The Mission



B

 丸3日、承太郎は教会に姿を現さなかった。
 承太郎を尋ねてゆくと決めるのに、ずいぶんと思い悩んで、花京院はその日午後になる前に、プッチの部屋へ行った。
 「外出のお許しをいただけますか。」
 大きな机の上に広げていた書類から顔を上げて、プッチは特に怪訝そうな表情も見せない。けれどにこりと微笑むわけでもない。
 「ずいぶんと、親身なことだ。」
 声の調子に皮肉を聞き取って、花京院はひるんだようにあごを引く。日曜の夜の、承太郎との諍いのことは、特に話してはいないけれど、物音や気配で何が起 こったか、どうせ察しているはずだったから、わざわざ説明しようとも今さら思わない。口にしたいことでもなかった。
 仲違いと、その理由を知った上でのプッチの口調だ。プッチの元で過ごした時間の間に、すっかり慣れてしまったつもりでいても、やはり気が重くなるのは止 められない。
 プッチは、手元に小さな紙を引き寄せると、それにさらさらと何か書いた。それを手に椅子から立ち上がり、紙片に目を落としたまま花京院の方へ近づいて来 る。
 差し出されたそれには、承太郎の住所が記してある。それを見て、わずかに花京院の口元がゆるむ。
 突然、プッチが花京院のうなじの辺りを片手でつかんで、乱暴に後ろに引いた。
 指の食い込む痛みに小さく声を上げて、花京院は体を後ろに反らせた。
 まるで、あらわになった花京院の喉に食いつくとでも言うように、その辺りに顔を近づけて、プッチが低い声でささやく。
 「・・・己れの分は、常にわきまえておくことだ。」
 思慮深げな神父の貌(かお)はどこにもない。あるのはただ、凍るような色の瞳だけだ。何度同じ調子の声を聞いても、相変わらず花京院は、不意に冷気を浴 びたように、ぞっと背中を震わせるのをやめられない。首に添えられたその掌と指先から、背骨が凍ってゆくような気がした。
 「自分が何者か、あるいは何であるか、決して忘れないことだな。」
 痛みに顔が歪む。平たい、だからこそ恐ろしいプッチの声に、花京院は言い返す言葉など持たない。
 忘れられるわけがない。様々に、今まで散々、体に叩き込まれて来たことだ。それでもプッチは、今でも時々、念を押すのを忘れない。そうやって、花京院を 繰り返し繰り返し侮辱するためだ。侮辱だけが、花京院のような人間には相応しいと、心からそう信じているように、花京院がプッチから確実に得られるのは、 ただそれだけだった。
 「外に出れば、おまえと同じ類いの輩が山ほどいる。神の祝福から程遠い、薄汚い連中だ。油断すれば、おまえもすぐそこへ逆戻りだ。今さら、あんなところ へ戻りたくはないだろう? 気をつけることだ、おまえがどれだけ努力しようと、あの連中はすぐにおまえを仲間と嗅ぎ分ける。心の弱いおまえのような人間 は、規律も秩序も何もない、けだもののような世界にすぐに引き戻されてしまう。おまえは、救いを約束されたここにいて、神に仕え、為すべきことを為してい ればいい。おまえが、その下らない価値もない脳みそを使う必要はない。考えることも何もかも、すべて神がやって下さる。おまえはただ、神の言われる通りに 動けばいい。」
 静かな声だった。淀みのない口調に、内容の冷ややかさをうっかり聞き逃しそうになる。警告ではない。すでに脅しだ。この首に回された鎖は、主人が許す範 囲において自由が利く程度には長いけれど、その端は常に、主人の手の中だということを、決して忘れるなと、プッチはそう言っている。神というのは、つまり はプッチ自身のことだ。無言のその教えを、花京院は、とっくの昔に体に刻み込まれている。
 花京院の耳元に、いっそう近く唇を寄せて、プッチは言葉を継いだ。
 「神はいつでも見ておられる。何もかもをだ。おまえがどこにいようと、何をしていようと、神の目から逃れることはできない。」
 「・・・わかっています。」
 痛みにつぶれた声で、花京院はやっと言った。
 プッチは、荷物を放り出すように、花京院から手を外した。思わずよろけながら、けれど手にした紙片を失くすまいと、花京院は、それを手にした指先に力を 入れる。
 「外出は許可する。」
 短く、強い声が言った。言いながら、花京院の傍をすり抜け、プッチは部屋を出て行こうとする。
 「遅くなってもかまわない、ゆっくりしてくればいい。」
 そう言った時だけ、声がひどく優しくなった。
 静かに閉まったドアを振り返り、花京院は自分の首を撫でる。ゆっくりしてくればいいと、そう言ったプッチの、あからさまな示唆に、自分の胸の内などすっ かり読み取られていることに、花京院は半ば驚きながら、半ばそれを予想していたことに気づきながら、軽く咳き込んでそして、また紙片に目をやった。
 迷わずに着ければいいがと思って、知らずに右手は、胸の十字架を握っている。


 足音が聞こえる。ひとりではなく、ふたり。
 地下の、いちばん奥にあるこの部屋の近くまで、人がやって来ることなど滅多にない。洗濯室もボイラー室も、向こうの端だ。承太郎はベッドに寝たまま、壁 に向いていた顔を、ゆっくりとドアへ向ける。
 小さな声が聞こえて、ドアがノックされた。管理人らしい男の声だ。承太郎を呼んでいる。それに応えることはせずに、承太郎は天井を向いた。
