Electric Requiem



 飛び出したところで行くあてもなく、そうなれば、ごく自然に、薬が手に入る場所へ足が向く。
 できれば、もう少し純度の高いものが手に入らないかと、今考えられるうちの、最低のことを考える。
 そこへ向かいながら、自分を殺してくれと言った時の、花京院の、どこか安らいだような表情を思い出していた。
 あれは、抗い続けることを、あきらめてしまった表情だった。素手で、生身で嵐に立ち向かい、通り過ぎるのを待てば、いつか必ず太陽が戻って来る。あれ は、それを信じてはいない目だった。そして、それを信じていないのは、承太郎も同じだったから、あの瞳に自分の剥き出しの姿を見つけて、だから承太郎は狼 狽えたのだ。鏡の中に、不意に裸の自分を見つけてしまったように、恥じる気持ちと怒りが、同時に湧いて、そんな自分の姿を晒け出す花京院を、承太郎は理不 尽に憎んだ。
 鏡のように、花京院は、承太郎のほんとうの姿を映し出す。
 無力な少年、奪われ、踏みつけにされ続け、それを受け入れる以外の術を与えられなかった、哀れな幼い子ども、そこから抜け出す力はなく、とどめられ、 いっそうむごく踏みつけにされる、ただそれだけの存在、その花京院の姿は、承太郎そのものだ。
 そんな自分を認めたくなくて、ずっと目をそらし続けて来たのに、今さら花京院は、それを承太郎に見せつける。
 そんな自分を見たくはなかった。だから、力を手に入れたかった。薬は、いつもひと時、承太郎がほんとうは何者であるかを忘れさせてくれたし、あの銃は、 世界を変えるのだという幻想を与えてくれた。そして花京院は、荒み切った承太郎を、それでもそのまま受け入れてくれたのだと、そう信じていた。
 おれが、人殺しだからか。
 また承太郎は思う。
 真っ当に生きて来たとは確かに言い難い承太郎の、今では口には出せない汚点だ。
 人を殺した。殺意もなく、悪意もなく、ただ、そうすべきだと信じて、人を殺した。あれは、承太郎の殺意ではなかった。愚かしく操られていたのだと、今は はっきりとわかるけれど、それでも、人殺しによって、自分が力を得て、特別な人間になったのだと思った、あの昂揚感を忘れることができない。そしてそんな ことを感じた自分を、承太郎は今恥じて、憎んでいる。
 その、承太郎の愚かさを、花京院はそれも含めて承太郎という人間として、受け入れてくれた。そう信じていた。
 だから、生まれて初めての殺意を、ごく個人的な殺意を、実行したのだ。花京院のために。
 スポーツ・マックスを殺したことだけは、後悔などかけらもない。それを花京院の目の前でやったこと、あれはつまり、殺意の激しさでもあり、あの男に対す る---そして、花京院を踏みつけにした、すべてのろくでなしたちの代表として---憎悪の深さの表れでもあった。そして同時に、おれはおまえのために手 を汚すことも平気だと、それほど、おまえが欲しいと、そう花京院に対して伝えたかった、承太郎の幼稚さ---けれど、ひたすらに真摯ではあった---の表 れだ。
 花京院の目の前で、証明して見せたかったのだ。おれには力がある、力を使う勇気がある、おまえを救える力がある、その力で、おまえを救いたい、どれほど 花京院に認められたかったのかと、思い返しながら、ひずんだ苦笑が湧いた。
 その力を、自分に使ってくれと、花京院が言う。殺してくれと、花京院が言う。承太郎が救った花京院が、救った承太郎に、殺してくれと、懇願した。それ が、花京院の求める形の救いなのだと、花京院が、承太郎に言う。
 承太郎が欲しかったのは、承太郎が証明したかったのは、そんな力ではなかった。
 汚泥の中から這い上がり、ふたりで、太陽に顔を向けて、誰にも恥じることなく生きて行こうと、そう思っていたのに。花京院とふたりで、そんな生き方をし たいと思っていたのに。
