ゆですぎそうめんえれじぃ 20
声を出さない性質(たち)と言うのは嘘ではなくて、ごくかすかに喘ぐ以外は、滅多とヤンの声は聞こえなかった。自分も、最中には特におしゃべりもしないシェーンコップは、黙々とヤンの服を剥いで、進む手を時折止めながら、大丈夫ですかと小声で訊く。何が、と言いたげに、その時だけ夜を懲り固めたみたいな目に光が戻って、ヤンの唇の端がわずかに上がる。初めての相手には手加減が分からないから、シェーンコップはいつもよりも気を使ってヤンに触れ、指先から熱が伝わるように、皮膚に上がる血の色を下目に眺めた。
束ねられたそうめんの、生成りの色が、茹でられると青みを帯びた艶(つや)やかさに満ちるように、ヤンの膚もシェーンコップの指先で色を変える。どこまでもなめらかな皮膚の下の、薄い肉付きが触れれば弾みを返して来て、どこまでも沈み込んでゆくような女の肌とは明らかに違う、これは確かに大人の男の感触だった。
少年めいて、皓さの中に蒼みを含んだ色合いが、シェーンコップを幻惑する。けれど触れればそこには確実に満ちたものがあり、稚く見えても、この男は案外自分と歳が変わらないとシェーンコップは手指に読んだ。
少年の、骨の柔らかさ、そのくせ触れればぽきりと折れそうな生硬さ、それに、こんな風に触れた覚えはもちろん過去になく、ただ少年の頃にじゃれ合った友人たちの、感触の記憶を手繰り寄せながら、ヤンにはそんな無邪気さなどかけらもない触れ方をしていた。
薄い首筋、薄い肩、体を伸ばせば肋が浮き、それでも手首の骨の形や指の節の高さが、案外シェーンコップの手加減などそれほど必要でもなさそうに見せて、長い腕の中に抱き込むと、お返しにとこちらにしがみついて来る。
決して、抱き心地の良い体ではなかった。どこもかしこも薄くて、骨が硬くて、けれどそれを覆う皮膚が、シェーンコップに触れてするりと境を失くす。融けるようにこちらに寄り添って、自分の指先の行方を、シェーンコップは何度か見失った。
つるつると口の中に入って来るそうめんに似て、ぷつりと噛み切るのは簡単なのに、その機会を与えずに喉を通って胃に滑り落ちてゆく、そうしながら柔らかな口と喉の粘膜をするするなぶる様が、そっくりだとシェーンコップは思う。
たっぷりとかつおぶしを入れた出汁の、香りが脳へ通ってゆき、その陰にふと隠れてしまうそうめんの、けれど確かに舌にも上顎にも触れる、柔らかいくせにどこかしたたかな、油断のならない、かすかな塩味(しおみ)を伝えて来るすべらかさ。攻撃的ではないくせに、胃にはただ軽くたまり、満腹感をごまかしてこちらの隙を突いて来る。箸が止まらない。ぬるくなった水に浮かぶ、いびつに溶けた氷に、全身が落胆してゆく。
もうひと束茹でようかと、いつも思うのはなぜなのか。今同じように、ヤンを揺すぶりながら、自分がその不様に溶けた氷のような気がして、もう少し、もう少しと、ヤンの中から離れられない。
この間、ヤンが作ったそうめんは少し茹で過ぎだった。今日自分が茹でた分はちょうど良かったはずだと、そう言えば持って来た副菜を美味い美味いと食べたヤンへ、そうめんは美味かったかと訊くのを忘れてしまっていた。めんつゆは気に入ったようだ。良かったと、シェーンコップは思う。
汗をかいて湿っていても、ヤンの髪からは何の匂いもせず、かすかに石鹸の香りを嗅ぎ分けて、シェーンコップは自分の下で体をよじったヤンの、耳の後ろへ鼻先を埋め込んだ。
出さない声が、震えになって頭蓋骨に伝わるのが分かる。ヤンの、指先を埋め込めば形の良さの伝わる丸い頭へ、シェーンコップは指の長い掌を添えた。
はっはっと吐く息が重なり、それへきこきこ扇風機が首を振る音が加わり、畳を、ヤンの背中がこする音も連なる。繋げた躯がきしむ感覚に、正面からは辛いかと、シェーンコップはヤンの閉じた唇の合わせ目を撫でる。
