Suite Sister
Mary @ 日曜には、あの男がやって来る。 いつもより早く鍵をかける、礼拝堂の正面の扉から、あの男は、敬虔な信者の素振りで入って来る。 それを迎える花京院は、いつも表情を消して、ただ伏目に、男の足元ばかりを見ている。 外はもう暗く、日曜のこんな時間にやって来る誰もいない。男は---スポーツ・マックスは、少しの間プッチと話をして、花京院が自分のために準備をする のを待つ。 明かりを消した真っ暗な礼拝堂の祭壇に、蝋燭だけをともす。 それから地下の部屋へ行って、そこで、生贄になるために着替えをする。 承太郎が、またここへきちんとやって来るようになった。 花京院に体を洗われ、食事を与えられ、花京院に抱かれて眠る。 何も変わらない。変えまいと、花京院は努力をしている。それでも、バスタブから濡れた腕を伸ばして、承太郎が自分を抱き寄せた時には、心臓が跳ね上がっ た。 抱き返す腕に、欲情は表さずに、ただあやすように承太郎の濡れた髪を撫でた。その手に、奇妙に力がこもるのを止めるのに、必死にならなければならなかっ た。 顔を上げた承太郎が、ねだるように唇を近づけて来る。額がぶつかり、頬が触れ合った。 だめだ承太郎。静かに、なだめるように言った。声を震わせないように、気をつけて。 それでも、ただ触れ合わせるだけの接吻は許して、その後で、力の限りに承太郎を抱きしめた。 承太郎が帰る時には、また長々と別れを惜しむ。抱き合って、互いの背中や肩を撫でて、自分をそのまま連れ去ろうとする承太郎の手をほどくのに、ひどく難 儀する。そのまま一緒に行ってしまいたいと思っているから、ひとり去ってゆく承太郎の背中を見送るのが、つらくなる一方だった。 ここから出てゆくことを、考えるだけなら自由だ。けれどそれを実行に移すことは、永遠にないだろうと、右手に十字架を握って、花京院は思う。 礼拝堂には、もうプッチとスポーツ・マックスが、花京院を待っていた。 黒いローブの下は、すでに全裸だ。 プッチの隣りから立ち上がり、祭壇へ上がる花京院の傍へ、スポーツ・マックスがやって来る。不愉快な笑いを浮かべて、面白そうに、プッチの方をちらりと 見る。花京院はもう、空ろな目で、壁や天井の、あらぬところに視線を投げるだけだ。 プッチは、黙ってふたりを、いつも2列目か3列目のベンチに坐って、ただ眺めている。見物ではない。見張りだ。スポーツ・マックスが、花京院を傷つけ過 ぎてしまわないように、しっかりと目を光らせている。 花京院がし右手に握り込んでいるローブの合わせを、スポーツ・マックスが開く。前を全部開いて、銀の輪がきちんと3つ、そこにあることを、眺め下ろし て、確かめる。確かめてから、また卑しい笑みを浮かべる。 それから、胸の輪に、細い鎖を通す。それをやる彼の手つきは、いつも楽しそうだ。ほとんどたるみなく胸を横切るその鎖に、もう1本鎖をぶら下げる。わざ わざ膝をつき、下腹の辺りに舌を這わしそうな近くに顔を寄せて、そこへ手を伸ばす。そこへあるもうひとつの輪に、鎖の先端を繋ぐと、鎖の短さに吊り上げら れて、そこが軽く持ち上がる。かすかな痛みに、花京院は口元を歪める。それを、へらへらと、スポーツ・マックスが見上げている。 花京院にこの飾りをつけたのは、他でもないスポーツ・マックス自身だ。施術は、友人で刺青師だという男だったけれど、スポーツ・マックスはその場にい て、縛り上げた花京院を押さえつけて、太い針を通すその作業を、血走った目で眺めていた。 痛みは、思ったよりも大したことはなく、それでも、終わった後で鏡の中に見せられた自分の異様な姿に、傷の痛みよりも、胸が痛んだ。屈辱というのは、そ う言えばこんなに苦いものだったと、久しぶりに思い出しながら、花京院はもう、自分を他人のように眺める以外の術を持たなかった。 両耳にも一緒に穴を開けられて、そこに安物のピアスを着けて教会へ戻ると、当然の如く、それを見つけたプッチの逆鱗に触れる羽目になった。 他に何をされたと、訊かれた。うつむいて、恥ずかしさと痛みに頬を染めて、唇を噛んで答えを拒んだ。