たったの一歩、おおきな一歩 3




 小雨に勢いを弱めた甲板、ナミさんは航海士のお勤め中。おれは何をするでもなく、彼女の姿が目に届く距離で、ボーっと考え事をしながらだらだら時間を過ごしていた。至近距離でもなく、傍でもなく、あくまで近からず遠からず。暇だから雨の空気を吸ってるんですと言わんばかりの佇まいで、間違っても目障りだと邪険にされない距離を保つ。事実暇なんだ、夕飯の仕込みは終わらせちまったし、ラウンジはウソップとマリモが居座っててむさ苦しいしで、外にいりゃ手が必要になったときに一番に力になれるからな。……ルフィもいるが。
 傘の下、シッケた煙草を咥えたまま。おれは彼女の仕事ぶり一つ見るにも、妨害に足を踏み込まないよう注意を払わねばならなかった。

 蜜柑畑の番人を断られたショックを引きずる暇もなく、ほどなくしてぶつかった難題に足場を探す毎日だった。あの日、どうして居るの、と、まるで出て行けとでも言いた気な、彼女がおれに向けた冷えきった瞳と声音。ショックを覚えなかったといえば嘘になるが、それ以上におれは、彼女のその様子が気掛かりで仕方がなかった。
 彼女に言えば猛反論するだろうが、おれには怯えているとしか思えないものだった。きつく拒絶した態度をとるのは、見えない防御壁を作って、安定を保つ為。踏み込まれる恐怖心を隠しているからだ。ルフィの真意――まァおれが勝手にそう判断しただけだが、十中八九的中してるだろう――を伝えると、歓喜をあらわにした笑顔を浮かべながらも、即座におれに申し訳なさそうに顔を俯かせる心を持った彼女が、傷ついていないわけがない。恐らく、自分でもわけのわからない恐怖。その原因にまったく見当がつかないほど、鈍感ではないつもりだ。
 おれがコックの仕事片手に遊び回っていた頃、彼女は過酷な人生をたった一人で戦い続けていた。娯楽を楽しむ日々なんて、歩んでこなかったろう。それはきっと、恋も。
 だが、彼女はあの可愛さだ。言い寄ってくる男なんて星の数ほどいたはずだ、……あんときのおれみてェに。おれは血気盛んな奴らが常にのさばるバラティエで育ったし、不貞で締りのない集大成のような港や酒場で酒盛りなんて日課のようなものだったから、平穏な生活から切り離された彼女に言い寄る男がどんなゴロツキであるかくらい、容易く想像がつく。
 おれは身体だけじゃなく、心も重ね合わせたいと願う。そういう視線を、彼女に送ってしまう。だから彼女は、戸惑ってしまうのだ。仲間の中でおれだけが、彼女を男の目で見るから。そしてそれは、威嚇という形で怯えを隠す。未知の感情への恐れ、それはひどく人間らしい感情に思えた。
「すっごく幸せ」と言った彼女。一点の曇りもなく、いや、曇りすら照らしつけてしまう笑顔。おれが翳りを芽生えさせてしまった現実に、向き合わなければならなかった。

