パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。ヤンと獣。
* リアル獣姦展開含 *

変化たちの森 18

 ワルターは、昼間の留守番に慣れつつあった。
 ヤンの帰宅の車の音を聞き分けて、玄関のドアを開けると必ずそこにもう坐ってヤンを待っている。ヤンは靴を脱ぐ前に、ワルターを抱きしめて頭を撫でてやり、裏庭に出してから、バックパックを自分の部屋に放り込む。ここから先はひとりと1頭の時間だ。
 秋も進み、夕方にはもう薄暗くなる時期、それよりは少し早い時間にワルターを散歩に連れ出して、時々はワルターと出会った、あの罠のあった林の方へ向かうこともある。
 ワルターはその辺りを特に懐かしがる様子もなく、そこへ行くたびヤンは、ワルターの仲間がいるのではないかと周囲を伺ったり、見慣れない足跡を探したりするけれど、まだ一度もそれらしい痕跡を見つけたことはなかった。
 ワルターにどうやら仲間がいないらしいこと、それをワルターのために淋しいと思うと同時に、それならワルターは仲間恋しさに自分の許を離れたりはしないだろうとずるく安心もしたり、ヤンにはワルターが、ワルターにはヤンが唯一の家族なのだと確認しては、ヤンは小さな落胆とそれよりは少し深いほっとした気分を味わうのだった。
 散歩の間に、ヤンの頭も心も、次第に空っぽになる。熱と湿りの失せた、そろそろ冬の気配の混じり始めている空気に自分の内側を冷やされ、ワルターと同じ歩調で歩き続け、機械的に動く体をただ反射に任せて、そうするうちにゆっくりと頭の中の雑念が取り去られて、ヤンの中はまったく真空になる。
 まるで切り取ったように、視界には自分の足とワルターだけがあり、地面も空も木々も緑もなく、この世界には自分たちだけがいるのだと、目を細めながらヤンは感じて、肺いっぱいに空気を吸い込む。
 ワルターは、ヤンの思考が停止して、頭の中には何もないと言うことを感じるのかどうか、奇妙に優しい目でヤンを見上げて、時々戻って来いと言いたげにヤンのジーンズを噛んで引っ張る。一緒にいるけれど、ほんとうに一緒にいるかと、確かめるようにヤンの反応を欲しがって、ヤンの掌が自分の頭を撫でると、いつも嬉しそうに小さくひと声吠えた。
 散歩を終えて家に戻り、ワルターの夕食の後に自分の夕飯の用意をして、ヤンは食事を10分で済ませると、同じキッチンのテーブルで宿題に取り掛かる。出来は至って適当だ。
 その日ヤンは、宿題を終えてから紅茶を淹れ、少し肌寒い玄関のポーチへ出た。ワルターも一緒に出て来る。
 短い階段のいちばん上へ腰掛けたヤンに、ワルターはぴったりと寄り添い、もう暗い外はヤンの目にはよく映らず、ワルターの目にはきっと様々の物がまだきちんと見えているのだろう。
 月はまだ上がっていなかった。
 ヤンはぼんやりと考えている。片手には紅茶のカップを持ち、もう片方はワルターを撫でながら、日々自分の目に映るあれこれのことを思い浮かべて、その色や輪郭を頭の中でなぞり、それがゆっくりと言葉になり、言葉の連なりが文章になり、そうしてひと塊まりの、物語のような、そんなものになるのを、ゆるやかな小川の流れのように感じている。
 流れの音が聞こえ、小さな振動が頭蓋骨の内側に伝わり、それは次第に、ヤンの皮膚の下を震わせ始める。
 それが、書きたいと言う衝動なのだと、ヤンは気づいていた。
 そろそろいいだろうかと、一体誰に向かってか、何に向かってか、ヤンはつぶやいている。
 自分を撫でるヤンの手に向かって、ワルターがもっと近く体を寄せ、ついにはごろりと横になって、ヤンの腰の辺りへ寄り掛かって来る。
