声を上げて、口の中まで汗をかくように、あふれた唾液がシーツに染みを作る。これが自分のベッドでないと言う理性も働かず、シェーンコップが拓いた自分の躯の奥で、熱だけが生まれ、熱だけがそこに満ちているように感じた。
自分にもう、背骨や皮膚があるとも思えず、真空の頭蓋骨の中には、どろどろの液体の自分の姿しか思い浮かばない。溶けてしまった、もう人ではないヤンを、シェーンコップはそれでも掌の中にすくい上げて、いつものヤンを見る時と同じ瞳の色で見つめて来る。
穿たれる動きに合わせて、揺れる躯をヤンはただ必死で支えて、ずるりと引き出される熱が自分の内腿へ滴っていると思ったのは、単なる錯覚だと気づかない。
シェーンコップが動けば動くだけ、躯が開いてゆく。狭さは拒み続けているくせに、躯の熱はあふれる一方で、果てもない奥を探して、シェーンコップがまた進んで来る。
口の中で、舌が勝手に動いていた。さっき、そこでシェーンコップを受け入れていた時にそうして動いていたように、ヤンは大きく開いた口の中に、まだシェーンコップがいる──在る──ように、舌を動かしていた。
摩擦の熱には際限がない。ヤンが音を上げない限り、シェーンコップはヤンの粘膜をこすり上げ続けて、最奥を目指し続ける。
早く終わらないかとは、思わなかった。ヤンはもう、手足の感覚もなく、それでもいつの間にか正面から抱き合う形になったシェーンコップの、背中へ手足を絡みつかせて、ぼんやりと目の前に見える、苦痛に耐えるようなシェーンコップの、眉を寄せた表情を、きれいだなと思って、こんな時にも端正さは失わないのはずるいなあと、腹の底で笑うように考える。
いい眺めだと思った。思って、どの時よりも深くシェーンコップが押し入って来たのに、ヤンは天井が震えるほど高く叫んだ。
ヤンの、限界まで伸びた喉にシェーンコップが唇を落とし、歯は立てずに、舌先で湿った音を残した。
真っ青の視界に、シェーンコップだけが見える。汗に濡れた髪をかき上げて、ヤンはシェーンコップの額に自分の額を触れさせて、そうしたまま目を閉じた後のことは覚えていない。