 しかし困ったことに、厄介な問題が別のところで勃発しているのだ。

 ブルーのレインコートが役目を存分に発揮しているおかげで、彼女は一面ナイロンに覆われている。味気ない青の中で、ちらちらフードの隙間から覗く、細くしなやかな白い首。雨が入り込んでいるせいか、オレンジ色が窮屈そうに張り付いている。
「ああ、もう。邪魔!」
 突如、怒声とそれに続いた彼女の行動に、おれは目を丸くした。ファスナーを引き下ろすと、勢いよくレインコートを脱ぎ捨ててしまったのだ。確かに小降りになってきちゃいるが、まだ雨は間を置くことなく、一滴一滴あとからあとから地上に降り注いでいる。外気にさらされた刺青下半分が、痛そうに小粒の襲撃を受けていた。
 おれは慌てて階段を下り、彼女に傘をかざす。彼女は一瞬ぴくりと肩を跳ねさせたが、おれを一度見上げると、無言で真横に移動する。他人行儀な動作。ちくりと突き刺さるショックを感じたけれど、濡れてしまうほうが心配だったので追いかける。レディに近づくときは、まず呼びかけを。いつだって備え持っていたマナーなんて頭から吹っ飛んでいた。代わりに完全に青の薄い空にさらされたおれのスーツには、ひたひたと雨が沁み込んでいく。
「いらない」
「ダメだよ、風邪ひいちまう」
「平気だってば。こんなので風邪なんてひいてたら航海士は勤まらないわよ」
「けど、何が起こるかなんてわからないだろ?医者はいねぇんだから用心しねぇと」
「……じゃあサンジ君はどうなのよ」
 おれの肩先を見やって口を尖らす。視線に流されておれも目をやると、黒く縁取られたそこは水分を吸い取り、濃度が増していた。前髪も重量を含んで、目が痛ェ。……心配してくれたのかな?にかりと安心させるように口角を上げて。
「おれは大丈夫さ!か……」
「言ってることめちゃくちゃ」
 瞳を伏せて、呆れ顔で溜息。……確かに。風邪ひいたことねぇし、と説得力と信用度のなさを助長させる前に、つっこんで貰えてよかったかも。でも、ナミさんは繊細な女の子なんだから、潰れても死なねェ頑丈な野郎よりも数倍気を使わないと。思ったが、快く受け取ってはくれない気がしたので、寸でのところで言葉を喉の奥に押し戻した。
「私の言い分には確証があるわよ」
 おれはきょとんとして解読する為のピースを手に入れる範囲を伸ばす。そこでようやく、空気が晴天の予兆を醸していることに気づいた。その後はもう、ぽつ、ぽつ、と次第に弱まり、雨が姿を完全に消すまでに掛かった時間は僅かなものだった。……けど、それなら止むまで待ってからでも遅くねェのに……。せっかちな彼女に、ちょこっとばかし呆れたのは内緒だ。
 彼女は雨上がりの澄んだ空模様を見上げている。涙を流しているとも見えた刺青は、今や養分を得た植物のように、照り出した光を受け瑞々しい輝きを放っていた。パチパチと水を弾く健康的な肌。上品なマルチボーダーのカットソーにも雨水は含まれているはずだが、厚めの生地だからか透けていない。視点が地上へと戻されると、彼女の髪がおのずから歓迎をせかすように左右に別れ、暴かれるしっとりと濡れた白いうなじ。
 そこでおれは目を逸らした。見てはいけないもののような気がしたのだ。
 そうしてから一呼吸置いて、彼女に悟られる由々しき事態を想像するとぞっとするので、息を吐かずに溜息をつかねばならなかった。
 近頃、こういったことが頻繁に続出しているのだ。彼女の眩しさに当てられてからというもの、彼女と接するときや、こー、いまみてェに妄想を掻き立てる現場を目撃したとき。何だ、ひどく緊張してしまうのだ。おれが彼女に合わせれば、彼女だって少しはおれに歩み寄ってくれる可能性も無きにしも非ずかもしれねェってのに、それ以前にてめェでてめェの行動が操縦出来ずにてこずっている無様ぶり。まずは形から、と言ったのは誰だったか、それすら手が届かねェ。…思春期のガキじゃあるめェし。アホかっての。
 落ち着かせるため、一度小さく胸を叩く。ようやく顔を戻すと、間の悪いことにちょうどこっちを振り向いた彼女と、バッチリ目が合っちまって。おれは何を想像したわけでもないのに、途端に後ろめたい気持ちになる。
「あーーと……タオル、持ってくるね」
 数メートル先にルフィが居るとはいえ、せっかく僅か直径一メートルにも満たない円周に囲まれた二人きりの空間だったってのに。何で逃げるための言い訳を模索してまで、彼女のもとを離れなきゃいけないんだ。彼女がおれの背に、何事か呼びかけているというのに。
 それでも、濡れっぱなしは問題だし、拭く布は必要だから、これは必要不可欠な行動なんだと。己に言い聞かせた。

