I Don't Believe
In Love 朝までには死んでいるはずだった承太郎の目論見は、朝を待たずにもろくも崩れた。 車の音、数人が走り回る足音、懐中電灯の光、警官が、ビルの中に踏み込んで来たのだ。 薬の回った体で、眠っているとも起きているとも知れない男たちは、騒ぎにのろのろと体を半ば起こし、残りは、警官の手で引きずり起こされた。 壁際に、全員が集められて、懐中電灯が、まぶしくひとりひとりの顔を照らす。承太郎を見た警官が、血に汚れたシャツへ光を移動させ、眉の間を険しく寄せ る。それを、承太郎はただぼんやりと見ている。 「そいつか!?」 別の警官が怒鳴る。承太郎の目の前の警官がうなずく。その場にいた他の男たちを放り出し、踏み込んで来た警官4人のうち、3人が承太郎を押さえつけた。 うつ伏せにされ、背中へ取られた両手首に、ぎりっと音を立てて手錠が掛けられる。 「なんだ・・・?」 問いとも言えない声が出た。 彼らは承太郎を探していて、承太郎を見つけたのだ。一体、何のためだろうかと、回らない頭で考えようとする。 床に押さえつけたまま、2本の腕が承太郎の服を探り、ポケットの中を空にしてゆく。薬の残り、薬を使うための道具、そして、結局使うことのないままだっ たナイフ。ナイフを見つけた途端、警官たちは色めき立ち、やけにはしゃいだような様子で、承太郎を引きずり起こした。 「殺人容疑で逮捕する。黙秘権を---」 「殺人?」 自分の腕を掴んだふたりを交互に見て、それから、承太郎はちょっとだけそれに抗った。そんな風に触れられるのがいやだったのだ。 「暴れるな!」 すかさず怒鳴られる。そして、さらに強く押さえつけられて、もうひとりが加わって、3人がかりで、承太郎の背高い体を引きずってゆく。 暴れてもいない、抗うつもりはない、ただ、薬のせいで、体がちゃんと動かないだけだ。傷が残らない程度に、警官のひとりが承太郎を小突く。 頭を押さえつけて、彼らは承太郎を、路地を出た道路に停めていたパトカーの中に、荷物のように放り込んだ。 殺人。承太郎が殺した6人のことが、ついにばれたのだ。逃げおおせるとは思ってはいなかったし、そもそも、承太郎が逃げていたのは、警察からではない。 パトカーの中で、手足を縮めて窮屈さに耐えながら、防弾ガラスの向こうで車を運転している警官の後ろ頭を、承太郎はじっと凝視する。 そうだった、6人だ。撃って殺した。死体がどうなったのか知らない。そうか、とまた思う。捕まったのだ。 どの分署なのか、大した距離も走らずにパトカーから降ろされ、こんな時間だと言うのにまだ騒がしい署内で、刑事の手に引き渡された。 まだ薬でぼんやりしたままの承太郎を、彼らは取調室に放り込み、手錠を外してから、承太郎の血だらけのシャツを剥ぎ取った。 丸い顔に丸い体、背は低いけれど、目つきだけは鋭い中年の刑事と、もうひとりは派手なチェックのネクタイの、妙な尊大な印象の、まだ若い刑事だった。 素肌の上に上着を着て、小さな硬い椅子に坐って、承太郎は、目の前の古ぼけた机を眺める。カップを置いたらしい跡や、こぼれたコーヒーの染みらしい形 や、容疑者に自白を迫って、彼らが拳や掌で叩いたことも、何度もあるのだろう。この上に顔を伏せて、何もかもを無視して、眠ってしまいたいと思う。 眠気はない。薬のせいで白く濁ったままの頭の中に、睡魔は訪れない。けれど、承太郎は、確かにひどく疲れていた。 ネクタイの刑事が、承太郎の目の前に指を突き出し、何かを数えるような仕草を見せる。殺人、銃の不法所持、薬の不法所持、警官への暴行、遺体損壊、7人 殺したと、刑事が言う。 7人? 承太郎は、机に向かってうつむいていた顔を上げた。 「6人だ、7人じゃない。」 かすれた声は、けれど刑事たちの耳に、きちんと届いたらしい。ドアの傍にある、彼らの背後にある大きな鏡---マジックミラーだ。そこから、他の連中が 中を眺めている---へ振り返り、何かの合図のように首を振る。それを真似て、承太郎も思わず首を振った。 「6人だ。」 混乱した空気が流れ、その空気をきちんと読み取ることができず、承太郎は体を揺らした。考えようとすれば、頭が激しく痛み始める。 中年の刑事が何か言った。聞き取れず、眉を寄せる。それに腹を立てたのか、彼が承太郎を怒鳴りつける。椅子の中で、承太郎はまるで熱でもあるように、小 さく震えていた。 慌しく部屋のドアが開き、誰かが、ネクタイの刑事にフォルダを手渡した。