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Not Alone Again - 雨宿り

 ぱらぱらと降り出した雨に、慌てて駆け出したのはキリコとシャッコだけではなかった。
 市場にいる人たちは皆、誰も屋根のあるところ、雨を避けられる場所を探して右往左往し、例の赤ん坊を抱いているキリコは、自分はともかくも赤ん坊を濡らさないようにと、広げた掌を赤ん坊の顔の上へかざして、シャッコが自分の背中を押すのに素直に足を向けて、結局ふたりは市場の端の、大きな木の下へ、肩をすぼめるようにして、雨宿りの他の人たちの間へ走り込む。
 赤ん坊連れのせいか、それともここが争い事の少ない平穏な土地のせいか、人々はキリコとシャッコの、見るからに剣呑なふたり連れへ、いやな顔も怪訝な顔も見せずに、場所を空けてくれる。
 キリコは赤ん坊をかばいながら、彼らへ浅く礼の会釈をして、それから隣りのシャッコを見上げた。
 「ココナの言ったことは正しかったな。」
 ああ、とシャッコがキリコへ向かってうなずく。赤ん坊の雨に濡れた頬を拭っているキリコの指先を追うように、シャッコの長い指も、赤ん坊の濡れた額を拭うために動いた。
 雨が降りそうだから、赤ん坊を置いて行けとココナが、出掛けると言うふたりへ向かって言った。赤ん坊をできるだけ自分の傍に置いておきたいキリコは、大丈夫だと言って出て来たけれど、しばらくやみそうにはない雨空を見上げて、自分の短慮を今は少しだけ後悔している。
 「・・・風邪でも引かせたら、大目玉だな。」
 口元へ苦笑浮べるのに、シャッコもつられて浅く微笑む。
 何しろココナは、今では6人の子どもを育てたベテランの母親だ。ヌルゲラントから連れて来たこの赤ん坊のことも、まるで我が子のようにあれこれ心を砕いて、キリコとシャッコが、銃を哺乳瓶に持ち替えて危なっかしい手つきで赤ん坊の世話をするのを、できるだけ余計な手出しはせずに、それでもはらはらと見守っている。
 ココナ以上に、事の成り行きに驚いているのは──そんなことはおくびにも出さないけれど──キリコ自身で、今も抱いた赤ん坊を見下ろしながら、いまだ自分がこの子の親代わりを名乗り出たことが信じられずにいる。
 もっとも、この赤ん坊が不憫だったと言うよりも、シャッコが、恐らく縁続きだろうこの子の心配をしていたからと言うのが主な理由で、この子を引き取った後のことは、名乗り出た時には何も考えていなかったと言うのが誰にも打ち明けはしないほんとうのところだ。
 結局、キリコひとりで赤ん坊の世話などできるわけもなく、こっそりグルフェーに呼び出したシャッコと、ココナたちにまた散々迷惑を掛けながら、赤ん坊はどうやら無事育っている。
 親がなくとも子は育つと言うのがほんとうかどうか、我が身で思い知ることになるとは思いも寄らず、もしかすると、神の子などと言われることよりも、そのせいで自分に引き取られることになったことの方が、この赤ん坊にとっては不幸かもしれないと、半ば冗談交じりにキリコは考えている。
 葉の重なる隙間から、時々雨が滴って来た。弾けた、霧のような小さな雫が、キリコたちの顔や髪を濡らし、濡れないようにキリコはいっそう自分の胸元へ赤ん坊を近く抱き寄せ、そしてシャッコは自分の大きな体でキリコと赤ん坊を覆うように、少し傾けた体をさらに近寄せて来る。
 この小さな、まだ物も言えない、泣いて腹を満たして眠るしかできない赤ん坊の存在に、ふたりは次第に馴れつつあった。何もかもが、この赤ん坊のためになり、赤ん坊の世話だけで終わる1日に、ひっそり積もる疲れも、赤ん坊が自分に笑い掛ければ端からなごめられてゆく。
 赤ん坊に優しく触れるシャッコの手つきに、何もかもに恬淡としたクエント人の意外な親身さを見つけて、それが自分に向けられるぬくもりと同じと、キリコは言わずに気づいている。
 それは恐らく、自分も同じだろう。赤ん坊へ向ける自分の目が、誰にも見せたこともないように穏やかになごんでいる自覚はあった。今では、同じ視線でシャッコを見つめて、ひとりはふたりになり、そして、3人になりつつある。
 ココナとヴァニラとゴウトの築いた、家族と言うものを羨んだ覚えはないけれど、キリコとシャッコと神の子は、確かに家族のようなものになりつつあった。
 キリコの胸の中で、赤ん坊は小さな手を握り締めて、くしゅんと小さくくしゃみをした。その音の可愛らしさに、同じ雨宿りの人々が、キリコやシャッコの体越しに赤ん坊をちらりと覗き込んで微笑む。
 シャッコが慌てたように、自分の掌の乾いていることを確かめてから、そっと赤ん坊の頬を包むように触れた。
 キリコは、そうして雨を避ける振りで、そのシャッコの手に自分の掌を重ねた。赤ん坊は、シャッコの掌のあたたかさに、安心したように口元をほころばせ、ふにゃりとどちらにともなく笑い掛け、それを見て、ふたりは同時に、親の貌(かお)の上に同じような笑みを浮かべた。そのままふた拍、ふたりは見つめ合った。
 雨が、しっとりとふたりの髪や肩を濡らし始めている。赤ん坊はふたりの体の間で雨を避(よ)け、ふたり分のぬくもりは雨の湿りを寄せ付けはしない。
 雨宿りの木の下で、ふたりの掌は赤ん坊の頬へ重なったままだった。

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