 おれに心をまるっきり許してくれたような風貌で、彼女の本物の心の内を聞かせてくれたあの日の夜の事は、都合良く見せた夢だったのではないかと思えてくる。それほどに、彼女のおれへの険は日に日に顕著になっていった。しかし、凛と意志の強い声で未来を語り、おれを殺してしまうんじゃねぇかってくらい心臓をバクバクと鳴らせるほどの純粋でひたむきな輝き、それらは確かに身に受けた現実だった。忘れられるわけがない。夢だったらいっそ楽だった。彼女にとってのおれの存在価値が、後退している事実には繋がらねぇから。弱い方向に縋ろうとする癖が沁み付いちまってる自分に吐き気がした。
 だからといってどうすることも出来ず、されど船は彼女の導きを受けて止まることはない。おれはおれで厄介な感情に惑わされっぱなしの段階から抜け出せねェしで、一人勝手に焦りを感じる日々だった。おれもメリーになれれば、ナミさんの導きを受けさせて貰えるのかね。馬鹿げた妄想にまで取り憑かれ始めた自身に、深い溜息が零れた。

 アイスティーを淹れて差し上げたときのことだ。
 ……熱い視線を感じる。な、何なんだろう……。何かおかしな行動でもしているだろうか。おれ、洗い物してるだけだよな?変な動きしてねェよな?目ェ瞑ってでもこなせる、身体に沁みついた仕事作業を疑う日がくるとは。
 そして、彼女はいつもおれからこんな視線にさらされているのかと思い当たって、少し罪悪感を覚えた。
「動かないでね」
 へ?
「ぷぎゃっ!」
 な、何だ!?突然脳天に走った衝撃に、うっかり奇妙な声をあげちまう。泡だらけの両手をシンクに突っ込んだまま、半身だけで振り向くと、彼女の片手にハサミ、もう片方の指先に……焦げ茶と金色が混ざった繊維?一度首を傾げてから、馴染んだおれの髪であることに気づいた。朝方、白ずんだ船壁のペンキ塗りに励むルフィとウソップ。ふざけ声を壁伝いに耳にしながら、片付けを終えたおれが爽やかな気分で空の下に降り立った瞬間、器用にバケツごとぶっかけて下さったのだ。その後の言うに言われぬ制裁は省くとして。丹念に洗ったつもりでいたが、まだ洗い残しがあったか。
 彼女は半開きの口でポカンとしている。そうして。
「変な声」
 おかしそうに小さく笑った。
 おれは心臓を掴まれた気分になる。突然降りかかった幸運。バケツが運んできたのはペンキだけじゃなかった。彼女がおれに、笑いかけている。正確には笑われているだが、いいよそんなの、彼女の笑顔の為なら恋の道化師なんざ朝飯前だ。
 おれは有頂天になっちまって、とにかく何か言わなければいけない気がしたから。
「い、言ってくれたらよかったのに」
 謙虚すぎるっつーのも問題だな……。言ってくれたところで、鏡もねェんだから自分で切りようがねェし。でも普段のおれへの彼女の振る舞いを考えると、あまりに意外だった。何だろ、よほど気になって仕方がなかったんだろうか。
 彼女は、おれに言われて自分の行動が突飛なことに気づいたらしい。薄々感じていたが、彼女はそれと決めると視野が狭くなる。
 指先のおれの毛をハラリと放り捨ててしまうと、待ちぼうけを食らっていたアイスティーを手に取り出て行ってしまった。
 おれに綺麗な手を伸ばす彼女の様子が、目に浮かぶ。この髪に彼女が触れた。そう思うと、今頃になって通っているはずのない神経がじんじん痺れてくる。下を見やると、貴重な貴重な彼女が触れた、おれの毛。はっと気づいたときには、それに手を伸ばす為に腰を屈めたおれがいて、驚いてぶんぶんとかぶりを振った。……惨めすぎるだろそりゃ。