そこから取り出された大きな写真が、机の上に並ぶ。 1枚1枚に、承太郎は、焦点の合わない視線を落とす。 「ああ。」 視線を移しながら、うなずいてゆく。見覚えのある顔だ。記憶の中では、どの顔がどの時だったと、ごちゃごちゃと混ざり合い、その顔の人間の頭---や他 のところ---に銃弾を撃ち込んだということ以外には、細かなことは何もはっきりとは思い出せない。 スポーツ・マックスの、そうなっても卑しさの消えない死に顔の写真もある。死体安置所の、銀色のテーブルの上に乗せて撮られたのだろう、こめかみに、き れいに洗われた、肉の砕けた傷口が見える。それを見た時だけ、承太郎は、この男がこの世にいないことに、心の底から笑いが湧きそうになった。 そして、その隣りに、その中では格段に若く見える、そして、ただひとり東洋人であることを除いても、ありとあらゆる点で、他の死体とはまるで違う、花京 院の死に顔があった。 写真に空ろな視線を当てたまま、承太郎は首を振った。肩全部を揺らして、膝の間に両手を落として刑事たちを見上げると、その姿がまるで10代半ばの少年 のように頼りなく見え、刑事たちが思わずそれに眉を寄せたのを、承太郎はすべて見逃した。 「おれじゃない。おれは殺さなかった。」 唇も舌も、うまく動かない。 殺してくれと、花京院はおれに言った。なのにおれは、そうしなかった。他の誰かの手に掛かって、花京院は死んだ。おれを残して、先に逝った。 花京院の写真に手を伸ばす。ぞっとするほど冷たいだろう肌の色が、そこにはっきりと見える。指先を唇の辺りへ置いて、その唇が、様々なことを自分に語り 掛けたことを、承太郎はひとつびとつ思い出そうとする。 先に行って、待ってる。君が好きだ。神よりも先に、君に出会いたかった。君の行くところが、僕の行くところだ。 薬では死ねなかったけれど、警察の言うことをすべて受け入れて認めれば、恐らく間違いなく死刑になるだろう。7人---6人---殺した、表面的には、 これという確固とした理由もなく、承太郎はただ、ゴミを取り除くように、人を殺したのだ。こんな承太郎が、許されるわけもない。今朝までに死体になってい る予定だったけれど、それは、それを見学する人間たちの目の前で、腕に注射針を差し込まれるということに変わった。承太郎の体の中に入るのが、ヘロインで はなく、何かの毒に変わるのだ。 それなら、それでいい。 刑事たちが、相変わらず何か言い続けている。殺人の詳細を、承太郎に尋ねているけれど、撃って殺したとしか、承太郎には答えられない。刑事たちは、少し ずつ忍耐を失い、汗をかきながら部屋の中を威圧的にうろうろと歩き回り、何度も承太郎を殴りたそうに、肩や背中へ触れて来た。 それでも、花京院を殺したとは言わない。殺していない。やったのは承太郎ではない。やるつもりだった。そうするつもりだった。花京院がそれを望んだか ら、花京院のために、花京院を殺すつもりでいた。手に入れたナイフで、花京院を刺し殺すつもりでいた。 刑事たちが、しつこく承太郎には答えられない質問ばかりするのに、そろそろ薬の切れかかった承太郎の頭の中は、ますます混乱してゆく。 彼らの言葉は、断片でしか脳に届かず、何もかもが、まったく筋が通らない。意味も成さない。 承太郎のシャツについていた血は、朝には花京院のものだと証明されるだろうと、中年の刑事が言う。その通りだ、あれは花京院の血だ。承太郎は思う。現場 で見つかった銃は、他の殺人にも使われたものだ、後は、おまえの指紋が一致したら、おまえはおしまいだ。銃、とその言葉が引っかかる。銃は、DIOに返せ と教会に置いて来た。なぜそれが、花京院の傍にあったんだ。なぜその銃で、花京院が殺されたんだ。なぜ、あの銃を使った。なぜ。すでに6人殺した承太郎 に、もうひとつ殺人罪が掛かったところで違いはないからか、それとも、最初からそのつもりだったのか。承太郎に、花京院を殺させるために、何もかもがお膳 立てされていたのか。承太郎は殺さなかった。けれど、承太郎が殺したことになっている。花京院は、承太郎が犯した殺人の、その中のひとつということにされ てしまっている。違う、と承太郎はまた思う。 花京院は、その中のひとつではない。花京院は、ただひとつのものだ。花京院だけは違う。承太郎が殺した人間たちと、花京院は違う。花京院は、積み重なる 名もない死体のひとつに、数えてしまってはいけないのだ。