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そして続く道 - 安らぎを求めて

 何が気に入らないのか、昼食の間ずっとぐずっていたユーシャラを、キリコは辛抱強く抱いて食事をさせ、食べたと言うよりも顔と手を汚しただけで、キリコも一緒になって汚れる羽目になり、スープの皿がやっと空になった頃にはキリコの忍耐もついに切れたのか、ユーシャラは荷物のように抱えられて、バスルームの方へ運ばれた。
 ドアの閉まった後で、泣き声と水音が続くのを聞きながら、シャッコは苦笑と一緒に皿洗いをする。
 ユーシャラの泣き声に、キリコのあやす声となだめすかす声が混じり、そして最後にはぴしりと叱りつける声が聞こえて、それでやっとユーシャラの泣き声が止む。
 知っていることと言えば何もかもが軍隊生活に繋がってゆくふたりが、意外なほどの気長さで赤ん坊を育てられるのは、ひとつにはシャッコの、物事にはあまり動じないクエント人気質があったろうし、ユーシャラはそれほど育てにくい子どもではなかったし──ココナとヴァニラがそう言った──、そして誰にとっても意外だったのは、親身でなさそうに見えて、キリコは案外と小さなものには優しく接する男だったと言うことだ。
 優しさは、時々無関心と見分けがつかなくなる。キリコの、外に見せる優しさの素振りは、たいていの場合無関心の表れだったけれど、少なくとも、放っておけばそのまま死ぬ赤子に見せたそれは、確かにほんものの優しさだったし、ほとんど愚直に近い生真面目さで、キリコはユーシャラを生かそうとしていた。
 不器用さの種類の違う男がふたり、掌に握り潰せそうな赤ん坊を抱えて、危なっかしい手つきでそれを何とかしようとしている姿は。同情を誘うより先に笑いを誘った。
 その笑いがあったからこそ、ユーシャラと名付けた赤子の成長に、足並みを揃えて付き合える、厄介事には荒っぽく対するしか能のないはずの男たちの、今は穏やかさだけの日々だった。
 いつの間には、家の中は静かになっている。ユーシャラのぐずる声はもう聞こえず、それをなだめるキリコの声もない。皿を洗い終え、水気を拭き取って棚にしまっても、キリコは現れなかった。
 コーヒーはどうすると、訊くつもりでシャッコはバスルームへ向かう。ふたりの姿はどこにも見当たらず、気配を探しながらユーシャラの部屋を覗き、いないと確かめた後は、もうキリコとシャッコの部屋しかなかった。
 無意識に足音を消して、そっと開けたドアの向こう、シャッコの大きなベッドの上に、並んで横たわるふたりの姿があった。
 シャッコの枕に頭をふたつ並べて、互いと向かう合うように、一体どちらが先に眠気を訴えたのか、キリコもユーシャラもすでにすっかり寝入っているように見えた。
 ユーシャラを寝かしつけるだけのつもりだったのか、キリコはブーツも脱がず、寝息に動く胸の辺りは規則正しく上下して、そうなって並んでいかにも安らかに眠っている姿は、知らなければ間違いなく親子と思うに違いない。
 このふたりが親子に見えるなら、一緒にいる自分は一体どんな関わりに見えるのだろうかと、シャッコは思いながら足音を忍ばせて、そっとベッドの傍へ寄る。足元から、いつも自分が寝る方へ回って、ふたつ向かい合って並んだ顔ふたつを見下ろして、耳の形も唇の線もよく見れば似たところは特に見当たらないこの組み合わせについて、それならきっとこの幼子は母親似なのだろうと他人(ひと)は納得するのだろうか。
 わざわざそうしたように、シャッコの分だけそちら側が空いている。キリコに倣ってブーツは脱がず、シャッコはそっと膝をベッドに乗せた。
 ぎいっときしんでもユーシャラは身じろぎもせず、その小さな背中へ寄り添うように静かに横たわって、残念ながら枕にはもう空きがなかったから、ただそこへ頭を置いた。