 鍵の開く音がして、開いたドアから、黒い神父服が滑り込んで来る。
 「ありがとうございます。」
 丁寧に礼を言う声。丁寧にそれに答える声。閉じるドア。また鍵のかかる音。遠ざかる足音がひとつ、近づいて来る足音がひとつ。
 「やあ、承太郎。」
 抱えて来た紙袋を、そこにあるテーブルに置いて、花京院がベッドの傍へ立った。
 「・・・何しに来た。」
 ひび割れた唇から出る、ひび割れた声。最後に使った薬が切れてしまってから、もうずいぶんになる。禁断症状がひどすぎて、幻を見ているのかもしれない と、ぼんやりと思いながら声を出していた。
 「・・・薬を持って来た。君が教会に来ないから、心配してたんだ。」
 承太郎の体がやっと収まるシングルベッドの、わずかな端に、花京院は承太郎をうかがいながら、そっと腰を下ろす。スプリングが、ひどい音を立てる。花京 院の重みに、承太郎の体がわずかに斜めに傾いた。それだけで、痛みが全身に響く。承太郎は口元を歪めて、痛みに耐えるために息を止めた。
 ここに、誰かを招きたいと思ったことはないし、その通り誰かを連れて来たこともない。花京院は礼儀正しく、部屋の中をじろじろ見回したりせずに、ただ承 太郎だけを、そう言った通り心配そうに見下ろしている。
 花京院を見ずに、天井を見上げたまま、承太郎は深い息を吐いた。
 「薬を、今すぐ使った方がいいんだろう。」
 いつもの、ひどく優しい声だ。
 羽に皮膚をくすぐられたように、自然に口元がほころんで来る、そんな花京院の声に、承太郎はいつものように、すべてを委ねずにはいられなくなる。
 欲しかったのは、確かに薬だけではなかったのだと、承太郎は今思い知っていた。
 素直に、小さくうなずいて、それに応えて、花京院が持って来た紙袋の方へ戻るのを、じっと見ていた。
 「注射器の新しいのも持って来たんだ。もしかしたら、君のところにはないんじゃないかと思って。」
 まだ包装されたままの注射器と、見慣れた小さなビニール袋を手に、どうすると目顔で訊いて来る。承太郎は、やっとのろのろと体を起こし、めまいで揺れる 頭を、そっと振った。
 「・・・バスルームだ。全部そこに置いてある。」
 腕を伸ばして、キッチンの向かいのドアを指差す。花京院が斜め後ろを振り返って、ドアまでの距離を測っているのがわかった。
 「歩けるかい。」
 言いながら、花京院は空いた方の腕を、承太郎に伸ばした。
 すりきれた薄いカーペットの床に、できるだけしっかりと足を下ろす。花京院に腕を取られて、痛みにうめきながら、承太郎はようやくベッドから立ち上がっ た。
 花京院に肩を借りて、バスルームまでの3歩半がやけに長い。よろけながら、それでも転ばずにドアにたどり着き、承太郎は崩れるように、それでも床ではな く、トイレの上に腰を下ろす。
 承太郎をそこに落ち着かせて、花京院はシンクへ振り返った。注射器を取り出し、薬の用意を始める。スプーンやライターを取り上げて、手元に何の迷いもな い。
 「・・・ずいぶんと、手際がいいな。」
 やや皮肉を込めて、花京院の背中に向かって、そう言った。
 手を止めずに、鏡越しに、承太郎を見て、花京院が答える。
 「仕方がないさ。」
 いろんな意味に取れる言い方だった。
 ろくでもないことを言ったと、ぼんやりと思って、承太郎はそれきり口をつぐむ。
 だらしなく手足を投げ出して、けれどのろのろと、腰から外したベルトを、血管を探すために、腕に巻きつける。
 「自分で打てるかい?」
 心配そうに、花京院が訊いた。
 だるそうにうなずく承太郎に、きちんと針を自分の方に向けて---日本人だなと、承太郎は心の中で微笑んだ---、ヘロインの溶液を吸い上げた注射器を 丁寧に手渡す。注射器を手にした途端、手の震えが治まったのを、承太郎は唇の端だけ上げて、にやりと笑った。
 赤黒く変色してしまっている辺りは避けて、突き刺した針の先から、ゆっくりと薬がしみ込んでゆくのを、承太郎はじっと見ていた。
 注射器は花京院が取り上げ、ベルトを外した腕に、また血がめぐり始める。ほんの数分で、濁っていた頭の中が、ゆっくりと色を取り戻し始めるのがわかる。
 目の辺りを、ごしごしとこすった。花京院の神父服の黒い輪郭が、バスルームの壁の色と混ざらずに、きちんとくっきり見える。ようやく自分を取り戻した気 分になって、承太郎は、まだのろのろした動きで、そこから立ち上がった。
 「シャワーを浴びた方がいい。その間に、持って来たスープを温めるよ。」
 「・・・ああ。」
 目の前の鏡に、花京院の後姿が映っている。その傍に、やつれた自分の顔が見える。
 少なくとも、死人のような気分は消えていた。そうして、今ここに花京院のいることの不思議を、喜ぶ気分が湧いてくる。
 動く空気が、やすりに感じられるような苦痛は、しばらく味あわなくてすむ。そして、花京院がいる。
 その肩に腕を伸ばそうとした一瞬前に、まるでそれを察して避けるかのように、花京院がドアへ向かって体を回した。
 鏡の中にひとり取り残されて、承太郎はほんの少しの間、花京院が出て行ったバスルームのドアを、名残り惜しげに眺めていた。
 シャワーを浴びようと、シャツに手を掛ける。ドアの向こうの、花京院が立てる物音に、承太郎はじっと耳を澄ましている。


