Spreading The Desease



A

 電話が鳴る。外はまだ雨だろうか。のろのろと体を起こして、テーブルの上に放り出していた携帯に、承太郎はやっと手を伸ばす。どれが通話ボタンが、親指 が迷う。携帯は辛抱強く鳴り続けて、承太郎を待った。
 やあ、と、明るいけれどひそめたような声は、DIOだ。他に誰がかけて来るはずもない。承太郎自身、この携帯の番号を、まだ知らない。
 君のご機嫌がうるわしいことを祈るよ。今日はいやな天気だ。
 声に雑音が混ざる。承太郎は小さくて薄い携帯をやたらと耳に押しつけて、ベッドの端に腰を下ろした。
 「おれは、いつ誰を殺ればいい? いつまで待てばいい?」
 DIOの天気の話を無視して、そう訊いた。単刀直入の殺伐とした話題に、あちら側で、DIOが困ったように黙り込んだ様子があった。
 「おれはもう、いつでもいい。何なら、警察にでも乗り込んで、署長でも撃って来るか。」
 警察署長がどこにいるのかも知らない承太郎は、ただ思いついたままを口にする。ヘロインのせいか、舌がよく回っていないのに、気づいていない。DIO が、承太郎を遮った。
 15分後に、そうだな、君のところから2ブロックくらいで、工事をしているビルがあるだろう。その裏で待っていてくれ。これからすぐに行く。
 慌てたような口調が、けれどなぜか弾んでいるように聞こえたのは、承太郎の気のせいだったろうか。
 きちんと話をしよう、承太郎。
 紳士めいた口振りでそう言って、電話は切れた。
 きちんと。切れた携帯を手の中に見下ろして、承太郎は口移しにつぶやいた。
 部屋を見回して、靴をどこへ脱いだかと視線の先に探す。15分あれば、裸足で出掛けてゆく羽目にはならないだろう。シャワーも浴びられるかもしれない。 クローゼットの傍に片方、ベッドの足の内側にもう片方、揃えてその中に、爪の伸びて汚れた素足を差し入れる。何もかも、のろのろとした動きだ。
 まともになるために、もうひとつやることがある。
 椅子にかけた上着のポケットから、苦労して小さなビニール袋を取り出す。薬はまだちゃんと残っている。それを持って、バスルームに行った。
 ひとりきり、誰の目をはばかる必要もないけれど、こうして小さな部屋に閉じこもってドアを閉めてしまうのは、どこかに残っている罪悪感のせいなのか。そ れとも、そうやって秘密めかして、もうあるとも知れないスリルを味わっているつもりなのか。
 洗面台の縁にある、煤で汚れたスプーンに、袋から少量だけ出した粉を、わずかな水で溶く。これもすぐ傍に置いてあったライターで、下からあぶる。そうし ている自分の姿が鏡の中に映っているのに、承太郎は目もくれない。
 すぐにふつふつと小さな泡が立ち始め、粉の白さは水に混じって透明になり、そこに、小さくちぎった脱脂綿を入れる。脱脂綿が、溶液をすっかり吸い上げる と、口に咥えていた細い注射器で、一滴余さず吸い上げる。そうする時だけは、承太郎の手指は、正確に精緻になめらかに動く。
 また注射器を口に咥え直して、腰からベルトを取った。二の腕の、はるか上の方---まだしっかりと、筋肉が残っているのが不思議だ---にそのベルトを 巻きつけて、青い血管が浮き上がるのを、少しの間待った。
 肘とそのすぐ下の辺りは、注射のし過ぎで赤黒い線だらけだ。そこの部分は固くなり、血管を探り当てるのも、針を突き刺すのも困難になっている。腿の辺り もそうだ。そろそろ、足の別のところや口の中へ打ち始めなければならないかもしれないと、初めて鏡の中の自分を見据えて、承太郎は思った。
 皮膚の上に指先を滑らせて、ようやく針の入りそうなところを見つけ、空気が入らないように慎重に---とても慣れた手つきだ---、細く長い針を突き刺 す。溶液が、体の中に確実に侵入してくるのを、じっと見つめる。
 DIOと会う頃には効いてくるはずだ。何もかもそこに残したまま、ベルトを腰に巻き直し、後で何とか注射針を消毒しようと、それをちゃんと覚えておくた めに、鏡の自分に向かって、小さく声に出した。
 他人と使い回したりはしない。けれど手に入れた注射針が完全に新品で、絶対に汚れていないとは、誰にも保証ができない。今さら病気を恐れる気持ちはない けれど、そんな危険さえ顧みずに薬を使うようになれば、ほんとうに廃人だ。
 おれはまだ、そこまでは行ってない。
 言い訳のように、また鏡の中の自分にささやきかけた。目の下に黒々と隈を作った、やつれた顔の男は、納得の行かない表情をしていた。心臓から巡る血が、 体のあちこちにヘロインを運んでいるのがわかる。鏡の中の男は、ふと目を光らせて、承太郎を見つめ返してくる。何の意味もなく、承太郎はにやりと笑った。
 その笑いを顔に張りつかせたまま、薬のビニール袋だけを手に、バスルームを出る。シャワーを浴びようかと、電話を切った時に一瞬だけ思いついたことな ど、もちろんすっかり忘れている。上着を取り、ポケットに薬を収めて、体の中を巡る小さなぬくもりが、腹の辺りでまとまって、ゆっくりと弾み始めるのを止 められない。同じリズムで足を運んで、飛ぶように歩いているつもりが、よたよたとおぼつかない足取りなのに気づかないのは、承太郎本人だけだ。
 すでに先に着いて、承太郎がやって来るのを待っていたのか、承太郎は完全にそこへ着く前に、音もなくDIOの車がすぐ傍を通りかかり、止まる。中から素 早く降りて来たヴァニラが、静かに、けれど引きずるように強く承太郎の腕を掴み、大きくドアを開いた後部座席に、ふらふらと揺れる体を、雑作もなく荷物の ように放り込む。承太郎の長い上着の裾が、ドアに挟まれないように、きちんとシートの方に押しやる気遣いはさすがで、ドアは承太郎の左側で、恐ろしいほど 静かに閉まった。
 すでに指示を受けているのか、承太郎の隣りに坐っているDIOが何も言わない前に、車は走り出していた。
 「大事な話をするのには、この方がいいと思ったのでね。」
 相変わらず一部の隙もない姿で、組んだ足の上に指を組み合わせた両手を乗せ、DIOが微笑んでいる。
 ふたりきり---ヴァニラがいるけれど、運転をしている時は、空気と一緒だ---になるのが久しぶりで、承太郎は居心地悪げに、ドアから少しだけ、 DIOの方へ体をずらした。
 「誰でもいい、とっとと殺らせろ。どうせ、うんざりするくらい長いリストがあるんだろう?」
 いつもよりもぞんざいな口調に、ヴァニラがぴくりと肩を上げた気配があった。承太郎はそれを無視して、バックミラー越しに自分を睨みつけようとするヴァ ニラの視線を避けて、すっかりDIOの方へ体全体を向けてしまう。