 しかし運ってのは続くもんだ。偉大なる航路に突入してからすぐ、おれに奇跡が襲った!
「ううう、もうやだ、何で雪なんて降ってくるのよ」
 滑らかな曲線を描く華奢な肩をさらしたタンクトップから一転、コートにマフラー、耳あてと耐寒装備を万全に整えたナミさんが、声を震わせてぼやく。晴天のなか、突然見舞われた冬。双子岬でジイさんから頂いた忠告、デタラメな気候に右往左往する最初の難関だった。降り積もる雪の除去を依頼されたのだ。航海士として、コックとして、それぞれの役職に関したこと以外でおれを頼ってくれたなんて、あの日以来初のこと。……まぁ、船の整備には必要な作業であるし、野郎全員に命令が下っただけであって、おれ一人に言い渡された訳ではないのだが。
 ルフィとウソップは物珍しい雪の大群に大ハシャギし、マリモは例の如く寝腐っているのだから、結局は同じことだ。この大雪でよく眠れるよな、だがさすが歴史に残るノータリンなんつー現実逃避したくなる現実には口をつぐんでおいてやる。今だけはてめェらのアホさ加減に感謝するぜ!
「ナミさん!恋の雪かきいか程に!?」
「止むまで続けて、サンジ君」
「イエッサー!」
「サンジ君」と名指しでご指名頂いてしまったおれは、それまで以上にはりきって白い敵、いやむしろ恋の味方へと挑む。このときのおれほど、舞い踊るスピーディかつ華麗な雪かきを披露した奴はこの世にいないだろう。断言出来るね。このまま一生降り続けても本望だぜスノーホワイト!
 傍から見れば都合のいい男かもしれない。尽くしているときは気が楽だった。どうすれば彼女が喜んでくれるか、どうすれば役に立てるか、彼女のことだけを想っていればいい。余計なことは考えないで済む。それが彼女の為になるのなら、願ってもない至幸だ。
「ったくよォ、文句言うだけじゃなくナミも手伝えよなぁ」
 雪遊びに飽きたのか、ウソップがスコップに体重を掛けぼやく。
「クォラ長っ鼻!!ナミさんへの冒涜はおれが許さん!つーかお前ェも遊んでるだけじゃねェか、どの口開いたらナミさん「も」なんつー接続詞が使える身分であるのか一字一句説明してみろ」
「う……何だよ、ちっと愚痴っただけだ、んな怒る必要ねぇだろ……」
「おぉーーし、特大雪メシの出来上がりだ!いっただっきまー………ひゅめてーーーーー!!!」
「クソゴムは散らかすんじゃねーーーー!!」
 一体どんな料理を見立てたんだか、そもそも食い物であるのか。大口開けて一部呑み込んだかと思うと、もがき苦しむ。あらわになっていた茶色が再び白で埋め尽くされた。
「アホやるなら隅っこで蟻より小さく細く縮んでやってろ!」
「ふぉおお、ひててててて……はんだ、サンジも食いたかったのか?親切心から言うが止めておいたほうがいい、予想以上の苦しみが待ち構えているぞ」
「いつ誰がマゾプレイを要求した」
 つうか苦痛を予想して食ったのかよ……。こいつこそマゾなんじゃねェか?相変わらず何考えてんのかわからねェ、ひりひりと腫れた頬と腹をさするルフィを呆れた目で見ながら、雪メシの残骸を海に落としていく。ナミさんのために働くのなら、寒風の中だろうと獄中だろうと楽園のさなかってもんだが、これじゃこいつの尻拭いじゃねぇか……。
「お前もよくやるよなぁ」
 相変わらず動く気がない様子で、しみじみと言うウソップを怪訝に見やる。もちろん手は動かしたままだ。
「何をだよ」
「まぁ、雪かきは置いといてだ。わざわざ自分からコキ使われたがるモノ好きなんか、初めて見るぜ」
 おれはそのとき、ポカンと馬鹿みてェな表情を浮かべていたのだと思う。動作まで停止しちまった。彼女から任された大切な仕事なのに。
 彼女がおれを遠ざけていることにウソップは感づいているのだと、このとき初めて気づいたのだ。
 ……まァ、確かに、こいつは気が利く。単純バカと筋肉バカに比べて、繊細な神経を理解出来る脳も供えているようで、細かな事柄にも手が届くし、センスもある。彼女も何気ない暮らしの部分で、ウソップを頼りにしていることが多いように思える。思えるっつか、絶対ェそうだ。実のところ羨ましく妬んでいるくらいだ。死んでも打ち明ける気はねェが。
 そんなもんだから、人間関係においても、機敏に察する観察眼を持っていても不思議ではない。……この分だと恐らくは、おれが彼女に抱いて持て余している、説明がつかない感情にも気づいてるんだろうな……。
 もしかしたら、あえて雪遊びに乗じてくれていたのかもしれないと、何となく思った。
「アイツ、おれらには遠慮無しだからな。たまにお前になりてェよ」
「……バーカ、有り難味を知れ」
 先ほど素面で反応してしまったことも含めて、妙に居心地悪ィ気分になる。そこから脱するように雪かきに戻ろうとしたとき、デッキハウスから叫び声が木霊して驚いて目をやる。何事かと声を掛けると、勢いよくナミさんが飛び出してきた。その後すぐ、見計らったように雪は止み、雪解けをうながすかのごとく快晴が広がった。……恋の雪かき人も、これにて御役御免か。ちぇ。
 常識の通じない春風に彼女はうろたえている。思わず口を開きかけたが、不謹慎が過ぎると思ったので、狼狽しているナミさんも素敵だとの叫びは胸の内に潜めておいた。


