会っている時は少しも気にかけなかった相手なのに、不思議と、いざ会えなくなった途端よくよく考えてしまう。
――なぁんてセオリーは特に無かった。え? だって古泉にだろ? 冗談。
冬から今まで他校の奴とつるんでばかりの寂しい俺だったが、別に学校で一人も友人がいないわけじゃない。そう、わけじゃないんだよ。
……誰に必死で申し開きしてるのか自分でも分からんが、とにかく俺は平凡な高校生活に帰ってきた。とは言っても、古泉と一緒にいた頃がそこまでアバンギャルドな日々だったかというとそうでもない。ちょっと市内を徘徊したり、ちょっと県内も徘徊したり、ちょっと人に尋ねまくってそのつど不審な目で見られたくらいだ。ちょっとだと思いたいんだ。
……そんなこんなで潰していた時間が余暇になった。持て余すかと思ったが、実際高校二年の夏となると俺の意思に関わらず、学業が忙しない気配を見せてくる。だがまあ、俺がきちんと将来設計を立てて小目標に邁進するような性格だったら、最初から素性がイマニ、イマサン知れないような輩と遊んだりはしないのさ。
故に、今日も俺のノートは空白が多い。慣れたはずの一日の課程も、昼飯をかっこんだ後は何故か午睡の時間になってしまう。謎だな。……つまり俺は生来が怠惰なので、己を取り巻く環境が如何様であろうが、受け身気質なのは変わらんというわけだ。
時折不規則になるチョークの音を背景に、現と夢の境にいる俺は教室をぼんやりと見渡す。
近頃妙な郷愁に捕らわれることが、たまにだが、ある。古泉のよろしくない神経症をうつされたのかもしれない。見慣れたはずの面子、見慣れたはずの机を並べた部屋に、何かが足りないような。
だが、いくら検分したところで思い当たる節が出てくるはずもない。ただでさえ人の顔面と名前を一致させるのが不得手な俺だ。現に、俺の真後ろに座っているやつすらフルネームが出てこない。見るからに気の弱そうな男で、一年次も委員長を押しつけられていたらしい。その流れを汲んだか、このクラスでも推薦という名の貧乏くじで委員長を務めさせられている――俺が今パっと思い出せたのはこれくらいだ。……俺がというか、こんなん級友なら耳に入れない方が難しい程度の情報だな。
ご覧の通りの記憶力だもんで、もしかしたら大事な誰かをポロっと忘れちまってるってこともあり得なくは無い。無い、が、その前提にあたる個人を記憶するって過程すらガタガタな俺に、果たしてそんな相手はいるんだろうか。ま、いたとしても、こんなにすっぽり頭から抜け落とす程度の人間なら、俺にとってどうでもいい存在だったんだろうさ。
……どうでもいい、はずだ。だからこの話もどうでもいい。そんな言葉で始末をつけたがってはいるんだが。
――最近俺は、俺の厭世のスタンスは方便の向きもあるのではないかと自覚しつつあった。
……で。
会わなくなったとはいえ、俺と古泉は互いに遠くない地域に住んで遠くない学校に通っているわけで、偶発的な邂逅があるのは避けられない。
なんせ通学路が途中まで一緒だ。駅前で見かけたのは一度や二度じゃない。しかもあいつの学校は駅から近い平地にあるからいいが、俺の北高はそこから伸びる冗談のような上り坂を登らねばならない。まあ、これは誰にも非のない――強いて言うなら立地の悪い高校を選んだ俺にある――些細なことだが、涼しい顔をして登校しているヤツを見るとやはり腹が立つ。期末期間も終わり、いよいよ暑気も本腰を入れてきなすったというのに、古泉の周りだけ優先で冷気が吹いているかの如く爽やかで悠然だった。
会ってしまった時には大概、挨拶くらいしておくかと考える前に向こうが目敏く気がついて会釈してくる。だからこっちも合わせて、それで終わりだ。