 「問題は、誰を消すかじゃない。そんなこと、君がやろうとしていることに比べたら、ほんの些細なことだ。」
 あごの先だけ承太郎へ向けて、またDIOが微笑んだ。
 「問題は承太郎、君にその覚悟がちゃんとあるかだ。ほんとうに、銃を取って、ひとりきりで戦う覚悟が、ちゃんとできているかどうかだ。」
 微笑むDIOの、けれど目が笑っていない。承太郎に、本音を聞かせろと、その目が言っている。
 ヘロインの勢いではなく、それを何とかよけて、承太郎は、じぶんの内側に訊いた。覚悟はいいか。DIOの声ではなく、自分の言葉で、そう自分に尋いた。
 おれはできている。
 「ああ。」
 迷わずに、うなずいて見せた。
 ふたりの密約が、ただの絵空事の約束事ではなく、紙に記されることはない、けれどほんものの契約として、恐ろしいほどの残酷さを持って成立した、その瞬 間だった。
 どこか安堵したように、今度は目元も一緒にほころばせて、DIOがにっこりと笑う。
 「2、3日中に、必ず連絡を入れよう。次に会う時には、君は本物の救世主になっているというわけだ。」
 救世主という言葉が、相変わらず甘く頭の中に響く。ついにその時がやって来るのだと、承太郎は、待ち焦がれていたうれしさを隠せずに、口元を緩めた。
 眠れる獅子が、目覚め始めていた。
 もう誰も、おれを止めることはできないと、高笑いしたい気分を抑えるのに苦労しながら、ひとつ大きな前進をしたことに安心して、シートの中に長々と体を 伸ばす。
 上向いた承太郎の横顔に視線を当てたまま、DIOが話題を変えた。
 「何も、不自由なことはないか。君に会うのは久しぶりだ。君のことはプッチに頼んではあるが、彼も教会の仕事で忙しいだろうからな。」
 車の天井を向いたままで、特に何もと、承太郎は首を振る。
 「それならいい。何かあれば、何と言ったかな、あの、プッチのところにいる若い東洋人の神父は・・・」
 思い出せない名前を、思い出そうとしているという、それ以外に何か含んだように、DIOが曖昧に言葉を切る。
 「花京院か。」
 目の前の、為されるべきことにすっかり心奪われている承太郎は、DIOの声音には頓着もせず、けれどその名を口にできることにわずかに心を浮き立たせ て、首を曲げてDIOの方へ向いた。
 「そういう名前だったか。彼に言えばいい。彼が、必要なら何でもしてくれるだろう。」
 たった今まで忘れていた、花京院への憐れみが、不意に承太郎の胸を刺した。
 承太郎を教会に立ち入れさせて、そこでヘロインを手渡し、体の調子はどうかと、ほんとうに親身な口調で訊いて、承太郎が眠りに落ちるまで傍にいてくれ る。そんなことは、神の教えにはないことだろうに、DIOと繋がってしまったばかりに、ろくでもないことに加担させられている。
 神父であるだけではなく、花京院が日本人であることも、いっそう憐れを誘う。
 それでも、あれこれとお膳立てをしたDIOを恨む気にはならず、承太郎は、胸の痛みを今は無視するためにまた天井へ向いて、目を閉じた。
 戦うのは自分ひとりだ。誰も関係ない。これは、おれがひとりで決めて、やり遂げようとしていることだ。
 心を閉じて、他の何の存在も感じないために、承太郎は唇を強く結んだ。
 傍にいるDIOの気配が遠くなる。
 そんな承太郎に、また笑いかけながら、DIOは、ちらりとバックミラーのヴァニラへも、その笑みを振りまいて、それから、そっと承太郎の膝へ掌を置い た。
 「君ならきっとやり遂げる。私は、そう信じている。」
 承太郎を軽く揺すぶるその手が、布越しにあたたかい。花京院の、いつもひんやりとした掌を思い出して、承太郎はいっそう強く唇を引きしめる。
 何も考えるな。特に、花京院のことは。
 為すべきことの前に、失うことを恐れるわけには行かない。失うものなど何もないのが、承太郎の靭さだったはずだ。
 あの笑顔が、もう永遠に自分に向くことがないのだとしても、それでも、承太郎の戦いはもう始まってしまっている。 
 後には引けない。引くわけには行かない。ただのヤク中の、無力な汚物に戻りたくはない。だから、前に進むしかない。ひとりきり、銃を手に。
 明日また会う時に、どんな顔をして会えばいいかと考えてから、承太郎は、下らないとゆるく頭を振った。
 どこへ進んでいるともわからない薄暗い車の中で、承太郎は、ヘロインの酔いに身を任せて、完全に閉じる力さえない目を半開きに、けれどもう何も見てはい なかった。


 また夜がやって来る。携帯で交わす会話は簡潔で、その夜はことにそうだった。闇に紛れるように、黒い車にすくわれて、わずかな振動だけで動くそれを、承 太郎は獣の胃のようだと思う。その中で、溶けもせずに異物のまま、承太郎の瞳は何も見ていない。
 DIOもまた、無言のままだった。
 今夜為されるだろうことを想像して、けれど不思議と承太郎は穏やかな心持ちで、ふわふわと現実味のない頭の中は、相変わらずヘロインの銀色の霧に、大半 が包まれている。そうしなければ、もう人と視線を交わすことさえできない。
 この世には、化け物ばかりがあふれている。そのひとりを、今夜殺すのだ。そうすることで、世界は少し救われる。そうして、承太郎は、ほんとうの覚悟を得 ることができる。いわば今夜承太郎が殺す化け物は、世界のための生贄だ。尊い犠牲なのだと、そう思ってから、承太郎はひとり車の天井に向かって微笑んだ。
 黒く塗料の塗ってある窓からは、すでに外の明かりはほとんど入って来ず、その明かりも、次第にさらに薄くなってゆく。
 承太郎は輪郭もおぼろな外を眺めて、ため息をこぼした。それを聞き取って、DIOが、ふっと笑う声が聞こえた。
 「もうすぐだ。」
 そうかと、肩をすくめて応えて、どこへとも訊くこともしない。
 緊張しているのかと思うけれど、心臓の音もよくは聞こえない。事の次第が、まだうまく脳へ運ばれていないのだ。構わないと、承太郎は思う。いろいろご ちゃごちゃと考えたところで、何か筋の通った考えが浮かぶわけでもない。承太郎はただひたすらに、前を向いて歩き続けるだけだ。正しいことをするわけでは ない。これからは、承太郎のすることが正しいのだ。だから、深く考える必要はないのだ。
 車が、スピードをゆるめた。
 どこか、あまり道路の幅のない辺りへ入り込んだのか、両側に殺風景な建物が迫って来る。
 それに目を細めた承太郎の腿の辺りに、硬いものが触れた。
 あごを引いて目を落とせば、DIOが、座席に銃を滑らせて、承太郎に手渡そうとしている。あの日、DIOが承太郎に手渡し、そして取り上げた---預 かっておくからと言って---銃に違いなかった。
 承太郎が触れるより一瞬早く、DIOはそれから手を引き、承太郎の手に渡ったそれは、車の中の薄闇より、ひと色昏い。
