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Not Alone Again - 承前 2

 シャッコは、薄暗い自分の部屋の中を見渡した。旅立つために荷物をまとめると言って、私物なぞわずかな衣類程度しかない。
 それが必要な輩は、己れの身の丈に合わせて作った手製の武器など持っているけれど、それもわざわざ持って行くほどのこともない。シャッコのそれは、残して行けば誰かが使うだろう。
 仕事の様子が分からなければ、いきなりベルゼルガを連れて行くわけにも行かず、ヴァニラがそう匂わせた通り、主な目的があの赤子の世話なら、ATなど必要なはずもない。けれど何しろ、赤子の傍にはあのキリコがいる。好むと好まざるとに関わらず、常に厄災に巻き込まれ、人死にを出さすにはいられない男だ。
 自分は死ねないのに、争いには必ず巻き込まれる羽目になって周囲の死を見送り続けると言うのは、一体どんな気分だろう。考えながら、シャッコはようやく自室へ1歩足を踏み入れた。
 地上の町にいて、仕事の手配を請け負っている男のところへ行って、明日には事情を説明しなければならない。ヌルゲラントを離れてグルフェーと言う町へ行く。期間は不明だ。数年になるかも知れない。とりあえずは身ひとつでゆく。ATが必要になれば後で連絡をする。雇い主はヴァニラと言う商人だ。詳しいことはその男に聞いてくれ。ああ、テダヤの許可は取ってある。
 頭の中で言葉を組み立てながら、シャッコはベッドの足の方へ置いてある木箱へ膝を折り、後ろは蝶番で留められている蓋を持ち上げた。
 無雑作に放り込まれている衣類に手を伸ばし、かき分けて中身を改めながら、この箱ひとつ持って行けば用は足りるかと思った時、指先に、布とは違う感触がかすめてゆく。
 持ち上げて、がちゃりと音を立てたのは、小さなナイフの類いだ。そしてその下に現れたのは、衣服よりはやや丁寧にまとめられて積まれた、黄ばんだ紙の束だった。
 下の方の幾束かは紐でそれぞれまとめられ、上の方は1枚1枚がばらばらだ。ばらばらの方は、良く見れば大きさも色合いも質もまちまちで、気まぐれに集められたものと見て取れる。
 ああ、こんなところにしまっておいたのか。
 シャッコは床に完全に坐り込むと、その紙束をひと抱えに取り出し、自分の膝の上に乗せた。
 紐できちんと束ねてあるのは、テダヤの口伝を書き取ったものだ。手はシャッコのものだけではないけれど、どれも読みやすく書き起こされたそれは、テダヤの知るクエントの歴史や伝承や風習、家畜の種類や育て方、穀物の種の絵も時折詳細に描かれたものが現れ、絵も文章も、書いた者の名が、紙の片隅にひっそり記されている。シャッコの名もその中にあった。
 すべてクエント語──時には、古代クエント語も混じっている──のそれは、自分が読み返すか、あるいはいずれあの赤子に読ませるかするのに適当と思ったので、シャッコは紐で綴じられた束をまた丁寧に揃え、木箱の中へ戻した。
 1枚1枚ばらばらの方は、これはすべてシャッコ自身の手のもので、クエント語に混じって、ほとんど暗号文のようなアストラギウス語も見て取れる。それにふっと苦笑を落として、シャッコは紙片を1枚ずつ改め始めた。
 走り書きのような、覚え書きのような、メモのような、あるいは日記のような、アストラギウス語の読み書きを学ぼうとして書き取ったものか、同じ意味の言葉がクエント語と並んでもいる。時々、誰かの覚えのある名前が記されていたり、どこかの星や町の名前が書き取られていたりもする。
 ひとつびとつに確かに記憶が、うっすらではあっても立ち返って来て、いつの間にか思ったよりも熱心に、シャッコはその紙片を、手に取っては読み返していた。
 重ねた紙の嵩の半ばを過ぎ、眺めた端から床に置いて行って、膝の上の残りもそろそろわずかになった頃、突然、他よりもずっと大きな、強い筆跡で記された一文が現れた。シャッコの掌ほどの大きさの紙片の真ん中に、乱れ切った線が、キリコを見た、と記していた。左上には、これも乱れた字で日付がある。今から25年も前の日付だ。
