独身なのに団地妻なヤン提督と昼下がりの情事シェーンコップの、おバカダダ漏れエロ。

ゆですぎそうめんえれじぃ 5

 目が覚めた時、目の前に見えたのは、よく伸びた大きな背中だった。
 シャツの白さに目を突き刺され、ぎゅっと瞬きしながら、寝ぼけた頭で状況を把握しようと軽く瞳を回して、枕代わりの座布団の傍に、軽くたたまれた自分の服が見えてから、ヤンは何があったのかを思い出して、少し慌てて自分の体を見下ろす。
 例の灰色の上着がきちんと腹と腰を覆い、扇風機の風は直接当たり過ぎないように、少し向こうに遠ざけてあった。
 空腹で胃が痛むほどなのに、体の隅々は妙に軽い。目の前の背中の主は、目の前に伸ばした腕に新聞を持ち、どの面を読んでいる最中かヤンからは見えず、邪魔をしないようにと、そっと体を起こす。
 「起きましたか。」
 すかさずシェーンコップが振り向いて来て、読んでいた新聞をすぐに閉じてたたみ、部屋の隅に置いた。
 「腹が、減ってませんか。」
 空腹なのは、一緒に昼を抜かすことになったシェーンコップも同じはずだった。ヤンは素直にうんとうなずいて、シェーンコップの上着にしっかり手を掛けたまま、自分の服を手元に引き寄せようとする。
 「ひと風呂浴びて来たらどうですか。その間にそうめんを茹でますよ。」
 まるでここの住人のように、シェーンコップが微笑みながら言う。ヤンは乱れた髪へ手をやって、そうだねと深くも考えず風呂の方へ視線を流した。
 裸のままでシェーンコップの目の前では動けす、それを悟ったか、シェーンコップはすいとヤンから顔をそむけ、背中を見せて立ち上がる。台所へ入った物音を確かめてから、ヤンはたたみに膝を滑らせ、服を掴んでそのまま起き上がった。
 狭い洗面所兼脱衣所で、汚したり濡らしたりしない場所へシェーンコップの上着を置き、シャワーだけのつもりと頭の中で考えながら、そうする前にもう一度シェーンコップの上着を取り上げ、ヤンは胸の辺りへ顔を埋めた。
 午後中、胸いっぱいに吸い込み続けていた、シェーンコップの匂いがした。かすかなコロンの香りと、汗の匂いと、それから仕事場でつくのかどうか、何か紙とインクのような匂いもする。
 鍋に水を入れているらしい音が聞こえて、それが途切れるまで、ヤンはシェーンコップの上着を抱きしめていた。
 シェーンコップは、ヤンが使う水音へ耳を澄ませて、シャワーらしいその音の邪魔をしないように気をつけて水を使いながら、慣れた手つきでそうめんを茹でる。
 熱い湯を浴び、肌を赤くするヤンを、湯の中でくるくる踊るそうめんに重ねて、初めてヤンを見た、この団地の玄関の薄暗さを思い出している。
 灰色の金属の扉を開いて、そこに立つヤンを見て、そっと開けた木箱に横たわる、束ねられたそうめんだと思った。照りの隠された膚、あちこちに跳ねる髪にも、同じような照りがあった。熱と湿りを加えれば本来のそれがたちまち現れて来るに違いない、そんな色合い。シェーンコップはそこから目が離せなくなった。
 茹でて、もう冷やす間さえ惜しんで口の中に入れて、際限のないすべらかさを喉へ、思う存分送り込みたいと思った。少し力を入れればすぐにぷつりと噛み切れる、その細さとやわやわしさ、その感触の通りの、胃の中へ落ちてゆく頼りなさ、そのくせ気がつけば器はとっくに空で、またすぐに食べるために次を茹でたくなる。食べ過ぎてしまうと分かっていて、また鍋に湯を沸かしに走りたくなる。
 そんなにたくさん一度に食べては胃に悪い。食べても食べても飽きないのは、なぜなのだろう。食べても食べても物足りずに、もっともっとと、我慢できずに欲しくなる一方なのはなぜなのだろう。