花京院は花京院だと、叫んだ声に、刑事たちがひるんだ表情が浮かぶ。 「話にならねえ。」 若い方の、ネクタイの刑事が、呆れたように、疲れたようにつぶやいた。 留置所は、もちろん快適とは言いがたい場所だったけれど、上着だけでも寒くはなかったし、承太郎はそこにひとりきりだった。 歩幅2歩分もないその狭さの隅で、膝を抱えて、承太郎は、少しずつ激しくなる禁断症状に耐えている。 苦しがっていた承太郎を心配してくれたのか、定期的に見回りに来る警官が、やたらと砂糖を入れたコーヒーを、紙コップで差し入れてくれた。香りのない コーヒーは、色のついた砂糖水のようだったけれど、承太郎はまだ熱いそれを一気に飲み干し、舌や唇のやけどを、かまうこともしなかった。 朝になったのだと、ここと向こう側を仕切るドアの向こうの気配が伝えて来る。おはようと言う声、早く家に帰りたいとぼやく声、ざわついたその空気は、こ こが警察署の殺人課であろうと、街の他の場所と変わらない。 花京院が死んで、一体どのくらい経ったのだろう。24時間か、それとももっとか、あるいは、あれはもう1週間も前の話だろうか。 無意識に、上着のポケットを探っている。見つかるはずもないのに、捕まった時に警官が取り上げた、薬を探している。 ドアが開いて、警官が大きな足音を立ててやって来た。それに、軽やかな、落ち着いた足音が続く。坐り込んでいる承太郎の視界に、切れそうなほどきちんと 折り目のついた、見るからに高そうな生地のズボンと、顔が映りそうに磨きかれた革靴が入る。そして、薄茶の、生地は薄くて軽いけれど、きっととても暖かい に違いない、裏地が赤っぽいチェックのコートの、長い裾、その陰に、傷だらけの大きなブリーフケースが見えた。 「出ろ。おまえの弁護士だそうだ。」 警官---コーヒーを差し入れてくれた警官は、どうやら仕事を終えてしまったらしい---は、留置所の扉を開けながら、承太郎に向かってあごをしゃく る。 「空条、承太郎?」 発音しにくそうに、弁護士だという男が、爽やかな笑顔で、立ち上がって出て来る承太郎に、手を差し出す。承太郎は、それを無視した。 「国選弁護士か?」 「いや、君の家族に依頼されてね。まあ、誰が私を雇ったかなんてどうでもいいことだ。これから先は、すべてのやり取りは私がやるよ。君は私とだけ話をし て、後は黙っていてくれればいい。」 家族、と承太郎は、いちばん最初の胡散臭さを、この弁護士に感じた。長い間連絡さえ取ってない家族が、今の承太郎の状態を知って弁護士を差し向けるな ど、考えられなかった。 警官に腕を取られ、その承太郎の背中を、親切そうに支えるような仕草で、弁護士が後について来る。 少し前に、刑事ふたりと閉じこもった取調室に、今度は弁護士と名乗る男とふたりきりだ。 承太郎は、事情聴取の時よりももっと居心地悪く、また小さな固い椅子に腰掛け、警戒心を丸出しに、机の隅を囲い込むように坐った弁護士が、大きなかばん からノートとペンを取り出すのを、黙って眺めている。 「君のシャツの血が、被害者のものだと証明された。後で検死医が来て、君のDNAを取るそうだ。最後の被害者の死体から見つかった精液が、君のものかど うか調べたいそうだ。残念ながら、今さらそれを拒否しても仕方がないし、ここは向こうの言う通りにした方がいい。むしろ、死後の強姦で死体損壊罪を問うな ら、その方が私にとっては君を弁護するのに都合がいいんだ。」 「弁護?」 背筋が寒くなるような、嘘くさい言い方に、承太郎は眉の端を吊り上げる。そうするだけで、額に汗が浮くほど、頬の辺りに痛みが走る。 「君の罪が、できるだけ軽いものになるようにだ。刑事は君が自供したと言っているが、それは別にいい。大事なのは、君の言っていることが、まったく筋が 通っていないということだ。とりあえず、君が何をどうした、ということをこれから詳しく訊くが、今のところ、君は薬物乱用、重度の薬物中毒による幻覚と心 身喪失、そのせいで6件の殺人を犯すに至り、その過程で、最後の被害者と痴情のもつれがあり、衝動的に彼を殺した、さらに、彼に対する怒りや何かで、死体 の彼を強姦した、典型的だ。君は、自分のしたことをきちんと理解していないし、ゆえにその結果を想像して行動したなんて、とてもじゃないが無理な話だ。君 は、一時的におかしくなっていたんだ。薬のせいだよ、君のせいじゃない。