そして続く道 - 安寧
シャワー最後に浴びて、ベッドへ向かう前に、キリコはユーシャラの部屋へ行った。静かにドアを開け、音を立てないようにする用心は眠り込んでいる子どもには不要のようで、キリコが上からそっと覗き込んでも身じろぎもせず、首までしっかり掛けておいた毛布を今はやや縮めた手足の中に抱きかかえるようにして、ユーシャラはただ普通の子と変わらない寝顔を見せている。
キリコは、入って来た時と同じ静かさで部屋を出て、寝室へ向かった。
シャッコはもう先にベッドに入っている。自分の、整えられたきり最後に触れたのはいつかも思い出せないベッドには見向きもせず、キリコはシャッコの傍へ爪先を滑り込ませた。
広い裸の背中へ、掛かる息を気にしながら、触れないぎりぎりで肩と胸を寄り添わせる。同じ枕に頭を乗せ、少しの間、悪ふざけでシャッコの後髪を唇の間に挟んで触れていた。
すぐには眠れない。眠りをたぐり寄せる間に、少しずつシャッコの背中へ近づいて、硬い肩甲骨へ触れたところで、シャッコが寝返りを打って来る。
ほんとうにもう眠っているのかどうか、長い腕が同時に伸びて来てキリコを抱き寄せて、巻いても少し余るそれが、キリコの背中を肩から腰まで撫でて行った。
そこから先を求めたわけではなかった。それでも、シャッコの腕の重みに少しだけ動きの制限された自分の体を、キリコはいっそう近くシャッコに寄せて、あごの線を掌で包んでから首筋へ移り、その腕をシャッコの首へ巻く。
ごく自然に、あごや唇の近くへ顔が近づいて、キリコは自分の乾いた唇をそこへ軽く当てた。シャッコの腕の輪が、少しだけ締まる。
ユーシャラと同じだ。毛布を抱いて眠る子どものように、シャッコも恐らくそんなつもりでキリコを抱きしめている。あたたかなもの、柔らかくはなくても、腕に収まる嵩のある、自分と同じように呼吸をする、そんなもの。
眠りはひとりきりのものだ。同じ夢を分かち合うわけには行かず、だから時々ユーシャラは恐い──多分──夢に眠りを破られて泣いて目覚める。その恐怖を追い払うために、きっとユーシャラはああして毛布を抱きしめて眠る。
キリコも、時々悪夢を見る。以前ほど頻繁ではなくても、それでもそんな夢はやって来る。シャッコの見る夢をキリコは知らず、知らずに想像して、シャッコにもきっとそんな夜があると考える。
孤(ひと)りではない。眠りも悪夢も自分だけのものだとしても、分け合う夜はひとりきりのものではない。触れて、寄り添って、抱きしめて、そうやって眠り、目覚めて、自分は孤りではないのだと知る。
躯を繋げて過ごす夜に、シャッコとふたりでは決して広くはないベッドで汗の引いて冷えた膚をまだ離さずに、分け合った熱を惜しんで触れ合い続ける。もう一度と、それほどはっきりと欲しいわけではなくても、ただ離れがたくてキリコはシャッコを抱きしめたままでいる。
大きさの違う掌。重ねて、指を絡めて、シャッコの手は大き過ぎて、だからいつも束ねた指先だけを掌の中へ握り込んで、そこから逃れたシャッコの親指がキリコの手首の骨の輪郭をなぞって、そうしてまた重なって触れ合う掌だった。
眠る時に、触れるほど近くにある、自分のものではない体温。馴染みのなかったそれを、恐らく鬱陶しいだろうと思い込んでいたのに、キリコはいつの間にか慣れ切って、今では自分のベッドにひとりで寝ることすら考えもしない。
抱き合いはせずに、手足を絡め合って眠る。呼吸を近寄せて、夢の中でなら隔たる皮膚も溶けて消え失せた。ここではない、足元に何もない空間で、空気に混ざり込んだように、キリコではなくシャッコでもなく、それでも確かにそれは元はふたりだった何かに成り果てて、ふたつだった鼓動の名残りのような音と振動と、それを包み込む今ではひとつになったもの。そんな夢を見たことを、かすかに憶えている。
キリコはシャッコの首に回した腕はそのままで、体を少しずり上げた。肩口にシャッコの頭を抱き寄せるようにして、指先はシャッコの髪の中へ差し入れる。伸びた髪を指の間に絡め取って、すき通しながら、伸ばした親指の先で大きな耳の裏側をそっと撫でた。
くすぐったさは感じるのか、シャッコのまぶたがかすかに震えて、しがみつくようにキリコの肩に額をこすりつけて来る。キリコは一度手を止め、シャッコの寝息が元のリズムへ戻るのを少しの間待った。
もしかすると、キリコと、あるいは誰かと抱き合う夢でも見ているのか、シャッコの腕が動いてキリコの背を撫でる。腰を、そのつもりではないだろうけれど際どく滑り落ち、間もなく腿の裏側へ落ち着いた。
わずかに、皮膚の裏側がうずいてざわめいて、押しつけるように首筋に掌全部で触れてから、シャッコを起こしてしまおうかと思った気持ちを深呼吸で鎮めて、キリコはシャッコの髪にあごと頬をこすりつけた。
それほど強い気持ちではなく、シャッコを欲しいと思った。シャッコの眠りを妨げたいと思うほどではないことに、心の底で感謝して、やっと目を閉じる。
今夜ユーシャラの見る夢とシャッコの見る夢と、そして自分の見る夢が、何か穏やかなものであることを願いながら、自分の体に巻かれたシャッコの腕を一度撫で下ろして、たどり着いた手の、長い指へぴたりと自分の指を全部重ねて、シャッコが今眠りの中で抱いているのが自分であればいいと、ちらりと湧いた嫉妬めいた気持ちを、キリコは胸の中でだけ笑った。
ユーシャラを抱いて頬ずりするキリコを、シャッコが抱きしめる、そんな夢の待つ眠りの中にシャッコの寝息を子守唄にして、ようやくキリコは引き込まれてゆく。