ヤンの様子を窺いながら、シェーンコップは一度躯を引き、そっとヤンの背中を自分の胸元へ引き寄せた。
後ろから新たに繋がる時は、正面の時よりももっとずっとそっと、ヤンの、恐ろしく薄い小さな腰を抱えて、背中の皮膚の照り映えに目を奪われながら、シェーンコップは手加減だけは忘れなかった。
骨張った肩が、赤くなっている。畳の目が移り、痛々しく見えた。
すいませんと、うつ伏せで見えないヤンへ、声にはせずに言い、けれど躯の方は止まらずに、結局もうひと束茹でたそうめんもあっと言う間に食べ尽くして、最初からもっとたっぷり茹でれば良かったのだと、満ちているくせに満腹感の足らない胃が、まるで空のままのように感じている。
氷が、全部溶けてしまった。もうそこに泳ぐそうめんもなく、箸の先が落胆ととりあえずの満足と一緒に置かれ、さっき言い忘れたごちそうさまを、シェーンコップはやっと胸の中で言って、ヤンの額や眉の上や、頬骨やこめかみに、汗で湿った自分の唇を際限もなく滑らせた。
ヤンはしんと、熱い体を寄り添わせても無言のまま、それでもシェーンコップのひげへまた頬をこすりつけて、その後はシェーンコップの首筋に額を埋めるようにして目を閉じてしまう。
シェーンコップは、ヤンの背中を大きな掌で撫で続けた。
ヤンがそのまま寝入ってしまうと、シェーンコップは静かに体を離して、折りたたんだ座布団をヤンの頭の下に敷き、脱いだ自分のTシャツを、まだ汗の引かない体の上に掛けてやる。
扇風機の風が直には当たらないように、けれど床近くへ風のゆくように、首を少し下げて、そうしてところどころきしむ畳の上をそっと歩いて、卓袱台の上を片付け始めた。
四つ折りにされた新聞の傍らに見つけた灰色のそれが、エアコンのリモコンかと見当をつけて、そっと電源のスイッチを押してみる。エアコンはうんともすんとも言わず、外ほどではないにせよ、部屋の中もずっと暑かったろうと、シェーンコップはすうすう寝入っているヤンへ振り向いた。
食器を台所へ運び、水音を気にしながら洗う。持参のタッパーは帰る時に忘れないようにと頭の隅にメモをして、残っためんつゆは冷蔵庫へ入れた。残りはもう1回分くらいかと思って、それをまたヤンと食べるのかどうか、テーブルに置きっ放しのそうめんを、シェーンコップは肩越しに、奇妙に感慨深げに見つめた。
まだ躯の底に熱がくすぶっていて、ちょっと上の空に、裸の手足を投げ出してうたた寝するヤンをまだ直視できない気がして、シェーンコップはしばらくの間台所で用もなくうろうろした。
こんなに暑くはない時期なら、抱き合った時と同じに背中に胸を重ねたまま、一緒にまどろんでも良かったのだと思う。それをごまかすために、次の時は何を持って来ようかと、自分の家の冷蔵庫の中身を思い出そうとしていた。
やっと居間に戻り、卓袱台から新聞を取って、自分が動くたびヤンが目を覚まさないかと心配──期待──しながら、シェーンコップは床に新聞を開いて、読みながらちらちらとヤンを見る。
膝と肘が赤い。躯を裏返した時に、畳でこすれた跡だ。シェーンコップの体の重みのせいが少なくとも半分、絨毯ならやけどしかねないところだと反省して、自分の膝も、直後には赤くなっていたことを思い出す。
手足を集めて眠るヤンの、腿の裏側がこちらに見えて、開けば染みひとつないヤンの腿の内側の、こちらを皮膚からすべて丸飲みするようななめらかさだったその手触りを思い出すと、シェーンコップは慌てたように新聞の紙面に視線を戻し、ぶるぶる軽く頭を振った。
灰色に黒く印刷された文字は、内容がほとんど頭に入って来ず、それでも自然に片膝を立てる行儀の悪い格好で狭めた視界に文字だけを追って、シェーンコップは傍らのヤンの寝姿を必死で無視した。