 いつもよりも長い時間を掛けて熱い湯を浴び、震えの治まった手で、伸びていたひげも、自分で剃った。
 そう言えば、ここで、自分でシャワーを浴びるのは久しぶりだ。からからに乾いているバスタオルを取って、ごしごしと濡れた髪を拭う。
 ようやくまともに、ひとらしい気分を取り戻して、まだ濡れている自分の顔を、ちらりと鏡の中に見た。色の悪い皮膚も、落ち窪んだ目元も、何も変わらな い。目だけがぎらぎらして見えるのは、さっき打ったばかりのヘロインのせいだ。これが、今の自分の精一杯の普通だと、それをかすかに忌々しく思いながら も、そこへ戻れたことに、安堵もしている。
 少なくとも、まともに動けて、しゃべることができる。空の胃が、それなりにまともな空腹感を訴えている。
 脱ぎ散らかした服をまたぎながら、承太郎は腰にタオルだけ巻いて、バスルームを出た。
 ドアを開けた途端、振り返った花京院の笑顔が見える。
 「終わったのかい。もうすぐだから、坐って待っててくれ。」
 肩越しに、あたたかそうな湯気が見えた。小さなストーブの上に、承太郎すらあったことを忘れていた、小さな鍋がかかっていて、その柄に、花京院の添えら れた手がある。
 いい匂いだと素直に思ってから、承太郎はクローゼットの方へ、着替えを取りに行った。下着とシャツだけ着けて、後は面倒になったので、そのままテーブル へ行く。ベッドに背を向けて椅子に腰を下ろしたところで、目の前に、花京院がわざわざ持って来たスープが置かれる。ここへ来てから、数回使ったかどうかも 覚えていない白いボウルとスプーン、花京院は向かいの椅子に腰掛けて、これも一緒に持って来たらしい紅茶を手に、承太郎に向かって微笑みを絶やさない。
 花京院を目の前に、承太郎はスプーンを手に取った。
 スープの熱さも味も、あまり感じない。無感覚の口の中で、それでもゆっくりと噛んで、味わおうとする。時々、間違えて自分の舌を噛みそうになるのを、花 京院には悟られないように避けて、承太郎は大した時間も掛けずに、ボウルを空にした。
 「足りなければ、まだある。」
 それまで何も言わずに、紅茶を飲んでいた花京院が訊く。
 「いや、今はいい。」
 椅子に背を伸ばし、胃の辺りを撫でながら、承太郎は素っ気なく、けれど満足を隠しきれずに答える。
 「残りは冷蔵庫に入れておくよ。」
 言いながら立ち上がり、花京院は、空になった食器を片付けにシンクへ向かう。承太郎はそこから、花京院をじっと眺めていた。
 不思議な眺めだ。ここに坐って部屋を見渡すことなど、滅多とない。おまけに、視界の中に花京院がいる。教会の、あの地下の部屋の方がずっと居心地が良い けれど、ここでなら、あれこれと思い煩う必要がない。
 あそこへ行けば、いやでもあのことを思い出す。礼拝堂。廊下。地下の部屋。床。黒いローブ。十字架。何もかもだ。承太郎は、浮かんだイメージを消すため に、ゆっくりと一度瞬きをした。
 続いていた水音がようやく途絶えて、花京院がテーブルに戻って来る。
 何事もなかったかのように、ずっと微笑み続けている花京院を正面から見返すことができずに、承太郎はついと視線を外すと、すぐ後ろのベッドに横になっ た。
 手足を伸ばすこともできない狭いベッドに、それでも体を伸ばして、承太郎は花京院が来るのを待った。
 丸いテーブルに添って、2歩半。神父服の裾が床近くで揺れているのが、視界の端に映る。ここへ入って来た時と同じように、ベッドの端に腰掛けて、マット レスが同じきしんだ音を立てたのに、ふたり揃って苦笑をこぼした。
 微笑みを重ねた後で、ふたりは何も言わない。上と下で見つめ合って、言いたいこと、訊きたいことは山ほどあったけれど、そのどれも、今は言葉にならな い。何よりも大事なことが、ふたりの間で通じ合っていることを確かめ合うのに、互いに、ほんの少しだけ、ためらいが勝っている。
 承太郎は、ゆっくりと息を吐き出した。体がもう痛まないことを確かめて、それから、花京院の腕を取る。素直に、その動きに従う花京院を、やっと自分の上 に引き寄せた。
 右肩に当たって、シーツの上に滑り落ちた花京院の十字架が、今はそれほど目障りではなく、両腕で花京院を抱きしめて、承太郎はまた息を吐く。
 他には誰もいない、ふたりきりだ。
 そのつもりはないという振りで、花京院の額に頬をすりつけて、そのまま、わずかに唇を滑らせた。首を伸ばしても、まだ触れてくる髪に、また頬をこすりつ ける。誘われたように、花京院の掌が承太郎の頬に伸びて、それから、あごの辺りを撫でた。
 「・・・ちゃんと剃ったんだな。」
 確かめるように、喉まで指先が触れる。その指先を、唇の中に取り込んでしまいたいのを、承太郎はじっと耐えた。
 「切ったりしなかったかい。」
 花京院が顔の角度を変え、呼吸が、肩口を滑る。抱いた腕にもっと力を入れようとした時に、花京院の肩が浮いた。
 体を起こして、軽く添えた手で、承太郎のあごを持ち上げる。血のにじんだ切り傷がないかと、下目の視線の先に探している。
 喉に掛かったその手が、うっかりそうなったとでも言うように、シャツの首元に、指先が滑り込む。丸く皮膚を包むその線を、指先がたどる。両方の鎖骨に触 れたところで指が離れ、花京院が、つぶやくように小さな声で言った。
 「・・・少しの間、動かないでいてくれ。」
