ゆですぎそうめんえれじぃ 17 (DNT了)
2匹の金魚は、尾とひれの大きなメスの方をカリンと、シェーンコップが名付けた。もう1匹、やや細身のオスの方は、ヤンがユリアンと名付けた。せっかく名付け親なのだからとシェーンコップに言われて、それを口実に、週に何度かシェーンコップの元へ通う習慣が生まれ、ヤンの夏休みが終わると、シェーンコップは同じ程度にヤンの団地を訪れるようになった。
空になったそうめんの木箱は、とっくにゴミに出され、今は次の次の包み──これは、近くのスーパーで買った、ちょっといいやつだ──が台所のテーブルに鎮座している。
もうじきそうめんと言う季節でもなくなる。シェーンコップは用意周到にレシピを探し出して、さっさとヤンのためにタブレットの分かりやすいところにアイコンを置いた。
「味噌汁に入れても美味いらしいですよ。」
あれこれ探しながら、シェーンコップが言う。へえ、とヤンは卵焼きを焦がさないように、必死に火加減を見ながら、上の空で相槌を打つ。
「味噌汁に入れるだけなら簡単だなあ。でもそれって、主食なのかおかずなのかどっちなんだろう。」
ヤンはやっとフライパンの火を止めてそう訊くと、はて、と言う表情をシェーンコップが浮かべる。
「食べてみるまで分かりませんな。」
「ちゃんと米も炊いた方が良さそうだ。鶏肉は君に任せるよ。」
シェーンコップに冷蔵庫の中身を知られて、月に一度は米を抱えてここにやって来るから、ヤンは米飯にだけは困らない。
金を払おうとすると、首を振って受け取らないシェーンコップのジーンズのポケットに、こっそり代金の分──そして、一緒に持って来る、食料だの酒だのの分も追加して──を入れておくのも、ヤンの習慣のひとつになった。
ふたりで、がちゃがちゃと雑に作った食事を囲み、さらにがちゃがちゃと一緒に洗い物をし、風呂に入って、後は紅茶か酒で一服した後、もう声も気配も忍ばせずに抱き合う。
ヤンのエアコンはやっと直って、もう窓はきっちり全部閉めてある。
先々週から、団地の周りの歩道の補修工事が始まり、ちょっとした騒音がひっきりなしだったから、ちょうどありがたいタイミングだった。
声を耐える必要はない。上の部屋は、先日ついに空になった。ヤンとシェーンコップの気配を探る誰もいず、ふたりがここで何をしているのか、知っている誰も、知ろうとする誰もいない。
四角く区切られた、青い視界の世界。ふたりの暮らしが重なる場所。
ヤンが本を詰め込んだ部屋に、シェーンコップは時折ひっそりと閉じこもる。特に読書が趣味と言う風ではなくても、あれば読みたくなるのだとそう言って、タブレットはヤンに手渡し、本棚の谷間に、シェーンコップの長身がひっそりと忍び込んでゆく。
他人が、本に埋もれる姿をあまり見たことのないヤンは、シェーンコップの、まだ少しそこには馴染まない大きな背中を、微笑ましく見つめるのだった。
ヤンの許へは、シェーンコップの着替えが少し置かれ、シェーンコップの許にはヤンの着替えが少し持ち込まれ、シェーンコップは自分の部屋に、ヤンのためと座布団を用意してくれた。
コンドームはひと箱ずつ、それぞれのベッドの傍に必ず用意され、今ではヤンは、それを自分で買って来る。
そうして、シェーンコップの冷蔵庫に、ヤンのための酒が常に入っているようになった頃、ついにシェーンコップがそれを言い出した。
その時ヤンは、金魚のカリンとユリアンに餌をやっていて、シェーンコップはふたり分の紅茶を淹れるために、水を満たした薬缶を火に掛けたところだった。
シェーンコップはヤンの傍にはやって来ず、キッチンに立って、薬缶を背にしていた。その距離から、ちょっと抑えた声が、恐々と言う震えを隠せずに、ヤンへ投げ掛けられる。
「ここに、引っ越して来ませんか。」
突然だったのに、もうずっと以前からそれを予想していたようにヤンは驚きは見せずに、今では水槽の中を伸び伸びと泳ぎ回る金魚たちから目を離さずに、わずかに肩をすくめただけだった。
「あなたの部屋もあるし、物置になっている部屋を片付けて、本の部屋にしても構いません。金魚も、あなたがいた方が喜ぶと思いますよ。」
シェーンコップの言葉を証明するように、ちょうどカリンとユリアンが、そこに立つヤンへ泳ぎ寄って来た。ヤンは、思わずそれを見て微笑んだ。
金魚たちに話し掛けているように、ヤンはシェーンコップの方をまだ見ない。
