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* 選択お題@TigerLily *

Not Alone Again - First Steps

 赤子が、おむつの丸い尻を振り立てて、何とか両手足を頼りなく突っ張り、体を起こそうとしている。
 ふたつに折り畳まれた体なら何とか支えられても、まだ頭を真っ直ぐに立てることはできず、そのまま尻は重さに耐え切れず、ころんと横から床へ転がってゆく。
 肩や頭を少々打っても、もう泣くこともせず、今はただ必死に立ち上がることに夢中で、痛みなど気にもならないらしかった。
 ころんころんと固い床を転がり、それ自体が面白いものか、飽きもせず転がって体を起こし、起こしてまた立ち上がろうとして、ころりと転がってから首を傾げ、一体何がまずいのかと、まだ育ち切らない小さな脳みそで一人前に考え込むような表情を浮かべている。
 キリコは床にあぐらで坐り込み、そんな赤ん坊を見張っていた。
 這って動けるようになると、大人顔負けの速さで動き回り、触れられるものはすべて手を伸ばして取り上げ、口に入れて舐めて噛んで、そうやって知覚が育つらしいのだけれど、そうなると赤子の手の届くところには何も置けず、ここなら大丈夫だろうと思ったところにもたちまち小さな手が伸びて、時々キリコは、ATのコックピットに放り込んでおけたら──赤ん坊を?──いいのにと思う。
 もちろん、そんなことはココナとバトラー家の小さな子たちが許さないから、こうして手持ち無沙汰に、ひとり遊びに夢中の赤子を見守る役を仰せつかって、シャッコが来て交代してくれるのはいつかと、時間ばかりをこっそり気にしていた。
 歩けるようになると言って、一体何が楽しいのだろう。寝ていて泣けば、何もかも自分の思い通りになると言うのに、急いで成長しなくてもと、この間までは早くまとまった時間を寝てくれるようにならないかとか、1時間置きではなくせめて2時間置きくらいにミルクを飲んで満足してくれるようにならないかとか、さっさとひとりで何もかもできるようになってくれと考えていたくせに、その途上を今はさらに面倒くさがって、キリコは手前勝手を承知で小さなため息をこぼした。
 これを6人分やったと言うココナとヴァニラは、一体途中で投げ出したくなったことはなかったのかと、思わず訊いてみたくなる。もちろん子どもたちのいないところでだ。これ以上あの子たちに睨まれたくはない。
 ただでさえ、キリコが育てるって決めたんでしょ!と、末っ子のチクロ・バトラーに繰り返し言われて、おれがもらうと申し出た時には、こんなことは考えもしなかったのだと、本音を言ったらあの子はどんな顔をするだろう。
 とは言え、ほんとうにひとりきりで面倒を見ていた最初の数ヶ月を考えれば、バトラー家の人々が代わる代わる子守りをしてくれ、養い親に強引に引きずり込んだシャッコもいる今は、キリコのすること──できること──と言えば、手出しもせずにただ赤ん坊が怪我をしないように見守るだけで、放っておいても勝手に育ちはするけれど、それでも死ぬ時はあっけなくそうなるのだろうと、まだまだ小さな体を眺めて思う。
 神の子と呼ばれるこの赤ん坊も、恐らくキリコ同様、簡単には死ねない身だろうし、長命のクエント人は2百年生きることも珍しくはないと言われれば、自分が手出しをする必要もなかったのではないかと、今さら考えてもみる。
 それでもあの裁定の場で、黒いベルゼルガに踏み潰されるのを黙って見ていられたかと自問すれば、否と即座に胸の中で声がする。憤怒に近い表情であれを見ていたシャッコのために、そしてやはり、この幼な子自身のために、キリコは神の子と見做された嬰児(みどりご)を見殺しにすることはできなかったのだ。
 片腕に収まった小さな体。柔らかく、湿ってあたたかく、支えていなければただぐんにゃりと揺れ垂れ流れ落ちてゆく、骨も内臓も、まともにあるとも思えない、小さな小さないきもの。たった半日前、母親の胎(はら)の中にいた、呼吸の仕方すらまだまともに知らないような、幼いいきもの。自分へ向かって伸ばして来た指先に、小さな爪のしっかりあったことに、ひどく驚いたことをキリコは覚えている。これも命なのだと、その時そう思った。