 その途中で、花京院は降りると言う。承太郎を置いて、逃げると言う。諦めをあらわにして、もう終わりにしようと、終わりにしてくれと、承太郎に言う。
 終わっていない。まだ、終わってなどいない。今この手の中に希望はないけれど、明日、それがつかめないとは言い切れない。もう少しだけ耐えれば、嵐は通 り過ぎるかもしれない。
 その嵐に、承太郎はひとりでなど耐えられないのだ。
 あの首を締め上げることは、できないことではないだろう。両の掌と指先に、全身の力を込めて、空気の通る喉の管を塞ぎ、ほんの5分か10分、それで、花 京院の望み通りになる。できないことではない。
 承太郎は、歩きながら、自分の掌を見つめた。
 けれど、そんなことは、恐ろしくてできない。この掌に、誰かの体温をじかに感じて、その体温を消し去るために、自分の生身の力を使うことなど、承太郎に は恐ろしくてできない。
 銃がなければ、何もできない。
 狙いを定めて、相手の表情すらよく見えない距離で、指先にわずかに力を込めればいい。そうやって人を殺すのは簡単だ。人を殺すのは、承太郎自身ではな い。銃口から発射された、小さな鉛の弾が、肉を貫いて、骨と血管を砕く。そのことに、承太郎は直接は関わらない。銃で人を殺すのは、驚くほどたやすい。人 を殺すと言う行為と、生身の自分自身との、物理的距離が大きければ大きいほど、人殺しは簡単になる。
 自分が手にした銃が、自分の臆病さを、あれほどはっきりと表していたというのに、なぜ今までそのことに気づかなかったのかと、自分の盲目ぶりを、承太郎 はうっそりと嗤う。
 殺すために花京院に触れることは、自分がそうやって殺されることの、何十倍も恐ろしい。
 花京院があばいた、そんな自分の臆病さと卑怯さに耐え切れず、承太郎はほんのひと時、ひとりになるしかなかった。
 そして、こんな気分を消してくれるのは、薬しかない。
 花京院に触れれば触れるほど、醜い、能無しの自分があらわになる。その自分の姿に、承太郎は耐えられない。耐えられなくて、ただ鏡の中の自分を見つめる ためだけに、薬が必要になる。花京院が向けてくれる笑顔に、笑顔で応える、それだけのために、承太郎には薬が必要だった。
 馴染みの売人の、馴れ馴れしい笑顔に、卑屈な笑みで応えながら、承太郎はふと、ナイフを手に入れようと、通りすがりにこっそりと紙幣と交換した小さなビ ニール袋を、手の中に握りしめた感触に安堵を感じながら思う。
 今薬と手を切ることは、できそうにない。こんなことを続けている限り、承太郎が死ぬのは、時間の問題だ。
 そして、残された花京院を、可哀想だと、確かに思う。置き去りにされたくない、ひとりにされたくない、だから殺してくれ、花京院の主張は、至極真っ当な ことのように思え始めた。
 首を絞めて殺すことはできない。手の中と指に、喉の骨の潰れる感触を、ずっと覚えておく悪夢には耐えられない。けれど、ナイフで刺し殺すなら、できそう な気がした。体に差し込まれるナイフの刃先、そこからあふれ出す血、それに濡れる自分の姿、それはまるで、自分ではできない花京院との交わりの、代替物の ように思えた。
 そうしよう。承太郎は決めた。
 花京院を殺そう。ナイフで刺し殺そう。先に逝かせても、ひとりでは逝かせない。じきに自分も、そこへ花京院を追うだろう。
 ナイフを手に入れられる場所を求めて、承太郎はぐるりを自分の周囲を見渡す仕草をした。
 花京院が求めるものを与えられる自分に、承太郎は酔い始めている。薬よりも心地良く、承太郎は、花京院がそう望む通りに、花京院を自分が逝かせるのだと いう計画に、知らずに安らかな笑みを浮かべている。


 出て来た時に比べれば、雲泥の差の軽い足取りで、承太郎は部屋へ向かう階段を、飛び跳ねるように駆け上がってゆく。
