そして続く道 - 君が残した空色
「シャッコ!シャッコ!!」足元から、ユーシャラが短い両腕を精一杯伸ばして、シャッコに抱き上げてくれと伝えて来る。シャッコは体をふたつに折り曲げて、長い腕の先にユーシャラの小さな体を持ち上げた。
シャッコの片手に収まってしまいそうだった頃はそれほど前でもないと言うのに、今は両腕に抱きかかえてそれなりに持ち重りがする。よく育ったものだと、生まれ落ちた瞬間からユーシャラを知っているシャッコは、触っただけで掴み潰してしまいそうだった儚げな赤ん坊の面影を今のユーシャラの上に探して、その頃よりはやや濃さを増した水色の髪色に、さらに育てばこの色はキリコのそれに近くなるかもしれないと、髪よりはもっとキリコに近いその瞳の色に、シャッコは数秒見入った。
はるか向こうで、スコープドッグが砂上を駆る音が聞こえる。ポリマーリンゲル液の劣化具合を確認しておきたいと、キリコは久し振りにATを動かし、空手のまま砂漠へ向かって走り出した。15分も前のことだろうか。
視界を遮るものもない先に、うっすらと砂埃が見え、目を細めてもATは小さな黒い点にしか見えない。かすかに聞こえる音に異常はないように思え、心配することもないようだと、シャッコはユーシャラの柔らかな頬を指先でそっとつつきながら考える。
キリコがATに乗って走り去り、不安になったのか、ユーシャラはシャッコの足にしがみついて離れなかった。戻って来ると心のどこかで思っていても、姿が見えなければそれだけで置き去りの恐怖に襲われる。幼子の心の内を、まるで自分のそれのように読み取りながら、シャッコは優しくユーシャラを抱いた。
同じだ。別れの場にいたにせよ、シャッコも一度は置き去りにされた身だ。だから、ユーシャラの気持ちはよく分かる。
神の子の不思議な能力(ちから)で、キリコがどのように自分に関わっているのか、問いもせずに──まだそんな語彙はない──理解はしていても、そのまま飲み込めると言うわけもなく、その点は間違いなくまだ子どものユーシャラは、幼子らしい反応で少しばかりぐずり、シャッコの後ろ髪を引っ張りながら、キリコはどこだと身振りで訊いて来る。
「キリコはあそこだ。」
シャッコは、砂埃の方法を、長い腕を伸ばして指差して見せた。
ユーシャラは、素直にシャッコの指し示す方向を見て、まだ安堵の表情は見せずに、ことんと傾げた頭をシャッコの肩へぶつける。
「きぃこ。」
回らない舌で、言いにくそうにキリコの名を呼び、その声に振り向くキリコのこの場にいない不満と不安を、またことんことんとシャッコの肩に頭をぶつけて、不貞腐れた証拠のように、親指を口の中へ差し入れた。
触れただけでうっかり目を細めたくなる、子どものひたすらに柔らかな皮膚。それを抱く自分の手の無骨さを少し気にしながら、シャッコはユーシャラの丸い額に頬ずりした。
下目に見るユーシャラの瞳は、今見上げる空の青よりはひと色ふた色緑に寄って、いつか送られた星の空が、夜の明け切る頃にこんな色を一瞬見せたと、シャッコは思い出していた。
キリコが、この赤ん坊に名前をつけろと言った時、真っ先に自分が見上げ続けた幾つもの空を思い、そのまま、クエント語で宇宙へ達するほど高い青い空のことを言う、その言葉を名前に決めた。その言葉にある空の青さが、キリコに結びついていたのだと、気づいたのは赤ん坊をそう名付けた後だった。
真っ青の空と同じ、キリコの髪色。空を見上げるたび、シャッコはキリコを思い出していた。置き去りにされたと、恨んだわけではなかったけれど、いつまた逢えるともしれない旅に出たキリコを、ただ待った時間は決して短くはなかった。
見上げる青い空。その先にある、宇宙。そこに漂う、キリコとフィアナの眠るカプセル。考えない時はなかった。カプセルが漂う限り、ふたりは静かに眠り続け、少なくともそこには、永遠に続く平和な時間があるのだと思った。
青い空。キリコの青い髪。その青よりも、わずかに緑に寄った瞳の色。シャッッコは、それを近々と見つめていた。キリコの瞳の中に映った、小さな自分。その自分の瞳の中にいた、小さくなったキリコ。互いを、そこに閉じ込めておければよかった。互いの瞳の中にある静謐に、移り住めればよかった。
またな、とキリコが、いつもに似ない軽い声で言い、驚くほど爽やかに微笑んだ。
それきりだ。それきり、シャッコは、ただキリコを待った。
青い空を見上げ、キリコ──とフィアナ──を思い、ふたりの目覚めないことを祈りながら、同時に、シャッコはキリコに逢いたくてたまらなかった。
またなと微笑んだキリコの、それは別れの言葉ではなかったのだと、何の根拠もなく信じる自分がそこにいた。
また逢える。いつかは分からない、だが、またきっと逢える。
宿命、運命、語る言葉ならクエント語にも幾つかある。そのように結び付けられてしまった自分と、そしてキリコなのだと、シャッコはずっと信じていた。
空のこちら側とあちら側で、ふたりは確かに結び付いていた。空の青。キリコの青。ユーシャラの青。何もかもが、シャッコの中でひとつに結ばれてゆく。ユーシャラが、青い空に分かたれていたふたりを、再びひとつに結び付けた。
シャッコは、ユーシャラの柔らかな髪をそっと撫でた。
キリコは今、あそこにいる。ベルゼルガで追えばすぐに追いつける、すぐ先にいる。ここで待てば、すぐに戻って来るだろう。
ユーシャラとシャッコは、ふたりで一緒に、キリコの行く先を目で追い、じきに一緒に飲むことになるコーヒー──ユーシャラには山羊の乳──のことを考えながら、キリコの戻って来るのを待っている。
同じ空の下にいる。同じ空を見上げることができる。囁く声の届く、肩の触れ合う近さで、互いの瞳を覗き込むことができる。互いに瞳の中に、互いだけが映っているのを、近々と見つめることができる。
ATの影が、次第に大きくなりながら、こちらに近づいて来る。砂煙を巻き上げ、音量を増し、キリコの気配に気づいたユーシャラが、シャッコの腕の中で小さな体と腕を精一杯伸ばし、
「きこ!!」
と、幼い声で叫んだ。
ゆるやかにスピードを落とし、スコープドッグの沈んだ緑がふたりの視界の中に広がってゆく。それを写してユーシャラの瞳の色が緑へさらに寄り、シャッコの瞳も、緑の輝きを増した。
開いたコックピットから、ヘルメットを脱いで降りて来ようとするキリコの髪色が、空の青さの中に溶け交じる。