Spreading The Desease



@

 「やあ承太郎。」
 今では、教会の裏口から自由な出入りを許されている承太郎を迎えて、花京院が微笑む。
 訪れれば、すぐに地下の部屋に下りてしまうから、滅多とプッチを顔を合わせることはなかった。プッチ自身も、承太郎が求めない限り、頻繁に会う気はなさ そうだった。
 薬と金を受け取れば、他に用もないはずだったのに、いつの間にか、銃を撃つためにDIOの部下たちに会う以外は、ここで過ごす時間が長くなり始めてい た。
 いつもシーツが清潔なベッドのマットレスのせいか、それとも、誰かが、親切から傍へいてくれるという安心感からか、ヘロインのせいの不眠にも関わらず、 ここにいるとつい眠気に襲われる。さすがに教会の中で、受け取ったばかりの薬を打つのには気が引けて、必ず薬が切れる前に立ち去るようにしているけれど、 いつだって後ろ髪引かれる思いで、寒々とした自分の住み処へ帰ってゆく。その承太郎の背中を見送る花京院も、気のせいか、いつも淋しそうに見えた。
 承太郎にとっては、日本語で話せるのが特に気楽というわけではなかったけれど、花京院はそれを単純に喜んでいる風で、厳格らしいプッチ神父から、わずか の間逃れて、年頃も変わらない承太郎と、母国語で他愛もない会話を交わすのを、心待ちにしているようだった。
 互いに、個人的なことにはまだ一切触れない。
 これから殺人を犯す予定のヤク中と、どう見ても訳ありの日本人の見習い神父と、互いの境遇を尋ねるのに、ためらいがないわけもない。
 薬が、今では花京院から手渡されることには、承太郎は目をつぶることにしていた。ここは教会で、花京院はここに属している人間だけれど、人にはそれぞれ 事情があるのだと、承太郎はすっかりすべてを飲み込んだつもりでいる。それが花京院に毎日会える大きな口実であるために、そして、これが続くうちは、この 世界の何か美しいものに、常に触れていることを許されているのだと、そう思えるからだ。
 宗教に没頭する人間特有の、けれど日本人らしく、押しつけがましさは微塵もなく、花京院はただひたすらに承太郎に親切だった。
 「今日は午後遅くから雨になるそうです。早く帰った方がいい。」
 「雨に濡れて困ることなんかねえ。」
 「君に風邪を引かれては、僕が困ります。君の面倒をちゃんと見るように、神父様から言われていますから。」
 「おれを、見張ってるつもりか。」
 「まさか。君はただ、大事な人だからと、それだけです。」
 ベッドに上がって足を投げ出し、頭の後ろの両手を組んでヘッドボードに背中をもたせかけ、承太郎は、かすかな眠気に、小さなあくびを繰り返している。
 花京院はいつもの封筒を承太郎に手渡した後で、壁際にぽつんと置いてあるスツールに腰を乗せ、そんな承太郎を、微笑みを絶やさずに眺めていた。
 大事な人と、そう花京院が言ったのを聞いて、誰にとって、何にとってと、考えながら承太郎は苦笑をこぼした。
 DIOとは一度、電話がきちんと通じるかどうか確かめたかったと、そう言って短い会話を、あの携帯電話で交わしたきりだ。
 まだ何事も、起こる気配はない。承太郎はただ、毎日ここへやって来て、花京院と、天気と外の気温の話をして、まどろむような日々を過ごしているだけだ。
 少なくとも、以前のように、どうやって次のハイのための薬を手に入れるかと、腹を空かせた野良犬のように、濁った目をぎらつかせて街をうろつく必要はな くなったけれど、その代わりに今は、もっと大きな目的を与えられて力強く生きる意義を見出したというのに、必要なものを与えられて甘やかされるだけの去勢 された子犬のように、自分のことを感じている。
 薬で飛んでいる間はいい。DIOやプッチの言う、救世主だの殉教者だのという耳触りの良い言葉を思い出して、素直に酔うことができる。自分が、選ばれた たったひとりの人間なのだと、何の躊躇もなく信じることができる。
 そろそろ、行動が必要だった。確信のために、行動を起こさなければならなかった。
 DIOが教えてくれた、そんなものが存在するのだという、薬以外から得る快感を、承太郎はもう待てないと思う。