 装填されている弾を確かめる承太郎の手つきを、DIOはじっと見ていた。
 音もなく車が止まる。今夜は、ヴァニラにドアを開けさせることはせず、DIOが自分で車を降りた。それに倣って、承太郎もなるべく音をさせずに車を降 り、自分の方へ回って来たDIOを追って、目の前の倉庫へ入る。
 ここはどうやら、港の近くらしかった。
 他に比べれば若干小さめのその倉庫は、何か荷物を置いておくためというよりは、小さな駐車場のように見えた。
 ひとつきりのドアをくぐり抜け、入った正面---こちら側が裏になるらしい---には、全面がいくつかに仕切られたシャッターがあった。そこに、男がひ とり立っている。そばに寄る前に、男がそれなりに金の掛かった身なりであることが、承太郎にもわかった。
 男は不審そうな目つきをふたりに投げて、それから、大きく胸を張ってふたりに近づいて来る。
 常に人の視線を浴びることに、慣れ切った態度だ。自分が重要な存在であることを、きちんと自覚していることが、男の足取りに現れている。
 男に対して、承太郎は何も感じなかった。ただ足元に、小さな虫がいると、そんな風に思うだけだった。
 まるで、頭の中がそっくり通じ合っているかのように、DIOが小さく、
 「・・・やればいい。」
 そうささやいたのと、承太郎は一歩前へ足を踏み出したのと、同時だった。
 男よりもはるかに大きな歩幅で、長い上着の裾が動きにつれてひらめくのが、男の目にはきっと、黒い羽のように見えただろう。
 背中へ腕を回し、ベルトに差し込んでおいた銃を、なめらかに引き出す。まるで、何度も何度もこうして来たように、承太郎の仕草には、一切のためらいがな かった。
 承太郎の周りから一切の音が消え、銃を見た男が全身を硬張らせ、さっきまでの堂々たる所作が、驚愕に反った上体のせいで、無様に崩れるのが見える。
 男が後ろへねじろうとするその胸に向かって、承太郎は引き金を引いた。
 音は、思ったよりも大きく響いたけれど、子どもがどこかで爆竹で遊んでいると言えば、その方が真実味のありそうな、つまらない音だった。
 左の鎖骨のすぐ下に、じわじわと広がる赤黒い染みを、男の掌が押さえる。逃げようとする足は止めずに、けれど爪先がもつれて、男は顔から床に倒れかけ た。そこへまた、1発。心臓を狙ったつもりが、もっと下の方へ当たってしまい、男は撃たれた反動で腰を反らせた形に、どさりと床に倒れた。
 DIOが、両腕を組んで、面白そうに承太郎を見ている。承太郎は、その視線を感じながら、男に確実にとどめを刺すために、銃を構えたまま、瀕死の獲物に 近づいてゆく。
 体の下に左手を敷き込んで、男が、顔をねじって承太郎を見上げた。髪は乱れ、目は驚きに見開かれ、すっかり落ち着きを失くした男は、血に満たされつつあ る呼吸を、少しでもクリアにしようと、無駄に唇をあえがせている。
 ひどく静かだ。自分を包む空気の形を、はっきりと感じる。自分の動きにつれて、小さな風が起こり、世界を揺らしているのがわかる。承太郎は今、確かに世 界の一部だった。
 自分の後ろに続く、長い道を、はっきりと脳裏に思い描くことができた。誰も見落とすことのできない、広い道だ。そこにひとり立つ承太郎は、前だけを見つ めている。
 男の背に片足を乗せ、ゆっくりと狙いを定めた。軽蔑を込めて、男への侮辱をあらわにして、けれど瞳はどこか虚ろなままで、男の頭蓋骨へ、続けて2発。骨 を砕いて、脳を破壊し、わずかに遅れて、男の呼吸が止まる。血だまりが、男の体の下に、厚ぼったく広がり始めていた。
 まだ銃を構えたままの承太郎の後ろで、DIOが、間延びした拍手を打つ。それは、感嘆とも取れたし、あるいは単に、承太郎の初めての殺人を、茶化してい ただけかもしれなかった。
 振り返り、承太郎は、ようやく銃を、また自分のベルトの背中に差し込んだ。
 そこへ転がる血まみれの死体と承太郎とを交互に見て、DIOは、ひどく満足そうな笑みを浮かべていた。
 例えば、何かを成し遂げた息子に向かって、おまえを誇りに思うよと、そう言って息子の肩を抱く父親のように、DIOは承太郎に向かって両手を広げ、たっ た今初めての殺人を終えた承太郎を、自分の胸の中に抱き寄せた。
 「君はやはり、本物だ。」
 うれしそうに背中を叩いて来るDIOに、おざなりに片腕だけを回し、けれど承太郎は、認められたことのうれしさを隠し切れないように、DIOの肩に額を こすりつける。
 場違いな抱擁は短く終わり、DIOはまだ承太郎の肩を抱き寄せたまま、そうしてふたり揃って、さっき入って来たドアへ向かって歩き出す。
 DIOがドアの傍のスイッチに手を伸ばした一瞬後で、倉庫の中は闇に包まれた。
 「さあ行こう。」
 開いたドアへ向かって背中を叩かれ、外へ足を踏み出したと同時に、承太郎は一度中を振り返った。闇に塗り込められたそこに、死体の形を認めることはでき ず、銃を撃った痺れだけが、手の中に残っている他は、たった今承太郎が犯した罪---ということになっている---の証拠など、どこにも見当たらない。
 男は、一言も発しなかった。そんな暇もなかったのだろう。男の頭をぶち抜く前に、そう言えばかすかな整髪料の香りがしたことを、不意に思い出す。きれい に整えられ、撫でつけられていた髪は、今では血と砕けた皮膚や脳にまみれているはずだ。血の匂いが、何もかもを消してしまうだろう。
 男がそこで息絶えている。自分がそれをやったのだと、振り返る思考は、DIOが閉めたドアによって断ち切られた。
 いつの間にか、ヴァニラがひとり残っていたはずの車は消え、もっと小型の安っぽい国産車が、代わりに停められている。最初からそういう打ち合わせだった のか、DIOはさっさと車のキーを取り出して、その車に乗り込んでゆく。
 「送ってゆくよ。」
 事の次第がうまく飲み込めていないと思ったのだろうか、DIOがわざわざそう言った。
 承太郎は、引っ張られるように助手席へ回ると、坐り心地の悪い小さなシートに、手足を縮めて乗り込んだ。
 ヴァニラはあそこに残って、あの死体を片付けるのだろうか。シートの中にずるりと体を滑らせて、承太郎は死体のことばかりを考える。
 生きているということと、死んでいるということの間には、何の共通点もない。完全に何もかもが途絶え、切れ、あれはもう、腐って溶けるのを待つばかり の、ただの肉の塊まりだ。あの肉塊は、名のある、家族のある誰かとして、葬られるのだろうか。それとも、もう人であったという見分けもつかない形にされ て、海や河に流されるのか。
 おれには関係のないことだ。