 今日今すぐのつもりはない、少しばかり穏やかに話し合う時間は必要だ。花京院を苦しめたくはないから、心の準備もさせた方がいい。抱きしめて、思う存分 抱き合ってから、互いに、最期の瞬間に覚悟をつけようと、承太郎はそんなことを勝手に考えている。
 部屋は暗かったから、また眠っているのだろうかと、肩を滑り込ませながら思った。思って、ドアの隙間から入る、外からの光の帯の中に、不自然な形に曲 がった、投げ出された足が見えた。
 立ち尽くす。憶えている血の匂いに、思わず鼻が鳴る。けれどそれは勘違いだと、脳が、承太郎に思い込ませようとしていた。
 ドアを閉め、のろのろとした---体が、うまく動かなかったのだ---動作で明かりをつけ、そうして、承太郎は、仰向けに倒れている、動かない花京院 を、床に見た。
 いびつな丸い血の染みが、シャツの胸に小さく広がり、床に触れた背中には、承太郎の歩幅ほど、血の染みが広がっている。
 「・・・花京院?」
 呼ぶ声が、細く、小さく、震えていた。
 「花京院・・・?」
 わずかに横に向いた顔は、髪は床に向かって乱れていたから、承太郎の視界にはあらわで、目を閉じ、よく見れば、苦しんだ表情はなく、唇が、うっすらと、 ほんとうにうっすらと、微笑んでいるようにさえ見えた。
 倒れないように、揺れる体を支え、床を踏みしめて、承太郎は1歩1歩花京院に近づいた。確かめたい気持ちと、確かめたくはない気持ちと、その両方が承太 郎の動きを阻み、その1歩に、ひどく時間が掛かる。
 ようやく、くの字に揃って曲がった膝の、その足元に立って、承太郎は花京院を見下ろした。
 すぐ傍に、銃と穴の開いた枕が置いてあり、それに向かって、思わず膝が崩れた。
 銃を手に取り、焦げた穴を開けた枕を見て、それから、花京院をまた見る。
 誰かが、花京院を殺したのだ。ここへ来て、花京院をこの銃で撃ち、花京院を殺したのだ。それをすべきだった承太郎を差し置いて、誰かが、花京院を殺して しまったのだ。
 「花京院・・・。」
 手にした銃をそこへ放り出して、まるで獲物に飛びかかる獣のような素早さで、横たわる花京院へ這い寄る。
 動かない体を膝でまたぎ、顔を持ち上げ、だらりと床に伸びたままの腕が、ただふらふらと揺れるのを、承太郎は泣きながら見た。
 「花京院・・・ッ!」
 叫ぶ。揺すりながら、叫ぶ。近づけば、いっそう血の匂いが濃く、鼻先に立つ。両腕の中に力いっぱい抱きしめた花京院の体は、まだやわらかく、あたたか かった。
 安らかに見えるその死に顔に、ぼたりぼたり涙を落として、承太郎は、花京院の名を呼び続けた。声はもう、涙に混じって言葉にはならず、ただ悲しい叫びに なるだけだった。
 花京院の血に汚れて、なまあたたかく湿った自分の掌を、承太郎は食い入るように見つめる。その血は確かに花京院の一部で、花京院の分身で、今、承太郎の 皮膚を覆っている。その血は、花京院の体温そのままだ。
 片腕で花京院を抱いたまま、承太郎は、血に汚れた手で慌しく、ズボンの前を開いた。そうして、何にも反応しない自分のそれを、こすり上げ始めた。
 花京院の死体の上に乗り、その血を見下ろして、両手で、自分に触れる。血に濡れた掌が、自分の皮膚をこする。それが、真っ赤に染まる。膝立ちのまま、承 太郎は、必死で手を動かしていた。
 花京院の血が触れている。花京院の血に包まれている。それは、触れることのできなかった花京院の、あたたかな粘膜を思わせて、わずかにまだ残る体温の痕 跡に、ふと、承太郎の躯が反応する。
 泣いていたつもりだったけれど、涙は出ていなかった。
 花京院の血にまみれた掌の中で、花京院の血にまみれて、それが勃ち上がり始めていた。曖昧な熱ではなく、確かな質量が、血に濡れて、それだけでない湿り を承太郎の掌に伝えて、承太郎は、花京院とそこでひとつになり始めていた。