 ユーシャラの小さな頭越しに、キリコの顔が半分だけ見える。目を閉じて、特に安らかな寝顔と言うわけではなかったけれど、すでにシャッコが見慣れた、キリコのいつもの寝顔だった。
 シャッコは間遠な瞬きのように目を閉じて、再び開くまぶたの次第に重くなって行くのに逆らわず、すでにあるふたり分のかかすかな寝息に、自分のそれを重ね加えてゆく。
 最後の瞬きの終わる直前に、キリコがうっすらと目を開け、シャッコがそこにいるのを見た。見て、瞳が何の感情に見せずにただ揺れた。寝入るシャッコに続いて、キリコもまた昼寝に戻る。


 ユーシャラはおまえの子だと、キリコが言う。おれとおまえの子だと、シャッコが答える。
 おれがこの赤ん坊を救ったのはおまえのためだと、キリコが言い継ぐ。おまえの部族の子だ、だから、とそこで言葉を切ってシャッコを見つめる。
 おまえはこの子を救いたがっていた。クエント人としてそれはできない、だからおれが、代わりに──。
 キリコのために、すでにクエント人であることを捨てて──少なくともそうであることの一部は──しまっているシャッコは、キリコを見返して、キリコも同じように自分に課したことの一部を曲げているのだと気づく。
 神の子とされた赤ん坊を救い、ひとところに落ち着いて育て、戦いから遠ざかった日々を送っていること。ATをさすがに錆させはせずに、けれど誰かに向かって使う気はなく、いずれユーシャラもATに乗ると言い出すかもしれないその日を、恐れているような心待ちにしているような、どこか落ち着かない気分で暮らしていること。
 30数年経って、ようやくシャッコと真正面から向き合い、それがユーシャラのためであると言う理由があるにせよ、キリコにとっては痛みを伴う決心だったと言うこと。
 またどこかへ行くつもりかと、シャッコは思わず訊いた。その、自分で発した問いに、今自分がひどく冷静さを欠いていることを知る。
 キリコは答えずに、胸に抱いたユーシャラを改めてもっと近く抱き直し、うなずいたともそうでもないとも見分けのつかないかすかな動きを見せて、不意に闇の中へ消えた。
 シャッコは驚きもせずに体の向きを変え、目の前へ広がるクメンのジャングルをすかすように眺めた。ベルゼルガのコックピットの中だ。聞こえるのは機械音と自分の呼吸だけだ。他には誰もいない。ビーラーの気配はなく、ポタリアやキデーラはどうしたと辺りを見回して、結局彼らの姿のないことを、なぜか不思議にも思わない。
 ああそうだ、皆、消えたのだ。シャッコは思った。ポタリアもキデーラも、あのカン・ユーも、そしてキリコも。シャッコだけがここに残り、息の詰まる緑の中にいる。密度の濃い、熱帯の空気。酸素は確かにあるのに、次第に息苦しくなる。
 戦争は終わった、傭兵はもう用済みだ。次の星へ、次の戦地へ、そうして絶え間なく戦い続け、目的もなく思想もなく、クエント人には金のためだとうそぶけるようなすれっからしの感覚もない。
 キリコがいない、とシャッコはまた思った。戦い続けていれば、そのうちキリコに会えると思っていたのに、どこに行ってもキリコはいない。硝煙と炎の匂いに魅かれて、あの男は必ず現れるはずだと、そう思っていたのに、キリコは見つからなかった。キリコはどこにもいなかった。
 シャッコは探し続け、待ち続け、遠くなれば遠くなるほど鮮やかになる記憶だけにすがって、キリコをただ求め続けた。
 どこにいる。どこに行った。そしてこれからどこへ行く。
 おれはここだ。おれはここにいる。ここで、おまえを探して、待っている。おまえはどこだ。キリコ、おまえはどこにいる。
 またなと、キリコが言う。カプセルに入る直前に、シャッコへ振り向き、珍しい仕草でシャッコを軽く抱いて、大きな背中を軽く叩いた。これまでのすべてに対する礼がそれで済んだと、奇妙に清々しい表情を置き土産に、キリコはカプセルに入った。
 キリコに撃たれた傷の跡が、時折痛む。まるでキリコが近くにいると知らせでもするように、疼くように痛む。その痛みすらいとおしんで、シャッコは自分の肩と脚に触れ、キリコのことをまた考える。