 あれが、棺桶に納められて土に埋められようと、どこかの犬や魚の餌になろうと、もう、承太郎には関係のないことだ。
 あれはもう、ただの無力な汚物だ。承太郎が以前そうであったように、あの男も、そんなものに成り果てたのだ。今は本物の救世主となった承太郎の手で、男 は、重要な誰かであったという場所から引きずり下ろされ、ただのごみにされたのだ。
 世界を清浄---正常---にするために、承太郎は汚物を集め、それが確かに汚物であると印をつけ、この世から消してしまう。山と積まれた汚物の上で、 承太郎はひとり戦い続けるだろう。ひとりきり、まるで舞うように、そこで飛び跳ね続けるのだ。
 膝の上で、承太郎は知らずに、銃を構える形に、手指を曲げていた。
 いつの間にか、雨が降り出して、窓が濡れている。それを眺めているうちに、不意に、DIOとも誰とも、一緒にはいたくなくなった。
 「・・・降ろしてくれ。」
 小さなつぶやきを、聞き取れなかったDIOが、承太郎へ顔を振り向けた。
 「ここでいい、降ろしてくれ。」
 初めて、怪訝そうな表情がDIOの目元に浮かび、けれど逆らうことはせずに、DIOはゆっくりと車を、歩道に寄せて停車させる。
 「連絡は取れるようにしておいてくれ。」
 黙ってドアを開け、もう体半分外へ出ている承太郎に向かって、DIOが低く言う。頼みではなく、命令だと正しく聞き取って、承太郎は一瞥をくれたけれ ど、うなずくことはしない。
 ドアを閉めようとしたその時に、助手席の方へ身を乗り出しながら、素早く、けれどひどく心を込めた調子のDIOの声が、
 「君を、誇りに思うよ、承太郎。」
 打たれたように肩を硬張らせ、数瞬、ドアを閉めようとしていた手が止まる。
 自分を見つめてくるDIOの視線を受け止めて、承太郎は、無言でうなずいていた。
 今来た方へ引き返すように、肩を丸めて歩き出す。雨は気にならなかった。あの男のために、誰かが泣いているのだと思った。その涙に濡れるのは、自分が背 負わなければならない責任なのだ。誰かを傷つけたことで傷つき、承太郎は、悲劇に酔っている。その酔いは、ヘロインの酔いよりも心地良かった。
 その酔いを醒ますためだけに、承太郎は雨の中を歩き続けた。
 どこへ行くと当てがあったわけではなく、ただ、見知った辺りへ行けば、何か思いつくだろうと、ひたすらに歩き続けた。
 土砂降りではなく、けれど外へ出ようと思うような天気ではなく、雨を避ける人々の合間を、承太郎はうつむいて歩き続ける。
 承太郎の、悄然とした姿に、車も遠慮がないのか、時折車道から激しく跳ね上がった水をかぶっても、承太郎は、通り過ぎてゆく車に、顔を上げることすらし ない。
 どこかに腰を下ろして、あたたまりたいと思った。
 誰にも会いたくない。誰とも口を利きたくない。事情を知る人間など、顔も見たくはなかったし、承太郎を知らない誰かに会って、何もかもを胸の中に秘めて おくことも、想像するだけで苦痛だった。
 今ここで立ち止まって、走り過ぎてゆく車に向かって、おれは人殺しだと、そう叫べたらどんなに楽かと、初めてちらりと視線を滑らせる。
 行動を起こすということは、これほど苦痛を伴うものなのかと、救世主という言葉にだけ甘く酔っていた自分を、嘲笑いたい気持ちが湧いた。
 それでももう、踏み出した一歩を、引くわけには行かない。前へ進む道しか、承太郎には残されていない。この苦痛とともに歩いてゆける自分は、やはり選ば れた人間なのだと、脳の襞に染み込んだヘロインが、承太郎にささやいている。
 足は止めない。ただ方向を変えて、承太郎は歩き続けた。
 不意に思いついた、懺悔という似合わない言葉に従って、承太郎は、何かから逃げるように歩き続ける。


 教会の裏口には鍵が掛かっていて、窓からはほとんど明かりも見えず、何度かノブをがちゃがちゃ言わせた後で、諦めかけた頃、どなたですかと、尋ねる花京 院の声が、中から聞こえた。
 「おれだ。」
 唇を動かすと、頬から滴った雨が口の中に滑り込んでくる。それを足元に吐き出して、ドアが開くのを待った。
 「どうしたんですか、こんなに遅く。」
 午後の6時には遅くとも、表に鍵をかけてしまう教会なら、まだ深夜ですらないこの時間も、すっかり夜更け同様なのかもしれない。
 濡れそぼった承太郎の姿に、花京院が驚いて、早く中へと手招きする。
 歩くにつれ靴跡が床に残り、上着の裾の形に丸く、水滴が滴り落ちた。
 「一体、いつから外にいたんですか。ひどいな、早く着替えないと風邪を引く。」
 ドアを閉め、鍵を掛けて、そんなことをしても無駄だというのに、花京院が、承太郎の肩や背中から水を払おうと、掌で何度も撫でる仕草をする。
 「とにかく、下に行きましょう。」
 承太郎の手を取り、先に立って歩き出す。雨のせいか時間のせいか、廊下はいっそう薄暗い。花京院の手に逆らわず、承太郎は背中を丸めて後へ従った。
 何もかも、昨日来た時と同じだ。何も変わらない。変わらない教会に、変わらない地下のこの部屋に、変わらない花京院だ。
 部屋の真ん中に承太郎を立たせて、もうひとつの部屋とドアで繋がっている共有のバスルームへ、花京院が珍しく乱暴な足音で駆け入ってゆく。大きなバスタ オルを手に戻って来ると、広げたそれを承太郎の頭にかぶせた。
 「シャワーを浴びて下さい。濡れた服は乾かして・・・洗えるものは僕が洗ってしまいますから。」
 されるままになりながら、承太郎は、自分では指一本上げず、焦点の合わない目で、あれこれと世話を焼こうとしている花京院を、空ろに見下ろしていた。
 変わってしまったのは、承太郎だけだ。ここで、承太郎だけが、ひどく異物だった。
 無力な汚物から、異物へ変わったのか、良いことなのかどうか、まだ承太郎には判断できず、そしてこれが、単なる始まりなのだとわかっているから、終わり へ近づけば近づくほど、自分が異形の化け物になってしまうのだと、初めてそれを恐ろしいと思う。それがきっと、救世主になる、殉教者になるということなの だろう。
 何かを為すということは、ひとであることをやめるということだったのかと、ぼんやりとした頭の中で考え続けていた。
 だから、人は、ひとであることをやめられずに、そこにとどまることを選ぶのだ。
 そこから外れてしまった自分が、一体どこへ行くのか、自分の目の前へ広がる荒野を見渡すように、承太郎は遠くを見つめる目つきをした。
 「服を、承太郎。」
 動かない承太郎を、やや厳しい声で促すように、上着の肩へ花京院が手を伸ばす。それを避けるように肩を引いて、唐突に、声が出た。
 「人を、殺して来た。」
 震えてはいない、低いけれど明瞭な声で、承太郎は、はっきりとそう言った。