「実に魅力的なお誘いだ──だが、今回はお断りしよう。」
わざと似合わない言い方をして、シェーンコップを煙に巻くつもりはなかったけれど、当然シェーンコップはヤンの口調をそうと受け取った。
すうっと息を吸った音が聞こえて、耐えるように、奥歯を噛んだ線が頬に出たのをちらと横目に見て、ケンカになるかなと、ヤンは心の中でちょっと身構える。
「私とは、いやですか。」
「そういうのじゃないんだ。」
「だったら──」
なぜ、と言うところまでを言わせずに、ヤンは微笑みを消さないまま、シェーンコップの言葉を途中で遮る。ヤンには珍しいやり方だった。
「まだ、あそこから離れようと思えないんだ。」
声だけは穏やかに、けれどその中には何も寄せ付けない強さが確かにあって、腕っぷしなら大抵の相手には負けないと思うシェーンコップは、ヤンに肩でも押さえつけられたように、知らずかかとを後ろへ引いた。
湯が湧き、沸騰した湯気が薬缶の口から吹き出し始めて、それでもシェーンコップはそちらへ振り返りもしない。ヤンはやっと水槽から離れて足早にシェーンコップの前へゆき、そこから腕を伸ばして薬缶の火を止めた。
シェーンコップが軽く唇を突き出して、すねたようにヤンから顔の位置をずらす。ヤンはなだめるようにそんなシェーンコップを見上げて、今ではもう何のためらいもなくシェーンコップの頬に触れる。
「うちの団地の歩道の工事で、金魚のラップを埋めたところが引っ掛かってしまったんだ。工事現場の人が、わざわざ大丈夫なところに埋め直してくれてたって、新しい墓の場所を、隣りの人が教えてくれたんだ。」
で、と、まだ表情はやや険しいまま、シェーンコップは、繋がりのよく分からない話の続きを促す。ヤンは相変わらずシェーンコップをあやすような仕草をやめずに、話を続けた。
「ほんとうは、ここの庭に埋め直させてくれないかって、君に訊くつもりだったんだ。でも多分、ラップはあそこにいたいんだと思う。だから、ラップが完全に土に還るまで、わたしはあの団地を離れたくないんだ。」
父親が死んだ後、ヤンの家族は金魚のラップだけだった。そのラップも死んだ後で、シェーンコップが現れた。今では、カリンとユリアンもいる。
新しい家族の記憶が、以前の家族の記憶に上書きされるわけではない。新たな思い出は、そこに連なり付け加えられてゆく。自分の脳の奥へ、前の家族の記憶を押し込む気に、ヤンはまだなれなかった。
「いやだって言ってるわけじゃないんだ。ただもう少し、待ってくれないかな。」
不満そうな色は完全には消えず、それでもシェーンコップはやっと正面からヤンを見て、見えるように肩を落とした。
「・・・待ちましょう。あなたはどうせ、一度言い出したら聞かない人だ。」
いつの間にか、ヤンをそんな風に読み取って、シェーンコップが苦笑いする。
「3階まで階段を全力疾走するのも、いいトレーニングになりますよ。」
「団地の掲示板に注意が貼り出されるからやめてくれ。」
少し深刻になった空気が、軽口の叩き合いで元に戻り掛けた。
シェーンコップが、不意に口元を引き締めて、ヤンの腕を引く。
「でも、真剣には考えてくれますね──?」
うやむやにしてたまるかと、額の辺りに書いてあるのがヤンにも読めた。
言い出したら聞かないのはどっちだと思いながら、ヤンはおとなしくシェーンコップの胸に収まって、そこでゆっくりと深くうなずいて見せる。
「その代わりって言うのは何なんだが・・・。」
何となく、言ってしまいたくなって、ヤンはそこで口を滑らせた。ぼんやり考えていたことを、シェーンコップの勢いに引きずられて、つい口にする。何ですかとシェーンコップが先を促すから、君のせいだぞと言う響きを、ヤンはしっかり言葉に含ませた。
「わたしも、タブレットを買おうかと思って──だから、選ぶのを手伝ってくれないかって・・・」
その先を言う必要はなかった。シェーンコップは、いつだってきらきらしい瞳を今はいっそう輝かせて、ヤンに向かって大きくうなずいた。
「何に使いますか。読書が主ですか。OSで色々種類がありますが、どれにしますか。それとも読書専用のタブレットに──」
「あー・・・君・・・ちょっと・・・」
黙ってくれ、と以前そうしたように、ヤンは、立て板に水のシェーンコップの口元を両手で覆い、シェーンコップがそれを力づくで外す前に、すかさず掌をずらし、自分の唇でシェーンコップの唇を塞いでしまった。