 触れるぬくもりと重み。それをひどく懐かしいものに感じながら、ヤンはまた、もういいだろうかと、もっとかすかな声でつぶやいた。
 何を書きたいのだろう。何が書けるのだろう。何が形になるのだろう。白い紙の上に並ぶ文字。文字は言葉になり、言葉は文章になり、文章は物語になり、物語はヤンの心を映し出す。ヤンは一体、自分の何を外へ向かって吐き出したいのだろう。
 人は簡単に消えてしまうんだと、ヤンは言った。死んだ後のことなんか知ったこっちゃないと、魔女は言った。少女は魔女を看取って泣いた。街を救って死んだ彼と彼女は、勇者と称えられて街の人々の心に残る。
 誰かが、確かにそこに生きて、在ったのだと言うあかし。20年に満たず、ジェシカとラップが生きて、そこにいたのだと言う、そのあかし。
 人々はふたりのことを忘れるだろう。墓は残る。写真も残る。思い出も残る。それでも、人々は容赦なくふたりのことを忘れてゆく。
 喪失の痛み。それは確かにある。それでも日々、確実に薄れてゆくそれは、食べることや眠ることの後ろに追いやられ、ヤンは今、書きたいと言う気持ちの後ろへ、喪失の苦痛を追いやろうとしている。
 会いたいと願っても、それはかなわない。声を発して言葉を交わしたい。ヤンの一方的なひとり言ではなく、ラップを話をしたいと、ヤンは思う。
 それはできない。ラップは死んでしまったからだ。ジェシカも一緒に、死んでしまったからだ。
 「ワルター。」
 ヤンは不意に、隣りの友人を呼んだ。
 ワルターは頭を上げ、ヤンを見上げ、くうんと甘えた声を出して、ヤンの脇へ頭をすりつけて来た。
 「ワルター。」
 また呼んで、四つ足の友人が自分の手を舐めて来るのに、ヤンはお返しのようにその頭にキスをした。
 「何がいいかな、もう次は最初からひとりじゃなくて、ちゃんと連れがいることにしようか。」
 ワルターの背中に頭を近寄せて、ヤンはワルターに話し掛ける。ワルターは相槌のように、言葉の間に小さな声を入れて来る。
 「どうしようかな、アッテンボローのために、可愛い女の子が主人公がいいかな。」
 今書けば、きっとジェシカそっくりになってしまうだろうから、できるだけ正反対の方がいい。背は低くて、髪はうんと短くて、ドジで、口が回らないからつい無口になって──いやそれじゃあ全然可愛くないじゃないか。
 あんまり口数は多くないけど、はきはきしゃべる子で、髪と瞳の色は灰褐色で、ひとりでもいつも堂々としてて──それじゃまるでワルターだ。
 「じゃあ、可愛い女の子はおまえにして、もうひとりはアッテンボローみたいなのにしようかな。いっぱいしゃべって、色んなことを知ってて、頼りになって、でも女の子にはモテないんだ。」
 ひどいなあと、自分で思ってヤンは笑う。
 街で何か事件がおきて、隣人同士の幼馴染みのふたりは、偶然事件に巻き込まれ──殺人事件を目撃しちゃうとか。それで犯人につけ狙われるけど、何とかふたりで協力してそれから逃げて、犯人だって証拠を掴むんだ。犯人に、可愛い娘でもいることにしようかな。それでアッテンボローが彼女に恋して、犯人を訴えるのをためらうとかさ。
 ワルターは、じゃあひとりでも証拠探しをするって頑張るけど、ひとりじゃ限界があって、結局アッテンボローは好きな子のことを、その時は諦めて、何とか犯人を──
 そんなの書けるかな。ヤンは髪をくしゃくしゃ混ぜた。
 紅茶がすっかり冷めている。
 まいいや、とヤンは、半分くらいは投げやりに思う。
 何でもいいんだ、今は何か書きたいだけなんだ。中途半端でもいいさ。何か書いて、ノートを埋めて、そうして──
 以前のような日常に戻るのだ。ジェシカとラップの気配の色濃く残るこの新たな世界に何とか慣れて、ヤンはそれでも生きて行くしかないのだ。