 ユーシャラの泣き声が聞こえる。たった今生まれ落ちた赤ん坊が、産婆役の女の手の中で泣いている。シャッコはそれを見ている。隣りを見て、そこにキリコはいない。テダヤがシャッコを振り返り、もう歯のない口を動かして何か言う。
 我らの手で、あの赤子は始末するしかあるまい。
 撃たれたように肩を揺らして、シャッコはその言葉に抗った。
 いやだ。
 神の子は殺す習わし、それを知らぬわけはあるまい。
 テダヤが、あくまで落ち着いた声で言う。生まれたての赤ん坊をくびり殺す罪の意識などどこにもない。クエント人とはそういうものだ。
 いやだ、とシャッコはもう一度思った。同じ村の女が生んだと言う、それだけの関わりの赤子だ。それでもシャッコは、薄青い髪色のその赤ん坊に、見た瞬間からキリコを重ねていた。
 似ているわけではない。それでも、キリコが戻って来たのだと、シャッコは思った。
 おれは、ずっと待った。ただ、待った。
 産婆からテダヤに渡された赤ん坊を手渡されて、そうだなと、キリコがシャッコを振り返る。赤子は機嫌良くキリコを見上げ、あごの辺りへ小さな小さな手を伸ばしている。
 おれとおまえの赤子だ。シャッコが言う。
 ああ、そうだな。おれとおまえの赤ん坊だ。キリコが答える。うっすらと、笑みさえ浮かべて。
 その微笑を写して、シャッコはキリコと赤ん坊へ向かって両腕を伸ばした。前へ足を踏み出して、ふたりを一緒に抱きしめようと、その指先がキリコへ触れようとした瞬間、また闇がやって来る。
 どこかの戦地の、基地の夜だ。虫の声も人の気配もない、何もかもが戦火を恐れて姿を隠し、そこを這い回るシャッコたちは、まるで死肉を食らう蛆虫のようだ。
 シャッコは、自分の大きな体が急に小さくなり、地面に縫い止められてしまったのを感じた。もう動けない。首を回すこともできない。もう、キリコを探すこともできない。腕がない。脚もない。視界も真っ黒に塗り潰され、皮膚を撫でる空気の動きだけが唯一の感触だった。
 朝が来たら、せめてこの目に光を感じるだろうか。闇の中に閉じこめられて、シャッコはもう、キリコを待ち続け、そしていつかはまた会えるのだと言う希望すら失われたことを感じて、そうして心の片隅で、これがキリコの眠るあの眠りだと思った。
 凍って眠り、宇宙を漂い続けているキリコの見ている夢を、自分は見ているのだと思った。
 目覚めなければ。目覚めれば、きっとキリコがそこにいる。自分を待ち続けたキリコが、そこにいる。
 いや待ち続けたのはおれだ。どちらだ。おれか、キリコか。
 自分の指先──そんなものは失せていた──すら見えない闇の中で、シャッコは混乱し、叫ぼうとして、声も舌も、口すら失せていることに気づいた。
 それでも喉らしい気管が空気に震える。震え続けながら、キリコと言う音だったはずの、今はただ息でしかないそれが、闇を揺らした。


 眠りが破られ、シャッコは思わず頭をわずかに起こした。
 部屋の中は明るく、そうだった、ふたりの昼寝に付き合ったのだと言うことを一瞬後に思い出し、そして空っぽのベッドに自分だけを見つける。
 シャッコは思わず自分の手足を見やり、自分の体が見慣れたそれであることを確かめると、その後で、キリコがユーシャラを連れて行ってしまったのだと思った。
 キリコはまた、どこともなく行ってしまったのだ。もう十分に育ったユーシャラを連れて、もうシャッコの手助けはいらないからと、どこかへ旅立ってしまったのだ。
 まだキリコときちんと言えず、呼ぼうとすればきぃこと舌っ足らずになる幼子を連れて、キリコはまた、どこかへ行ってしまったのだ。
 追わなければと、シャッコは思った。連れ戻さなくてもいい、けれどもう、ただ立ち止まって待ち続ける気はない。行くなら、自分も一緒に行くのだと思った。
