DMT編、独身なのに団地妻なヤン提督と昼下がりの情事シェーンコップの、おバカダダ漏れエロ。

ゆですぎそうめんえれじぃ 7 (DNT)

 突然鳴ったドアベルに、はあいと気の抜けた返事をして、ヤンは手にしていた団扇を放り出すと、手で顔を辺りをあおぎながら玄関へ向かう。部屋のどこも熱気がたまって、サウナの中を歩いているようだった。
 サンダルをつっかけて、三和土に片足だけ下ろす不精さでドアを開くと、奇妙に爽やかに商売用の笑みを浮かべて、これも汗をかいた長身が来意を告げる。底の浅い、まだ水の新しいプールの塩素の匂いを思わせる声、飲むことはできないその水の、けれど冷たさには全身をひたし切りたい、そんな風に思う声だった。
 「ご苦労さま。」
 ヤンはドアをいっぱいに開け、その丈の高い男を玄関へ招き入れた。
 肩に乗せていた5キロの米はそのまま、手を出すヤンに渡そうとはせず、
 「中まで運びますよ。」
と、また爽やかに笑う。
 4階建てのこの団地の、どこにでも配達してくれると言うのがほんとうであるあかしのように、男は小さな動きで靴を脱ぎ、ヤンが示す台所の方へ足を進めて来る。
 ローゼンリッター米店は、最近店の主人が替わり、長い間の経営者だった老夫婦の後を、その孫と言う男が継いだ。この長身の男がその新しい店主だ。
 時には20キロの袋も平気で運んで来ると言う話で、さすがにひとり暮らしのヤンにはそんな量は必要なく、5キロなど持って来てもらうのは悪いと言ったのに、構いません、他にも配達がありますからと、いやな顔ひとつ見せずにやって来る。
 老夫婦の引退に合わせて、古い従業員も幾人か辞め、新しく入った従業員もこの男と変わらない若さと、そして頑健な体の持ち主たちで、彼らは市内のどこへでも米袋を担いで行く。助かるわあと、団地の井戸端会議で評判だった。
 台所で、ヤンに示されたところへやっと米を下ろし、男は額とあごを素早く拭った。
 「暑くてすまないね、エアコンが壊れてしまって。」
 「大変ですな。修理を頼んでも、やって来るのはずいぶん先でしょう。」
 「そうそう、この酷暑で、電気屋も大変らしいね。」
 ヤンは冷蔵庫から麦茶を出し、いっぱいに注いだグラスを男へ差し出した。男はどうもと軽く頭を下げ、素直に受け取ってそれを一気に飲み干す。太い喉が、力強く動いた。
 「まだ、配達があるのかい。」
 「いえ、今はこちらが最後ですよ。少しさぼって戻ろうかと思っていたところです。」
 男がいたずらっぽく笑って見せる。
 薄暗い台所でも、きっちりと切り取ったような印象的な輪郭の隠せない、汗の流れるのを水の滴るようなと形容したいような容姿だった。団地の女性たちが騒ぐのも無理はないとヤンは思って、受け取った空のグラスをシンクへ置くと、後は少し手持ち無沙汰に、男がまだ立ち去ろうとしないのを不思議に思いながら、自分から帰りを促そうとはしないのだった。
 ヤンが何か言おうと言葉を探した時、突然居間の方から、明らかに昼間聞くには──夜だって──顔の赤らむような声が聞こえて来る。
 ヤンはぐるりと黒い目を動かし、男も同じ方向に、ヤンよりももっと不審の表情で灰褐色の瞳を動かし、ふたりで改めて視線を交わした後、ヤンが慌てて居間の方へゆくのに、なぜか男も一緒について来た。
 開け放した窓から何とか入る風に、カーテンが揺れる部屋に、その声はもっとはっきりと満ちて、ヤンは急いでその窓を閉めると、
 「上の人がね──まあ、なんて言うか・・・。」
 言い訳するように男に言う。男は苦笑いして、電源の入っていないテレビの画面へ軽くあごをしゃくり、
 「てっきり、映画の鑑賞中にお邪魔したのかと思いましたよ。」
