ゆですぎそうめんえれじぃ 6 (OVA了)
居間には、シェーンコップのための座布団が出しっ放しになった。以前は夕方には片付けられていた新聞は、シェーンコップのために卓袱台の上に残されるようになり、シェーンコップが使いやすいように、何となく台所も物の位置が変わり、あのごちゃごちゃのテーブルはそのままだけれど、何となく、紙類は紙類、調味料は調味料と、場所を定められるようになった。昼の休みに、シェーンコップは駆けるようにして、ヤンの団地へやって来る。ただヤンの顔を見るためだけに、見て、触れて、玄関で慌ただしく抱擁を交わして、時には三和土へ裸足のヤンを引きずり下ろして、倒れ込む廊下は、ヤンの背中に少し硬過ぎるから、そこで止めて、続きはまた戻って来た夜だ。
昼に茹でたそうめんを冷蔵庫に入れて、夜には舌がしびれるほど冷えたそれを取り出して食べるみたいに、ふたりはそんな風に、そうめんと言う名の愛撫を分け合って、現実のそうめんの木箱が空になった後は、ヤンがいつものそうめんをスーパーで買って来た。
少し味は落ちるけれど、シェーンコップが茹でる限りはそうめんは十分美味かったし、つゆも、同じスーパーでちょっと気をつけて買っただけでも、シェーンコップが手を掛ければきちんと美味くなった。
シェーンコップのそうめんなしの夏など、もうヤンには考えられず、わたしのためにずっとそうめんを作ってくれないだろうかと尋ねるには、シェーンコップのうどんとそば嫌いが心に引っ掛かって、めん類に特にこだわりのないヤンは、そばもうどんもなしに一生過ごせるだろうかと、考えて結論は出ないままだった。
シェーンコップはもう、ヤンの部屋の中を自由に行き来出入りするようになり、狭いベッドの、あまり良くはない寝心地にも文句は言わない。ヤンといられればいいのだと、力強い瞳が見つめて来る。
そばとうどんから遠ざかって、そうして見つけた、自分のためのそうめんを、シェーンコップは思う存分味わいながら、ヤンと言うそうめんにはどんな薬味がいちばん合うのかと、ヤンと一緒に日々模索している。
たっぷりと、よく冷やしたつゆに、洗うようにそうめんをつけ、一気にすすり込む喉の奥で味を感じて、口と言う剥き出しの粘膜のあらゆる場所へ触れるそうめんの、そのなめらかさは、茹でるそのたび微妙に変わって、湯の温度か茹でる長さか、万華鏡の中のように、白だけの豪華絢爛さはほとんど暴力のようにシェーンコップの胃を満たす。
白の、ごくわずかな濃淡と、影の差し方の違い、それらはシェーンコップの触感すべてを心底楽しませてくれる。そうめんの単調に思える白さに、これほど多彩な差異があったのだと、シェーンコップはヤンから教えられ、そしてつゆにひたったそうめんのように、溺れている。
そうめんにはつゆがなければならないのだし、つゆはそうめんなしには存在意義がないと、それが思い込みと分かっていても、シェーンコップはその他の可能性からは努めて目をそらし、夏が終わり、寒くなればにゅうめんをヤンが食べたがるだろうかと思いながら、ヤンがある日そうめんはもういい、そばかうどんが食べたいと言い出す日が来るのではないかと、ひそかに恐れている。
ヤンが、本棚をまとめて置いている部屋で、本棚の陰、谷間に落ち込むように床に横たわりながら、日差しを避けたその薄暗さが、シェーンコップの休日の昼間に夜の空気を運んで来て、そんな日はまた、昼めしのことなどすっかり忘れてしまった。
少し早い夕飯に、どのくらいそうめんを茹でようかと考えて、自分の下で身をよじるヤンの、下腹の陰影へ顔を落とすのに、ヤンの声が、締め切ったこの部屋から、閉じ込め切れずに外へ漏れ出してゆくのが分かる。
その声を聞きたくて、薬味を変えるように、ヤンへ与える動きを変えて、今日もまたヤンと言うそうめんを茹で上げてゆく。ちょうどよくと思っても、結局最後には茹で過ぎてしまう。ヤンのせいだと言うと、ヤンはつゆが美味過ぎるせいだと言う。
何でもいい、どんな薬味もヤンにはかなわないのだし、つゆに何を入れたところで、それはヤンを引き立てる役にしかならない。それでいいのだと思いながら、大根おろしの水気の切り具合を気にして、シェーンコップは明日はしょうがにしようかと、ついでに冷奴もおかずに加えて、そうめんのヤンを喉いっぱいにすすり上げた。