 承太郎が何も言わないのを、正しく受け入れの答えだと取って、花京院は投げ出されていた承太郎の左腕を取ると、かぶせるように目の上に乗せる。目隠しの つもりかと、暗くなる前に目の前に迫った花京院の頬に、血の色が上がっていたから、承太郎はそうされたまま、言われた通りに動かない。
 片手を承太郎の胸に乗せて、そこから下へ向かって滑らせる。もう一方の手は、承太郎の唇に触れた。端から端を、輪郭沿いに指先がなぞってゆく。合わせ目 に軽く差し込まれた時、承太郎は、ためらわずにその指先を軽く噛んだ。そうして、そっと舌先で舐めた。
 それが合図だった。
 花京院の手が、シャツの裾から入り込んで素肌に触れ、そうしながら、みぞおちの辺りまであらわにする。掌が乗り、骨の形や筋肉の線を確かめるように、 ゆっくりと撫でてゆく。脇腹を滑り、一瞬の逡巡の後で、腿の上で止まった。
 指先が、その辺りをさまよう。ためらいがちの触れ方が、行きつ戻りつして、それから腹の辺りへまた戻って来る。そうして、ようやく、指先が、そこから直 に入り込んで来る。
 見られるのも触れられるのも、別に初めてではない。いつだって承太郎の体を洗う時に、花京院は何の表情も浮かべずに全身にくまなく手を伸ばしたし、花京 院のその手に、心を乱されたこともない。けれど今は、確かな目的を持って、その指先が、承太郎に触れている。承太郎は、そっと喉を伸ばした。
 下着が引き下ろされて、まだ何の反応も返さないそれが、花京院の掌に包まれている。滑り落ちるように、花京院が床に下りて、そこに膝をついた。
 両手を添えたそれに、唇が近づいたのが、かすかにかかる息でわかる。それから、濡れた舌が、触れた。
 柔らかいままの輪郭に沿って、舌が動く。絡んでくる唾液の熱さに、背骨の付け根の辺りが波打った。動く指と舌と、上から下へ、そして下から上へ、何度も 何度も、同じ事を繰り返す。花京院の、呼吸の音が少しずつ大きくなる。合間の吐息も、熱い。
 承太郎は、もっと大きく喉と胸を反らした。
 体温が上がっても、それは一向に反応せずに、花京院の唇の中に飲み込まれてしまっても、萎えた姿のままだった。
 「・・・無駄だ、勃たねえ。」
 ついにそう言って、手探りで花京院の肩に触れる。そっと唇を外した気配の後で、ささやく声が耳に届く。
 「いいんだ、そんなつもりじゃないんだ。」
 慰撫するような、花京院の声だった。
 また唇が触れ、一体何のためなのか、柔らかいまま扱いにくいそれを、花京院が喉の奥を開いて、必死で受け入れている。唇や頬の裏側にこすられて、どれだ け熱い唾液に濡れても、それ自体が熱を持つことはなく、花京院の手に支えられて、やっと形を保っているだけだ。
 それでも諦めずに、花京院はそこで手と口を使い続けた。
 まるで、足がかりなどない崖を、ふたりで必死に登ろうとしているように、確かに触れ合っているのだということだけを手掛かりに、無駄だと知りながら、花 京院はそれをやめようとはしなかったし、承太郎も、やめろとは言わなかった。
 ひどくいとおしげに、小さな口づけをそこに一度して、ようやく花京院が顔を上げる。まるで壊れもののように、そっと下着の中へ戻して、濡れた唇を拭いな がら、またベッドの端に坐り直す。
 ふたり同時に、大きく息を吐き出した。
 承太郎は、顔から腕を外し、そのまま、花京院の手を取った。
 まだ上気したままの、赤みを増した頬を見つめて、それから、茶色の瞳が、熱っぽく潤んでいるのに、目を細める。
 躯の中が、ざわめいていた。
 自分の胸に乗せさせたその手に、自分の掌を重ねて、そうして、神父服の袖口から、指先を忍び込ませる。きちんとアイロンのかかった、固い、シャツの袖が 中で触れる。その下にさらにもぐり込んで、承太郎は、花京院の手首に触れる。指先で、撫でるように、骨や筋肉の形を確かめた。
 花京院が、耐えるように、下唇を噛んだ。
 親指の腹で手の甲を撫でながら、ようやく、承太郎は口を開いた。
 「・・・花京院。」
 瞳が、声の行方を追って、動く。その瞳を追って、声が、唇の動きよりも一瞬遅れて、出た。
 「全部脱いで、来い。」
 愕きが、口元に浮かぶ。
 承太郎から視線を外さずに、考えている気配を伝えて来て、そうして、花京院が承太郎から腕を引いた。
 承太郎を見つめたまま、そっと立ち上がり、ベッドから半歩離れたそこで、神父服の襟に手を掛ける。
 顔を横に向けて、承太郎は、それをじっと見ていた。


 最初に、首から十字架を取った。
 それから、まるで、鎧のようなそれらを、1枚1枚、花京院が静かに剥ぎ取ってゆく。黒の中に、まぶしい白があり、その後で、ゆっくりと肌の色が現れる。
 脱いだ服は、さっき承太郎が坐っていた椅子の背に掛けて、体を折って脱いだ自分の靴を、承太郎の、埃まみれのまま脱ぎ捨てられたそれのかたわらに、きち んと揃えて置く。
 ズボンに手を掛けた時は、さすがに承太郎に背を向ける形に、ほんとうに何もかも脱ぎ捨てて、花京院は、そっと腕を巻いた裸の後姿を、承太郎に見せてい た。
 服を脱ぐ花京院を眺める間に、ベッドから体を起こして、承太郎も、それだけ着けていたシャツと下着を脱いで、向こうの床に放り投げる。
