Breaking The
Silence 花京院のそばで、目の前---と、承太郎は思った---で一度薬を打ち、まだ離れがたく、また花京院を抱きしめ た。 もう、体温はなく、ただ冷え凍ったその体を、これも冷えた自分の体で覆って、最後に、承太郎は花京院の耳朶を噛んだ。 承太郎が手渡して着けた、あの赤いピアスが揺れているその耳朶を、それごと口の中に入れて、噛んだ。硬いのか柔らかいのかもうわからない、そのいつも以 上に冷たいそこを、承太郎は噛み切りたいように噛んだ。 弾力のなくなった皮膚に、醜く歯型が残り、ふと、その耳を切り取って持って行こうかと、そんなことを思いつく。 花京院を刺し殺すつもりで手に入れて戻ったナイフが、上着のポケットの中に、手も触れられずに入ったままだ。 けれど、まだ微笑んでいるように見える花京院の体を、もうこれ以上に損ねることができず、そして、心のどこかで、もし生き返ったら、耳がなくては困る じゃないかと、そう思ってもいた。 花京院が甦るのを、承太郎はここで待っていたのだ。そして、硬く冷たくなった花京院が、承太郎がそう望むように息を吹き返すことが起こるはずもなく、承 太郎はようやく、のろのろと体を起こし、花京院から離れた。 身づくろいをして、上着に腕を通し、シャツの前や手や顔が、血に汚れているのに気づいてもいない風に、承太郎は足を引きずるようにドアへ向かう。 目を閉じたままの花京院が、闇を怖がることはないだろうと、明かりを消して、開いたドアの外へ、つんのめるようにして出てゆく。 外はもう夜だ。高速を走る車の音が聞こえ、かすかに、騒がしい音楽も聞こえる。音のする方へ首を振りながら、夢遊病者のように、承太郎はふらふらと歩 く。 星の見えない空を見上げて、そして、何かを探すように、承太郎は辺りを見回し続ける。揺れる肩が、時折地面に近くなりそうになりながら、かろうじて倒れ ることはなく、どこへともなく、承太郎は歩き続けている。 夜の中にも、星空にも、肺へ入ってくる空気の中にも、周りを取り巻く風景にも、どこにも、花京院の気配がない。承太郎は、あるはずもない花京院の気配 を、探し続けている。 無意識に向かうのは、馴染みの場所だったけれど、そこへ向かっていると気づきもせず、動き続ける自分の爪先を時折見下ろして、承太郎は、自分の中に、緊 張にくるまれた憎悪が、ゆっくりと満たされるのを感じていた。 ぎくしゃくと、ぎこちなく動くばかりの体の中に、もう手に取って確かめられるような、あの情熱は跡形もなく、まるであの花京院そのままのように、血の巡 る音さえ聞こえないような気がする。 これが、承太郎が救おうとした世界だ。愚かであったことは確かだったけれど、少なくとも真摯に、ありとあらゆる誠意を込めて、承太郎が救おうとしていた 世界だ。 足を止め、空を見上げる。街の中心に近づきつつあった。街灯が増え、すれ違う人の姿も増え、車は、音を立てて通り過ぎる。人たちが歩き、笑い、しゃべ り、彼らは、間違いなく生きている。彼らの幾人かが、うっそりとそこへ立ち止まった承太郎の、血に汚れた姿を認め、明らかに様子がおかしいのには関わるま いと、目をそらしてすれ違ってゆく。 承太郎の目は、それを見ない。 「花京院。」 つぶやいたつもりだったけれど、それよりは大きな声で、そばを通り過ぎたふたり連れが、気味悪そうに承太郎から遠ざかってゆく。首を回し、彼らの姿を目 で追った。ふたりのうちのひとりが、花京院のように思えたからだ。 またふらふらと歩き出す。 この世界に、花京院がいない。花京院が、どこにもいない。承太郎が救おうとした花京院が、承太郎が救おうとしたこの世界に、いない。もう自分には、何も 残ってはいないのだと、思いながら歩き続ける。 1歩前へ進むごとに、体の中から、あらゆるものが流れ出していく、そんな感覚があった。 それは、愚かな情熱だったり、力への渇望だったり、空しい、希望と呼ばれるものだったり、そして、花京院という存在も、承太郎の中から流れ落ち、こぼ れ、世界に何の痕跡もない今、承太郎の中からさえ、花京院は去ってしまおうとしている。 「花京院。」 呼ぶ声が、届くはずもないのに、それでも承太郎は、花京院を辺りに探し続け、その名を呼び続けた。 周囲に見える人の顔や、光や、音の中にさえ、花京院が見える。そうして承太郎を囲みながら、手は届かず、承太郎を見もしない花京院だ。 ふたりで、歩き出せると思っていたのに。逃げた先に、希望があると、信じていたのに。花京院は、承太郎を傷つけない。承太郎は、花京院を踏みつけにはし ない。そうやって、生きて行けるのだと、信じていたのに。 始まってさえいなかったふたりの物語は、だから終わることさえできないのだ。始まりも終わりもないその中で、承太郎だけがひとり、さまよい続けている。 これは悪い夢だ。今までがそうだったように、これもきっと、悪い夢だ。