ゆですぎそうめんえれじぃ 8
商店街の本屋で月刊誌を買い、涼みがてら途中のコンビニで甘くないアイスティーを買って、ぶらぶら団地へ戻る途中だった。横を通り過ぎたバンが止まって、軽くクラクションを鳴らす。辺りを見回しても路上には自分しか見えず、ちかちか後ろのライトを点すそのバンへ、ヤンは早歩きで近づいて行った。
「帰るなら乗りますか。」
シェーンコップが、ハンドルに片手を置いて中から微笑み掛けて来る。歩いてもせいぜい後5分の道程を、断ろうとしたヤンへ、
「3階に配達があるんですよ。ついでですから。」
そうまで言われて固辞するのも大人げない気がして、ヤンは助手席へ荷物を抱えて乗り込んだ。
なめらかに大きなバンをぴたりと団地の敷地内に駐車させて、シェーンコップは軽々と大きな米袋を肩に乗せた。シェーンコップに比べれば空手同様のヤンに、まったく遅れず階段を上がって来る。
話し掛けるのもどうかと思って、黙々とシェーンコップと歩き、3階へ着いて右と左に分かれようとすると、
「お見せしたいものがあるんですが、後で行っても構いませんか。」
商売用と分かっていても、恐ろしく整った笑顔で言われると嫌とも言えない。ヤンは戸惑いながらうなずいて、向こうへ歩いてゆくシェーンコップを見送り、自分の部屋へ向かった。
相変わらず壊れたままのエアコンで、部屋の中はひどく暑い。これを避けて商店街へ行ったのだけれど、往復で汗まみれになるので同じことだ。
荷物を卓袱台の置いて、居間の窓を開け、それからヤンは洗面所で顔と首を水で洗った。
シェーンコップの用向きは分からないけれど、来たところで出せるのは冷たい麦茶くらいだ。運転する人間に、酒を勧めるわけにも行かない。
今夜は、ちょっといい酒を片手に、買って来たばかりの雑誌を隅から隅までゆっくり読む予定だった。
律儀にドアベルが鳴り、言った通りシェーンコップがやって来る。失礼しますと礼儀正しく、脱いだ靴を素早く三和土の隅に揃えて上がって、台所へ通すわけにも行かずに、ヤンはシェーンコップを居間に連れて行った。
座布団を勧めるべき相手かどうか迷って、さっさとそこに膝を折ったシェーンコップにつられて、自分も座布団なしであぐらをかく。
シェーンコップは脇に抱えていた黒いケースをヤンの前に出し、表側を指先でなぞるようにした。
「めんつゆの作り方を見つけたんですが──。」
いわゆるタブレットと言う奴だ。ヤンは持っていないし、興味もない。シェーンコップの指の下で、するする変わる画面を追って目を動かすのに必死で、ヤンに見せたいと言うそれをやっと見つけたのか、シェーンコップがやっと指を止めて、これですとヤンへタブレットを手渡して来る。
へえ、と両手でそっと受け取ったそれを覗き込んで、画面の鮮やかさに視線を奪われ、そしてまるで本物の雑誌のようなレイアウトに驚いて、ヤンは黒い瞳をすっと細めた。
よく見れば粒子がやや露わでも、並んだ文字も写真も紙に印刷されたものと遜色はなく、本みたいだと思わず機械全体を眺めてヤンは思った。
示されためんゆつの作り方よりも、タブレットそのものに興味を引かれて、ヤンは思わずシェーンコップの方へ膝を滑らせてゆく。
「これ、どうやって使うんだい。」
「こういうものは初めてですか、まさか。」
「うん、必要もないし、興味がなくてね。見たり読んだりは紙の方が好きなんだ。」
色んなことができますよと、シェーンコップが画面を変え、並んだ小さな四角い画像を指先で押す。そうすると大きな画面が何やら開き、ヤンには何が何やらさっぱり分からないけれど、シェーンコップが丁寧に説明をしてくれた。
「料理の写真を撮って、人に見せることもできますよ。」
「へえ、君はそういうことをするの。」
「写真を撮りはしますが、不特定多数の人間に見せたいとは思いませんね。」
同感だ、とヤンは思わず笑う。その写真と言うのを、アルバムと言う小さな画像をつついて、シェーンコップが見せてくれた。