 やっとこちらを向いた花京院に、承太郎はごく自然に腕を伸ばしていた。その手を取って、素直に引き寄せられて来る花京院を、自分の上に導く。ふたり分の 重みに、きしんだ悲鳴を上げるベッドにそっと乗って、花京院は承太郎の腰をまたいだ。
 横たわって、花京院を眺める。脇腹に手を添えて、撫で上げるように動かした。
 「・・・今日は、つけてねえのか。」
 みぞおちから、ちょうど心臓のある辺りへ、広げた掌を当てる。承太郎の長い指の先が、かすかな色の違いでやっとそうとわかるその突起を、わずかにかすめ てゆく。触れた途端に、花京院の背中が跳ねた。
 「外して来た。」
 短く、素っ気なく言う声が、けれど羞恥らしい何かに、うっすらと慄えているのを聞き逃さない。
 胸だけではなく、眺め下ろした下腹にも、あの銀色の輪は見当たらない。
 自分への気遣いだと、そう受け取って、一体いつから、花京院とこうなりたいと思っていたのかと、自分の内側をじっと覗き込む。思い出せない。人殺しに、 なってしまう前かなってしまった後か、それとも、祭壇で侵されている花京院を見てしまった時だったのか。気づきかけた自分の醜悪さから目をそらすために、 承太郎はそこから花京院を眺めるのをやめて、花京院の腰に腕を回しながら、ようやく体を起こした。
 互いの両脚の輪の中に、互いを抱き込む形に、背中に両腕を回して、頬や額が触れ合う。承太郎の、まだ濡れている髪が、花京院の前髪に絡む。肩や首に、し ばらく唇を押し当て合っていた。
 承太郎にもっと近く躯を寄せて、花京院が、承太郎のうなじに触れた。髪の生え際に唇を滑らせ、その線に沿って、耳の後ろへ唇が滑る。そうして、歯列が、 耳を食む。そこへ当たるなまあたたかい粘膜の感触に、承太郎は、思わず花京院を強く抱き寄せる。
 耳朶が、全部花京院の口の中へ入る。そこに着けたピアスを、かちかちと噛む音が聞こえる。
 ずっと以前には、そこには小さな、けれど本物のエメラルドがはまっていた。今では、同じ色の、ただのガラス玉だ。後ろへ通った金具に、花京院の濡れた舌 が這う。熱くなる躯に耐えられずに、承太郎は花京院の首筋に噛みついた。
 息が熱い。もっと先を急ぎたいと思うのに、その時がやって来るのが惜しくて、互いに確信には触れずにいる。貪るよりも、ただ確かめ合いたかった。
 コンクリートの檻のようなこの場所で、誰の気配にも声にも記憶にも邪魔されずに、風に吹き寄せられた落ち葉が2枚、かさかさと重なり合うように、また吹 き上げた風に引き離されてしまうことだけを恐れて、水に濡れてしまえば、ぴたりと貼りついて、もう2度と離れなくてすむ。だから、肌をこすり合わせて、汗 を混じり合わせようとしていた。
 花京院の腕が承太郎の背中を離れて、肩から首に触れて、頬を包んだ。ひどく近い距離で見つめ合って、頬と鼻先を触れ合わせる。それから、引き寄せた承太 郎の額に、花京院がそっと口づけた。
 そこから、頬へ唇が滑る。唇の端と端をこすり合わせた後で、承太郎の親指が、花京院の頬を撫でた。添えただけの指先が、そっとあごを持ち上げる。それか らようやく、唇が触れ合った。
 ついばむだけの口づけが、しばらく続いた。呼吸と唇が、一緒に湿りを帯びて、触れるたびに小さな音を立て始める。
 唇が離れた一瞬に、あごへ添えていた指先を、合わせ目に差し入れ、承太郎は、軽く開いたままになった花京院の唇に、舌先を差し込んだ。
 中で、舌が触れ合う。急に深くなった口づけに誘われたように、ふたりの手が、激しく動き始める。
 髪と首筋を探り、背中に回り、腰や脇腹を撫でる。膝や腿へ触れた後で、また抱き合うために背中に回る腕には、どちらもさっきよりも強い力がこもってい る。密着した胸と腹が、汗に濡れ始めていた。
 花京院の下唇を噛んで、そのまま躯を下にずらした。喉に唇を押し当て、鎖骨に歯を立て、吹き出した汗を舐め取るように、肋骨の凹凸を舌先に探る。花京院 が反らせた背中を抱きしめて、胸に顔を埋めた。
 尖りを増した突起を、歯列に挟む。食むように噛んで、舌先で遊ぶ。自分の上で跳ねた花京院の躯を逃さずに、承太郎は両腕の輪をしっかりと締めた。
 輪を描くように舌を動かして、そうして、あの輪を通すために開けている穴に触れる。下から、まるでそこへ舌先を通そうとするように、唇を強く押し当て た。今はしるしを取り去ったそれを、唇の間で転がしながら、承太郎は執拗に、舌先を使う。
 唾液の立てる音に、花京院の声が混じる。細い声が鼻に抜けて、もがく果てに承太郎にしがみつこうとする花京院の、なまたたかい息が、時折こめかみの辺り を打った。
 さり気なく片手を背中から外し、脇腹へ滑らせて、胸に添えた。もうひとつの尖りを、指先に確かめると、いっそう強く、花京院の肩が跳ねた。
 掌や指の腹で、硬さと形を探る。指先に、確かに触れる、穿たれた穴の存在を、心のどこかで憎みながら、噛みちぎりたいと一瞬思った自分の衝動を、なだめ るのに数瞬かかった。
 承太郎の、節の高い指の間で、触れるうちにさらに硬さを増して、気のせいか、赤みの増した肌の色と同じに、濃さがひと色、増したように見える。
 花京院の爪先が何度もシーツを蹴り、承太郎の背中に、指先が食い込んだ。承太郎の腕の中に取り込まれて、声を耐えながら、もうやめてくれと小さく喘ぐの に、躯はいっそう近く承太郎へ寄って来る。言葉を裏切って、花京院は、無我夢中で右手を両脚の間に滑り込ませていた。