傍へ来たプッチが、首を締め上げて、答えろと、3度 言った。のろのろと、神父服の前を開き、下着のシャツをまくり上げて見せた。何事にも動揺を見せないプッチが、珍しく息を飲んだ気配があって、横を向いて いた花京院は、いっそう強く唇を噛んだ。 それだけかと、また訊かれた。そのまま、ゆるく首を振った。 下にも、とそれだけ言うのが精一杯だった。まさかそれ以上服を脱いで見せることはできず---死んでも、それだけは拒むつもりだった---、怪訝そうに 訊き返したプッチも、花京院の表情に答えを悟ったらしく、もういいと、吐き捨てるように言っただけだった。 プッチが、スポーツ・マックスに何を言ったのかは知らない。その後すぐ、スポーツ・マックスは日曜毎に教会を訪れるようになり、場所も、地下の部屋から 礼拝堂の祭壇へ移された。そして、プッチが、その不埒な儀式を、その場で眺めているようになった。 花京院の体につけられた傷がきちんと癒え、そこへ通った輪が落ち着いた頃に、スポーツ・マックスが、満面の笑みで、小さな贈り物を携えてやって来た。 片手に乗る小さな箱の中には、細い華奢な鎖にぶら下がった、小さな十字架が一対、入っていた。プラチナだと言いながら、それを花京院に着けさせようとす るスポーツ・マックスの指先を、花京院は強く拒んだ。 神父様に、お許しをいただかなければ。 粗暴なこの男なら、拒絶に、即座に殴る手を出すかと思ったけれど、プッチに逆らう気はないらしく、その場では素直にその贈り物を引っ込めた。 プッチは、その小さな十字架を見て、皮肉な笑いを浮かべた。 おまえのような人間には、十字架の数も多くあるべきかもしれない。 それが一体どういう意味だったのか、もちろん尋ねることなどしなかった。 花京院がどれだけ必死に救いを求めて神を愛そうと、他のことに忙しい神が、花京院のような存在を見返ることなどあるはずはなく、救われたいと思うことす らおこがましいのだと、常に念を押しておくことを、プッチは決して忘れない。 汚泥の中を這い回った挙句に、ゴミのように路上にたたずむしかなかった花京院を、神の元へ導いたのは、確かにプッチだ。あの時に救われたと思ったのは、 確かにほんとうだ。自分を救い上げたのは神ではなく、プッチという人間で、それには目的があった。それを悟った時には、もう他に行く場所もなく、またどこ かへさまよい出す気力もなく、何よりも、神に仕えることで慰められる気持ちが、確かにあった。 少なくとも、毎日のように誰かに踏みつけにされることはなく、文字通り身を削って生き延びようとする必要もなくなった。夜露をしのぐ寝場所があり、与え られる食事があり、そして、他の誰かを救うという目的が、ここにはあった。間違っても、口に出せるような方法ではなかったけれど、それでも、他の誰かのた めに自分の身を犠牲にして、そうして神への忠誠を示すという術を、与えられた。 プッチの周りに集まる男たちの幾人かが、他の誰かを痛めつけたいという性癖を持っていて、それが若い男でもかまわないなら、彼らは花京院のところへやっ て来る。見えるところに傷をつけずに、病院の世話にならない程度になら、いくらでも好きにして構わない、それがルールだった。 刑務所に長く居過ぎて、女には反応しなくなっていたJ. ガイルという男は、花京院を押さえつけて、後ろから犯すのを好んだ。4度か5度ここへやって来た後で、学校の帰り道だった少女を嬲り殺しにして、終身刑に なった。 ホル・ホースという男は、自分の恋人たちに手荒なことをするのは気が引けるからと、口よりはずいぶんと優しい手つきで花京院を抱いた。男と---あるい は花京院と---寝るのは好みではないと悟ったのか、2度きりで、姿を見せなくなった。 血を見るのが好きだったスティーリー・ダンと、誰かが痛めつけられているのを眺めるのが好きだったラバーソウルは、縛った花京院を犯すよりも、殴ったり 蹴ったり、ナイフで皮膚を切ったりする方に夢中になり過ぎて、ルール違反だと、ふたり揃って教会を追い出された。 