 ウイスキーピークでのひと時は、本来のおれの有り方を再確認させるには充分な夜だった。
 耳をくすぐる甘い声、香水と女性特有のそれが混ざり合ってたちのぼる妖艶な匂い、手に絡みつく柔らかな肉体。久々に味わう感触は、やはりおれを酔わせる極上の蜜だった。レディをとりまく一つ一つが愉しさを誘い、胸がときめく。釣り合わねェんじゃねェかとか自分を卑下したり、触れてはいけない神聖な女神のように目を細めたり、一言交わせるだけで心臓が重い鉛みてェに圧迫を施したり。負担になるものは一切無い。そうだ、これが恋のはずだ。
 恋心と性欲はまったくの同意義だった。
 成熟した色香の漂う美しい女性に出会えば、くねる色気に鼓動が脈打ち、まだ幼さの残る可愛らしいレディを見れば、愛らしさに頬が緩み、好きだと思う。触れ合う機会があれば、その気持ちが更に高まるのは必然で、同時に抱きたいという欲求が走るのも常のことだった。
 初めて肉体関係を結んだ女性と、初めて恋人と呼べる間柄になった女性は別々の人だった。少し耳を傾ければ、そういった情報は容易に手の内に飛び込んでくる環境。ふしだらな大人たちに囲まれて育ったおかげで、同年代の奴らよりも一足早く、男女のそれを意識しはじめたと思う。何よりおれ自身、歳も中身も一人ガキ扱いされるのが嫌で、ジジイの背中を何十歩も後ろからただ眺めているのが癪で癪でしょうがなく。大人びたい願望に忠実に倣って成長したことが影響してか、どちらも割ととんとん拍子で事が進んだ。肺を侵すニコチンと、口内に充満する苦味になかなか慣れず、何日も咳き込んだ煙草のほうが、ずっと難しかった気がする。
 それはもちろん、好きだという思いの元から結んだ関係だったが、どちらかというと好奇心が勝っていたように思う。それでも、その先に待っていたのは、新鮮な刺激で、心地良い怠惰。料理とはまた別の、心を掻き乱す何か。慌ただしいコック業に追われる日常の中で、おれを夢中にさせるには有り余るものだった。
 仕事を終えたへとへとの身体で馴染みの酒場に繰り出し、まだ真夜中の時間帯にふらふらと自室のベッドに潜り込む、最低ラインの生活。最初こそジジイの怒りを買ってたが、反抗されたおれは躍起になり、ますます堕落した日々を加速、ジジイはいつしか「仕事だけは疎かにするなよ」とおれを一瞥した。そんなもの、言われるまでもなく承知していることだったし、実際仕事に支障をきたしたことなど、一度としてなかったはずだ。自慢げに話せる話ではないが、思えばおれが勤勉な体質となったのはこれが原因かもしれない。
 誰かれ構わずというわけではなかったが、付き合った女性よりもセックスのみを行った数のほうが多いと気づいてからは、交渉を持つことこそ不誠実に思え、きちんとした契りを交わす相手は減っていくばかりだった。元々ろくに自由な時間もとれない職柄も手伝って、一人の人と長続きすることなどあるはずもなかった。
 一夜限りの情事、身体だけの逢瀬。その場限りの淫らな密事は年齢を重ねるごとに増えていった。けれど、根底にあるものは今も昔も変わらないものだった。好きだと思うから抱く。おれの心は次から次へと新たな恋へとかまけている。感傷に浸る暇もない。果たしてこれが、本当に恋といえるのか。けれど簡単に手に入る快楽の前では、そんなものは小さな悩みでしかなかった。