 そこに、自分の熱を探して、それから、承太郎にも触れようと、指先がさまよう。探り当てるより先に、承太郎が、花京院のその手を取った。
 何かと、下目に承太郎を見ると、上目の視線にぶつかる。瞳孔の開いた、酔ったような承太郎の瞳が、熱っぽく潤んでいる。その中に、自分の小さな姿が見え て、花京院は、そちら側の自分をうっすらと羨んで、そこに目を凝らした。
 花京院の胸からほとんど顔を離さずに、取った腕を背中に回し、ついでのようにもう片方の手も取って、承太郎はそれごと、花京院を片腕で抱きしめた。さら に両脚の輪も縮めて、触れられるすべてを、花京院と密着させる。
 相変わらず、舌と手指で花京院の胸に触れていると、承太郎にしがみつけない分だけ、我慢が利かずに花京院の声が高くなる。それに合わせるように、承太郎 は時々、そこに強く歯を立てた。
 承太郎から逃れようと、肩と背中がねじれる。けれど下肢は、触れてくれと言いたげに、ますます承太郎の下腹にこすれて来る。膝頭が、何度も脇腹に当た り、躯を縮めてもがくのを、承太郎は抱く腕に力を込めて止めた。
 喘ぎの間に、承太郎を呼ぶ。そうしながら、耐えられなくなったのか、承太郎の触れる皮膚に、花京院は腰を揺すってこすりつけ始めた。
 不意に唇と手を外して、また両腕で花京院を抱く。自分の名を呼び続ける唇を、唇でふさいだ。喉の奥から舌を絡め取って、息苦しくなるまで、承太郎は口づ けをほどかなかった。


 やっと唇が外れると、触れそうな間近で、花京院が承太郎を見つめて来た。
 額や頬をこすり合わせながら、切なそうに息を吐く。もっと触れて欲しいと、承太郎と重なっている皮膚全体が、先へ進みたがっている。
 反応しない自分の躯と、花京院の肌の熱さが、ねじれの位置ですれ違うイメージが、承太郎の脳裏いっぱいに広がる。熱くなる躯の、けれど内側は冷えたまま だ。
 こうなることは予想していて、それでも始めてしまったことだったから、どうしていいのかよくわからないまま、承太郎はもう一度、花京院を両腕で抱きしめ た。
 それから、ふと思いついて、花京院の腕を引いた。またベッドに横たわりながら、花京院を自分の胸近くへ、引き寄せた。
 戸惑いながら、承太郎の手に従って、花京院が膝を滑らせて来る。みぞおちをまたいだ辺りで、体を倒して口づけて来たのを、触れるだけにとどめて、承太郎 は花京院の肩を押し返した。
 承太郎の目的がわからずに、花京院が怪訝な色を口元に刷く。それに微笑みかけて、承太郎はまた花京院の両腕を取り、もっと近くに引き寄せようとする。
 ついに承太郎の二の腕に、膝が触れたところで、花京院はやっと承太郎の目的を悟った。悟って、拒むように、承太郎から取られた腕を引き取ろうとした。
 「・・・いやだ。」
 頬を染めてうつむく花京院の膝を、促すように承太郎が撫でる。承太郎がやっと放した右腕で、躯の前を隠しながら、花京院はゆるく首を振る。
 「来い。」
 穏やかな、けれど有無を言わせない強さで、承太郎が、促すようにあごをしゃくる。
 すっかり乾いてしまった唇を、湿すために数回舐めて、花京院は、やっとおずおずと、承太郎の肩をまたいだ。
 承太郎が、何のためらいも見せずに、目の前に迫ったそれに、唇を寄せる。頭を軽く持ち上げて、花京院の腰に手を添えて自分の方へもっと近寄せて、承太郎 はそれに向かって舌を伸ばした。
 口の中へ入った途端に、跳ねるように硬さが増す。喉の奥へはさすがに導けず、それでも精一杯舌を動かして、よく扱いのわからないそれに、承太郎は少しば かり必死になった。
 傷つけないように、唇と舌を滑らせるたびに、目の前で花京院の腹筋が、そこで線をあらわにした。承太郎に体重を掛けないようにと、折った膝を乗せて立て ている爪先が、かすかに震えているのがわかる。
 息が、短く速くなる。その呼吸を聞きながら、承太郎は、花京院の反応を探ろうとする。
 この姿勢で見つめ合うのは、恥ずかしさが先に立つのか、花京院はどこかへ視線をさまよわせたまま、時折承太郎の髪に、まるでねぎらいのように指先で触れ てくるだけだ。片手で口元を覆って、殺せない声を、それでも隠そうとしている。耐えようと、肩や背中をねじるのが、下から見上げている承太郎を、ひどくそ そる。
 少し意地の悪い気分になって、承太郎は、唇をずらして、先端に触れた。下唇でなぞる輪郭に、かすかな違和感がある。あの、銀の輪の通っていた穴だ。痛む かもと思うより先に、そこへ舌先をねじ込んでいた。
 びくんと、花京院の躯が跳ねる。
 声を殺すためか、表情を隠すためか、一気に血の色の上がった頬の辺りを、腕が横切る。その腕に、自分で歯を立てているのが見えた。
 わざと、少し手荒に、歯先でも穴の縁をなぞる。片手を添えて、穴のもう一方を、同時に指先で探った。
 「じ・・・じょう、た・・ろう・・・」
 掌で覆った口元から、かすれた声が漏れる。さっきまで反っていた背は、今は前かがみに、承太郎の舌と手指が動くにつれて、少しずつ承太郎に覆いかぶさる ように傾いて来る。
 腰を引こうとするのを許さずに、承太郎は、また奥まで花京院を飲み込んだ。中で、舌を大きく動かしていると、花京院が観念したように、目の前の壁に両手 をつき、そこで揺れる体を支えた。