 自分が見て来た死の数々。その長い一覧の中にこの赤ん坊を入れる気になれるほどキリコは非情でも冷酷でもなかったし、様々取って来た死に際の者たちの手──の形をなしていないこともあった──よりも、赤ん坊の手はずっとずっと小さかったので。
 その程度のことなのかと、改めて自分の胸の内を覗き込んで、神の子との関わりを一体どのように捉えるべきかとまた考えながら、それでも赤子の世話などうんざりだと思う気持ちのまま、ここから永遠に立ち去ってしまう気にはならない不思議だった。
 血まみれのキリコの記憶同様、この子の記憶も、すでに血ぬられている。同胞に、その誕生以前から死を望まれていたと知って、この子は何を思うだろう。それに激しく憤ったシャッコと、それを救う羽目になったキリコと、こうして無邪気に、他の赤子と変わらずに育ちながら、この子の行く末には一体何が待ち構えているのか。
 思い惑いながら、それでも、考えることと言えば赤ん坊の育ち具合だけのこの、恐ろしく退屈な、それでいて騒々しさと慌ただしさに息つく間もない今の暮らしに、キリコはもうすっかり馴染んでしまっている自分に気づいていた。
 自分の内に、永遠に穿たれてしまった空洞、そこに赤ん坊は泣き声と笑い声を満たし、常にそこに吹いていた乾いた風の音を、キリコはいつの間にか忘れ掛けている。
 いや、音はある。風は吹き続けている。けれどその音に、今は四六時中囚われているわけに行かないだけだ。
 少しずつ増えてゆく、キリコの中の赤子との時間。血塗られた記憶の傍らに、ひっそりと積み重なってゆく、平凡で退屈な日々。
 そろそろ代わってくれとシャッコに言いに行くかと、キリコはそこから立ち上がる。キリコの伸びた足に、赤子が素早く這い寄って来てしがみついた。
 「そろそろ昼寝の時間だろう。」
 いい加減なことを、ちょっと低めた声で言って、けれど幼な子は一生懸命キリコを見上げて、もっとここにいようとでも言いたげに瞳を輝かせている。
 掴まるものがあれば立てるその頼りない両足の、まだ小さな小さな足裏は、それでもしっかりと床を踏みしめて、ちょっとキリコが足を引いたくらいでは動きそうにもない。
 その足の爪先が、不意にキリコの方からずれて、同時に片手も外れ、これならさっさと抱き上げて運べるとキリコが思った瞬間、赤子は両足をのたのた動かして、今は両腕でバランスを取りながら、ぱた、ぱた、と、前に2歩歩いた。自分の足で。何にも頼らずに。
 丸いおむつの尻が左右に揺れ、あ、とキリコが思った時にはそれはやはりぱたんと床に落ち、そうして、目の前にやって来た自分の足を赤ん坊は自分のものではないように見やり、体とは不釣り合いに大きな頭をくるりと回して、今一体何が起こったのか、自分は何をしたのかと、問いたげにキリコを見上げて来た。
 キリコは、知らず驚きに目を見開いて、ココナとヴァニラとゴウトが楽しみだと始終心待ちにしていた、赤ん坊の初めて歩く瞬間とやらを目にして、さっき、この暮らしを退屈と思ったことを、あれは間違いだったと思い直している。
 ひとりで歩いたとキリコが言ったら、家中上げて祝いでもしかねないバトラー家の人々の喜び様を想像して、キリコは1歩半で赤ん坊に近づくと、床にしゃがみ込み、その小さな頭を撫でてやった。
 「──シャッコにも、見せてやれ。」
 やっと言えたのは、そんなことだった。
 退屈などではない。今の日々は、驚きと喜びに満ちている。
 2歩歩いて、今日はすでに1日分のエネルギーを使い果たしたとでも言うように、赤子はキリコへ向かって両腕を伸ばして来た。
 抱き上げられ、キリコの肩と首筋になまあたたかく額と頬をこすりつけて、爪先はぱたぱたとキリコの腹を蹴る。
 さてこれをどんな風に報告するかと、考えながら部屋を出て行くキリコの口元に、かすかな笑みが刷かれていた。

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