 そんな折だ、彼女と出逢ったのは!
 外はねがチャームポイントの、鮮やかな目を引くオレンジ色の髪、大きな愛らしい瞳が印象深い端正な顔立ち、柔らか味を帯びた抜群のプロポーション。抱きつかれたときの、しなやかな腕の感触。魅力的なレディに惹かれるのはしょっちゅうだが、それだけではない。彼女の存在がおれの心に宿したのは、びりびりと全身を駆け巡る衝撃。まさに落雷。
 艶やかな黒髪のレディへの給仕中にもかかわらず、おれは完全に彼女の虜になってしまった。口説いている最中に他の女性に心を奪われるだなんて、コックとしても男としても失格だ。手応えもあったってのに、もったいないと悔いる気すら起きない。勘定際に手痛い嫌味を頂いたのも当然だろう。
 その後の思いも寄らなかった展開に、おれは一生その場所で生き果てると覚悟を決めていたバラティエを後にすることとなる。
 麦わらの船長率いる、たった五人の少数海賊団。おれがいままで生きてきたちっぽけな人生で、一際心惹かれた女の子。ココヤシ村で聞いた彼女の生い立ちに、逆上と、殺意と、痛みと。彼女自身が見せた生き様に、衝撃と、眩さと、尊敬。おれの直感は間違いじゃないと、彼女を彩るすべてが表していた。なんて女性を見初めてしまったんだろうとくらくらした。そんな人と共に夢を追いかけるのだと思うと、自然と胸が高鳴った。まして一人の女の子と長い時間を共にするなど、初めてのことだ。新たな恋の予感に、おれは完全に浮かれていた。

 なのに現実はどうだ。
 お洒落に酒を交わせたら、寝静まった船で言葉遊びや互いの苦労を分かち合えたら。しかし実際は、ジュースすらままならない。昼間の仲間同士の会話すら危うければ、避けられ始めてからは二人きりで彼女と対峙する勇気も持てなくなった。二人でいても、何を話せばいいのか見当もつかない。もしかしたら、避けていたのはおれも同じかもしれない。そのくせ仲間のテリトリーに守られているときは、おれの口は彼女との隙間を埋めるかのごとく饒舌に彼女を褒め称え愛を語り、さながら終着点を失った歯車だ。仲間以上のものを求めているくせに。拠り所がなけりゃ何も出来ない。おれが嫌悪していた、ガキのノリそのものだ。深夜彼女に想いを馳せるのすら、どうしようもない罪悪感を覚える。
 確かに今までとは違う恋の予感に浮かれていた。だが、こんなのは。