 思わず、自分が書いたその字に顔を近づけ、シャッコは息を止めてそれを読んだ。
 キリコを見た。キリコを見た。キリコを、見た。キリコを。見た。見た。
 頭の中でその字を読む。頭の中で、それを読む自分の声が聞こえる。キリコを、見た。キリコを見た。字と一緒に、声も乱調子に頭の中に響く。
 会ったではなく、見た、と書いた自分の、その乱れた字のままのその時の感情を、記憶と一緒に掘り起こす。
 そうだ、シャッコはキリコを見たのだ。会ったのではない。見たのだ。シャッコはキリコを見たのだ。
 思い出せば、やや不正確なその表現を、今もあの時と変わらない驚きとともに眺めて、シャッコはひとり目を細める。あの時、同じようにそうして、あの時は空を見上げたように。
 シャッコは、残りの紙片を慌ただしくめくり始めた。そうして、最後から数枚目の、これは他よりもやや新しい、まだ白味の残る紙片の真ん中に、どこか書き終わりが跳ねるような調子の自分の字を見つけ、そこにまた、同じような文字を見つける。
 またキリコを見た。これは日付は5年ほど前だ。
 これははっきりと覚えている。見上げた空の暗さも、あの時自分の足元を吹き抜けていったそよ風のかすかさも、はっきりと覚えている。
 キリコを見た、また。また、キリコを見た。
 シャッコは、2枚の紙片を右と左のそれぞれの指先に持ち、片方の目でそれぞれを同時に見るようにしながら、目を細めた先に見ているのは、自分の書いた字ではなかった。
 日付の先へ心が飛ぶ。25年前と、5年前と。キリコを見た、その日へ、シャッコの心は飛んでゆく。


 わざわざ傭兵が雇われ送られるのは、厄介な場所と相場が決まっている。
 そこも例に漏れず、町の真ん中にバララントとメルキアが陣地の接地点を置き、住民たちは家族も友人も、その境界線で引き裂かれていた。
 住民たちの否の声はすっぱりと封じられ、線を越えることは一切許されず、それでも町の住民たちが、様々な機会を利用して線のこちらとあちらを行き来しようとするのを防ぐと言うのが、その時シャッコたちに与えられた役割だった。
 線のこちら側から、ATに乗って線上を睥睨する。線のあちら側にも、もちろんあちら側のATが歩き回り、24時間途切れることなく見張りを続ける警備兵がいるのも、鏡に映したようにそっくり同じだ。
 許可なく線を越えようとする者がいれば、問答無用にその場で射殺しろと言い渡されていた。敵も味方もない、仕事となればどちら側にでも行く傭兵に、これ以上ふさわしい仕事もなかった。
 塀か、せめて柵でも作れば、線を越えようとする気も多少は失せるだろうにと、そこへ立つたび傭兵たちは思うけれど、両陣営とも、じきに敵陣地は自分たちのものになる、あるいは陣地を押して広げるのだから、すぐ取り壊すことになる囲いなど作るのは時間の無駄と思うらしい。そんなことより手っ取り早く、射殺の命令を下して警備兵を立てる方が楽と言うことか。撃ち殺せと言うのはあちらで、その銃の引き金を引くのはこちらだ。
 一体どちらが無駄だと、気候の穏やかな、時折鳥の鳴く声も聞こえるその土地で、シャッコは一度ならず自分の仕事を忌々しく思った。
 不法に線を越えるものは即殺せと命令しながら、同時に、あちらへ攻撃を仕掛けているとは絶対に思われないようにしろと、無茶と理解している苦り切った表情で、上官がシャッコたちに続けて言う。
 一体どうやって? 声の大きな者が横柄に訊く。こちら側にいる間に撃て。線を越えさせるな。越えられると、向こうに攻撃の口実を与える。向こうの警備兵やATには当たらんように撃て。速やかにだ。上官が、上から押さえつけるように言った。無茶なのは百も承知だ。だがやれ。それがおまえたちの仕事だ。言葉の後ろに、聞こえない声がきちんと響く。誰かが、聞こえるように舌を打った。上官はそれを咎めなかった。
 それは確かに無茶だった。
 ATに搭乗したシャッコたちが配備されるようになってからは、さすがにはっきりと命の危険を感じたのか、線を越えようとする命知らずの数は確かに減っていた。実際に撃つまでもなく、そちらを向いて銃口を向ければ、誰も悲鳴を上げて逃げ戻る。威嚇だけで十分だった。そのための、シャッコたちのATだった。
