まだ皺のない半袖に身を通すと、今年もあのうだる季節がやってくるのかという倦怠感と、少しだけ年甲斐のある落ち着かなさが体を吹きぬける。欲を言えば、これが夏季休暇への緩い期待だけで構成されていたら最高なんだが。生憎その芽を潰したのは俺自身だ。
 
 薄いカッターシャツに身を包んでいるのは古泉も同じだった。夏服になってしまえば見分けがつきにくいが、俺が通っているのは西宮北高校、通称北高という平均オブ平均としか言いようのない県立高である。対して古泉が通っているのは光陽園学院というゴリゴリの進学校で、この間までは指定の学ランを嫌味なまでに着こなしていた。
 似たような服飾なのに頭の中身は大いに差をつけられている俺と古泉が並んで歩く様は、傍から見てどうなのだろう。いや、どうなのだろうってことはないが。誰が見たって、普通につるんでる男子高校生二人にしか見えないのは分かっている。この男の内実を知っているから、俺だけがなんだか異様な光景だと自意識を膨らませるのだ。
 まだ太陽は高く、日がな調子づいている紫外線がきついが、互いに放課した俺達は祝川の公園にやってきていた。一応は涼宮のいそうな場所に赴いている――とは古泉談で、それも最近では弾切れ感が色濃く、ただのぶらり地域散歩になっているとは思うのだが口には出さない。温情ではなく、結局のところ俺の物言いなんぞこいつには届かないからだ。
 
「あなた、いえ――あなたが違うとおっしゃって憚らないあなた、ですが――は、違う世界の僕達もこうやって散策したと言っていました」
 よく整地された小道を歩き、桜の葉の吹きさらしの下に佇む男の肌は生白い。いっそ冬より色が褪せたんじゃないかってくらいだ。これで口さえ開かなければなんとやら、なんだが。
 
 古泉は俺、ああ俺じゃないと信じたいんだが、俺(仮)が古泉らに話したという色々を「違う世界」と言う。
 それ自体は割に普遍的な妄想だ。と思う。違う生活を営む俺がいる世界。例えば北高に通っていない俺だの、あるいは剣と魔法の大地で魔物でも倒している俺だの。そんで、もしも行けたらああするだのこうするだの。無沙汰な時間にふっと考えてはほくそ笑み、やがて大概は適齢期が過ぎると共に童心に押し込めてしまう、頭の中の小話だ。
 ――ただしそういうのはな、人様へ実害の無い範囲で許されてるんだぞ――と、俺は常にこの男への疑心と好奇心の均衡を崩さないために考える。
 
「……覚えが無いもんはどうしようもないさ」
 似たような問答は何べんも繰り返した。その度にいちいち心を砕いてやるのが面倒になったのもあるが、俺の返しも自然と形式化されてきている。
「ええ。そうですよね」
 芳しい答えなど生まれないことくらい、この男だって分かっているはずなのだ。古泉は普段ろくすっぽやらんくせに、こっちを一瞥して低く笑った。
 あ。
 やべえ、イラっときた。
 
 古泉一樹は大体いつも笑っている。これが人当たりのよさから滲み出ているものなら救いもあるが、残念なことに他人の情緒に明るくない俺ですら、少しだって自己外への思いやりなんて含まれていないことが分かるので。
 
 つうか、さ、何で、俺がお前らに会いにいっておかしなことをしたってのが前提で、それを思い出せない俺に責があって当然という態度で接されなきゃならんのだ。
 あー、せっかく最近は押し込めることができてたってのに、いらん神経がささくれ立つ。
 にわかに煮沸した頭の中で、出会ったばかりの頃の古泉の言葉が反響する。
 
(……そう、次の瞬間、僕は自分の部屋で覚醒しました。ああ夢だったのか良かった、と、なんて長い、長い悪夢だったと思いましたよ。学校に行けばいつもの涼宮さんが、つまらなそうな顔で、それでもいてくれるものだと、安心しきっていたんです。なのに)
 
 だからなんだよ。
 そりゃ、本当にお前の悪夢だったんじゃないか? 気の強い女といちゃついていたら、ある日どっかの馬の骨にあっさりさらわれちまったっていう、そこまでの夢。寝ぼけてんのはお前かもしれないって考えに至らないのかね。俺は、知らんよ。
 俺の屈託を知ってか知らずか、古泉は一人で口角を上げ続ける。
「もう半年に近づきます。このまま終生、進展がないことも覚悟するべきなんでしょうね」
 諦念ぶっているが、口から滑る言葉と目の奥は全く同期していない。
「かもな」
 だから、俺が同意してみせると途端に反論にシフトする。
 