スポーツ・マックスは、麻薬所持と傷害で逮捕されたにも関わらず、証人たちが立て続けに死亡---殺害された---し、結局けちな脱税の罪で数ヶ月だけ 刑務所に送られた、"幸運"な男だった。 奇妙な方面に顔の広い、粗暴な男で、外に放っておけば、また誰かを傷つけることは必至だったから、金で片がつくだろうにせよ、口を閉じておけるかどうか は信用できない売春婦や男娼---だから結局、殺すことになってしまう---よりはと、花京院が与えられた。 ナイフよりも、鞭を好み、具体的な暴力よりも、曖昧な辱めの方を好む男だった。だから、神父服を着て十字架をつけた花京院を踏みにじることに、暗い悦び が増すらしく、他のどの男よりも長く、教会通いが続いている。教会への献金も、一通りではない。 だからこそ、プッチも、スポーツ・マックスが、花京院の躯にしるしを着けたことも祭壇を汚していることも、大目に見ているのだ。 スポーツ・マックスは、花京院を辱めたがり、プッチは、花京院が背負った穢れの深さを確認したがっている。 きらきらしい十字架のピアスは、花京院が、今は主にはスポーツ・マックスの所有物であり、そして救いようのない汚れた存在であることのあかしだった。 心はとうに殺されている。体だけは、神のために生き続けている。神の救いの届かない男たちのために、ほんのひと時、その救いを、花京院が与えるために。 その男たちの邪悪さから、ひとたちを守るために、花京院は神前に捧げられる生贄だ。 今は、素肌にそれだけ着けている十字架に触れることも、祈りのために手を組むこともできない。両腕は、背中で縛られている。 そこへ立ったスポーツ・マックスの足元へひざまずいて、口の中へ押し込まれているそれに向かって、必死で顔を振る。 舌を全部使って、先端から根元まで、何もかも舐め上げる。見下ろしている視線に、すべてが晒されるように、大きく舌を動かして、時折の、媚びを含んだ振 りの上目遣いを忘れない。 あふれた唾液であごの下まで汚れる頃には、すっかり育ち切ったそれを、スポーツ・マックスは喉の奥まで押し込んで来る。顔を掴み、嘲笑と喘ぎを混ぜなが ら、躯を揺すって、花京院の唇と喉を侵しにかかる。 そこで終わってしまうことは滅多にないけれど、ごくまれにそうなった時には、口の中に吐き出されたそれは、一滴残らず飲み干さなければならない。いつま で経っても慣れることのない味と匂いは、胃を焼くような吐き気を誘う。うっかり吐き出せば、吐いてしまったそれを、這いつくばって、舌できれいにさせられ ることになる。 必死で吐き気に耐えた後には、うつ伏せになった腰だけ高く抱え上げられて、何の前触れもなく、それが躯の内側に入って来る。少なくともそうする時にコン ドームを使うのは、花京院へのいたわりではなくて、スポーツ・マックス自身の身の安全のためだ。 潤滑剤も何もなく、濡れるはずもないそこへ、薄いゴムの膜に包まれたそれを、文字通り侵入させて来る。 傷つける目的以外に、スポーツ・マックスが花京院の素肌に触れることはまれで、痛みに萎え切った花京院のそれは、最初から最後まで放置されるだけだ。鎖 に吊り上げられて、勃ち上がった角度を強制されているだけのそれは、どんな姿勢であれ、横たわれば少しだけ楽になる。もっとも、うつ伏せに押し潰されれ ば、どの輪も皮膚に向かって圧迫されて、その痛みはまた避けようもない。 ローブを噛んで、声を耐える。声を殺せなくなるように、出し入れは少しずつ酷(むご)くなる。声を出さなければ苦痛は増すばかりだし、我慢できなけれ ば、だらしのない淫売と罵られる。それから、花京院の声をもっと聞くために、スポーツ・マックスは、花京院の体のあちこちを噛み始める。 体を倒して来て、背中に胸を重ねて、届く範囲のどこにでも、歯列が食い込んで来る。獣の交尾のように、首の後ろを噛まれることもあった。ちゃんと襟に隠 れる位置に、青黒い歯型は、色を薄めながらも、1週間も消えないこともある。 二の腕の内側や脇腹、皮膚の柔らかいところを狙って、がちがちと、同じところを何度も噛まれて、まれに、血が滲むことさえあった。 