どれも店の中や外、店の従業員たちらしい人たち、カメラに向けられた他愛ない笑顔がリラックスして見えて、シェーンコップと親しい人たちなのだとヤンにも分かる。
いつの間にか、肩と顔を並べて、一緒にタブレットを覗き込んでいた。
シェーンコップの手つきを真似て、ずっと写真を遡ってゆくと、突然、血に濡れた包帯を片目に巻いた長髪の男の、不穏な画像が現れて、ヤンは思わずそこで指先を止める。
「・・・これは──?」
険しく、苦しげにひそめた眉のせいで、少しの間分からなかったけれど、これは間違いなくシェーンコップだ。一緒に写っている肩も胸元も剥き出しで、半裸だと言うのが見て取れる。怪我のせいもあって剣呑な、少し言葉に詰まるような眺めだった。
示されて、シェーンコップが一瞬息を止め、それから懐かしげな色を目元に浮かべて、ふっとため息のような笑みをこぼした。
「格闘技をやってましてね──最後の試合の終わった時の写真です。」
「格闘技?」
「ええ、残念ながら負け試合でした。」
言葉と同じに、残念そうな響きをこめて、けれど感慨深げにシェーンコップが答えたのに、ヤンは改めて写真を眺めた。
「髪が、長かったんだね。」
「ええ、その頃は。」
今は顔を真っ直ぐに下りる髪が、写真の中ではかすかに波打って、首の後で束ねられたそれが、背中に届いている。
「痛そうだね、これ。」
思わず包帯を指先で、撫でるような仕草をした。つるつるした画面なのに、血の濡れているような錯覚に襲われて、ヤンは思わず触れた指先を確かめるように見る。
「肘を食らって、眉の上を切ったんです。血が止まらずに、そうすると目を開けていられずに、ドクターストップが掛かりました。それで負けです。」
「肘?」
「ええ、こういう風に──。」
シェーンコップが曲げた腕を上げて、肘の先を鋭く動かして見せる。そしてそこを指差して、
「ここで殴られると、皮膚が簡単に切れます。止血できなければ視界が利かなくなって負けです。」
聞いているだけで、想像する痛みに背筋の寒くなるような話だった。ヤンはちょっと青い顔で、首を縮めた。
争い事は好きではないし、喧嘩など真っ平ごめんのヤンは、誰かを殴ったり殴られたり、自分がするなど考えたこともない。目の前の男が、その屈強さには納得するにせよ、赤の他人と殴り合うことを生業にしていたと言うのが意外だった。そのくらい、今のシェーンコップは体の大きな、ただ爽やかな男に見えた。
「格闘技から精米店経営って、ずいぶんな転換だね。」
「祖父の店には、子どもの頃から出入りはしてましたから。ただ、後を継ぐと決めたのはごく最近でしたが。」
「格闘技をやめたのは、どうして──?」
立ち入った質問かと思いながら、シェーンコップがひとつひとつ丁寧に答えてくれるのに、ヤンはつい調子に乗って訊いてみる。
不意にシェーンコップの表情から穏やかさが消え、開け放した窓の方を見て、それから少しだけヤンから体を離す。まるで、ここにいるのにここにはいないような、遠くなったシェーンコップへ、ヤンは無意識に自分から膝を滑らせていた。
「勝てなくなって、先がないと思ったからです。私の体格では他の階級に行くのも難しくて、諦めるのにいいタイミングだった、と言うところでしょうか。」
言いたくないことを言わせているのだと、シェーンコップの声音と表情にヤンは悟った。金魚のラップのことを訊いた時のシェーンコップをまったく同じ表情を浮かべて、下から窺うように、
「でも君、強かったんだろう。」
そうに決まっていると、知りもしないのに、ヤンはそう言った。
「いいところまでは行きましたがね、体格が中途半端でした。」
「君が?」
明らかに長身で、恵まれた体つきに間違いないと思うのに、格闘技の選手には足りないのかと、ヤンは素直に驚きを刷く。
「もう少し背が高ければ体重を増やしてパンチの重さが出せたし、もうちょっと低ければ筋肉を落としてスピード重視で行けたんですがね。どちらも中途半端だったんですよ、それを補うには技術が足りませんでね。」