 折って重ねた腕に、荒くなる息を吐きながら、時々歯を立てる。額をぶつける音と、そのたび漏れる喘ぎが、次第に大きくなる。
 声の大きさに、自分で煽られたように、花京院は自制を失って、承太郎に向かって、腰を揺らしてさえいた。飲み込まれてしまった深さに、もう抗うこともせ ずに、吐く息で湿る目の前の壁に、ぺたりと前髪が張りついている。
 熱くなるばかりの躯に、冷たい壁が心地良く、頬や首筋を押し当てて、その一瞬だけ正気に返りながら、花京院は我を忘れていた。承太郎の唇と舌にそそのか されるまま、躯を揺すって、包み込まれるあたたかさにひたり込んでいる。ぬくもりは、敏感な皮膚を通して背骨へ伝わり、そこから脳の奥を溶かしてゆく。背 骨のつけ根の奥辺りが弾ける感覚を、もう止められなかった。
 放せ、と叫んだつもりだったけれど、承太郎に伝わったのかどうか、腰を引き寄せた手は離れずに、承太郎は相変わらず花京院を飲み込んだままで、ちょうど また、例の穴の辺りへ舌先を這わせた時だった。
 承太郎の口の中へ、止まらずに吐き出してゆく。躯が慄えて、肩が大きく揺れた。半開きの唇から、力の抜けた声が漏れた。
 そうなってしまっても、承太郎は慌てもせずに、まるで最初からそのつもりだったような仕草で、また下からそれを舐め上げる。あごを突き上げて花京院から 唇を外しながら、輪郭に沿って滑らせた舌先を、わざと花京院に下から見せつけた。
 たった今花京院が吐き出したそれが、白っぽく承太郎の舌の上に糸を引く。伸ばしていた舌を、また見せつけるように丸めて、承太郎は、それからゆっくりと 喉を上下させた。
 「・・・承太郎ッ!」
 花京院は今度こそ、だるそうな腕を必死に持ち上げて、一瞬で真っ赤になった顔を覆う。力の抜けた体を支え切れずに、そして、承太郎から躯を隠すために、 そのまま背中を横倒しにして、承太郎と壁の間に、どさりと体を投げ出す。
 あちら側にあった片足は、そっと承太郎の胸の前を横切らせて、花京院は子どものように、そこで体を丸めた。
 「・・・信じられないな、まさか、そんな・・・」
 胸元にあごを埋めて思わずつぶやくと、承太郎が小さく笑う声が、腰の辺りで聞こえた。
 「味なんか感じねえ。」
 唇を親指で拭いながら、大きな動作で体を起こす。微笑みを隠せずに、まるですねた子どものように自分に背を向けている花京院の膝を、そっと撫でる。
 花京院は、肩越しにちらりとそんな承太郎を斜めに見て、ようやく寝返りを打って仰向けになる。それから、首を横へ向けて、そこにある承太郎の足首に、猫 のように頬を寄せた。
 ほとんど骨の形しか見えないくるぶしを、そうやって形を覚えようとするかのように、舌先でなぞる。承太郎の大きな足に手を添えて、やや爪の伸びかけた爪 先を撫でた。そこだけは柔らかい土踏まずに、承太郎を下目に見ながら歯を食い込ませる。
 自分の足に触れている花京院の、裸の腰に、承太郎はそっと掌を乗せた。
 裸になった方が、厚みを増す体だ。広い肩と、思ったよりも厚い胸と肩と、腹と腰の辺りだけが、あやういほど薄く見える。承太郎が腕を回せば、少しだけ背 中で余る。自分の足を抱え込んで、いとおしげに口づけている花京院をずっとそうして眺めていたかったけれど、冷えてゆく体をあたためたくて、承太郎は花京 院をまた抱き寄せることにした。
 手を取って、引き寄せる。しわだらけの薄汚れたシーツの上を、花京院が這って近づいて来る。膝の間にその背中を抱き寄せて、腰に両腕を巻いた。
 伸びて来た花京院の手が、承太郎の頬に触れて、なだめるように、首筋まで撫でてゆく。あごへまた触れるのに顔を動かして、承太郎は、花京院の指と掌に唇 を押し当てた。
 足を絡めて、花京院の全身を自分の方へ引き寄せながら、右手と左手を、別々の方向へ滑らせてゆく。
 左掌を、胸に添える。右手は、軽く開いた腿の内側へ滑り込ませる。
 「承太郎。」
 背中を軽く反らせて、花京院がたしなめる声を出した。
 「動くな。」
 柔らかい声を、肩口に当てた。息を飲んだ音が聞こえて、花京院が、そこへ口づけを誘うように、首を伸ばす。
 冷えかかっていた躯が、また熱くなる。
 指先を、胸の突起に遊ばせて、もう一方の手は、また昂ぶらせるために、そっと動き始める。
 「・・・承太郎・・・」
 思わず甘くなる声が、承太郎の唇の近くで、吐息に変わった。
 こちらに向かって上向いた開いた唇の中に、動く舌が見える。その舌に、承太郎は自分の唇をかぶせた。
 次第に大きく開き始める脚の間で、さっき唇の中にあった花京院の熱が、今は承太郎の掌の中で、また育ちつつあった。
 絡めた舌先で行き交う息が、ゆっくりと密度を増し始めていた。
 もう少し、花京院のぬくもりに触れていたかった。硬さと大きさを増す花京院の熱を、掌であやしながら、小さくうねるその背中に、自分の胸を添わせてゆ く。
 花京院の生み出す熱を、重なった皮膚から盗もうと、承太郎は、冷えたままの躯を、もっと近く寄せていた。
 唇の近くで、花京院のピアスが揺れる。何もかもが簡素な花京院の身なりに似合わない、それだけがいつもきらきらしい、銀色の小さな十字架が、華奢な鎖に ぶら下がって揺れている。いつもよりも目障りに見えるそれを、最初に外させればよかったと思いながら、承太郎は歯列の間に挟み取った。