体のそちら側を噛むのに飽きたら、今度は正面だ。 荷物のように、乱暴に躯を返され、また押し込まれながら、がくがくと揺すぶられる躯に、また歯が立つ。抱え上げた足にも噛みついて、そうしながらスポー ツ・マックスは、花京院の体を渡る細い鎖を、力いっぱい引っ張る。 敏感な部分に開いた穴が引き伸ばされて広がり、そこへ引っ掛けた金具が、冷たく熱く、穴の縁に食い込む。花京院を揺すぶる律動に合わせて、鎖を引きなが ら、スポーツ・マックスは気味の悪い笑みを止めない。 乱暴に扱われるその小さな穴たち---躯の開口部も含めて---は、翌日ひどく腫れて、熱を持つこともしばしばだった。服を着けることさえ苦痛になる。 噛み跡とその痛みと、躯の内側にいつまでも残る異和感と、次の日曜がめぐって来るまで、花京院はスポーツ・マックス---あるいは、彼の好む行為---を 忘れることができないという仕掛けだ。 早く終わらないかと、それだけを願う。 苦痛に負けて目を開ければ、喉を反らして逆さまになった視界に、プッチの、冷然とした姿が映る。 退屈で仕方がないという表情に、恐ろしいほどの蔑みを浮かべて、彼は、花京院の信仰心など、これっぽっちも信じてはいない。虫けらのように踏みつけにさ れることに変わりはないにせよ、今ではそのことにきちんと目的を与えられたことをありがたく思えと、その瞳が繰り返す。神を一方的に愛するという資格さ え、花京院という人間にはないのだと、その瞳はいつも念を押して来る。 スポーツ・マックスに侵されながら、同時に、プッチに踏みにじられている。神の目の前で、十字架を揺らしながら、とっくに穢れて死に果てた躯を、それに ふさわしいやり方で、さらに傷つけられている。少しずつ、止まらずに、殺され続けている。神に捧げた心だけは壊されないように、躯の外へ置いて、上から自 分のことを眺める感覚は、一体いつ始まったのだろう。 承太郎、と、唇だけで叫んだ。 揺すぶられて、痛みを感じるたびに、花京院は、声はなく、承太郎の名を呼んでいた。 腐りかけた体に、死の匂いを満たして、承太郎はここへ死の気配を持ち込んで来る。それに安らぎを感じることを、花京院はもう止められない。死により近い 承太郎のそばで、心の底から憩いを感じることだけが、花京院の、荒んだ心を慰めてくれる。 あの大きな、薬にやつれてしまっている体を、力いっぱい腕の中に抱しめたいと思った。今縛られている両腕を自由にして、自分の胸の中に、永遠に承太郎を 抱いていたいと、花京院は思った。思って、涙が、ローブの上に落ちた。 スポーツ・マックスが、ひときわ強く鎖を引っ張ってから、不意に息を止めた。内側に、熱が注がれる気配を感じて、花京院は躯を縮める。 大きく開かされたまま、すでに痺れ始めている両脚の間から、やっと苦痛が去ってゆく。 最後まで徹底的に花京院を辱めるために、両腕を解かれてもまだ力なく横たわっているだけの花京院の腹の上に、使い終わったコンドームを外して、放り出 す。内側も外側も汚れて、醜い虫の死骸のように見えるそれは、踏みつけにされる花京院の姿にそっくりだ。 立ち上がってそれを見下ろし、自分のしたことに満足に笑みを浮かべて、スポーツ・マックスは、花京院の体をまたいで、祭壇を降りてゆく。乱れた服を整え て、髪を撫でつけながら、プッチと礼拝堂を出てゆく。 ドアが閉まった後にひとり残されて、いつもはすぐに体を起こしてローブをまとい直すけれど、今夜はそんな気にはならず、花京院はいつまでも祭壇に横た わっていた。 頭を持ち上げて首を前に折れば、壁にかかったキリスト像が見える。薄闇の中に半ば溶け込んで、ぼんやりと輪郭しか見えないそれを、けれど細部まで思い出 しながら、花京院は初めて、自分のしていることを信じられなくなっていた。 両手で顔を覆い、声を殺して泣く。肩を震わせるたび、胸から外れて、小さな階段に垂れ落ちている十字架が、かたかたと小さな音を立てる。その音が、悪魔 の足音のように聞こえた。