「でも、それでもいいところまで行けたってことは、君には才能があったし、努力したってことじゃないか。」
自分が理不尽な目にでも遭ったように、ヤンは知らずつぶやいていた。ヤンにそう言われて、シェーンコップははっとしたように眉の間を開き、ヤンの、まるきり素人の物言いに慰められでもしたように、そうですねと、奇妙な素直さでうなずいている。
ヤンの向こうに、まだ床の上には空の水槽が置かれたままで、シェーンコップはそれをそっと指差し、穏やかさを取り戻した目の色で言う。
「ちょうどあんな風な、四方囲まれた檻に入って闘うんです。入ったら、後は何があっても自分ひとりで、五体満足で、死なずに出れる保証もないんですがね──それでも、外から名前を呼ばれて応援してもらえるのはいい気分でしたよ。」
シェーンコップと一緒に、金魚のラップの、それだけが世界だった乾いた水槽を眺めて、ヤンはそこに、半裸で血まみれで動き回るシェーンコップを想像した。自ら望んでそこに入り、争いが終わるまでは出してはもらえない。凄惨な眺めを思い浮かべながら、それでも手足を振り上げて動くシェーンコップは、きっと今と同じほど人目を引く姿だったろうとヤンは思う。
見てみたかったな。それを楽しめたかどうかはともかくも、今とはまったく違う姿のシェーンコップを見れなかったことを、ヤンは確かに内心で惜しんでいた。
気がつけば、額の触れ合いそうな近さで見つめ合って、そんなふたりを、ヤンの手の中の画面の中から、包帯姿の今より少し若いシェーンコップが見ている。
シェーンコップと肩が重なりそうになって、ヤンは慌てて身を引くようにそこから立ち上がった。
「麦茶でも出すよ、ごめん、話に夢中で気づかなかった。」
逃げるように台所へ向かって体を回すのに、さすがと言う素早さでシェーンコップが前へ回り込んで来る。前へ進むのを止められずに、シェーンコップの胸へ飛び込む形に、避ける間もなく抱き寄せられて、唇を唇で覆われていた。
汗で塩辛い同士の唇がざらついて、逃げるためにヤンが顔を振ると、
「──暴れると、タブレットを落としますよ。」
ちょっとからかうようにシェーンコップが、息の掛かる近さで言う。
「君、ずるいな──。」
安いものではないのは、さすがにヤンも知っている。抗うための両手はそれで塞がれ、あるいはそれは、抗わないための、ヤンには絶好の言い訳かもしれなかった。
爽やかさも穏やかさも消え失せ、けれど、赤の他人と殴り合う凶暴さもかけらもなく、ほんのわずかの狡猾さを、恐ろしく魅力的に口元と目元に刷いて、耳まで裂けたそれに見えるシェーンコップの笑みに、ヤンは自分がこれから食われる、リスかうさぎか、そんな小さな動物のように感じていた。
「こういう駆け引きも、試合には必要ですので。」
「・・・どう頑張ったって、わたしの負けに決まってるじゃないか。」
「さあて、やってみるまで分かりませんよ。必ず勝つ試合と言うのはないものです。」
口先だけのおためごかしでもなく、ほんとうにそう思っていると言うシェーンコップの口調に、ヤンの肩から少し力が抜けた。
「・・・手加減してくれ、こういうことには慣れていないんだ、わたしは。」
ヤンが怯えたように言うのに、にやっと、またシェーンコップが笑った。
「私も寝技は下手くそでしてね、コーチに散々絞られましたよ。」
うそつき、と言おうとしたヤンの唇がまたシェーンコップに塞がれ、かばうようにタブレットを抱え込んだまま床へ引かれ、倒れ込む前に、シェーンコップがそれを取り上げたたみの上を滑らせて向こうへ放った。
めんつゆを作る話はどうなったのかと、ヤンは往生際悪く考えている。
触れたシェーンコップの胸には、あの万年筆があって、その円みを掌に探っているヤンの動きに気づいたのか、シェーンコップはそれを胸ポケットから抜き取り、タブレットと同じ方向へ転がした。
それから、もう隙間もないように体を重ねて抱き合い、たたみの上で反ったヤンの腰へ、長い腕を差し入れて来る。
めんつゆ、と小さくつぶやいた自分の声を、ヤンは聞いてはいなかった。