 花京院の手が止まる。承太郎を見つめていた目を、泣き出す直前のように細め、承太郎の肩の上で、やり場のない手をごまかすためか、そこで握り拳をつく り、音のないため息がこぼれたのが、喉と唇の動きに現れる。承太郎は、それを黙って眺めていた。
 承太郎から、花京院の手が去り、その手が、いつもそうするように胸の十字架を握りしめる。承太郎ではなく、自分のその手を見下ろしたまま、花京院が小さ な声で訊いた。
 「・・・銃か何か、今持っていますか。」
 何も考えずに、素直にうなずいた。
 「僕に渡して下さい。」
 キャンディか何かをねだる子どもの仕草で、掌を上に差し出す花京院に、承太郎は背中のベルトから抜き出した銃を、引き金に指をゆるく掛けたまま、そっと 乗せた。
 神父とも思えない身のこなしで、銃に触れた途端に、承太郎から一歩後ろへ引き、銃を背中へ回しながら、花京院はそこで銃から残った弾を外した。
 「取り上げたりはしません。ただ、弾を装填したままの銃を、ここに置いておくのはやめて下さい。」
 平坦な声からは、何の感情も読み取れず、承太郎はもしかして、人殺しという日本語を、間違って使ったかと、一瞬生真面目に考える。
 ベッドから離れた小さなドレッサーの上に、花京院が銃と弾を別々に置き、バスルームの方へ視線を滑らせる。
 「早く、シャワーを浴びてあたたまって下さい。何か、君が着れそうな服を探して来ます。」
 動こうとしない自分に、近づこうとはしない花京院の方へ、承太郎は、足元にできた小さな水たまりを踏み越えて、大きく一歩近寄った。
 腕をつかみ、自分の方へ向かせ、承太郎は意地悪い気分で一気に吐き出し始めた。ここへ来るまで、歩きながらずっと頭の中で繰り返していた光景を、花京院 にそのまま伝えようとする。
 「・・・ついさっきだ、その銃で、撃って、殺した。4発撃った。2発は頭にブチ込んだ。後ろからも撃った。逃げようとするのを、かまわずに撃った。」
 ぶつ切りに単語を並べて、あえぐようにしゃべる承太郎を、花京院が見上げている。怯えはなく、恐怖もなく、わずかばかりの驚きと、憐れみが、その瞳の色 に見て取れた。
 「シャワーを、浴びて下さい。」
 承太郎が、言葉を止めた一瞬を狙って、花京院がまた言う。承太郎の言ったことの重大さなど、今は問題ではないとでも言うように、ただ、早くびしょ濡れの 承太郎をバスルームに送り込んで、そうすれば面倒はすべて解決すると、承太郎はふと、今夜起こったことがすべて、自分の幻覚のように思えて、さっき花京院 に手渡してしまった銃すら、本物だったのかどうか、定かではなくなる。
 ようやく、硬張っていた全身から、力が抜けた。
 「脱いだ服は、バスルームの外へ出しておいてくれますか。少ししたら、戻って来ます。」
 承太郎の瞳に、やや正気が戻ったのを見て取ったのか、花京院も表情をわずかばかりやわらげ、手首に食い込んでいた承太郎の指を、そっと外す。そうして、 承太郎の脇をすり抜けて、足音をひそめて部屋を出て行った。
 自分の手を見下ろして、承太郎はまだしばらくの間、そこにぼんやりと立ち竦んでいた。
 指先に、硝煙の匂いが、かすかに残っている。花京院は、これに気づいただろうかと、思ってからようやく、上着に手を掛けた。
 コンクリートにペンキを塗っただけの床は、濡らすのも汚すのも、気にはならない。かかとをこすり合わせて靴を脱ぎ、重い音を立てて落ちた上着の上に、承 太郎は次々と脱いだシャツや下着を放る。花京院が渡してくれたタオルも、そこに残すことにした。
 ぺたりぺたりと、湿った足跡を残しながら、全裸でバスルームへ向かう。白い壁がのっぺりとまぶしいバスルームは、承太郎が入っても狭くはならず、驚いた ことに、きちんとバスタブがあった。
 湯をためるかどうか、一瞬迷った後で、結局いつものように、シャワーの当たるところへ膝を抱えて坐り込み、時々上向いて熱い湯を顔に浴びながら、申し訳 程度に掌に塗りつけた石鹸で、届く範囲を軽く撫でる。
 水音に紛れて、花京院が部屋に戻って来た気配に、聞き耳を立てる。
 承太郎の脱いだ服を拾い集め、上着とズボンは今は洗うことはできないから、きっとハンガーにでも掛けて、どこかへ吊るすのだろう。ポケットを探るだろう か。探って、白い粉のこびりついた小さなビニール袋を見つけるだろうか。見つけて、嫌悪に眉を寄せるのだろうか。
 ドアの向こうの花京院を想像しながら、承太郎は、引き寄せた膝にごりごりと額を押しつける。気分が、どんどん落ちてゆく。止められない。下水道に流され てゆく、汚水のように、低いところへ、もっと汚れたところへ、声もなく落ちてゆく自分の姿が思い浮かぶ。
 誰かを殺すたびに、殺した後で花京院に会うたびに、こんな気分になるのか。
 皮膚の表面から、体はあたたまり始めていたけれど、背骨の芯が冷えたままだった。それは、熱い湯を浴びたところでぬくもるはずもない場所で、そこをあた ためるには、薬を使うのがいちばん手っ取り早いのだ。
 あるいは、と思って、承太郎はそこで考えるのをやめた。
 立ち上がり、シャワーを止めて、バスタブの中から手の届く、すぐ傍の棚に積んであるタオルを、1枚取った。
 髪も体も適当に拭いて、着替えが置いてあるかとドアの隙間からベッドを見た。何もない。赤黒く色の変わった、腕や脚を見られるのがいやで、承太郎はタオ ルを巻きつけただけでバスルームを出ると、さっさとベッドから毛布をはいで、その中にくるまった。
 ベッドの端に腰を下ろして、所在なく部屋の中を見回す。承太郎が汚した床は、もうきちんときれいになっていて、わずかに水気の跡が残っているのが見える だけだ。ドレッサーの上に置かれた銃が、この部屋では異様なほど場違いに見える。
 体に巻きつけた毛布をしっかりとつかんで、銃に目を凝らした。承太郎と銃だけが、ここにはそぐわない。そぐわない仲間同士、慰め合おうじゃないかと、銃 がささやいているのが聞こえた、ような気がした。
 空手でいることが落ち着かない。今は毛布を巻きつけただけの裸で、薬もそろそろ切れかかっている。何もかもを剥ぎ取られて、承太郎は、ひどく無防備に なっていた。
 弾を抜き取られた銃は、内臓を抜かれた、剥製にされるまえの獣の死体のように見える。死体の連想に、殺した男の体から流れた血が、目の前いっぱいに広 がった。
 頭を振って何度も瞬きをして、それから、承太郎はよろりと立ち上がると、ようやく決心したように、ドレッサーの上の銃に手を伸ばす。片手に握りしめ、そ の重さの確かさに、思わず安堵の息がこぼれる。