 体の位置をずらし、花京院の両脚の間へ入り込む。ひとらしいぬくもりのまだ残る肌に触れて、開いた脚の間に、承太郎はためらいも躊躇もなく、勃ち上がっ たそれを埋め込んでゆく。
 弛緩した筋肉は、ぬるりと滑った承太郎のそれを、拒むことなく受け入れ、わずかの抵抗も示さない花京院の躯の中に、承太郎は完全に埋没していた。
 大きく開いた脚が、承太郎に絡んで来ることはなく、承太郎を抱きしめるために、投げ出された腕が伸びて来ることもなく、閉じたままの唇には、声どころか 呼吸もない。開かない目が、承太郎を見つめることは、もう永遠にない。
 承太郎は、力任せに動き始めた。
 がくがくと揺れる花京院の躯は、ただ承太郎を包み込んでいるだけで、それ以上の応え方は何もなく、内側をこすり上げる承太郎だけが、そこでただ熱かっ た。
 混ぜ合わせる熱はない。内臓が動くこともない。血と体温を失って、花京院は、ほんとうにただの人形になってしまった。それでも、承太郎にとっては、これ は花京院だった。
 繋がっている。混ぜ合う何もない、ただひたすらに一方的な交接だったけれど、承太郎は、やっと花京院と繋がっている。そうしたいと望んで、果たせなかっ た形に、花京院と繋がっている。花京院の中に埋まり、ぬくもりを感じ、ひどく扱えば傷つくばかりのそこへ、自分の傷つきやすさを押し込んで、自分に向かっ て明け渡された花京院を、承太郎は、そうしたかった形に抱いている。
 躯が繋がっている。承太郎は、確かに花京院の中にいる。何もかもすべてを、花京院に明け渡し、承太郎は、その中で、花京院に触れている。
 誰かが、先に殺してしまった花京院を、承太郎は抱いている。押し込んで、入り込み、繋げて、揺すぶって、痛みを訴えることをしない、悦びを表すこともし ない花京院を、承太郎はその内側をこすり上げて、この世でいちばんわかりやすいやり方で、愛そうとしている。
 増すことのない熱の中で、それでも承太郎は、花京院の中で果てた。
 体を倒し、花京院を両腕に抱きしめ、あごに頬をこすりつけて、承太郎はまた泣いた。まだ躯を繋げたまま、失われてゆく花京院の体温を手放すことができず に、承太郎は、花京院の中に居続けた。
 それ以上は、何をどうするとも思いつけず、吐き出した後のゆるい空虚感に襲われて、そこに、絶望が立ち現れてくる。体を起こし、繋げた躯を外すために、 承太郎はのろのろと動いた。うつむいて、まだ名残り惜しげに花京院の中へとどまろうとする自分の躯を、承太郎はじっと見下ろしている。次第に形が現れ、ま だ血の色の残るそれが、ぬるりと、花京院の中から出て来る。それの形に添っていた花京院の躯が、開かれた形のまま、元に戻る様子はなく、それを見て初め て、承太郎はほんとうに花京院が死んでしまっているのだと、頭を殴られたように、知覚した。
 体液と血に汚れた姿のまま、承太郎は花京院に覆いかぶさり、飽きずに抱きしめる。唇に触れ、まぶたに口づけ、髪を乱し、腕や喉に触れる。次第に弾力を失 うその皮膚の上に、少しでも自分の跡を残そうと、唇と歯と、何もかも全身を、花京院にこすりつける。
 愛する誰かを失くしたのは、生まれて初めてだった。それを、承太郎はまだ、受け入れることができなかった。
 死んでいる花京院を、まるで生きているかのように抱きしめて、別れの瞬間を、ほんの数秒でも、先延ばしにしようとしている。
 血は固まり、すでに内臓そのもののようになっていた。首の辺りはすっかり硬くなり、皮膚の色が、もう生きている人間のそれではない。
 正気の色の失せた瞳のまま、承太郎は、硬直が全身に広がりつつある花京院に、いつまでもいつまでも寄り添い続けている。
 何もかもが遅すぎた、それが承太郎の愛だった。