 崇高な目的のために、自分の役目を果たす。そうして、確信するのだ。自分がどれほど重要な存在であるかを。世界の汚れを払うために、自分の手を汚す。そ の汚れた手を高く掲げて、人たちを導く。血の滴る、承太郎の作った道を、人たちは進むだろう。天国を目指して。穢れのない世界を目指して。
 ここへ来る前に打ったヘロインが、まだ承太郎の脳を溶かしている。目の前に、自分が今いる教会の地下ではなくて、そのまだ見ない天国とやらの風景の断片 のように見えた。
 右側から、何か聞こえた。首を折り、がくんと、そちらへ顔を向ける。とろんとした、焦点の合わない視線の先に、意外な近さで花京院がいた。
 「僕は上に戻ります。遅くならないうちに、起こしに来ます。」
 だから眠るといいと、花京院の掌が、承太郎の額の辺りを撫でた。ひんやりとした手だった。
 その掌を見て、それから視線を下へずらすと、胸に下がった木製の十字架が目に入る。プッチ神父の、いかにも重そうな銀製らしいの、しかも豪奢な飾りのつ いた鎖で胸を飾るそれとは違い、花京院の十字架は、いかにも粗末に見える。それでも、花京院がそれを握りしめる時には、なぜかいつも承太郎は、鞭打たれて 血だらけの体で、自分がこれから磔にされる巨大な十字を背負って歩く、キリストの姿を思い出した。
 教会へ通うこともなく、聖書すら読んだことのない承太郎でも、その姿を思い浮かべる時には、どこか敬虔な心持ちになって、そっとうなだれたくなる。膝を 折って祈る人たちの気持ちが、わかるような気さえした。
 世界の痛みと汚れを背負って死んだ、殉教者の姿だ。それに、己れを重ねても、なぜか神々しさからは程遠く、とろけた脳の片隅でそれを悲しく思いながら、 ふと、花京院の後ろに、白い光を見る。薬のせいかと目を細めたけれど、もう光は跡形もなかった。
 「花京院。」
 「何ですか承太郎。」
 ぼんやりとした声で呼ぶと、はっきりと優しさを込めた声が答える。
 いつも、どこか淋しげな瞳だ。承太郎を、ためらわずに真っ直ぐに見つめて、それは、同じ国で生まれ育って、同じ言葉を話すというだけではない親しみがあ るように、承太郎には思えた。そう、思いたかった。
 すべてのあらゆる人間のために、特別である必要はない。たったひとりのために、自分が特別な存在になれるなら、それだけでいい。それだけで、生きるには 充分な理由になる。身も心も、とうに健やかさを失っている承太郎の、干乾びて縮んだ命に、それは充分な明るさを与えてくれる。
 あちこちに、思考が飛んだ。目の前の花京院に、訊きたいことがあるのに、声がうまく出せない。
 おれが人を殺した後も、おまえはそんな風に、おれに優しく笑いかけてくれるのか。
 車にひき潰された小さな動物の死体にくれる一瞥のような、それが承太郎が得ていたすべてだったというのに、なぜこの男は、同じような目で、承太郎を見な いのか。まるで承太郎が、ごく普通の、ごく人並みに好ましい人間であるかのように、承太郎の薄汚れた姿など、目にも入らないというように、ただ真っ直ぐに 思いやりを込めて承太郎を見つめてくる。
 それはきっと、花京院が神を信じているからなのだろうと、承太郎は思う。神を愛するがために、何もかもを愛そうとしている、神への愛を示すために、この 世のありとあらゆるものを、愛そうと努める花京院の、そのための優しさだ。
 花京院が表すのは、神への愛であって、承太郎への好意や友情ではない。そのことに、失望している自分に、承太郎は気づかないまま、胸の奥に感じた小さな 痛みに、知らずに顔を歪めていた。
 「眠りなさい。」
 低い声の後で、花京院の手が、承太郎の肩を押した。
 体を動かされて、やや手こずった後で、花京院に上掛けの下に押し込まれて、上着を着たままの承太郎の大きな体は、あごまでしっかりとぬくもりの中に覆わ れる。
 「後で。」
 小さなランプの明かりだけを残し、花京院が部屋を出てゆく。
 はたはたと遠ざかる足音を耳で追いかけた後で、承太郎はくるりと横向きに体を丸め、ようやく目を閉じた。