 けれどある日、使い古されてぼろぼろになった布と同じような皮膚をした男が、杖をついて線の方へやって来た。いつ転ぶかと、見ている方がひやりとする足取りで、男はシャッコたちの方へのろのろとやって来る。何か用があるのかと、誰もがその男をただ眺めていた。
 おい、止まれ。
 警備兵が銃を向ける。男はそちらへ顔も向けず、足も止めない。真っ直ぐ、線の向こう側を見つめたまま、瀕死の獣のような歩みで、それでも確実に線へ近づいてゆく。
 おい、止まれ。撃つぞ。
 警備兵が言いながら、戸惑いを浮かべてATの方を見る。ATは皆、男の方を見ていたけれど、銃の先をを上げようとはしない。
 撃ちたいなら撃て。どうせじき死ぬなら、最後に娘に会いたい。
 男は、切れ切れの声でそう言った。
 警備兵のひとりが、ついに男に近づき、その細い肩に手を掛けた。止めるためにその肩を引き掴んで、撃ち殺すよりはましな所作で、男を地面に倒そうとした。
 振り向いた男の手から、鋭く銃声が響く。警備兵の悲鳴。別の警備兵の手元から銃声。こちらをにやにや眺めていたあちら側の警備兵が走り回り始める。年寄りひとりにと、思っていたATの群れは、動き出すのが数瞬遅れた。
 ATが走り出すよりわずかに早く、その足元を走り抜けてゆく人間たちの群れ。線を越える機を窺っていた、町の住民たちだった。
 乱れ混じる銃声。悲鳴。足音。ATの駆動音。線上で入り乱れ、撃たれて倒れる、空手で無防備の住民たち。男もいた。女もいた。老人もいた。少年もいた。
 その混乱し切った撃ち合いは、すぐに境界線を越えてのAT間の攻防に変わり、両陣営から急遽援軍が送り出される羽目になった。数時間後には、攻撃の意志はなかったのだと双方の軍が確認を取り合う形で収束したものの、数十人の住民が線上で射殺され、運良く──運悪く──生き残った者には皆、即死刑の宣告が下された。
 その日の夜には、メルキア側は突貫工事でそこに塀を立てることを決定し、夜の間に必要な人員と機材が準備された。
 あらゆることが終わったことにされ、なにもかもが定められた後で、不気味なほど静まり返った夜だった。
 死刑を待つ人々は、わざわざ殺される必要もないほどすでに傷つき、ひとつの町は理不尽にふたつに裂かれ、そしてその印が、数日中にはこれまで以上にはっきりと町を分かつ。引き裂かれた家族や友人たちは、両軍が去るまで、互いに会うこともかなわない。
 次に会えるのは、死んだ後か。
 まだ空気の中に、血と硝煙の臭いが残る夜気の間を、シャッコは眠れずにひとり歩き回る。あてがわれた宿舎の裏へ回り、境界線の辺りへはなるべく背を向けて、自分が撃って殺したのは何人だろうかと、上官の検分のために地面に並べた死体の、血塗れの顔のいくつかが、脳裏から去らずにいる。
 快とも不快とも、どちらとも思わないように自分の心を律して、シャッコは黙々と、あてもなく足を運んだ。
 時折背後で聞こえる、ATの足音からは努めて耳を遠ざけ、朝になれば何もかも拭ったような忘れられる──なかったことになる──と思いながら、この夜のままなら、警備に立つ自分の番はやって来ないとも考える。
 時を止められないかと、愚にもつかないことをと、思いついた途端に自分を笑う。唇の端がはっきりと自嘲で上がり、そのついでのように、顔を上向かせた。振り仰げば、今の自分の顔が、真っ黒な夜空に映って見えるような気がした。
 足を止め、星のない夜空を眺めて、シャッコはその果てのない昏さと静かさの下で、ほとんど無に還りそうな自分のことを思い浮かべて、また、このまま時間が止まればいいと思った。
 そしてその時、視界の片隅に、白くたゆたう光を見る。
 静止しているように、かすかに揺れているように、わずかに漂っているように、どんな風にも見えるその光は、けれどシャッコの視界のゆるい円みのその縁を、確かになぞって動いていた。
 それは、キリコのカプセルだった。キリコとフィアナが一緒に入った、すべてを捨て去ったふたりが抱き合って眠る、あのカプセルだった。あの日、ゴウトとヴァニラとココナと、そしてシャッコが見送った、あのカプセルだった。戦いのない世界へゆくと言ってそうして旅立ったキリコとフィアナの、あのふたりのカプセルだった。