お互いに、黙っておしゃべりをするならこれがいちばん手っ取り早い。
もう紅茶のことは、ふたりとも忘れてしまっていた。
互いの体に腕を巻き付けて、しばらくもぞもぞ動き回った後で、キッチンの床に一緒に沈み込んでゆく飼い主のふたりを、金魚のカリンとユリアンが水槽から見ている。
ひと月足らずの後、ヤンはほんとうにタブレットを手に入れた。シェーンコップの口車に乗せられたわけではないけれど、シェーンコップのそれとまったく同じ会社の同じモデルを選んで、そして初期設定も手伝いますとにこやかに言ったシェーンコップに、"YangLovesWVS"と言う死ぬほど恥ずかしいユーザーIDにされた上に、同じIDで、写真を上げるSNSに登録され、シェーンコップとだけプライベートにやり取りを強要される羽目になった。
ヤンの投稿は、金魚たちか、あまり美味そうではない料理か、本の表紙の写真が主で、シェーンコップの方は、絶対に他人には見せられない類いの、ヤンの写真ばかりが増えてゆく。
「このうちの1枚でも他の誰かに見せたら、その場で君と別れるよ。」
「見せびらかしたいのは山々ですが、こういうものはひとり占めで愉しむのが秘密の醍醐味と言うものです。」
相変わらず爽やかに言い切るシェーンコップへ、投稿を消せともその写真を削除しろとも言わずに、ただふうんと、ヤンは棒読みで相槌を打つ。
そのタブレットも、そして携帯も、もうついでだと、シェーンコップの住所で家族共有プランとやらにしてしまっている。
ついさっき、鶏肉のすり身の肉だんご入りの鍋のレシピが、シェーンコップから送られて来た。ヤンは今日の昼の、コンビニの冷やし中華とペットボトルのお茶の写真をシェーンコップに送り返す。そして写真のSNSを覗いて、シェーンコップの最新の投稿がバンの後ろに積まれた米袋の写真だったのに、配達お疲れさまと返信を送った。
朝夕ずいぶん冷え込むようになったと言うのに、今日もあちこち走り回って汗まみれだろうシェーンコップを思い浮かべて、タブレットの壁紙にしてある、例の引退試合のシェーンコップの、血のにじんだ包帯に指先をそっと置く。
いつまでもそうしていたかったけれど、冷やし中華はもう食べ終わって、昼休みもそろそろ終わりの時間だった。
カリンとユリアンのために、新しい餌を買って帰らなくちゃなと思いながら、その旨をまたシェーンコップに送ってから、ヤンはタブレットを手に立ち上がる。
ごく最近、まったく別のIDを登録して、そこにはシェーンコップの寝顔の写真ばかり上げてあるのを、シェーンコップには言っていない。写真を撮っているのも内緒だ。
その新しいIDを、WVSLovesYangにしたことを、シェーンコップに知らせたいような絶対に知られたくはないような、どちらとも自分でも分からないまま、ヤンは冷やし中華の入れ物をゴミ箱に放り込んで、またそうめんが食べたいなと思った。
ぴこん、と手の中のタブレットが鳴る。多分シェーンコップからメッセージが来たと言う通知音だ。またぴこんと鳴る。多分ヤンが投稿した写真に、シェーンコップがいいねを送ったのだ。
仕事へ戻るヤンの手の中で、ぴこんぴこんタブレットが鳴り続ける。そのどこか可愛らしい騒々しさは、ふたりきりの時のシェーンコップに似ていた。
そうめんが食べたいなと、またヤンは思った。思って、それを、そのままSNSに手早く投稿した。
1分経たずに来たシェーンコップの返信が、ダンボール詰めのコンドームの写真だったのに、ヤンは無表情でつぶやいている。
「違う、そうじゃない。」
それでも無表情のまま写真にいいねを押したら、またタブレットが騒がしくぴこんぴこん鳴り始めた。
ヤンはタブレットの電源を切った。
君はもう少し落ち着いた方がいい。シェーンコップに対してそう思うくせに、ヤンももう半ば上の空だ。タブレットを落とさないように胸の前にしっかり抱え込んで、仕事に心を振り向けようとしても、頭の中はそうめんでいっぱいだった。
シェーンコップと一緒に作ったそうめんを、つるつる一緒にすすった夏に心を引き戻されながら、ヤンの足は前に進み続けている。
金魚のカリンとユリアンのひれ呼吸を真似して、ヤンは音をさせずに深呼吸した。吸い込む息の中に、シェーンコップの作っためんつゆのだしの香りが、混ざっているような気がした。
DNT編了、YJ編へ続く。