 おまえを置いて、どこにも行けないもんな。
 ワルターのぶ厚い背中に耳をくっつけ、ヤンは唇だけ動かして、そうつぶやいた。
 人は簡単に消えてしまうけれど、ヤンのその時は今であっては困る。ワルターがいるから、ヤンはもう少し、先のことを見据えなくてはならない。
 だから書き続けよう。何でもいい。何でもいいから書いて、そうしてその中に、ジェシカとラップの気配をとどめよう。
 それが、自分できる精一杯なのだと、ヤンは思った。
 ヤンはそろそろ空になるカップをそこへ置き、ワルターの方へ向き直る。何かと体を起こしたワルターを両腕の中に抱いて、近頃ワルターから学んだ、額を触れ合わせる親愛の仕草をする。
 額を合わせて、ワルターのあごや頬を撫で、ワルターが目を細めるのに一緒に目を細め、合わせた額が熱いのに、人より高いその体温に、ワルターの生命力を感じながら、ヤンは生き生きとした獣の匂いを胸の奥まで吸い込んだ。
 それから、喉を伸ばしてワルターの口元へ晒し、牙を立てられれば一瞬で絶命するだろうそんな姿勢のまま、ワルターの首筋へ自分の首をこすりつける。急所を見せるそんな所作も、ワルターから学んだことだった。
 喉をこすり合わせて、かすかにワルターがぐるぐると喜びの声を立てているのに、ヤンも真似をして喉を震わせる。
 通じる言葉を持たないひとりと1頭は、体を寄せて信頼を表し、互いへの害意のなさをそんな風に表現して、言葉を持つ人間同士よりももっと原始的に互いを受け入れ合う。
 ワルターと呼ぶと、がうとワルターが吠える。ヤンの名前を呼ぶようなその声音に、ヤンはこの世で唯一の響きを聞き取って、生まれも育ちも違う、見掛けもまるきり違う自分たちは、それでもきちんと通じ合っているのだと、また喉を伸ばしてワルターの首筋へ押し付けた。
 ワルター。がう。
 そうして呼び合うことを数回繰り返して、声に震える喉をこすり合わせていると、同じように赤い血の熱さが伝わって来て、少し打ち方の違う心臓の音がゆっくりとそれに重なって来る。
 ワルターを抱いて、人間の少女にしたワルターの外見を、きちんと書き出すために想像しながら、女の子と言うところにはまったくぴんと来ないまま、それでも何とかアッテンボローの喜ぶように、それなりに可愛い少女を思い浮かべて、ヤンは現実のワルターと似ても似つかないその顔の造作や立ち姿に、思わず苦笑をこぼす。
 ジェシカにもラップにも、まったく似たところのないワルター──あるはずもない──に、だから魅かれたのだろうかと思いながら、ヤンは牙の見える辺りへ唇を押し当てた。
 離れると同時に顔を舐められ、ついでのように肩へ乗り掛かられて後ろへ倒れて、ヤンは自分の上へ全身を乗せて来るワルターを抱き寄せて、その重みへ、何か思い出すように目を閉じる。
 降りるまぶたの、細まる視界に昇り始めた月の端が見え、夜気はすでに肌寒かったけれど、ワルターのぬくもりがまるで毛布のようだった。
 家の中で、電話が鳴っているのが聞こえる。こんな時間だ。アッテンボローに決まっている。電話に出なかったら、また心配して血相変えてここに飛んで来るかなと、思いながらヤンは動かず、閉じたまぶたの裏で電話の鳴る音を聞いている。
 何も言わずに、ほらと、明日ノートを見せよう。アッテンボローがモデルだなととひと言も言わずに、新しく書き出したそれを、アッテンボローに見せよう。
 これから自分が描き出す街の風景を眼球の裏へ手繰り寄せながら、上(のぼ)る月の下、ヤンの手はゆっくりとワルターの体を撫で続けている。

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