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Not Alone Again - As Usual

 キリコとシャッコだけが遅い夜だった。
 バトラー家の人々ー下の子たちーはすでに夕食を先に済ませ、子どもたちは寝るために自分の部屋へ下がり、ふたりの食事の世話を焼いたココナが、先にきこしめしているゴウトとヴァニラと、一緒に飲むのもたまにはいいだろうと誘う。
 風のない、穏やかな夜だった。裏庭の小さな丸テーブルを囲んで、ヴァニラは仕事のついでに手に入れたと言う、どこかの星産の恐ろしく強い酒をちびちびと舐め、ゴウトは同じ酒を、鼻先を真っ赤にしながら大きなグラスであおっている。
 ココナは自分のために果実の香りのする淡い金色の酒を開けて、それをキリコとシャッコにも勧めた。
 「アタシでも飲めるんだから大丈夫よ。」
 酒のせいかどうか、上機嫌で、それにつられたように、ふたりは渡された小さなグラスを素直に手に取った。
 甘味と酸味の勝ったそれは、酒と言うよりは子どもに飲ませる果汁のようで、シャッコは日長1日働いた後に甘味が舌に心地好いのかどうか、最初の1杯をさっさと干してしまう。
 「シャッコちゃん、今夜は話せるねぇ!」
 自分のグラスを掲げて、赤い顔でヴァニラが大声出す。こちらも上機嫌だ。
 「しぃっ! 子どもたちが起きちゃうよ!」
 ココナが唇に指を当ててぴしゃりとヴァニラをたしなめた。ゴウトが相変わらずの調子のふたりを見て、あの馴染み深い腹を揺するような笑いをこぼし、なあ、いい夜だよなあと同意を求めるようにキリコたちの方を見やる。
 まだ幼い子どもたちのいるバトラー家では、大人だけで過ごすと言うことは滅多になく、ささやかな宴は羽目は外し過ぎずに、それでも酒は切れずに続いてゆく。
 この顔ぶれになれば、皆思い出すのはウドやクメンのことで、出会った頃のキリコの無愛想さをゴウトが持ち出すと、ココナがこの間のウドで会えなかったのは残念だったと言い、ヴァニラがあそこでシャッコが現れたのには心底驚いたと、もう呂律の怪しい声で言う。
 3人が、酒でなめらかになった舌先で、あれこれ前後の脈絡もなくおしゃべりをするのを、キリコはようやく2杯目のグラスを手の中であたためながら聞いている。
 キリコは頬の辺りが熱いのを何となく気にして、隣りのシャッコを見上げた。こちらは4杯目を手に変わった様子もない。飲まないだけで酒には強い性質(たち)かなのか、案外ヴァニラとゴウトの飲んでいるあの酒を飲んでも、顔色ひとつ変えないかもしれない。
 ここからでも酒の香りの届くそれに、ヴァニラは顔も首筋も真っ赤にして、ゴウトの方は顔の赤さは変わらなくても、酔いに瞳が定まらないのがキリコにはよく見えた。
 ふっとおしゃべりの途切れた間に、キリコは指先半分ほど残っていた酒を一度に飲み干し、グラスをかたんをテーブルに置いて、そのままシャッコの腕へ頭を寄せる。
 「・・・酔ったか。」
 4杯目をほとんど終わらせて、シャッコが小さな声で聞く。
 「──多分な。」
 意味ありげな上目使いをシャッコに送って、キリコはそのまま目を閉じた。
 「おれたちは部屋に行く。」
 キリコの体を押さえながらシャッコはさっさと立ち上がり、ヴァニラが、
 「何だよもう酔っちまったのかよ、相変わらずだなあキリコちゃん。」
 嫌味ではない口調で言うのに、シャッコは目顔で今夜の酒の礼と挨拶を送り、取ったキリコの腕を自分の首の後ろに回して、お休みと3人が手を振るのに、もう一度浅くうなずいて見せた。
 家──と言うよりも屋敷と言うべき大きさ──の中に入ると、庭の宴の声は遠くなり、わずかに足元が見えるだけ残された明かりが、奥へ続く長い廊下を淡く照らしている。
 シャッコはそこで足を止め、キリコを揃えた両腕の上に抱き上げた。
 そうされても、キリコは素直にシャッコに体を預けたまま、広い肩の根に頭を寄せて、そして突然思い出したと言うように、