 驚きで目を見開き、そこに視線を据える。思い返す必要も、確かめる必要もない、ただ直感で、シャッコにはそれがあのカプセルだと分かる。シャッコは思わず、その光へ向かって身を乗り出し、届くはずもない腕を伸ばしそうになった。
 眠りの中で時を止めて、眠り続ける限りふたりは永遠でいられる。どこへも行かず、どこへもたどり着かず、何をも選ばずに、それはふたりが選んだ行き先だ。
 まだ、あのふたりはあそこにいる。ふたりは変わらずに、宇宙を漂っている。眠ったまま。誰にも奪われず、何も奪わずに、奪われないために、奪わないために、ふたりは眠りながら、宇宙を漂っている。
 自分はここにいて、相も変わらず争いは続いていると言うのに。傭兵が失業する心配のない、悲しいほどありがたい世の中のままだ。キリコたちの眠る世界には戦争はない。せめて眠る間に見る夢の中には、武器もATも血の臭いも死体を数える声もないようにと、シャッコは祈った。
 キリコ、とシャッコは声に出してつぶやいていた。その名のために動かす、久しぶりの唇と舌だった。
 泣いていると思ったのに、頬は乾いたまま、泣くことに慣れていないクエント人は、そのことをひどく哀しいと思って、流せない涙のために、もう一度キリコの名を声に出して呼んだ。声は細く、夜気の中に吸い込まれてただ消える。
 カプセルはゆっくりと、果てもない夜空の端を漂い続けていた。


 5年前も夜だった。
 その日は天気のいい、明るい日だった。
 軍と政府とに分かれて内紛を繰り返している国の、シャッコはその時政府側に雇われていて、けれど疲弊し切った政府側が休戦──降伏──を提案するのも間近と噂されていたから、敗戦直前のぴりぴりとした緊張感と、もうどうにでもなれと言う投げやりの入り交じった、自暴自棄の果ての明るさの勝(まさ)った空気が、シャッコたち傭兵の気分をまず解放し、淋しく浮かれた雰囲気が、誰もの足元にすでに漂い始めていた、そんな時だった。
 丸2日、出動の命令がないまま、降って湧いたような臨時休暇の気分を味わって、夜の間に降った雨がきれいに砂埃を洗い落とした午後遅く、AT格納庫の西の端の隅を、シャッコはゆっくりと歩いていた。
 雨が降ってもなかなか消えないATや輸送車の走行跡から、わずかに外れた倉庫の壁の際の地面の上に、ほっそりとできた陽だまりの帯の中に、小さな花がそよいでいるのをふと目に止め、普段なら足元になど滅多と視線も届かせないのに、その時は何が心を引きとめたのか、シャッコは通り過ぎながら足を止めて、その花の小さな群れをじっと見下ろした。
 明るい黄色の、小さな小さな花びらがひと固まりに群れ、そこから10センチ足らず距離を置いて、黄色い花よりも背の高い、細い茎の先に奇妙な華やかさで青い花弁を広げた、黄色とは明らかに種類の違う花がふたつ、そちらはまるで互いに寄り添うように、そよ風に花びら同士を触れ合わせている。
 基地にはまったく不似合いな、小さな可憐な花畑だ。踏まれもせず、轢き潰されもせずに、よく残ったものだと、シャッコは思わずその場に膝を折って、花に顔を近づけた。小さ過ぎて花の匂いは分からず、けれど雨の後の空気の澄み具合で、花びらの黄も青も驚くほど鮮やかだ。
 知らずに微笑みを浮かべて、シャッコはおとなしい獣の仔にでもするように、指先で花の茎を撫で上げる。黄の花は意外としっかりした手応えを伝えて来て、青の方は、触れただけで折れそうに、まるでシャッコのその手から逃れるように、ふらふらと花の先を振る。どちらの花も、どうかここにあることなど気づかないまま、そっと通り過ぎてくれと、そう言っているように見えた。
 ここでの争いに決着がつけば、いずれ基地はすべて撤去されるだろう。その時には、容赦なく地面は踏みにじられる。この花たちが枯れるのが先か、あるいはどこかへ種を飛ばして、火に焼かれて死体の血を吸ったこの土地のどこかへ、新たな芽を吹くのか。
 人間は自分の足でゆく先を選べるけれど、植物はそういうわけには行かないのだと、珍しく感傷的になりながら、シャッコはそっと立ち上がり、もう一度そこから小さな花の群れを見下ろした。