検察側が君をきちんと裁けるとしたら、薬物の不法所持と使用、それから銃の不法所 持くらいだ。そうだな、せいぜい5年、実際に刑務所にいるのは半分だと思って間違いない。逮捕はこれが初めてだし、君の指紋すら、警察のデータベースには 入っていない。君は、ほんとうにただの麻薬中毒患者だ。もっと早く、誰かが君に救いの手を差し伸べるべきだったんだ。君がこんなことになって、殺人なんて バカげたことをしてしまう前に。君はある意味、被害者とも言える。私の言うことがわかるかい?」 男が、よどみなく、一方的にまくし立てるのを、承太郎は頭痛に耐えながら聞いた。 力強い声、正確に、慎重に選ばれた、洗練された語彙、こんな喋り方には覚えがある。内容が真実であろうとなかろうと、それに関わらず、人の耳を引きつ け、そして説得する、そのために訓練された弁護士という人種、この男は確かに、そのひとりに間違いない。 吐き気を催しながら、承太郎は男を、にらむように見つめた。 なぜだかはわからない、何かに、この男の何かに、承太郎の皮膚の1枚下が、ちりちりと反応している。 「おれは、人殺しだ。6人殺した、黙ってても死刑じゃねえのか。」 「だから私がここにいるんじゃないか。死刑だけは、絶対に止めてみせるよ。社会が、君を殺人者にしてしまったんだ。君は何も悪くない。私を信じてくれれ ばいい、君にとって最良の方向に、必ず話を持って行くよ。」 承太郎にとって最良の方法は、このまま死刑にされることだ。そうすれば、花京院のところへ行ける。先に行ってしまった花京院に、また会える。 それを阻止して見せる、それが承太郎にとって最良のことだと、目の前の男が言う。 なぜ、何もかもが、承太郎の意志に逆らうように、勝手に進んでしまうのだろう。殺してくれと、心の中で叫ぶ承太郎に与えられる、これこそが罰なのだろう か。 何もかもに金の掛かった男の身なり、自信にあふれた仕草、失敗など有り得ないと、そう信じ切っている---そしてそれには、きちんと根拠がある---言 葉の連なり、間違いなく、この男はその仕事を、見事にやり遂げるだろうと、承太郎は確信する。そうして、死にたがっている自分を生かそうとしているこの男 に対して、今ではすっかり身に馴染んでしまった殺意が、ゆっくりと身をもたげる。 「君は黙って、何もかも私に任せてくれればいい。」 男が、爽やかに笑った。ごく普通の外見のこの男が、ひどく魅力的に見えるだろう、そんな笑顔だった。 承太郎に、さらに念を押すように、あるいは、信頼に裏打ちされた親密さを演出するためだったのか、それとも単に、ある種の癖なのか、男が、机の上でずっ と握りしめていた承太郎の拳に、自分の掌を重ねた。 さらりとしたその感触は、男が緊張もしていなければ、承太郎の抱え込んだ問題を恐れてもいないことを、何よりも雄弁に語っていて、そして、なぜか、その 感触に、承太郎は、皮膚の裏側を濡れた舌で舐め上げられたような気分になった。 直感が、逃げろと、そう言っていた。この男は、間違いなく優秀な弁護士だろう。誰が何のために雇ったのかはわからない、けれど、何かしっくりとしないも のが、ねじ曲がった意思のようなものを吐き散らしているのを、承太郎ははっきりと感じている。 衝動が、体を動かした。 机を持ち上げ、椅子を蹴って立ち上がった。倒れる机から滑り落ちるブリーフケースの中身が、ひらひらと舞う。その向こうに、驚愕と恐怖に全身を囚われた 男の姿が見える。その首に向かって、承太郎は両手を伸ばす。 花京院にそうすることは、できなかった。けれどこの男に対しては、ためらいはない。首を締め上げて壁に叩きつけると、承太郎に持ち上げられた男の体は、 ほとんど宙吊りになった。 私服の刑事たちと、制服の警官たちが、一斉に部屋の中へなだれ込んで来る。承太郎に、無数の腕が掛かり、弁護士から引き剥がして、まるで圧死でもさせる ような勢いで、承太郎を床に押さえつける。 承太郎は、それでも全身で暴れ続けた。体の痛みを感じることはなく、ただ必死に、自分を止める腕を振り払い、弁護士だという男へまた掴みかかろうと、そ れだけしか頭にはなかった。 弁護士はさっさと部屋の外へ連れ出され、暴れる承太郎を押さえる刑事たちが残り、そして怒鳴り声が何度も交わされた後で、不意に、新たな足音がして、そ して、肩の近くに針を刺す痛みを感じた。 「救急車を呼べ!」 意識が途切れる直前に、そう怒鳴る声を聞いた。それが最後だった。 |