 「──赤ん坊は?」
 自分の息が酒くさいのにわずかに眉をしかめて訊いた。
 「泣き声が聞こえなければ、もう寝てるんだろう。」
 キリコを軽々と抱いて、空手と変わらない足取りでシャッコが廊下を進む。子どもたちの部屋の手前、大小幾つかあるこの家の客間の、一番広い部屋が、今はキリコとシャッコと、そして例のヌルゲラントの赤子の部屋だ。
 この奇妙な親子にそれだけの広さが必要と言うよりも、シャッコが眠れるようにと選んだベッドが、この部屋にしか置けないと言うのが理由だった。
 シャッコがそう言った通り、広々とした部屋の中はしんと静まり返って、窓際の囲いのついた小さなベッドに眠っている赤子の平和な寝息以外、何も聞こえなかった。
 ベッドに運ばれ掛けてから、キリコは軽くもがくようにしてシャッコの腕から滑り降り、やや危うい足元を気にしながら、赤ん坊のベッドへ近寄った。
 上から覗き込むと、小さな手を口元に引き寄せ、親指は唇の間に差し入れた、可愛らしい寝顔が見える。キリコやシャッコですら微笑まずにはいられない、邪気のかけらもない寝姿だった。
 誰も彼も、こんな頃があったのだと、信じ難い、けれどこれは事実だ。生まれて、そして人は死ぬ。死ぬまでに起こることのひとつびとつには、人それぞれの彩りがある。この赤ん坊は一体どんな風に生きて死ぬのかと、キリコは一瞬の間に考えた。それは悲痛や悲嘆ではなく、この世に、この赤子が与えるだろう色彩の鮮やかさを思い浮かべて、キリコの胸はひと時あたたかくなった。
 神の子と言うこの赤ん坊の彩る世界には、血や硝煙の匂いはないのかもしれない。そうならいいと、そんなものから随分と遠くなった自分の、赤子に向かって伸ばした指の先に、それでも忘れることはないATの操縦桿の固さが蘇って来る。
 グルフェーへ、赤子と共にやって来た最初、キリコはほとんど片時も赤ん坊を傍から離さず、じきにヌルゲラントからシャッコがやって来て世話を始めると、主にはココナとシャッコに赤子を任せて、あまり構わない態度を取るようになった。
 数時間おきに空腹で泣き叫ぶと言う時期を過ぎると、赤ん坊を珍しがって手を出したがるバトラー家の子どもたちも世話に参加するようになり、今ではシャッコもキリコも丸1日赤ん坊の顔を見ない日もある。
 いい子にしてたよとココナが1日の終わりに言うのに、そうかと、近頃では不安なくうなずけるようになっていた。
 覚束ないキリコよりは多少ましなシャッコの世話で、そして残りのほとんどはバトラー家の人々のおかげで、赤ん坊は無事に育ちつつあった。
 今夜のあれは、その祝いのようなものだと、キリコは酔いの霞の掛かった頭の隅で考える。
 酔って正体を失くしても、ふたりの赤子はきっと許してくれるだろう。
 一瞬にも満たないためらいの後で、キリコは眠る赤ん坊の丸い頬へ触れた。ぬくもりと皮膚の湿り、それへ、知らず薄い笑みを浮かべて、ようやく体を上げて、後ろのシャッコへ振り返る。
 腕を、そのままシャッコへ向かって伸ばした。
 キリコが触れることにすっかり慣れつつある、もうひとつのやわらかなもの。あたたかなもの。ひとの体。
 赤子の養い親だと言う言い方で、ふたりは揃って同じ部屋のひとつ寝床を分け合い、それをただそういうことだと受け入れているバトラー家の人々に、特に説明もしない代わりに、特にもう隠すこともしないふたりだった。
 さすがに、皆のいるところで触れ合うことはしなくても、ふたりは、ココナとヴァニラが彼らの子どもたちの親だと言うのと同じに、すでに赤ん坊の親だった。
 ふたりきりでも生きて行ったろう。けれど神の子は、確かにふたりの繋がりをはっきりと形あるものにした。
 赤子のために、今この時だけではなく、明日へ臨みながら生きてゆく。その明日は、その次の明日へ続いてゆく。連なる明日の中に、赤ん坊の時間は決してその輪郭を失いはせずに融け込んでゆく。そこへ、キリコとシャッコの明日も混ざり合ってゆく。
 今はシャッコと溶け混じるために、キリコはシャッコへ体を寄せて行く。