ほんとうに悪魔ならいいのにと、思いながら、花京院は汚れた全裸のまま、いつまでもそこで泣き続けていた。 電話が鳴る。また、殺人の準備だ。 承太郎は薬をほんの少し体の中に入れて、自分の住処を出てゆく。 軽くなったように思える足取りで、人通りの少なくなった道を、ふらふらと歩いてゆく。 約束の場所は、通りを3つ過ぎたところだ。逆方向から、黒い車が音も立てずに寄って来る。見覚えのあるその車のドアを、確かめもせずに開けて、ためらわ ずに中に滑り込む。 車はまた走り出し、どこかの角を曲がった。 DIOが、組んだ膝の上に両手を組んで、相変わらず微笑みを浮かべて、承太郎に声を掛ける。 調子はどうだ。悪くはねえ。 短く素っ気はなくても、それなりの親近感はこもった、いつもと変わらない言葉のやり取りだ。 両手をズボンのポケットに入れたまま、承太郎は背中をシートに投げ出す。 DIOは、ただ微笑んでいるだけで、まだ何も言わない。承太郎も前を向いて、何も言わずに、運転手のヴァニラの後ろ頭に目を凝らしている。 車が、またどこかの角を曲がった。 「今度は、誰だ。」 窓の外を見つめて、ぼそりと承太郎が訊く。 一体どこを走っているのか、明かりのほとんど見当たらない、小さな店や工場ばかりが固まって並んでいる。 DIOの唇が、美しい微笑みをたたえたままで、ゆっくりと動く。 「あの神父だ。君が通っている教会の、あの東洋人の神父だ。」 窓に映る自分の顔が硬張るのを、承太郎ははっきりと見た。 顔を一度正面に戻し、それから、油の切れた歯車のような動きで、ようやくDIOの方へ向いた。 「・・・なんで、あの神父を消す必要がある。」 承太郎から視線を外して、DIOが軽く手元にうつむいた。横顔に憂悶が浮かび、赤い唇の間からため息がこぼれる。深々と吐いたその息には、困惑や躊躇の 色合いが、薄闇の中ではっきりとわかるほど濃く刷かれていた。 散々ためらった様子を見せた後で、こんなことは君の耳には入れたくはないがと前置きをする。その後でまた長い間があって、ようやく言葉が滑り出す。 「君のことを、警察に通報しようとしているようだ。」 今度は、全身が硬張った。承太郎は一瞬息ができずに、驚きにただ目を見開いた。 DIOが、なだめるように、承太郎の膝に掌を乗せてくる。 「警察はまだ何も掴んではいない。容疑者の目星どころか、動機すら理解していないだろう。君のしたことに抜かりはない。」 早口に、DIOがそうはっきりと言う。 「私もまさか、こんなところから裏切り者が出るとは思ってもいなかった。」 失望し切った表情で、珍しくDIOの声が弱い。 ポケットの中に握りしめていた手を取り出し、承太郎は、膝に向かって体を傾けた。肘をそこに乗せ、両手を組んで、額を支える姿勢になる。手の陰に表情を 隠して、混乱する頭の中を整理しようと、ひとり必死になっている。 「・・・確かなのか。」 DIOの声につられたように、尋ねる声が低くなる。 「スポーツ・マックスというチンピラをそそのかして、一緒に証人保護プログラムへ入ろうと言っているらしい。」 「証人保護プログラム?」 「政府の金で、警察の保護下で、新しい身分を与えられて、誰も知らないところで、新しい人生を送るというやつだ。中途半端なことでは逃げ切れないと、本 人もわかってはいるようだな。」 いつの間にか車はスピードを落とし、ぐるりと同じ辺りを一周していたらしかった。 承太郎は、花京院の笑顔を思い浮かべている。承太郎に見せた、花京院の表情のひとつびとつを、できるだけ鮮やかに思い出そうと、一生懸命になっている。 何があったのだろうか。何かが起こったのか。あの教会以外に、行くところはないと言った花京院に、あそこから逃げ出さなければならない何かが起こったの か。 あるいは、最初からそのつもりだったのか。ただ機会を待っていて、そこへ承太郎が現れただけなのか。 頭の中が、雑音でいっぱいになる。花京院の笑顔はうまくそこへは映し出されずに、だた砕けたガラスの破片の集まりのような、むやみに乱れた映像が、ごう ちゃごちゃと断片を晒しているだけだ。 