 そうしてその夜、なぜか昼間見つけたその花のことが心から離れず、眠りの浅い夜──深かったことなど、ほとんどない──の常で、ATの傍にいれば落ち着くかと、すっぱりと起き出して格納庫の方へ足を向けた。
 ATを見に行くついでに、あの花たちがまだ無事か、確かめておこうと西側へ回り、月の明るかったその夜、昼間の陽射しとは少し角度と方向を変えて、昼間よりもひんやりと青白い光の帯の中に、花たちはひっそりと佇んでいる。
 昼間と同じように、シャッコはそこへ片膝をつき、また花びらの先へ指先を伸ばした。
 どこか、もう少し安全なところへ、行くか。
 声に出してはいなかったけれど、シャッコは確かにそう頭の中で花に向かって話し掛けていた。根を傷めないように掘り起こして、基地の外のどこかへ移し変えようかと、突然湧いた思いつきだった。
 ここでさえなければ、もう少し長く生きられるかもしれない。もっと木や草の多い、人やATの行き来の少ないどこかへ移し変えれば、この小さな花畑はもっと長く生き延びられるかもしれない。
 考えながら、指先はもう地面に触れていて、根元を素手で掘り返せるかどうか、泥の上を探り始めている。
 今はこうして、シャッコの片手にすべて収まってしまいそうな小さな花の群れは、場所を変えれば数を増やしてもっと大きくなれる。死んで減った人間の数だけ、増えて地面を明るく覆う花の色の鮮やかさが、この夜の薄暗さを振り払うように、シャッコの脳裏いっぱいに広がる。
 その方がいい。指先が、ざくっと音を立てて、青い方の花の根元を軽くえぐった。
 やめて。
 声がした。後ろの方の、どこか少し遠くから、はっきりと声が聞こえた。
 やめて。
 子どもの声とも、あるいは女の声とも、どちらとも聞き分けのつかない声が、またシャッコの耳に届く。
 放っておいて。ここに置いておいて。どこにもやらないで。
 シャッコは指先の動きを止め、青と黄色の花びらを、交互に見つめた。
 いいの、わたしたちはここで生きてゆくの。どこでもなく、ここで生きてゆくの。どこにも行かないの。ここがいいの。
 幼げな口調の、それなのに子どもとも大人とも分からない声。泥に汚れ掛けたシャッコの指先に触れる夜の微風が、花の茎もなぶってゆく。花びらがふわふわと揺れ、シャッコの視線を拒むように、細い茎同士がまるで絡まりそうに大きく頭を振った。
 わたしたちはここで生まれたの、だからここで生きるの。わたしたちはここにいるの。だから、わたしたちを放っておいて。お願い。
 それがほんとうに、花たちの言葉だったのかどうかはわからない。シャッコは確かにその声を聞き、花の根元を掘り返す手を止め、そしてその声に従って、花から手を遠ざけた。
 そうして、何かに肩を引かれたように、立ち上がりながら後ろへ振り返った。振り返った先に、シャッコはあの漂う光を見た。
 淡い光。今にも消え入りそうな、けれど確かにそこに在る光。宇宙を漂いながら、どこも目指さず、どこへもたどり着かず、永遠の時の中をさまよってゆくあの光。まだそこに在る、あの光。
 キリコ。
 光に向かって、シャッコは声に出して呼んでいた。
 振り返って花を見下ろし、たった今聞いた花の声と、またなと最後に言ったキリコの声が、同じはずもないのにぴったりと重なる。
 ああ、またな。
 花の群れに向かって、キリコの声と口調を真似て言う。
 この花たちは、シャッコたちが立ち去った後に、命を繋いで生きてゆくのだろう。風に吹かれながら、その風に、もう争いの気配の交じることがないようにと、心の底で祈りながら。
 戦争のない世界へ行くのだと、そうキリコが願ったように。
 唐突に、またいつかキリコに会えるのだと、あの別れの時に感じた同じことを、シャッコは感じていた。またキリコに会える。いつか、必ず。
 血を吸った地面に、鮮やかに黄と青の花びらが広がる。自分たちが戦争で汚して荒らした土地を、花がこうして浄(きよ)らかにしている。浄化された土地に、キリコたちが戻って来る。いつか。シャッコはそうと知っている。またキリコに会える日がやって来る。