「――僕はもう、涼宮さんの所在が掴めないならそれはそれでいい。二度と会うことが叶わなくても、然り。本当に納得しているんです。ただ、いないならいないと明確に、完全に、こちらが理解できる理由と証拠を提示して頂きたいだけです」
 前置きの後に反対の理屈を並べ立てるような人間は、往々にしてその前置きなんざあっさりと反故にしちまうもんだ。
「お前、理系だろ」
「おや、ご存知でしたか。お話しましたっけ?」
 こんだけ言質が取れりゃ当て推量でも外れねえよ。意外性が無さすぎて眉根一つ動かす気にもなれん。
 
 それにしても、しつこい。これだけ装飾めいた外見や素養を持っているくせに、気質を表すとするならいたって簡潔だ。しつこい。お前はしつこい男だよ。……一応、俺が逆の立場だったならこんなんになるのか? とは考えたことがある。けれどどうしたって自分の理性は贔屓してしまうし、徹頭徹尾己が体験していないことに肩入れできるほどお優しい育ちはしてないんでね。
 
「……とにかく、これからも探すってんなら、そろそろ何か方針を変えたほうがいいと思うぜ。……具体案は俺には出せないが」
 徒然なのはこの散歩に限った話じゃない。もうずっとだ。高校三年間の半年ってのは、でかい。別に、俺が望んでこうしているんだから今までの時間を返せとは言わないが、もうちょっとこう、だな。目新しい変化が無ければいつまでも付き合う義理も無えな、とは思い始めている。薄情と言われたって、こいつ相手なら大して心も痛まん。
 
「無論」
 古泉の声はあからさまに鋭かった。
「闇雲に探してきたつもりもありませんがね。確かに、足を気軽に延ばせる範囲では打ち止めにしたほうが良さそうですね。あの人はあれで結構郷土愛、ではないですが、地域への愛着というのか、昨今の若者にしては珍しいくらいありまして。ここもよく一人で訪れていたようですから、ふらっと帰ってくる可能性も無きにしもあらずと思い、本日はここに決めたのですが。しかしどうやら……」
 そこまで言いかけると古泉はどこか強弁臭い長舌を切り、夕刻前ののどかな公園には不似合いなほど剣呑な雰囲気を放ちながら、並木道をぐるりと見渡し
「ここにも、いませんね」
 自分でもバカらしいといった風情で、主語を省いて笑った。
 
「――というわけで、ご気分が乗らないのでしたら無理して付き合って頂く必要はありませんよ。今までどうもありがとうございました。機会があればまた」
 ……かと思えばいきなり振り向いて捲し立てるものだから、俺は少したじろいだ。こいつ、気づいてやがったな。
 
「……なんだよ、突然」
「おや? 僕に別れを切り出させるためにそんな忸怩たる顔をしていたのではないのですか? ああ、あなたがつまらなそうなのはいつものことですが。むしろ溌剌としたあなたは僕の記憶の限り見たことがありませんね。一体全体何に心動かされるのか、非常に興味があります」
 矢継ぎ早にとんでもなく失礼な言を色々ぶっこまれた気がするが、とりあえず別れを切り出すって表現はやめろ。なんか気持ち悪い。
「なに、焦ってんだ」
 昨日今日の話でもあるまいに、ここにきて噛みついてくるのはどうにも不可解だ。まるで、長い無聊に愛想が尽きたとこっちが零すのを待っていたかのように。俺の態度にかこつけて埒を明けたがってるのはお前のほうじゃないのか。
 
「焦ってなど……。……いえ、」
 反射的に否と言いかけるあたり当たらずとも遠からずだったのか、常に流暢に喋る古泉にしては長めの思案をした。
「――やはりそう見えますか?」
「ああ。かなりな」
 俺としては単純に八つ当たりされたのが面白くないので、答えにはつとめて棘を含ませる。
「……少し気がはやってしまったようです。お見苦しい所をお見せして申し訳ありません」
 それこそ今更のような気がするが、古泉は形ばかりでも恭しく謝罪してみせた。
 こういう振る舞いを見せられると、こいつの人探しが真なのかと判断する材料にしていいものか迷ってしまう。
「……謝んなくていいけどよ。仮に俺が降りたとして、お前一人でこれからもずっと探し続けるつもりか? ――正直展望が開けそうにも無いって考えたんだよ。今だって俺が――」
 唯一の手掛かりに近いんだろうに。
 そう言いかけて、それは驕りじゃないかと慌てて飲みこんだ。
 