 これは、承太郎が得た力の象徴だ。承太郎を、汚物ではなくしてくれる、確かな力だ。血を流したあれは、ただのごみだ。それを片付けただけだ。何も感じる 必要はない。為すべきことを為しただけだ。それをできない、やらない他の連中のために、承太郎が、力を得て、使っただけだ。汚名ではない。それは栄誉だ。 承太郎は今夜、確かに救世主の名を得たのだ。
 喜べ、と自分に言い聞かせる。
 もう一度、銃を握りしめた時に、ドアを叩く音が小さく聞こえた。
 「君が着れそうな服が見つからないんです。申し訳ないが、乾くまで待って---」
 銃を手にしている承太郎に、花京院が顔を硬張らせた。
 片身部屋に踏み込んでいるその手に、湯気の立つ大きなマグがあった。
 「承太郎・・・。」
 かすかな怒りや戸惑いや憤りや哀しみや、そんなものが様々複雑に入り混じった声だった。
 「寒くはないですか。」
 一瞬で、承太郎に対して、ただひたすらに親身だという、声と表情に変わる。人間くさい様子が、神父という貌に覆われて、あまりにも長く使い過ぎたらしい その表情は、もう作り笑いにすら見えない。それを無表情に受け止めて、承太郎は、銃を手にしたまま動かない。
 花京院は、承太郎のそばへやって来ると、マグをドレッサーの上---弾の、すぐそば---に置いてから、両手をそっと、承太郎の銃に伸ばした。
 ひどく優しい表情と手つきで、それを静かに承太郎の手から取り上げる。指を1本1本丁寧に取り上げ、乱暴にすれば承太郎を傷つけるとでも言いたげに、グ リップの部分を滑らせるように承太郎の掌から外し、両手を添えたまま、音もさせずにドレッサーの上に戻す。
 そうして、空になった承太郎の手に、代わりに、持って来たマグを抱えさせた。
 「紅茶です。甘い方がいいかと思ったので、砂糖とミルクを入れました。」
 ヘロインが切れかかった時には、甘いものを摂取すると、少しだけ落ち着くことがある。それを花京院が知っているのかどうか、尋ねたい気分ではなかったか ら、承太郎はおとなしくあてがわれたマグを片手に、またベッドへ腰掛けようと体を回した。
 「君の服は、今洗っている最中です。乾いたらすぐに持って来ます。」
 そうしてやっと、いつものように、花京院はベッドの傍に置いてあるスツールに腰を下ろし、承太郎のための雑用を片付けるためにまくり上げていたらしい神 父服の窮屈な袖を、うつむいて元に戻し始める。
 承太郎は、花京院の指先の荒れに目を凝らしながら、熱い紅茶をひと口すすった。
 「おれをここに置いて、平気なのか。」
 袖を撫でている花京院に、静かに訊いた。
 うつむいたまま、花京院が答えた。
 「ここでは、誰でも歓迎されます。みんなのために、ドアはいつでも開いていますから。そのために、僕らがいます。」
 淀みないその答えに逆らうように、承太郎はまた紅茶をひと口飲んで、うつむいている花京院の視線を、下からすくい上げるようにとらえた。
 「たとえ人殺しでもか。」
 横目に承太郎を見る花京院の瞳は動かず、そこでそのままひるまない瞳の色が、承太郎の言ったことを肯定していた。
 視線を交わして、ふたりは一緒に黙り込んだ。
 承太郎が、ゆっくりと紅茶を飲んでいるのを、花京院はどこかうれしそうに眺めて、承太郎は、やわらいだ花京院の表情に、肩の力を抜いて、今夜初めて、ま ともに口の中に、きちんとした味を感じている。
 紅茶は、熱くて甘かった。胃に、ぬくもりがしみとおり、背骨の底をあたためてくれる。毛布の中に、ゆっくりと体温が戻って来る。
 「まだ飲みますか。」
 もう2、3度マグを持ち上げれば空になると、そう読んだのか、花京院が、ひどくあたたかい声で尋ねた。
 その声のあたたかさが、承太郎の皮膚を撫でて、花京院に、まだ空になり切らないマグを差し出しながら、そうして、頭のどこかで、何かがぷつんと切れる音 を聞いた。
 承太郎を見ていた花京院が、慌てたように承太郎に手を伸ばす。マグを取り上げて、落ち着かない仕草でランプの傍に置いて、立ち上がって、承太郎の隣りに 腰を下ろして来る。
 「・・・花京院。」
 赤黒く変色した皮膚を見られるのもかまわずに、承太郎は、毛布の奥から、その花京院に向かって両腕を伸ばした。
 肩に腕を回し、神父服の高い襟元へ顔を押しつけ、承太郎は泣いた。
 「承太郎・・・。」
 承太郎を抱き返し、また濡れている髪を撫でながら、流れる涙を受け止めるように、承太郎の頬に、指先を揃えて押し当てる。その花京院の手を、承太郎は 握って離さない。
 今は、十字架ではなく、自分に触れていて欲しかった。
 「ここにいてくれ、おれをひとりにするな、花京院。」
 なぜ、自分がそんなことを言うのか、よくわからないまま、承太郎は声を殺して泣き続けた。
 辛抱強く承太郎を抱いて、花京院の掌が、裸の背中を撫でる。背骨の浮き出た皮膚の上を、花京院の冷たい手指が、何度も滑る。
 「・・・僕はどこにも行きません。僕はずっと、ここにいます承太郎。君のために。」
 まだ降り続けている外の雨のように、承太郎は泣き続けた。泣いても泣いても枯れることのない涙を、花京院の神父服が、ずっと吸い取り続けていた。


 3ヶ月の間に、死体は3つになっていた。いや、正確には4つだ。
 3人目の男は、売春婦と車の中でお楽しみの最中だったから、女も一緒に片付けた。
 街灯もない、強盗か何かの目的でもなければ、誰も足を伸ばさないような、そんな暗がりだった。
 ヴァニラの運転する車のライトに気づいて、警察だとでも思ったのだろうか、男が様子を見に窓を下ろし、女は、男の腹の辺りに顔を伏せたままで、外からは 目を凝らさないとよく見えなかった。
 滑るように、助手席から降りて、驚く男の傍まで2歩足らず。こめかみに1発。音に驚いて、男を楽しませていた唇を、開いたそのままの女の額に1発。また 滑るように車の中に戻って、ドアを閉めて去る。1分足らず。
 ヴァニラは終始無言のまま、承太郎を適当なところで降ろして、また静かに去って行った。
 それが2週間前だ。もうじきまた、次の標的のために、DIOが連絡を取ってくるだろう。それまでは、承太郎はいつものように、薬を打って、それ以外には 何も重要なことなどない日々を過ごすだけだ。外へ出るために、誰かと会うために、誰かと言葉を交わすために、きちんとベッドのある場所へ帰るために、きち んと歩くために、そんなごく普通のことをちゃんとやるために、薬が必要なのだ。最初の頃の、あの呼吸をすることさえ放棄してしまいたいような、あの快感が 忘れられない。呼吸なんかしなくてもいいと、そう思えてしまう、強烈な薬の作用を、もう二度と味わえないと知っていて、もしかするとという、わずかな希望 ---極めて下らない、極めて破滅的な---を、いまだ捨てることができない。