薬で飛び損ねて見る、胸の悪くなる、気持ちの悪い夢だ。薬が切れれば、苦痛に襲わ れて目が覚める。目が覚めればきっと、花京院が目の前にいるだろう。 承太郎、大丈夫かい? 服を脱がせ、汗を拭い、清潔なベッドに承太郎を押し込め、眠れない承太郎が、眠れない眠りを眠ろうとするのを、見守っていてくれる。そう求めれば、あた たかで優しい両腕を差し出してくれる。 そのはずだ。 朝が来るまでの辛抱だ。承太郎はそう思った。 見慣れた通りや店を通り過ぎながら、けれどそのどれも、まるで赤の他人のようによそよそしく見える。生まれて初めての場所へ放り込まれたように、承太郎 はわずかに怯え、舗道の端に寄って、肩と背中を丸めた。 降っているかどうかも定かではない雨が、音もなく降り始めていた。浴びたところで濡れたとも思えないだろう、そんなかすかな雨だ。 承太郎は、また立ち止まって空を見上げた。まるで、柔らかく包み込むようなその雨粒---ですらない、まるで濃い霧のような---に目を細め、その感触 に、花京院の掌を思い出している。それから、その雨が、花京院の今まで流した涙なのだと、そう思った。 舗道を黒く濡らすことさえできないひそやかな雨は、世界をひっそりと包むけれど、人々はそれを気にする風もなく、雨が降っていることにすら、気づいてい ないように見えた。 花京院の叫びも涙も、どこにも届いてはいなかった。世界を確かに包んだはずのそれは、無視され、なかったものにされ、そして花京院は、そこに確かにいた のだという痕跡すら残せずに、逝ってしまったという事実も、この雨と同じに、降り止み乾いてしまえば、誰の記憶にも残らない。 存在しなかったと同じことだ。そこへいようといまいと、何も変わらない。海の表面に、波紋すら残せない、このしめやかに降る雨そのもののような、花京院 だ。 この降る雨を、掌の中に集めたいと、承太郎は両掌を揃えて上に向ける。この湿りと、冷たさと、ほのかな感触を、忘れたくはない。承太郎だけは、忘れるべ きではない。 花京院は、確かにそこにいたのだ。泣きながら、叫びながら、助けを求めながら、そして最期には、その何もかもが徒労に終わったことを、恨んだ表情さえ浮 かべずに、承太郎を置いて逝ってしまったけれど、花京院は、確かにここにいたのだ。体温を持つひととして、誰かを救うことで自分を救えると、絶望を希望に すり替えて、花京院は生きていたのだ。 そして今、花京院は、生きてここにはいない。ここにいるのは、生きているのか死んでいるのかわからない、承太郎だけだ。 承太郎は、雨に湿った掌を、しっかりと握った。その拳を、自分の胸に当てた。 また歩き出す。ゆく先など、ひとつしかない。 ひそやかな雨に溺れることはできず、花京院の涙に溺れることも、もうできない。だから、薬に溺れるしかないのだ。薬に溺れて、朝を待つしかない。すべて がただの悪夢であることを夢見て、目覚める時を待つしかない。 寒さは感じないから、このままでいれば、運良く凍死できるかもしれない。朝を迎える頃には、花京院と同じく、承太郎も死体になっているかもしれない。お そらく、それがいちばん良いのだろう。 迷いもせず、暗い路地へ入り込んでゆく。長い間放置され、こっそりと人の出入りができる程度に鍵の壊れた裏口が開いたままの、暗いビルの中へ踏み込む と、案の定、薄汚れた男たちが、小さな火を囲んで、ぶ厚く着込んだ服にくるまれて、空ろな目で思い思いの姿勢に横たわっている。 瞳だけを動かして、近寄る承太郎を見やるけれど、誰も声を掛けたりはしない。 火の傍に、坐れる隙間を探し、そこへ置いたままのダンボールの上へ腰を下ろす。床の冷えが体を打つけれど、心は薬のことに囚われてしまっている。 花京院を忘れるために、花京院をもっと鮮やかに思い出すために、花京院を、決して忘れないために、承太郎は、白い粉を溶かして体の中へ入れる。 入り込んだ、花京院の躯の中のなまあたたかさを、血管に注ぎ込まれる薬液に思い出す。あの躯の中は冷えてゆくばかりだったけれど、少なくともこの薬は、 承太郎をしばらくの間、あたたかく抱きしめてくれるだろう。 廃墟のようなビルの中にあるのは、ひとになり損ねた承太郎たちの気配と、走り回るねずみか何か、そんなものの足音だけだ。 路地から出れば、普通の世界が待っている。けれどその世界は、ここへは届かない。 白く光る頭の、脳の痺れる感覚に、承太郎は沈み込んでゆく。 おれも死んだのだと、承太郎は唐突に思った。 花京院と一緒に、おれも死んだのだ。 明日の朝には、体も死んでいるだろう。花京院と一緒に逝った心を追って、承太郎も、あちら側へ行ってしまうのだ。 朝が待ち遠しい。凍って死んだ承太郎を、花京院と一緒に埋めてはくれないだろう。それだけが心残りだと思いながら、ダンボールの上に手足を縮めて横た わって、承太郎は、眠るためではなく目を閉じた。 |