「……そんな顔しなくても分かってる。いてもいなくても大事ないよな」
 口にしなかった言葉尻が捉えられたのは、古泉の苦い面を見りゃ明白だった。だが己の価値を正しく自認するのと他人から指摘されるのはまた別の問題で、まして相手がコイツじゃ俺もくさろうというものだ。
「いえ、そんなことは……僕一人ではとても意気が保てませんでしたよ。ここまで僕の言葉に耳を傾けてくれる人がいただけでも助かりました。ですから、もう僕の進退は気にかけず、あなたの好きになさってください」
 お前はどうするんだ、ってさっきも聞いたんだが。
「足を使って成果が挙げられないなら、やはり情報……でしょうね。――僕は探し続けます」
 〈涼宮さん〉を。
「涼宮さんを。あるいは、結論を。いずれにせよ途中で投げ出す気は毛頭ありません。西宮で収穫が無いのなら、関西、関東、日本全域、世界すらも駆けてみせましょう。それでも不足というならば」
 古泉はふっと天を仰ぎ見やり、何故かひどく楽しそうに笑った。
 
「……そうかい」
 ようやくそれだけを返した俺の温度は、古泉が気炎をあげるのに反比例して冷え込むようだった。
「俺は……そこまではやりきれないな」
 誰かさんに倣って偽悪的に苦笑する。
 
「いいんだな。抜けても」
「はい」
 短い応答の後に沈黙が落ちる。これじゃ本当に別れ話みたいじゃないか、とあらぬ経験を持ちだして幻滅する。振り払うように溜息をつくと、古泉も俺から視線を外す。

 それは告げるつもりのない口の中だけの呟きだったのだろうが、俺の耳は聡く拾ってしまった。
「もう、あなたから得られるものも何も無いでしょうしね」
 
 あん?
 
(――ああ。こんな皮肉の応酬しかできなくなっちまったら、潮時だろうな)
 俺は急にすとんと納得した。元々常につかず離れずの関係だったが、不思議と今まで俺はこの男にこんな感情を芯から抱くことはなかった。ただそれは考えないようにしてただけってのが大きいんだろう。あと、こいつが何かしでかしてくれるんじゃないかって淡い期待。胸のほの昏い場所に、見世物小屋を覗く現金な俺がいる。気づけば無為に時だけが盗まれて、俺は店じまいを待たずして飽きてしまったわけだ。
 そうだな、古泉。他人にむかつくってこんな感じだったな。思い出したよ。
 
「……じゃ、もういいか? 俺は帰るぞ」
「ええ、結構ですよ。僕も今日はおいとまします」
 古泉は更に口の端を歪ませた。性悪め。有象も無象も騙せる気でいるんじゃねえのか? ……お前が自分で思うほどそのメッキは上等じゃない。
「あー、そうだ」
 踵を返そうとする古泉の後ろから、俺はわざと抑揚をなくして呼び掛ける。
 
「そのウソ笑い、癖ならやめとけよ。いつか痛い目見るぞ」
 どうせ確信犯だと思っていたから、さっきの嫌味の意趣返しのつもりで言ってやった。
 
 しかし意外なことに、瞬間古泉はひどく複雑な表情になった。それが俺に悪癖を衝かれて業腹したというより、本当に困惑したような色を孕んでいたので、思わず言い放った俺の方が面食らってしまった。
 
「……」
 古泉は口を開かない。
 ややこしい内面に籠るように少し考え込んでみせた後、俺が指摘してやったばかりだというのに、また曖昧に笑っただけだった。
 
(……なんだってんだ)
 その顔は何故だか俺の瞼の裏に居座りやがったので、俺は去りゆく古泉の背中を精一杯両目を眇めて見送った。……あまり熟考はしたくなかった。一方的な罪悪感ってものは、何年生きようが認めるのに胆力がいるもんだ。
 
 そして、俺と古泉は会うのをやめた。