 かちりと音が響く。鎖も何もかも、耳朶ごと口の中に取り込んで、少し前に花京院が承太郎にそうしたように、舐めながら、ピアスをかちかちと噛んだ。歯先 で金具を外して、そのまま飲み込んでしまおうかと、歯を立てながら思う。熱くなる花京院の耳を、承太郎は、がちがちと噛み続ける。


 椅子に坐り、体を折って、花京院が靴を履いている。承太郎はそれを、ベッドに腰掛けて眺めている。
 脱いだ服を手に、バスルームに消えたのがついさっきのことなのに、濡れた髪をごしごしと乱暴に拭いながら出て来た時には、花京院はもういつもの貌(か お)に戻っていた。
 神父服に身を包み、肌のどこも見せず、ただまだ湿った髪だけが、承太郎との名残りを示すだけだった。
 花京院はまだ何も言わない。承太郎も、声を掛けない。承太郎は花京院をじっと見つめているけれど、花京院は承太郎を見ようともしない。唇を結んだ横顔 が、いつもよりも厳しい表情に見えるけれど、頬の辺りの線がわずかにやわらかくゆるんでいるのを、承太郎は見逃さない。
 靴を履き終わった花京院は、相変わらず承太郎と目を合わさずに、肩に何か大きな荷物でも乗せているような大袈裟な動きで、ゆっくりと椅子から立ち上がっ た。それから、それだけテーブルの上に残していた木の十字架を、のろのろとした手つきで取り上げて、首に掛けた。前を押さえて、胸元に馴染ませて、その仕 草を自分で見下ろして、一瞬だけ見せた淋しげな表情をきちんと消してから、やっと花京院は承太郎を見る。
 「じゃあ、僕は---」
 「帰るのか。」
 落胆を、隠さずに声ににじませて、花京院の語尾を奪い取る。今度こそはっきり淋しいと、引き結んだ口元に浮かべて、花京院がかすかに肩をすくめた。
 いつもそうするように、右手に十字架を握りしめて、もう一方の手は、あてどないように、テーブルの表面に、何か字でも書いているような仕草を繰り返して いる。
 「スープの残りが、冷蔵庫の中にあるよ。ちゃんと食べてくれ。」
 ベッドにいる承太郎に、近づくかどうか迷った爪先が、半歩分だけカーペットを滑った。前で出たその足は、けれど承太郎の方へは来ずに、また後ろに下が る。
 「じゃあ。」
 足元を見たままそうつぶやいて、ドアの方へ肩を回す。空手で出てゆこうとするその背を、承太郎はようやく追う気になって立ち上がった。
 ドアの手前で追いついて、花京院の手を引く。振り返る花京院の、神父服の裾がなびく動きに、なぜか目を奪われた。
 手を取ったまま、互いにその手を見下ろしていた。
 「もうちょっと、いろ。」
 花京院が、唇を噛んだのが見えた。
 名残り惜しいのは、自分だけではないのだと思って、承太郎は、花京院の手をつかんでいる指先から、少しだけ力を抜く。
 「・・・これ以上いたら、帰れなくなる。」
 つかまれている手首をするりと滑らせて、承太郎の指先を握る。思ったよりも力がこもって、花京院は少し慌てた。
 何事もなかったような顔をして、ここから去ろうとしていたのに、止められずに声に感情がにじんで、湿る。頬に、承太郎の指先が伸びて来た。
 親指の腹が、頬骨をなぞる。その指に口づけたいのを、花京院は必死で耐えた。
 知らずに、また十字架を握りしめている。
 「ここにいろ。おれと、ずっと。」
 十字架から指を外させて、承太郎は花京院を抱きしめた。花京院の両腕も、迷わずに承太郎の背中に回る。シャツしか着ていない承太郎の肩に、花京院が額を こすりつけて、切なげにため息を吐いた。
 「・・・僕が帰れる場所は、あそこだけなんだ。」
 まだ湿っている花京院の髪に、指をもぐり込ませて、こめかみの辺りに唇を押しつける。それ以上触れれば、ほんとうに花京院を手放せなくなりそうだった。
 「もう、行かないと・・・」
 言いながら、腕が、承太郎の背中で迷う。
 離れがたさを分け合って、もう少しだけと、ふたりはその瞬間を先延ばしにしようとする。
 無駄なのにと、心の中でつぶやくのも同時だ。
 「また、明日、会える。」
 最後にそう、承太郎の胸の中でささやいて、花京院は承太郎の肩を押した。
 会うということが、もうただ会うということではなくなってしまっているふたりは、けれど抱き合うことを許される場所など、ここ以外どこにもないのだと、 言わずに悟っている。
 花京院は、淋しげに承太郎を見上げた。
 腕の長さ半分だけ、やっと体を離して、今度こそ強い意志を持って、ドアの方へ向く。もう振り向かずに、ドアに手を掛けた。
 「・・・日曜には、会えねえな。」
 わずかに開いたドアを、そこで止めて、花京院は、どこか吐き捨てるように言った承太郎に、それでも振り向かなかった。
 「ああ、日曜は、会えない。」
 黒い影のような姿が、毅然とした言葉だけを残して、廊下へ滑り出てゆく。ドアが静かに閉まり、確かな足取りで、足音が、去ってゆく。承太郎はそこに立ち 尽くして、その音を追っている。
 薬、と思った。
 まだ花京院の気配と匂いの残るベッドで、ひとりで眠れるわけもない。薬の不眠を言い訳にしようと、承太郎はそこでひとつ、小さくため息をこぼした。
 小さな檻のような場所で、承太郎はまたひとりきりだった。