 柔らかく風の吹いた勢いで、青い花が、軽くシャッコへ向かって上向いた。その花に向かって、シャッコはキリコと、声に出して呼び掛けていた。


 テダヤの言うことは正しいのだ。シャッコは確かに、キリコに結び付けられている。恐ろしいほどの遠回りの後で、キリコはシャッコの許へ戻って来た。そして今はシャッコが、キリコの許へ旅立とうとしている。これがあの、例のワイズマンの仕組んだことなのだとしても、シャッコにはそれ以外の選択をする意思はない。
 キリコとの邂逅が意味したものが、今こうやって明らかになりながら、曲がりくねった道の交わる様が、現実のそれのように目の前に鮮やかに浮かぶ。誰がどう定めたことなのかはわからない。けれどテダヤの言う通り、シャッコはキリコのために在り、キリコはシャッコのために在る。結局は、互いのために在り続けたふたりだった。
 争いの失せることのない世界に、キリコが戻って来る。戦乱をその身に写したように、けれどそこから遠ざかりたいと誰よりも思っているのはキリコ自身だ。それがかなわないことだと知っていても、そう望まずにはいられない。そして同時に、争いの中に身を置かなければ、まるで居場所などないように感じるのもまた、キリコ自身だった。
 だからあの男は、いつだってひとりにするなと叫んでいた。戦いの中にいて、戦うことにひたり切りながら、それを心底疎んじて、ひとりきり生き残る羽目になる孤独ゆえに、必死で誰かを求めていた。
 死をくぐり抜ける道行きの連れは、神でもなく、死神でもなく、ただキリコと時を分かち合える、ただの人間でなくてはならなかった。キリコ自身が神と言う名の化け物にならないために、キリコと言うただの人間であるために、ただのひとであることを求めて、ひとであるがゆえの悲しみを抱え込んで、ただの人間として生きてゆくことを選んだから、ひととして歩き続けるその道連れに、キリコはそこからシャッコを呼んでいる。
 キリコはもう、宇宙を漂うただの光ではなかった。そこにいて、呼吸をして、動き回って、変わらない無愛想さで数少なく言葉を紡いでいる。地に足を着け、時折空を仰ぎながら、去ってしまった眠りの時に向かって、痛ましさをこめて目を細めて、そうして、これからまた生き続けなければならない理由にため息をひとつきりこぼす。神に会い、神の後継者に選ばれ、それを拒み、神を殺した。そして今は、神の子と呼ばれるあの赤ん坊を抱いて、キリコはシャッコを待っている。
 神殺しのあの男は、あの神の子を、一体どうするのだろう。
 誰もが疑問に思ったことだった。テダヤとともに、シャッコはとうにその答えを知っている。
 シャッコは、2枚の紙片の上の自分の字を、指の先で撫でた。ざらりとした紙の表面と、掘り返そうとしたあの花の根元の土の感触がそこで重なる。土に広がる血の染みが思い浮かび、そこを走り抜けるATの、鼓膜に突き刺さる鋭い音もはっきりと甦る。
 何もかもをここに残して、そして何もかもを背負ったまま、シャッコはキリコの許へゆく。キリコは、あの赤子と一緒に、シャッコを待っている。銃の手入れをする同じ仕草で、赤ん坊をあやし世話をするキリコの、おぼつかない手つきを思い浮かべて、シャッコはそこでひとりで笑った。
 この紙の束は、出発の前に燃やしてしまおうと決めた。忘れるためではなく、自分の内にすでに刻み込まれているからこそ、もう必要のないものだった。
 眺め下ろす紙は、テダヤの潤いなどとうに失せた皮膚そっくりだ。それだけが、シャッコの心残りだった。そこから引き剥がす心に痛みを感じながらも、もうシャッコの心は、赤子を抱いて待つキリコへ向かって飛んでいる。
 キリコはもうひとりではない。シャッコももうひとりではない。母も父もないあの赤ん坊も、決してひとりぼっちではない。
 自分がこれから向かう先に一体何が待っているのか、予感しながら、漠として形にはならないそれを目の前に描いて、シャッコはもう一度手の中の紙片を撫でる。視界の中で、紙片の字が遠ざかるのを、もう追ったりはせずに、床の上にまとめた紙の束に向かって、名残りを惜しむように微笑み掛けた。

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