そうして、突然むくりと起き上がったヤンは、体からずり落ちたシェーンコップのシャツを、自分のものではないと見分けたのかどうか、当たり前のようにそれへ頭を通し、数秒ぼんやりした後で部屋の中へぐるりと頭を巡らし、自分の斜め後ろにいるシェーンコップを認め、氷が水の中で揺れるような笑みを浮かべた。
「まだいたんだ。」
嬉しげに聞こえる声音で言って、シェーンコップの方へ這い寄って来る。新聞の上を渡り、当然のようにシェーンコップの膝の間へ這い込んで来た。
ほんとうに猫みたいだと、シェーンコップは自分の立てた片膝のことは棚に上げて、ヤンが素足に新聞を踏みつけているのを、今日何度目か行儀が悪いと、今度はやけに微笑ましく考えた。
胸に両膝を引き寄せる姿勢で、腿をシャツの裾が滑り上がる。さり気なく手をやってそれを押さえ、そこから視線を外しても、ゆるゆるの襟元から覗く鎖骨の陰影が視界の半分を占めて、シェーンコップは脱がせたヤンの服を、見えるところに集めておくべきだったと思った。
「起きたんなら帰りますよ。」
ああそうと言いながら、ヤンの腕が首に回って来る。
「今度はいつ来る?明日?」
そう訊いて来る息が、シェーンコップの唇に掛かる。
明日は、とシェーンコップは迷うように言った。
「会社で、次の工事の打ち合わせがありましてね、さっさと済めば夕方には帰れますが、長引いたら夜ですよ。」
「わたしは別に、遅いのは構わないよ。」
「・・・明後日の昼めしにしましょう。」
シェーンコップを見上げて、ヤンの手はずっとシェーンコップのひげを撫でている。
帰ると言いながらシェーンコップは立ち上がる気配を見せず、ヤンもシェーンコップから離れない。
「めんつゆ、まだ残ってる?」
「冷蔵庫に入ってますよ。後1回分くらいはありますよ。」
「わたしが使ってもいいのかな。」
「どうぞ。また作って持って来ます。」
「佃煮も?」
ええ、とうなずいて顔の位置の下がったシェーンコップのあごをとらえて、ヤンが唇を重ねて来た。それに応えながら、ヤンが蹴って散らばり掛けている新聞の上に、ヤンをまた押し倒しそうになるのに、シェーンコップは必死に耐えている。
抱きしめてしまったら最後だと思うから、腕はヤンから遠ざけて、唇が離れた隙にそっとヤンの肩を押して体も遠ざけた。
「帰ります。」
立ち上がって、ヤンがその上に坐り込んでいる新聞を片付けられないのを気にしながら、シェーンコップはさっさと台所へ行って、まだ乾いていないタッパーを全部集めて帰る支度をする。
ヤンは玄関で振り向いたシェーンコップを、ちょっと不機嫌そうに見つめて、
「あさって?」
念を押すように訊いて来るのに、シェーンコップはきちんとうなずいて見せた。
引き剥がすようにその場から立ち去って、玄関の薄暗さからまだ夕方に少し遠い陽射しの中へ出ると、シェーンコップはまぶしさに灰褐色の目を細め、細めた瞳の裏側に、ヤンの背中の皓いうねりを思い出している。
そうして、シャツを返してくれと言い損ねたことを、階段を下りながら思い出しても、下着のタンクトップをちょっと引っ張ってみただけで、戻ろうとはしなかった。
戻ったらもう、あの部屋から出れなくなる気がした。
駐車場までの、この間自分たちが舗装し直した道を歩きながら、足取りと一緒にビニール袋の中でかたかたタッパー同士が触れ合って立てる、柔らかさと固さの混在した音に、またヤンの皮膚のなめらかさと骨の硬さを思い出して、シェーンコップはめまいを感じながら、ロボットみたいに手足を前に出している。
白昼夢みたいだと、地面から立ち上(のぼ)る熱気を手を振って追い払って、コンドームひとつ分軽くなった財布が、やけにポケットの中で嵩張って感じられた。