 そうめんを冷やす間に、ヤンが眠っている間に作った、大根と豆腐の煮物をあたためる。いちょうの形に切った薄切りの大根は、もうたっぷりと煮汁を吸って、半ば透明になっている。崩した豆腐がぽってりとその上に乗り、それも白い身が大根とよく似た色に染まっている。
 大根の葉を手早く炒めて、これは醤油を掛け回した。料理をしないと言う割には、醤油はそれなりの物で、これはきっと料理担当だったと言うヤンの養子の買ったものだろう。
 ヤンが、持って入った服をきちんと身に着けて出て来た時には、もう卓袱台の上には、少し早い夕飯の支度がされ、今日のそうめんには、残っていた薬味に、たっぷりの大根おろしが新たに添えられている。
 並べた座布団に、ヤンはあぐらをかき、シェーンコップももう足を崩し、いただきますと手を合わせたのは同時にだった。
 それぞれの器に盛られた大根の煮物に、ヤンはまず箸をつける。
 「美味いなあ、これ。」
 「明日にはもっと味が染みますよ。」
 昼兼用の夕飯だったから、そうめんは少し多めにゆでてあった。木箱が空になるのもそう遠い日ではないと思っても、ヤンのためにそうめんを茹でる手を止められず、空になれば終わるふたりの間柄だとしても、終わるまでは続くのだと、うれしそうに炒めた大根の葉を口に運ぶヤンを盗み見て、シェーンコップはそうめんを箸の先にすくい取る。
 「・・・もう、自分が作ったそうめんは食べられないなあ・・・。」
 つゆの中に、たっぷりと大根おろしを入れながら、ヤンがぼそりと言った。
 シェーンコップは、つゆの中にそうめんをひたした状態で手を止め、ヤンの方を見た。
 「そうめん以外に、食べるものはいくらでもあるでしょう。」
 「そりゃそうだ、でも、夏はどうせ毎日そうめんだしね。」
 「冬でも、にゅうめんと言う手がありますよ。」
 そうめん以外と言った同じ口で、シェーンコップはついそんなことを言う。
 ヤンは、大根おろしのたっぷりのそうめんをひと口すすり上げ、唇についた大根おろしをぺろりと舐める。そのヤンから、シェーンコップは視線を外さないままだ。
 「君、そんなにそうめんが好きかい。」
 ヤンが訊いたのは、ほんとうに、単なるそうめんのことだったのだろう。そしてシェーンコップは、それをそうとは聞き取らずに、自分の方へ向いて軽く微笑むヤンへ視線を据えたまま、ひどく真剣な声で答えた。
 「──ええ、好きですよ。」
 シェーンコップの声の響きに、今日の午後、ここで起こったことを思い出したのか、ヤンの瞳が肩の後ろへ動いて、それから頬が赤くなる。その赤みに、ほんとうにこの人はそうめんみたいだと、シェーンコップはまた思った。
 開いた窓から、そろそろ他の部屋の、夕食の支度の気配と匂いが届き始める。ここから夕陽は見えないけれど、すっかり落ち着いた空の青さは、夕暮れの色と取り替えられる直前の儚さを漂わせて、それもまたそうめんの、とらえどころのなさに重なってゆく。
 噛み切った短いそうめんと大根おろしが一緒に泳ぐ、ヤンのつゆへ視線をやって、シェーンコップはそうめんから箸を遠ざけると、大根の煮物を豆腐のかけらと一緒につまみ上げた。口の中でほろほろ崩れるのを、舌で喉の方へ追いやりながら、するするとは喉を通らないその触感に、すでにそうめんが恋しくなる。
 箸を止め、窓の外をぼんやり眺めて、
 「どうしてそんなに、そうめんが好きなんだろう。」
 自身に向かった問いだったのか、シェーンコップへのそれだったのか、ヤンがつぶやいたのに、シェーンコップも箸を止め、ヤンの見ている同じ風景へ視線を当てた。
 ちぎれて細く流れる雲が、そうめんに見えた。それをふたりとも、同じ視線の先に追って、窓枠に区切られた空の端へ消えてゆくのを、黙って一緒に見送った。