 薬の量が、確実に増えていた。回数も量も、もう、DIOが花京院経由で手渡してくれるあの小さな袋は1日もたず、日に2度、あるいは2日で3度、教会の 花京院のところを訪れ始めて、それを花京院がひどく心配した。それでも、禁断症状が始まれば、誰の手にも負えなくなるから、花京院は黙って、量を増やした 袋を、承太郎に手渡すようになっていた。
 承太郎の顔色はいっそうどす黒く、目はいつも血走っている。にらむようなその視線に、けれど生気などひとかけらもなく、どんよりと濁った水の中にでもい るように、視線の先はとらえどころがない。
 足取りだけは確かに、承太郎は教会へ向かう。大半は薬のために、そして、一度薬で気分がましになれば、自分のそばに寄り添うようにいる花京院に、ようや くまともな視線を向けることができる。
 薬の量が増えてから、花京院はいっそう承太郎を、子どものように扱うようになっていた。
 ドアを開け、突き飛ばすように中に入って来る承太郎にきちんと挨拶をして、その場で上から下まで素早く眺めた後で、いつも困ったように笑う。眉の端を下 げて、無邪気で悪意も害もないいたずらをしている子どもを見つけた時のような、そんな表情を浮かべる。その表情を見ると、安全なところへ来たのだと、承太 郎はいつも肩の力を抜いた。
 下へ行こう。
 承太郎の手を取る。手を引いて、先に立って歩き出す。部屋に入るまで、手は繋がったままだ。指先のかさつく、冷たい花京院の手が、握手とは少し違う形 に、承太郎の手を握っている。それが離れてゆくのがいやで、わざとのろのろ---大した努力はいらない---と足を運ぶこともあった。
 今ではもう、自分のためには何もしない承太郎の世話を、花京院が代わりに焼く。
 薬を手に入れること、薬を打つこと、それ以外の一切合財を、承太郎は放棄してしまっている。薬の量が増えてから、それはいっそう顕著になった。
 部屋へ着くと、まず最初に、承太郎の腰に両手を回して、背中の後ろに差し込んである銃を、花京院が取り上げる。弾を外して、ドレッサーの上に置く。それ から上着を脱がして、承太郎に、バスルームへ行くように言う。
 着替えを取りに花京院が部屋を出て行くと、承太郎はその場で服を脱いで、そこに何もかも残したまま、バスルームへ行く。
 バスタブの中で、両膝を胸に抱えて、花京院が戻って来るのを待つ。寒いと思っても、ひとりでは湯も浴びない。
 花京院が着替え---花京院が、前の時に洗っておいてくれたものだ---を手に、中に入って来る。全裸の承太郎から目を背けることもなく、神父服の袖を まくり上げながら、バスタブの縁に腰を下ろして、ちょうど良い温度の湯を出し始める。シャワーに切り替えて、壁からシャワーヘッドを取り上げると、熱くな いかと尋ねながら、承太郎の肩や背中を濡らし始める。
 花京院の掌が、湯の流れに添って、承太郎の皮膚を滑る。骨の浮いた背中や、ごつごつと手触りの悪い肩を、そうやって、外から運んで来た汚(けが)れを洗 い流しているのだとでも言うように、時間を掛けて撫で続ける。
 薬と栄養不足で、やたらと指に引っかかる髪にも、湯を当てる。丁寧に濡らして、頭皮を押さえる指先の心地良さに、承太郎が思わず声をもらすと、花京院は いつもおかしそうに笑った。
 湯を止めて、濡らした小さなタオルに石鹸をこすりつけ、それから承太郎を洗う。ごしごしと力を込めて、皮膚1枚剥ぎ取ってしまいたそうに、そうされてよ うやく、血の色を取り戻す承太郎の体だった。
 拾って来た野良猫を洗うように、両方の手を承太郎の体に掛けて、優しく、けれど逃がさずに、汚れた承太郎の体をきれいにする。
 硬張ったように、身じろぎもしない承太郎の腕をほどかせ、注射の痕だらけの手足も洗う。変色して固くなった皮膚に、眉ひとつ動かさず、ただ触れれば痛い かもと、それにだけ気をつけて、二の腕の裏や脇、腿の内側にも手を伸ばす。
 どこもかしこもだらりと弛緩して、生きている人間とも思えない承太郎の体を、花京院はすみずみまで洗う。自分が濡れるのにも構わず、承太郎の体を胸に引 き寄せて、指先や爪先まできちんときれいにしてやる。承太郎はもう、体のどこをどうされようと、怖がることも拒むこともせずに、花京院の手に自分の全身を 預けて、ただされるままだ。
 寒くないかと何度か訊かれるのに、そのたびゆるく首を振って応えて、承太郎は上目に花京院を見る。時々、自分から花京院に体を寄せて行って、花京院が手 を止めて、自分を抱き返してくれるのを待つ。花京院の腕の中で、喉を伸ばし、胸に耳の辺りをすりつけて、肩に当たる木の十字架を、下目に見る。それに向 かって目を細め、自分といる時に、花京院が始終それに触れていることに、心のどこかが波立つのを、どうしてかとまた考える。今は自分の体に、花京院の両手 が触れていて、十字架は放っておかれたままだ。それがなぜかうれしくて、承太郎は、うつむいて小さく笑う。
 泡を流して、それから髪を洗う。手に取ったシャンプーを、ちゃんと掌であたためて泡立てて、承太郎の髪に塗りつけ、なかなかきちんとそこで泡が立たない のを、これも辛抱強く、花京院が両手の指先を使う。耳の後ろに親指の腹が滑り、耳の中の複雑な流線にも、指先が入り込む。ぬめる感触が気持ち良くて、背中 を丸めたまま、承太郎は目を細める。
 喉とあごに触れた花京院が、ひげの伸び具合を確かめている。
 投げ出した両脚の間を、泡が流れてゆく。それを、他に見るものもなく、承太郎は見下ろしている。赤黒い注射の痕が禍々しい。泡の白さが体から落ちてゆく のが、何かの象徴のように思える。
 洗い終わった髪を後ろに撫でつけて、花京院が、石鹸の泡を承太郎の口の周りと喉全部に塗り広げる。最初のうちは、承太郎自身にやらせようと、手に使い捨 てのカミソリを握らせることもしたけれど、長く握ってはいられないことと、腕をきちんと持ち上げたままにはしておけず、見るからに危なっかしい承太郎の手 つきに、花京院の方が諦めてしまった。
 指先がそう促すように、喉を伸ばし、顔の向きを変え、花京院がカミソリを使うのを、承太郎はじっと見ている。慎重なその手つきに、怪我をさせられること はないと確信していて、けれど時折、何かの拍子にするりと滑った刃が、自分の皮膚をきれいに切り裂くことを、想像せずにはいられない。白い泡に混じる、赤 い血。汚染された血が、けれどまだ赤いことに、きっと自分で驚くだろう。そんなことは、もちろん起こらない。