「ビビに手出したら承知しないわよ」
 もしおれがおれを第三者目線で観察出来るとしたら、このときの鍋におたまを突っ込んだまま呆けている無残に間抜けな表情に、底意地の悪い笑みを浮かべたことだろう。
 て……?テ?……手?
 言語ががっちり当て嵌まったときの空虚ときたらない。冗談っぽい口調だったのは、彼女なりの配慮だろうか。
「酷っでェなァナミさん……おれだって、それくらいのモラルはあるぜ?」
 だからおれもそのノリに乗っかって、軽い調子で返すつもりが、思いのほか悲壮感漂う言い方になってしまい、胸中で冷や汗が流れる。何だってこういうときに限って、いつもの調子の良さがなりを潜めるんだ。二人きりだからこそ、おれの努力次第で明ける方向に持っていけるかもしれねェのに。苦虫を噛み潰したような気分とは、まさにこういう気分のことだろうなと実感する。おれはこんな要領の悪い男ではなかったはずだ。
 そしてどうしてだか、ナミさんとこの手の会話をするのは気が引けて。彼女からの返事が返ってくる前に、無い頭捻って精一杯の陽気さで持って、話題転換に持ち込もうとしたのに。
「わかんないもの」
 ……おれァそんなに信用がないのか……。わかってはいたが、改めて思い知らされて、谷底に突き落とされたような心地になる。少なくとも、彼女はこの船でおれ以外の誰にも、こんな嫌疑は掛けないのだろう。
「いやマジでさ、船の上と陸での線引きくらいは」
「だってナンパしてたじゃない」
 そんな言い訳は通用しない、とでも言いた気に、間髪入れずに遮られた単語にぎょっとする。
「…………ウイスキーピーク?」
「ココヤシ村」
「うっ」
 それを言われちゃ……。い、いや、だが!
「ナンパしたのは認めるけど、本当にそれだけだぜ?酒飲んで、踊って、談笑して。……何もないよ」
「でもナンパしたってことは下心があったってことでしょ」
「……ナミさんが守ろうとした人たちに、間違いなんて犯さないよ」
 そこで初めて自分が何を口にしたのか理解したかのように、バツの悪そうな顔になる。しっかりとおれを捕らえ研ぎ澄まされていた眼光は、曇りを宿して行き場をなくした。何度か唇が彷徨うが。
「別にあんたが、どこで誰と何をしようと勝手だけど。私の大切な人たちには手を出さないで」
 辛辣な止めの一言だったが、特にショックは受けなかった。彼女の様子から、本当は謝ろうとしていたのは明白だった。彼女にあんな顔をさせているのも、あんな言葉を言わせているのも自分だと思うと、居たたまれない気持ちになる。おれが彼女を男の目で見るから、彼女を戸惑わせている。おれと出逢わなかったら、もっともっと新たな生活を満喫出来ていたはずなのに。おれなんか、彼女を悩ませるだけの価値もない取るに足らない存在なのに。止めたいと思うが、理性でどうにかなるものでもない。
 きっと彼女は、このあと後悔に苛まれるのだろうと思うと、胸がちくりと痛んだ。自惚れではない。彼女は他人の傷に、心を配れる人なのだから。
 しかし、何だって今頃そんなこと……

 ……やきもち?

 …………………いやぁ、まさかな。ハハハハ、いやいやいやそりゃ有り得ねぇだろ、ルフィだって鼻で笑うぜ?
 自分で思い当たった答えのあまりの有り得なさに、ははっと乾いた笑いが漏れる。これこそ自惚れだ。虚しいったらありゃしねぇ。

 ふと、彼女が「大切な人」と口にしたことを思い出す。ビビちゃん経由で辿り着いた言葉なのだから、当然ビビちゃんも含んでのことだ。メリーに乗船してほんの数時間、ビビちゃんもまだ肩肘取れていない様子で。それなのにビビちゃんは、既にナミさんにとって「大切な人」に含まれているのだ。不覚にも泥酔してしまったウイスキーピークでの事の顛末は、朝メシを食ってから説明受ける予定だが、何か絆が深まるような進展が、二人の間にあったのだろうか。おれに自ら声を掛けることは滅多にないナミさんが、心配して釘刺さずにはいられないほどの何か。おれよりも共に過ごした時間は、ずっとずっと短いのに。
 コトコトと鍋が煮立つ音に現実に引き戻されたときには、思わず鍋をひっくり返しそうになった。
 ……な、なんっつー思考回路してやがんだおれの脳みそは!……め、女々しすぎる……。
 思考を読み取られていやしないかと、一人きりのキッチンをキョロキョロと見回しちまう。その挙動すら恥ずかしいものだと認識した暁には、ちゃんと一人であることにひどく安堵して、慣れない疲労にがくりと首が力を失った。
 まったく、彼女はおれの調子を狂わせてばかりだ。一体いつまで、こんな底知れない不毛な感情に悩まされ続けるのだろうと思うと、途方もない恐怖に似たものが圧し掛かる。甘い痛みと甘受するには、あまりにほど遠いものだった。




    

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[ 2007/08/30 ]