 酔いの回った、いつもより熱い体で、求める前に唇が近寄って来て、大きなベッドにふたり一緒に倒れ込むまで、部屋の中は静かなままだった。
 布のこすれる音、少し荒くなる呼吸の音、ベッドが移動する体の重みで時々きしみ、シャッコの長い足がどうした拍子か、1度ベッドの脚を蹴った。
 酔いを言い訳にして、キリコはそのどれにも頓着せずに、シャッコの体が自分から離れるたびに、素早く腕を伸ばして引き寄せた。
 脱いで脱がせた服が床に散らばり、ふたりが毛布の下へ一緒にもぐり込んだ頃、不意に赤ん坊が弱々しく泣き声を立て、手足を動かしたのか、周囲の柵に何かが当たった音がした。
 ふたりは動きを止め、キリコは即座に体を起こそうとしたけれど、シャッコが上からそれを押さえて、さらにキリコの口元をそっと覆う。
 気配を消したふたりが、そこにいると気づいているのかいないのか、赤子は結局そのまままた静かになった。
 ふたりは赤ん坊を見守って息すら止めたような静けさを、ようやく終わらせて、それから、キリコがシャッコを促し、毛布を引っ張って床へ降りる。散らかった服やブーツを避けて、大きなベッドを赤子との隔てにして、ふたりはそこへ横たわる。腕はもう、互いに巻きついて離れなかった。
 服を着れば見えない場所に、今夜キリコはシャッコの体にいくつか痕を残した。噛んで、舐めて、舌を押しつけた後で、シャッコがそのキリコの唇を噛んだ。
 獣の仔たちがじゃれ合うように、敷いた毛布の上で体を丸めたり伸ばしたり、互いの上に乗ったり下敷きにされたり、首筋に噛みつくのは稚ない悪戯の延長のようだ。
 縁を心配せずに手足を伸ばし、体を伸ばし、月明かりの入る窓からは遠い真っ暗な床の上で、ふたりはひどく自由だった。
 そうして、醒めたと思う酔いはそれでも去り切ってはいないのか、いつもより熱く柔らかく、シャッコと繋がるキリコの躯だった。
 その時だけは声を押し殺して、無茶を承知で受け入れて満たされる躯の奥の、何も覆わない外の皮膚は触れられなければ冷えて行くのに、そこは果てもないようにただ熱い。
 キリコの熱とシャッコの熱と、血と一緒に全身を巡る酒にぬくめられて、ふたりは皮膚の作る人の形すら失って溶け混じっていた。
 触れれば確かにある互いの体の、けれど今はどちらがどちらのものと感じることはできずに、せずに、隔てる皮膚の感触を忘れ去って、ふたりは息を絡めて抱き合っていた。
 果実の酒の、甘さと酸っぱさの、それが互いの汗に溶け出したように、シャッコの首筋を舐め上げて、キリコは今夜飲んだ酒の香りを思い出していた。
 酒の香りと酔いと、両方に心地好くあやされながら、互いへの酔いをそこに重ねて、キリコは汗ばんだシャッコの背を抱き寄せる。
 互いだけが連れ出せるそれぞれの高みへ、たどり着いて少しの間、腕の中で互いを抱いて自分だけの見れる風景を味わう。相手に見せられるものなら見せたいと、そう思っているのがふたり一緒だとふたりは知らない。
 外れた躯の間に冷えた空気が滑り込んで来ても、まだ火照る皮膚を冷やすには足らずに、酔いの名残りは一体酒のせいか互いの熱のせいか、見極めをつける前に、キリコはそっと目を閉じた。
 このまま床で寝るわけには行かないと、思っていてまだ体が動かない。まだ動きたくなかった。
 眠りの遠さを、鼓動の速さが伝えている。
 あらゆる慌ただしさがなりをひそめて、また1日が終わろうとしている。目覚めれば明日がやって来る。どれと特に個性もない、似たり寄ったりの明日だった。その平凡さを心の底からいとおしいと思って、キリコはそこからは見えない赤ん坊の方へ首をねじり、それから抱きしめたシャッコの額へ、時々赤子にそうするように、唇を押し当てた。
 お休みと言いたげな、挨拶のような軽い口づけがそれに続き、うっかり深まろうとしたのを数瞬だけ許して、ふたりはまだ床の上から動かない。  

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