信じていたものと、信じかけていたものが、音を立てて崩れてゆく。目に映る何もかも、耳にする何もかも、すべてが信じられなくなってゆく。握りしめてい る掌の中から、さらさらと際限なくこぼれてゆく、砂のようだ。こぼれ落ちるそれを、承太郎は、ただ呆然と眺めている。 「何にせよ、あの神父はいろんなことを知り過ぎている。手を打つなら早い方がいい。今は、君に及ぶかもしれない危険を、黙って見過ごすわけには行かな い。」 迷いのない声で、DIOが言う。 厳しさと確信に満ちたその声は、確かに承太郎への親愛と憂慮を示していて、それだけが今承太郎が信頼できる、唯一のもののように思えた。DIOは、確か に承太郎の心の拠りどころだった。 どこかに、真実はあったのだろうか。花京院が見せたあの表情のどれかに、真実はあったのだろうか。承太郎に触れ、承太郎を抱きしめたあの腕に、真実は あったのだろうか。それとも、何もかもが見せかけの、おためごかしだったのか。承太郎の、弱った心につけ込むだけに、あの腕を開いたのか。 何もわからない。正解など、知ったところでどうしようもない。 花京院の笑顔と、胸のあたたかさを信じた。それが間違いだったと言う、ただそれだけのことだ。 何があったのかはわからない。花京院は、あそこから逃げ出そうとしている。承太郎を置き去りにして、ひとり---どこかの、下衆野郎と一緒に---で、 姿を消そうとしている。見知らぬ誰かになって、見知らぬ土地で、見知らぬ人生を新たに始めようとしている。承太郎は、そこには含まれない。花京院は、何も かもを捨て去って、逃げようとしている。何もかもだ。神も、思い出も、時間も、承太郎も、すべてだ。 またひとりになるのだと、ぼんやりと思う。 顔を上げ、体を起こした。 救世主に、救いはいらない。救世主は、救いをふりまくためだけに存在する。いつだってひとりだ。これからもずっと、ひとりだ。 投げ出した手の位置に困って、またポケットの中に戻す。握りしめる力はなく、承太郎は体の力を抜いたまま、冷たい窓に額を寄せた。 失くすものがないのが、承太郎の靭さだ。そこへ、立ち戻っただけの話だ。 「・・・スポーツ・マックスとか言う、あの野郎は殺らなくていいのか。」 平たい声で訊いた。花京院よりも先に、あの男の方を殺したかった。その理由が欲しかった。 「あの男はいい。組織を裏切るような才覚はない男だ。神父のことを知らせてもくれたし、まだ使い道がある。」 打って変わって静かな声で、DIOが答えた。 残念だと、心の中でだけ舌を打って、承太郎はいっそう強く、額を窓に押しつける。その冷たさが、花京院の指先の冷たさを思い出させた。死んでも、あの冷 たさは変わらないだろう。血を流して自分の足元に横たわる花京院なら、安心して信頼できる気がした。 山積みになった死体の中に、いずれ花京院も加わることになる。流れた血は交じり合って、誰のものともわからなくなる。自分の前を流れる血の河に全身をひ たして、承太郎はひとりきりで歩いてゆくのだ。 「バカなやつだ。スポーツ・マックスが自分に惚れていると勘違いしたのかどうか、ひとりで逃げる度胸もない淫売が考えそうなことだ。」 侮蔑をあらわに、DIOが嗤う。 こちらを見ているのが、窓に映っているけれど、承太郎はそれに目も合わせない。 心が冷えて、乾き始めていた。ひび割れる前に薬が欲しいと、痛烈に思う。 「君はしばらく、教会へは行かない方がいい。警察の張り込みでもあれば面倒だ。」 言いながら、DIOが薄い封筒をどこからか取り出して、投げるように承太郎の膝に乗せた。 その重さももう感じず、手を伸ばすこともせず、承太郎はただ、窓の外を眺め続けている。 窓に映る自分の、虚ろな瞳を通して、のろのろと走り続ける車の外に流れる、暗い景色を見ている。 その瞳に、花京院は映らず、他の何も映してはいない。 花京院の血まみれの死体を、また思い浮かべた。その時だけ、承太郎の口元に、空ろな笑みが浮かんだ。それを、DIOが見つけて、微笑んだ。 車の中は、無音だった。 |