 まさか、と真っ赤になってヤンは首を振った。
 窓を閉めても、まだ声はかすかに聞こえて来る。ふたつの、トーンの違う声。聞いていていたたまれなくなる声ではあるけれど、いい加減にしろと言う怒りは湧かず、せいぜいが、少し声を控えてくれないかと思う程度だった。
 様々な人たちに囲まれて暮らす団地と言う環境でひとり暮らしの間に身についたものか、あまり他人に関心はなく、隣人と親しい付き合いもしないままのヤンは、ヤンと同じようにずっと静かに暮らしていた上の住人が、近頃こんな声を露わにするようになって、生きていると色んなことがあるもんだなあと、まるで他人事として考える。
 「管理人に言えば、そちらから注意でも入れてくれるのでは──?」
 「近々引っ越すらしいから、今だけだよ。声だけだしね。」
 「見せつけられるよりはましですか。」
 一体どうしてこんな会話をしているんだろうと思いながら男の方へ振り向いて、ヤンはそこにある卓袱台の方へ軽くあごを振った。
 「引っ越しの挨拶代わりにって、そうめんをもらってしまったから、もう何も言えないよ。」
 笑って言うと、男もつられたように笑って、ヤンの示したそうめんへ目をやり、
 「──美味そうだ。」
 米を売る人間にあるまじき台詞を吐いた。
 いかにも上等そうな木箱に入ったそれは、確かに見ただけで美味そうと分かる。
 「残念ながら、そうめんが良くても、つゆが美味くないとね。」
 同意の相槌を打つのすら、男がすれば優雅に見えた。
 「美味いめんつゆの作り方なら、今時は探せばいくらでもあるでしょう。」
 「自分の分だけじゃ、作りがいがないよ。」
 「それはそれは。」
 馬鹿にしたと言う風でもない、けれど揶揄の響きは十分に含んで、男が可笑しそうに言う。場合によっては不愉快にもなるだろうその口調が、ヤンの耳にはそうとは聞こえずに、男の上げた唇の端と同じ程度に唇の形を変えて、ヤンはやっと窓の傍を離れた。
 ヤンの動きを目で追う男の視線が、ヤンの足元、テレビの傍の床で止まり、ヤンの肩越しにそこを見たまま、
 「あれは、熱帯魚か何か──?」
 そこに置かれている、空の水槽とその付属の器具へ、興味があるのかどうか、そんな風に訊いて来る。
 ヤンは男の視線を追って振り向き、ちょっと困ったように微笑んでから、そうとは知らせずに目元を翳らせた。見せていないつもりだったその一瞬の昏さを男は見逃さずに、まずいことを訊いたのだとすぐに悟って口元を引き締める。
 「金魚が──長く飼っていたのが、死んでしまってね・・・。」
 ヤンが横顔を見せたまま──男の視線を避けて──答えるのに、眉の間に、失礼しましたと詫びの表情を刷いた。
 口数の多さと同じくらい、表情豊かな男だと、ヤンは思った。
 「長いこと一緒にいて、もう同居人みたいなものだったから・・・水槽をどうしようかと思って、まだ決めてないんだ。」
 男の表情を、必要ないと伝えるために、少し明るくそう言って、けれど男はヤンの悲しみと淋しさを理解してか、同情の色をいっそう深めて唇をただ引き締める。
 まだ空の水槽へ振り返ったままのヤンへ、男は後ろのポケットから配達伝票を取り出して差し出し、サインを求めて来た。
 一緒に手渡された万年筆が思ったよりも手に重く、ヤンは名前を書き終わってそれを戻す前に、顔の近くへ持ち上げてしげしげと眺めてしまった。
 「ずいぶんと、立派なものだね。」
 「祖父のものでしてね・・・まだ新米ですから、励みにするためにいつも持っているんです。」
 道理でと、もう一度眺めて、いかにも使い込まれた風のそれが、ヤンの手の中では豪奢過ぎて借り物にしか見えないのに、男が返されてシャツの胸ポケットに入れると、まるでそれも男の一部であるかのように、ぴしりと空気が引き締まる。