のびたそうめんが手足を投げ出して、シェーンコップが首筋を噛むと、力なく持ち上げた腕を首に巻きつけて来る。汗の塩辛さに、シェーンコップは薄焼き卵の砂糖を少し増やそうと思った。
台所のテーブルの上に、空に木箱は相変わらず放ってあるまま、捨てたらどうですかとは何となく言いにくくて、シェーンコップは余計かと思ったけれど、同じそうめんを、ヤンのためにまた注文した。
その日自分の職場の机に置かれていたのはそのそうめんだったのだけれど、宛先が直接ヤンになっていて、おかしいなと思ったら、それはヤンが自分で頼んだものだと知れた。
昼までに、シェーンコップが注文した分がそこに届き、同じそうめんの木箱をふたつ抱えて、シェーンコップはその時決心した。
ふた箱は、一度に買うには多過ぎるかもしれない。けれどふたりで一緒に食べるなら、食べ切るのにそう時間は掛からない。すでにもう、夏は終わり掛けているのだとしても。
初めての日と同じに、シェーンコップはそうめんの包み──今日はふた箱──を手に、ヤンの団地の玄関に立った。同じように、それをヤンへ差し出して、申し訳ありませんと頭を下げる代わりに、真っ直ぐにヤンを見つめて、言った。
「もう、貴方以外の誰のためにも、そうめんを茹でたくありません。」
ヤンは差し出された箱を受け取りながら、突然そう言われて目を丸くする。
えーと、と歯切れ悪く視線をさ迷わせ、やっとシェーンコップの瞳へ戻って来ると、
「・・・わたしも、できれば、君の茹でたそうめんだけ食べてたいなあ。」
のどかにヤンが言う声に、シェーンコップの言葉を正しく受け取った響きが欠けていて、シェーンコップは落胆に思わず肩を落としそうになった。
ヤンはそんなシェーンコップを玄関に立たせたまま、目線の高さを同じに保って、不意に慈みの笑みを浮かべる。血縁の縁の薄いヤンが確かに持つ、父親が我が子に向ける視線なのだと、親子の縁の何たるかを知らないままのシェーンコップは気づかずに、けれどそれが、自分のずっと欲しがっていたものなのだと言うことだけは分かる。
養子のユリアンに話し掛ける時と同じ声で、ヤンはシェーンコップに言った。
「前から訊こうと思ってたんだが・・・君、ラーメンは嫌いかな。」
同じのどかさでそう問われて、ラーメンですか、とシェーンコップは思わず鸚鵡返しにした。
「うん、そばもうどんもダメなら、ラーメンはどうかと思って──。」
そうめんふた箱が重いのか、ヤンは一度腕を伸ばし、また肘を曲げて包みを抱え直した。
「ラーメンは、別に・・・。」
そばとうどんに恨みはないでもないけれど、ラーメンには何の悪感情もない。代わりに、そうめんのような思い入れもなかった。
「以前良く行った店なんだが、酒を飲ませるところで、ラーメンとおでんが美味いんだ。店の人たちがおしゃべりでね、わたしがひとりで行って黙って飲んでても、勝手にしゃべってくれるから気楽で──もしかしたら、君も気に入るんじゃないかと思ったんだ。」
おでん、とシェーンコップは思った。自分で作らないでもない。けれどひとり分を作るのには、少し骨の折れるメニューだ。それもまた、ヤンと一緒なら自分で作ってみてもいいと思った。
「貴方のお気に入りの店に、私を連れて行っても良いのですか。行くなら、貴方の養子の子と──」
「ユリアンはダメなんだ、未成年だからね。」
ヤンは、淋しげな影を口元に刷いた。
「それにあの子は、大学で新しい友達もできて、わたしのところにわざわざ戻って来る必要もないし・・・大学を卒業してそのまま就職なんて、よくある話だからね。」
ユリアンを、寮に入れるために遠方の大学へ送ったのはヤンだ。それが、お互いのためだと思った。少なくとも、ユリアンのためだった。あの子を、私の世話だけで終わらせてはいけないと、無為徒食の自分を見習わせたくはなくて手放した。それは間違いではなかったと、ヤンは信じている。