 ユーシャラはふたりの子だった。奇妙な形ではあっても、家族なのだ。おまえが行くならおれも行く。跳ねるようにベッドを降りて、シャッコは部屋を飛び出し、キリコを呼びながら家の中を駆け抜ける。
 他に物音のない小さな家の中を抜けて、表の戸へ手を掛けながら、少し先から始まる砂漠すらそのまま走り抜けるつもりのように、シャッコは、ベルゼルガに乗った方が早いかとすら考えて、そして、勢い良く開いたドアのすぐ先に、キリコの背と、その足にまとわりつくユーシャラの姿を見つける。
 夕暮れの気配の近づきつつある、青みの落ち着いた空が、果てもなく広がっていた。すでに見慣れた、いつも風景だった。
 シャッコは、凍りついたように足を止め、呼吸を取り戻すのに3秒掛けて、突然の騒がしさに何だと振り向いたキリコへ、まだ混乱の色の消えない瞳を当てたまま、やっとよろりと足を前へ出す。
 「シャッコ!」
 キリコの両足の間へ無理矢理顔を差し入れ、そこから体を抜いて、四つん這いでユーシャラがシャッコの方へやって来る。
 半ばで立ち上がると、今のシャッコよりもよほどしっかりとした足取りで駆けて来て、両手を精一杯上へ伸ばして見せた。
 「シャッコ!」
 甘え掛かって来るユーシャラを抱き上げ、シャッコはキリコに向かって歩いた。まだ足元が、少し危うい気がする。
 「おまえが、いなくなったと思った。」
 キリコを目の前にして、やっとそう言った声が震えていた。滅多と感情を表に出さないシャッコの、少し血の気の失せた顔色に気づいたのかどうか、キリコは急に真顔でシャッコを見上げ、
 「おまえが、ユーシャラを連れてどこかへ消えたと思った。」
 シャッコがさらにそう言ったのに、シャッコのそれとは違う戸惑いの色を刷いて、シャッコの首に抱きついているユーシャラをちらりと見る。
 ユーシャラをなだめる時のように、キリコはシャッコの頬へ掌を当てて、シャッコの目を真っ直ぐ見て、静かに低い声で言う。 
 「──おれが今さら、どこに行くんだ。」
 ユーシャラをしっかりと抱いて、自分の肩越しに向こうを見ていることを確かめると、シャッコはキリコの腕を引いて自分の方へ引き寄せた。キリコの唇へ向かって体を傾け、ただ盗むよりは少し長く深く、キリコが今ほんとうににここにいるのだと確かめるために、自分の唇を押し当てた。
 ユーシャラの前では、滅多とないシャッコのそんな振る舞いに、キリコが軽く目を見開き、それでも逆らわずに喉を伸ばし、素直にかかとを上げてシャッコへ体を寄せる。
 シャッコの不安の元は分からず、それでもキリコは、今はこうすることが必要なのだろうと、わずかに開いた唇を自分からシャッコのそれへ押しつけもする。
 振り返ろうとしたユーシャラの気配を察して、シャッコの体が遠のいた。
 ふたりの間の隙間に、ユーシャラが小さな体をひねって腕を伸ばす。今度はキリコに抱いてくれと、その仕草に応えて、キリコがユーシャラを抱き取り、シャッコよりは幾分ぞんざいに幼子を腕の中に納めた。
 シャッコは、ユーシャラを間に入れたまま、キリコに長い腕を巻く。キリコの腕はユーシャラに占領されていたけれど、代わりにユーシャラがシャッコに触れ、そうやって、3人はそこで一緒に抱き合った。
 地面に、短い影が広がる。3つの影が今はひとつになり、いびつな輪郭を見せながら、時折そこからユーシャラの短い腕がはみ出し、まるで一体の生きもののようにうごめいていた。
 影の動きへ横目の視線を送るシャッコの頬へ、キリコがもう一度触れる。寝乱れたままの髪を撫でつけて、シャッコを子ども扱いのようにしながら、
 「家に入ろう。そろそろ日が暮れる。」
 いつもの平たい声で言う。シャッコは腕をほどき、片方の手はキリコの肩に置いたまま、開きっ放しの戸へ向かって、一緒に歩き出す。
 乾いた地面に大きさと歩幅の違う足跡が並び、角度を変えて伸びる影は、戸の向こうへ消えるまでひとつになったままだった。

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