 切った伝票をヤンに渡して、では、と男はそこで背を向けた。
 玄関へ向かう男の後を追い、靴を履くために少し丸まった背中を、ヤンはじっと見ていた。
 体を起こし、ヤンへ振り返り、男は言い残したことがあるようにヤンを見つめて、唇をわずかに動かした。
 ヤンから視線を外し、足元のどこかを見ながら、
 「金魚に、名前はあったんですか。」
 それがとても重要なのだと言いたそうに、男が訊く。質問の思いがけなさに、ヤンは少し驚いてから、
 「あ、うん・・・ラップ──って名前だったんだ。」
 水槽を覗き込んでは、日に何度も呼んでいたその名前を久しぶりに口にして、ヤンは胸が疼くのを感じた。たかが金魚1匹、それでも、自分でそう言った通り、同居人のようにヤンと一緒にいた金魚は、男がそう感じているに違いない通り、ヤンにはとても大切な存在だったのだ。
 ああそうか、と、小さな水槽の中を泳ぎ回っていた金魚のラップの、輝くような鱗の色、あれは銀朱と言う色だったか、一度本で調べて知ったその色の名前も今一緒に思い出して、ヤンは隠せずに自分がひどく淋しい顔をしているのを自覚した。
 そのヤンを、遠くを見るように見ている男は、あごの位置を胸の方へ少し落として、まるで葬式にやって来て去る人のように、今にもご愁傷さまですとでも言い出しそうに、瞳の色が暗いのは玄関の薄暗さのせいのはずなのに、ヤンの目にはそうは映らない。
 「タオルにくるんで埋めたんだ。少し先の、土のあるところに──。」
 そう言えばあのタオルは、ここに引っ越して来て最初に米を買った時に、初めての客への挨拶だと言って、この男の祖父からもらったものではなかったか。
 奇妙な偶然にさらに胸を突き刺されて、水槽の世界しか知らず、ヤンしか知らない、ヤンがひとり見送った金魚のラップが、自分以外の人たちにも惜しまれているように感じて、ヤンは小さく震え出した唇を噛み、もう何も言わないためにあごを胸元へ引き寄せる。
 男はそんなヤンを見て、同じように何も言わず、浅く頭を下げて姿を消した。
 誰もいなくなった玄関に、ヤンはまるで罰を受ける中学生のように突っ立って、気がつけば受け取った伝票を手の中に握りしめている。くしゃくしゃになってしまったそれを、慌てて自分の手から引き剥がして元通りに伸ばしながら、配達人の欄にある男の、字数の多い名前に目を止める。
 ワルター・フォン・シェーンコップ。大仰な名前が、映画俳優のようなあの男にはぴったりだと思った。
 伝票を手に、暑さしのぎに麦茶でもと、台所へゆく。男が──シェーンコップが使ったグラスがシンクに置いたままになっていて、それを洗って使おうと蛇口を開け、みるみるうちにグラスにいっぱいに溢れ出す水を眺めて、ヤンはシェーンコップの額を流れていた汗を思い出し、ラップの閉じ込められていた水槽を思い出す。洗おうとする手は動かないまま、それでもグラスに伸ばした手の、指先で、グラスの縁をぐるりとなぞった。
 あの、形のいい、よく動く唇の触れたそこへ触れて、水槽の水へ差し入れた指先を、挨拶のようにつついて来たラップの、丸い小さな口の感触も同時に思い出す。
 死んで、ラップはやっと四角い水槽から逃れ、あの男はついさっき、ここから去って行った。
 誰も皆、自分の許から去って自由になるのだと思った。思って、動いた手の先でグラスが倒れ、シンクいっぱいに水が流れる。排水溝へ吸い込まれてゆく水の、小さな渦巻きを、ヤンはそこでじっと眺めていた。

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