そして続く道 - Trace
寝るのは嫌だと、ユーシャラがぐずる。キリコが抱いてあやし、その後でシャッコが代わり、もう一度キリコが受け取って、それでもユーシャラは泣き止まない。それなら外で寝るかと、キリコがユーシャラに低めた声で言った口調が本気めいていたせいか、シャッコは再びキリコからユーシャラを抱き取って、後は自分が寝るまであやすと言う。
キリコの不機嫌とシャッコの疲れを敏感に読み取って、ユーシャラがいっそうぐずる。シャッコはユーシャラの小さな背を大きな掌で辛抱強く撫でて、小さな家の中を歩き回る。
「おれは先に寝る。」
キリコはさっさとふたりに背を向けた。
その時にはもう夜もとっくに更けていて、キリコは何も考えずにいつも通りにシャッコのベッドに入り、後でやって来るはずのシャッコの分のスペースは空けて、相変わらずぐずり続けているユーシャラの声を扉越しに聞きながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
シャッコはいつベッドへ来たのか、体の重みでベッドが揺れ、薄目に見える闇の中でひと際濃く人影が自分に寄り添って来たのは、うつつに覚えている。けれどその時キリコははっきりとは目を覚まさずに、シャッコと思った大きな背中へ抱きつく腕だけ伸ばして、そのまままた眠りに戻った。
だから朝になってもシャッコが目を覚まさず、ユーシャラも起き出した様子がないのを、キリコは放っておいた。大方明け方近くまで、シャッコは眠らないユーシャラに付き合ったのだろうし、ひと晩中ぐすり続けてさすがに疲れたユーシャラが、やっと気持ち良く眠れたならそのままにしておこうと思ったのだ。
ひとまずは自分の分だけのコーヒーを淹れながら、シャッコが匂いに誘われて起きて来るかと、寝室の方へ耳を澄まし、コーヒーのマグを持って部屋の前まで行き、中に人の動く気配のないことを確かめてから、何となくひとりきりを持て余して、用もないのに外へ出る。
忙(せわ)しく走り回るユーシャラがいないと、辺りはひどく静かだ。決まった時間に何かすると言うことのない日々でも、朝と夜のリズムは体に刻み込まれていて、それでも日はもう高くなりつつあった。
砂漠へ続く方向を見つめながら、キリコはひとりコーヒーを飲む。朝食は少し後にしようと、今にも起き出して来るかも知れないふたりのことを考えて、キリコは思った。家の中は変わらずひっそりとしていて、台所でひとり物音を立てて動き回るのも、ぐっすり眠っているふたりに悪い気がした。
この調子では、ふたりは昼食と兼用になるかもしれない。食事のことを考えた途端、痙攣するように動いた自分の胃を、掌の下に押さえて、キリコはコーヒーをすする。
ユーシャラがまだ眠っている間に、久しぶりに銃の手入れをするかと思った。
降着ポーズのスコープドッグの足元で、バラバラに分解した銃の部品のひとつびとつを丁寧に磨き、元通り組み立ててから、そのままの続きで工具の手入れを始めて、腹の虫が泣き止まなくなるまで家の中には戻らなかった。
機械油で黒く汚れた手指を、いつもより時間を掛けて丁寧に洗い、それからやっと家の中に入る。相変わらず静かなまま、シャッコもユーシャラも起き出した様子はない。
腹が減ったと頭の中で思って、けれどひとりで先に何か食べる気にまだならず、考えることも特に浮かばない頭の隅に、ユーシャラをシャッコに押し付けたと思っている自分がいることに気づいた。
なるほど、空腹で少し苦しむくらいならちょうどいい罰と言うわけだ。そんな風に思っている自分を、別の片隅で忌々しく思って、シャッコを起こしに行こうと唐突に決める。
シャッコの後にユーシャラを起こして、昨夜散々泣いて汚れた顔を洗わせるついでに、そのままシャワーに放り込んで目を覚まさせてやろうかと、実行する気もないくせに意地悪く考えている。