そうして、ひとり自堕落にひたって、このシェーンコップが現れて、ヤンをもっと堕落させた。けれどこの堕落には、罪悪感がないのはどうしてだろう。あるいは、もうシェーンコップの作るそうめん以外──そして、ユリアンの作ってくれるそうめん以外──食べたくないと思うのは、堕落ではないのか。
玄関のドアに、相変わらず同化して見えるシェーンコップは、団地の精のように見えて、けれどヤンはそこに立って自分を見つめるシェーンコップを連れて、突然外へ飛び出したくなった。
さっき言った店でもいい。まだユリアンを連れては行けないその店へ、ラーメンを食べにシェーンコップを連れてゆき、そうして少しずつ、この団地のこの部屋の外で過ごす時間を持った方がいい気がした。それとももういっそ──。
「わたしはもしかしたら、ここを出た方がいいのかもしれない。」
考えたこともなかったことが、口をついて出る。聞いたシェーンコップよりも、言ったヤンの方が驚いて、自分の耳を疑うように、思わず耳朶へ手をやろうとしてから、両手がそうめんの箱で塞がっていることに気づく。
シェーンコップは蹴るように革靴を脱ぐと、片手だけでそうめんの箱をヤンから取り上げ、ヤンの腕を強く引いた。
「貴方の行くところへなら、どこへでも行きますよ。酒を飲む店でも、新しい部屋でも。いっそ、一緒に暮らしませんか。」
居間へヤンを引きずるようにして連れて行き、卓袱台にそうめんの箱を放り出して、シェーンコップはいつかそうしたように、たたみの上へヤンを押し倒した。
相変わらず、扇風機が見当違いの方へ風を送る部屋で、シェーンコップが台所での手際の良さで、ヤンの服を剥いでゆく。
今日は、そうめんをつゆにひたすのではなく、つゆをそうめんにたっぷりと掛けて、箸を使うのももどかしげに、シェーンコップは手づかみでそうめんを口に運ぶ。
台所と風呂は広い方がいいと言うと、そうだねとヤンがうなずくから、エアコンは嫌いですかとさらに訊いて、ううんと首を振ったヤンを、シェーンコップはたたみの上にひっくり返した。本の部屋もいりますねと言っても、ヤンはもう喘ぐだけだった。
前髪が、少し傷んだたたみの上に散る。そうだこの人の言う通り、ここは終着の場所ではなく、出発の場所なのだと思う。そうめんを一緒に食べて、次の場所で、ラーメンを一緒に食べよう。おでんは、この冬までに作り慣れておこうと、ヤンの腰を高く引き寄せて、ヤンがたたみに爪を立てるのに、シェーンコップは自分の掌を重ねた。
声が、窓から飛び出てゆく。ヤンの声だけではなくて、シェーンコップの声も。
ふたりの場所。そこではもう、そうめんの箱が空になることはないのだ。茹でたいだけ茹でて、食べたいだけ食べればいい。茹で過ぎてしまっても、のびてしまっても、ふたりで食べれば余らせることも無駄にすることもないだろう。
今日は薬味の準備の暇もなく、そうめんとつゆだけで、シェーンコップはつるつるとそれをすする。ない薬味の代わりに、ヤンの後ろ髪を噛んで、その照りが、真新しい海苔を思わせた。汗の匂いと潮の香りが重なって、湿らない海苔をかじる、ぱりぱりと言う音が幻のように聞こえる。
一緒に暮らしましょうと、シェーンコップが言う。うん、とヤンがうなずく。
手づかみにしたそうめんを握り潰してしまわないように、そっと口に運んで、シェーンコップは愛でるようにそれを優しく食む。ヤンがそれを、下から微笑みながら見ている。
真昼の風になぶられて、卓袱台にふたつ重なったそうめんの箱と同じに、ふたりは身を重ねてたたみに同化していた。
ふたりの声の届いた階下から、そっと苦情のメモがポストに差し入れられた音は、そうめんを夢中ですすり合うふたりの耳には届かず、今日も当然のように茹でられ過ぎたヤンの裸の肩に当たる外の風には、確かに夏の終わりの涼しさがあった。
シェーンコップの腕を抜け出し、ヤンは無理矢理に腕を伸ばして扇風機の風を止める。
きこきこ扇風機が首を振る音の失せた部屋の中で、引き戻した腕をシェーンコップの背中に回して、ふたりは木箱に収まったそうめんのように、ただ静かに寄り添っている。
シェーンコップの作るにゅうめんはどんな味だろうと、ヤンは思った。思いながら、熱い湯で茹でられるのを待つ束ねられたそうめんと同じ姿で、シェーンコップの首筋へ顔を埋めて行った。
OVA編了、DNT編に続く