 唇の近くに、花京院の指先が触れる。水に濡れれば、本来の柔らかさを取り戻す承太郎のふっくらと厚い唇に、花京院の視線が当たっている。何の他意もない はずの、ただ慈愛だけに満ちているその視線に、ふと、首筋に上がる血の熱さ---まだ、そんなものが残っている!---を感じて、承太郎はそれを、きっと 自分を愧じているからなのだと思う。
 両脚の間に投げ出した両腕は、注射器と銃を持つ以外には役に立たず、このまま死体の中に紛れ込んでも、そうとは見分けられないだろうと思えるほど、承太 郎は死人に近くなってしまっている。
 DIOはたわむれに、承太郎を、死の天使と呼んだ。救世主よりは、幾分軽い響きのある、その冗談めかした呼び名を、その時ハイになっていた承太郎は、声 を立てて笑った。死を運んで来る、死に近い存在。死神ではない。死神は、連れてゆく人間を選ばない。死神のもたらす死は、この世の何よりも公平だ。承太郎 の運ぶ死は、慎重に選ばれたものだ。まだその時ではないはずの誰かの命を奪う。他の誰かのために。多数の、貧しく恵まれない人間たちのために、少数の、恵 まれすぎた人間たちを殺す。そうして、残された恵みを、残された人間たちに分け与える。
 そのために、承太郎は、選ばれた人間だった。
 剃り残しがないかと、カミソリの跡を、花京院の指先が撫でた。
 残った泡を流して、立ち上がらせた承太郎に乾いたタオルを手渡し、汗の吹き出た額を、花京院は拭う。さっきまで自分に触れていたその手から、承太郎は目 を離せない。
 承太郎を残して、花京院が先にバスルームを出てゆくのは、承太郎のために食事を運んで来るからだ。
 ここで何か食べなければ、承太郎は1日中空の胃を抱えて過ごすことになる。アパートメントには、固形のものなど何も置いていないし、何かを食べに外へ出 るということもしない。薬だけに溺れて、それを使い尽くせば、こうしてこの教会にやって来る。
 花京院が承太郎を洗い、服を着替えさせて、食事を与え、それから、眠らせてくれる。生きている人間たちがごく普通にすることを、承太郎はもう、自分ひと りでは一切やらなくなってしまっている。それをやるのは、今では花京院の役目だ。
 花京院が持って来てくれた、野菜のたっぷり入った薄味のスープと固いパンを、味もろくに感じなかったけれど、時間を掛けて何とか胃の中に押し込んで、承 太郎は下着姿のまま、ベッドの上に横たわった。
 ますます混沌としてゆく頭の中で、薬欲しさにここへやって来るのが、理由の大部分だとわかっていて、けれどその薬が花京院の手から渡されるのではなけれ ば、受け取った薬を全部一度に使ってしまって、手っ取り早く死体になっているだろうと、承太郎は思う。
 以前よりもずっと秘密の多い日々を過ごして、承太郎の神経は、もう薬ですら救えないほど張りつめ切っている。その秘密を花京院と分け合えるということだ けが、救いになりつつあった。それを、承太郎はまだ気づかない振りをして、目をそらし続けている様々な現実のひとつの中に、数えてしまっている。いつか直 面しなければならないそれらを、恐怖とともにひとつひとつ数え上げる夢を見るのが、恐ろしかった。
 だから、もうずっと、ひとりでは眠ることができない。人々を救うために行動を起こした承太郎を、けれど薬すら救ってはくれない。苦痛に苛まれながら、ひ とりきり慄える肩を抱いて過ごす不眠の夜と、苦痛を手渡して、分け合って、誰かのぬくもりを感じてまどろむ昼と、承太郎の日々は、そんなふうに塗り分けら れている。
 空になった食器と、承太郎の脱いだ服を片付けて、花京院が承太郎の傍へやって来る。承太郎の、埃だらけの、履きつぶされる寸前の靴を、ベッドの端に揃え て置き、それから、明かりをランプだけにする。ドアは閉まっているし、物音は聞こえない。
 「薬は・・・?」
 声をひそめて、花京院が尋く。承太郎は、腕を両目の上に乗せたまま、首を振る。
 「まだいい。」
 承太郎の右腕を、その注射の跡を、花京院の掌が撫でる。それから、そのためにベッドの片側へすでに寄っている承太郎の隣りへ、花京院が体を乗せて来る。
 ふたり一緒に、ベッドの中央へ体を寄せて、花京院は半ば坐った姿勢で、自分に両腕を伸ばして来る承太郎を、まだかすかに湿ったままの神父服の胸に抱く。
 こうしなければ、眠れない。花京院の傍でなければ、眠れない。眠った後で見る夢が恐ろしい。血まみれの死体を目の前に積み重ねて、銃を手にしたままの自 分の姿を、夢の中に見るのが恐ろしい。血まみれの手を、片方だけ高々と天にかざして、胸を張って歩いているつもりが、目の前にただ広がる荒野の、果てもな い風景に怯えている自分の胸の内を知るのが恐ろしい。救世主という呼び名のあまりの重さに、承太郎の両肩はぎしぎしときしみ続けている。
 その重さを投げ捨てることができるのは、その重さを忘れることができるのは、ただ花京院の胸の中でだけだった。
 時々、思い出したように、そうして感謝を示すために、花京院の右手に口づける。皆の食事を作り、何もかもを洗い、どこかの誰かが残した汚れを拭い、秩序 を取り戻し保つために使われる、荒れてかさついた指先に、自分の、別の理由で荒れて乾いてひび割れた唇を、押し当てる。
 与えられた慈愛に、感謝を表す術を、他に承太郎は持たなかったから、十字架を握るその手を自分の掌の中に収めて、神などではなく、花京院自身に感謝して いるのだと、そう知らせるために、承太郎は、また乾いてしまった唇を、花京院の冷たい指先に押し当てる。
 花京院の示す優しさと慈しみが、それが神の存在を信じるゆえであっても、それを実際に行っているのは花京院自身だったから、神だの何だのという御託は抜 きにして、承太郎はただ、花京院のそばで、それに感謝しながら憩っている。
 全身を鎧うように、襟の高い裾の長い神父服に包んだ花京院が、今ではもう、全裸を晒すことさえかまわない承太郎を、その胸に抱いている。
 ふたりでようやくひとり分に足りるぬくもりを、ふたりは持ち合い、一緒に分け合っている。
 承太郎が眠りに落ちるまでの長い時間を、花京院は、急かすことはせずに、ただじっとやり過ごす。承太郎の髪を撫で、背中をさすり、首筋に掌を置いて、ふ たりは滅多と言葉を発することもない。
 繭の中のさなぎのように、あるいは、2匹きり生き残ってしまった深海魚のように、身を寄せ合って、世界から互いを守っている。嵐の吹き荒れる現実から遠 く離れて、この部屋はまるで、ふたりのためのシェルターのようだった。
 いつか、誰かが荒々しく踏み込んで来て、この小さな檻のような空間を、めちゃくちゃに壊してしまうだろうという予感があった。けれどふたりとも、そのこ とを口にはせず、それまでに残された時間を、ただ少しでもあたたかく過ごそうと、必死だった。ただ、それだけが、ふたりの小さな願いだった。