 「・・・私の父は、無類のうどん好きで、この世に食べるものと言ってうどんしかないような男でした。」
 そうめんが滑るように、シェーンコップがなめらかに語り出したのに、ヤンは黙って耳を傾ける。つゆの甘(うま)みそっくりに、味わい深い声だった。
 「一方で、祖父はそば好きで、後で知ったことですが、父のうどん好きは、祖父に対する抵抗って奴でしてね、おかげで父の前でうどん以外の話をするのがタブーだったんです。」
 うん、とヤンは相槌を打ち、そっと音を立てずに、そうめんをすくってつゆにひたした。
 「祖父のところへ行けば、出されるのはそばですが、そこで必ず父と祖父で親子ゲンカが始まる──子どもだった私は、ふたりの言い争いの原因がよく分からずに、ある日つい、祖父のそばも美味いと、口を滑らせましてね──。」
 滑らせた、と言うところで、ちょうど静かにそうめんをすすり上げ、ヤンは決まり悪げに肩をすくめた。シェーンコップは、構わず話を続けた。
 「父は、そんなにそばがいいなら祖父の子になれと言って私をそこに置いて行って──それきりです。それきり、数えるほどしか両親には会っていません。祖父も、仕方がないと私を引き取ってはくれましたが、うどん好きに育てられた私を疎んじていたのは明らかでしてね・・・そばにもうどんにもうんざりして、私はどちらも嫌になりました。嫌いなわけではなく、でも見るもの嫌でした。」
 口の中のそうめんをゆっくりと噛んで、ヤンはうんとまたひとつ相槌を打つ。
 悲しい話だと思った。こんなに上手くそうめんを茹でる男が、同じめん類の、うどんもそばも嫌だ──嫌いなのではない──と言うのは、とても淋しい話だと、ヤンは思った。
 「そうして、そばでもうどんでもないならそうめんがあるじゃないかと気づいて・・・後はまあ、この通りですよ。」
 言葉をごまかすように、シェーンコップは勢いよくそうめんをすすり、そうめんの消えた口の中に残ったねぎを、奥歯でぎしぎし噛んだ。
 「君は、そうめんを見つけたんだね。」
 薄焼き卵とそうめんを一緒に口に放り込んだ後で、ヤンが言う。ヤンはシェーンコップを見つめ、シェーンコップはヤンを見つめ返した。そうめんとヤンが言ったのが、ただそうめんのことだったのか、けれどそうではないように聞こえて、シェーンコップはごくっと喉を鳴らし、何もないのに、胸の中をそうめんが滑り下って行くように感じた。
 少しの間(ま)の後で、ええ、とヤンに向かってうなずき、またふたりは黙々と夕飯を続け、食事が終われば食器を洗って片付けて、今日と言う日が終わるのだとふたりとも考えながら、それを引き伸ばしたいのだと、別々に、一緒に、願っている。
 食べればそうめんは減り、薬味の皿は空になり、煮物も炒めものも汚れだけを残し、そうめんの最後のひと口を譲られて、ヤンは名残り惜しげにそれをすする。丁寧につゆにつけ、そこに揺れる大根おろしをできるだけそうめんに絡めて、ヤンはそれをゆっくりと、味わうように噛んだ。
 すでに箸を置いているシェーンコップの傍らで、まだ箸を手にしたまま、もっとそうめんが食べたいなと言う言葉を、ヤンは口の中のそうめんと一緒に飲み下す。
 腹は確かにいっぱいだった。それでも、シェーンコップの茹でたそうめんを、もっともっと食べたいとヤンは思った。
 それを口にはできないまま、ヤンは箸を置き、ごちそうさまと手を合わせる。
 窓の外を眺める振りでまだ動かないふたりの、並んだ背中を、新聞紙とシェーンコップの上着が、たたみの上からじっと見ている。

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