シャッコは枕を首と胸の下まで敷き込んで、長い腕をベッドの縁から床に落として、死体かと思うほど静かに寝ていた。
起きろと声を掛けるつもりで伸ばした腕が、ぶ厚い肩には触れずに途中で止まる。くしゃくしゃの髪が耳や額に掛かって、そうして眠っていると、寝ている時のユーシャラのいっそう幼くなる顔立ちに、そんなはずもないのに似ているような気がして、無理に起こすのにまた気が咎めた。
シャッコ、と掛けた声は音にはならず、唇だけが動いて、指先はただそこで迷い続ける。
キリコは、ベッドを揺らさないように、そっと端に腰を引っ掛けた。
眠っていても人の気配は感じるのか、シャッコのこちら側の手がシーツの上をさまよって、あるかもしれない何かを探る手つきをする。
誰かと一緒に眠るのに慣れた人間が、自分以外の体温を探して同じ仕草をするのだとキリコはまだ知らず、シャッコの指先がやがて自分の腿に触れ、そこに落ち着いたのに視線を落として、今度はそこへ向かって、シャッコとかすかなつぶやきをこぼした。
シャッコの手に自分の掌を重ね、起こさないように気をつけながら、続けて肩を撫で、髪を撫でる。寝息で動く背中の、肩甲骨の盛り上がりを視線でたどって、そうして、そこを覆う自分の掌の幻を見た。
昨夜は、ただ眠っただけだった。触れ合ってはいても、抱き合いはせずに、キリコはもうとっくに眠っていたし、シャッコも恐らくすぐに眠りに落ちたろう。
そうでなければ、ふたりの夜は抱き合って始まり、抱き合ったまま終わる。触れ合うことで夜が始まり、皮膚を引き剥がすようにベッドを抜け出す時が朝だ。
寝乱れた髪の掛かるうなじへ手を添え、まだ夜の方へひとりでいるシャッコの、規則正しい寝息に、無意識に自分の呼吸の速度を合わせ始めているキリコは、十分に寝たはずなのにまだ寝足りてはいないような気がして、昨夜足りなかった何かに向かって、不機嫌に唇の先を尖らせる。
一向に目を覚ます様子はなく、今は枕から少し顔の位置をずらして、キリコの方へ寄って、シャッコは珍しく深い眠りを貪り続けていた。
毛布からはみ出した足の先と腕と、肩と背中の半分、何にも覆われない素肌は、けれど隈なくキリコに触れられ、探り尽くされている。触れた跡が残るなら、シャッコの全身はキリコの手と指の形に覆われている。触れていない場所はない。それはキリコも同じだ。キリコの皮膚の上をシャッコの掌が覆い、指がなぞり、もうそれはもう1枚の別の皮膚のように、キリコの全身を覆っている。
触れられ、血の色が上がる。それぞれの手指の形に皮膚が赤く染まり、その赤が皮膚を覆い尽くし、ふたりは一緒に赤い化け物めいた姿になる。赤い手形に全身を覆われて、触れれば触れるほど濃く残る赤は、最早血の色そのものと見分けがつかない。
赤が足りないのだと、キリコはふと思った。シャッコが自分に残す、血の色めいた赤が、足りない。シャッコの皮膚は今は白過ぎるように思えて、キリコは急いでブーツを脱ぎ捨てると、そのままシャッコの隣りへ滑り込んだ。
シャッコの背に重なり、眠るつもりはなく目を閉じる。
毛布の下の、シャッコひとりきりの体温でぬくまった空気に自分の体温を合わせて、そうやってあたたまる皮膚に赤みが差すのを、じっと待った。
キリコの重みにようやく目を覚ましたシャッコが、体の重なった位置に気づいて、肩を回してキリコを抱き寄せに掛かる。
ユーシャラもそろそろ目を覚ますだろう。そうしたら、山羊の乳をまず温めてやらなければならない。
けれどまだ、それには少し間がありそうだった。
それまでの戯れのつもりで、シャッコの手がキリコのシャツの下へもぐり込んで来る。キリコの背に、シャッコの手の形が残る。その跡の赤さを、キリコははっきりと目覚めている眼球の裏の闇の中に、鮮やかに手繰り寄せた。