所謂「関係を切る」って表現、どういう具体か今一つ分からなかったが、ぷつりと切れるってのはこういうことかと思う。普通の友人同士であったら、それはどんなにか寂しいことだろう。俺がどこまでも他人事でいられるのは、あいつが現実味の無い人間だからだ。
関係は切れても悪いほうの巡りあわせは続いているらしい俺達は、ある日駅前のコンビニでも会ってしまった。
「……」
俺が見つけた時古泉は雑誌を読んでいたから、そのまま店の奥に入ればやり過ごせたろうが、なんとなく物珍しいものを見てしまった気がして俺はしばしそれを眺めた。
SPFいくらのを使ってんだか、日焼けというものをしない野郎だ。その青白さも浮世からずれた古泉の人格を引き立てているし、こいつにはどんな生活感も似合わないのではないかと思う。
古泉がこっちを向いたとき、隈が濃く出ているのに気がついた。元々不規則な生活をしてるんだろう、言動がとっちらかってんのも生活が原因じゃないか? 休みが来るからって不精してっと、あとで死ぬぞ。
自分のことは一切棚に上げて色々と考えたが、結局それらは一言も口にしてやらず目を逸らした。
もう関係のないことだ。どうせこいつには夏休みなんて大した意味もあるまい。春、夏、秋、冬、涼宮、涼宮、涼宮、涼宮、だ。……店内の空気がやけに冷え込んでいたのは、冷房のせいだけではないように思われた。
しかし、それからはしばらく見かけなくなったのもあり、学校じゃ夏期課外と課題が同時に発表されて辟易したのもありで、古泉のことなぞとんと忘れていた。ただ、ときたま教室で頭をちらつく妙な違和感と、虫の声が煩わしかった。それくらいだ。
強制的に思い出すハメになったのは、夏休みに入って二週間も過ぎたころ。
その日俺は図書館にいた。……まさに゛いた゛だけだ。連日の暴力的な暑さは我が家の不快指数にも影響を与えていて、一応勉強しているていを見せなければそろそろ両親から小言が飛んできそうだ、と予測した末の賢明な行動である。……そこまでは知恵が働くんだが、こと学業となると頭の回転がすっかりなりを潜める俺だ。……元々大して回ってもいないだと?
……で、しばらくフリースペースで机の上に課題の体勢だけは整えていたのだが、ノートにペンを走らせる音は一向に響かない。加えてこの時期、図書館といえば勉強を口実に会いたいだけのカップルやグループ学習の奴らの出入りがあるせいで、意識が散漫になることこの上ない。こうなることは全く予想していなかったわけではないし、作業が捗らなかった言い分にしてやろうという腹積もりも少し、あったが。仲間内できゃっきゃと休暇を有意義に過ごす憧憬(憧憬なのか?)を至近距離で見せられるのは、思ったより精神的健康に害を及ぼす心地だった。
逃げるように本棚の隙間に足を運ぶと、嗅ぎなれない紙の臭いが不思議と気分を落ち着かせてくれる。読むのは不調法だが、こういう場で知識に触れたつもりになるのは好きかもしれない。なんてな。大概勉強のできないやつは、真面目くさった環境下に置かれると一瞬やる気を出すが、持続できないからこそ〈できない子〉と呼ばれるんだよ。
客観視の能だけはあると自負する〈できない子〉俺は、聞いたこともない作家の一冊を手に取って目を滑らせたりしてみる。心を衝いてんだかついてないんだか分からん感情描写だな――回りくどい文章は苦手なので安易に一蹴することにして、古めかしい本をぱたりと閉じて顔を上げた。
ら、いた。
古泉が。
「……」
俺が小説書きになったら、こういう行動文しか表現できないんじゃないだろうかね。
「……よう」
あんまりに唐突だったので、まるで気安い仲のような声を掛けてしまう。気張っていない私服姿の古泉は、確かに俺の目の前で腹立たしいほど悠長に立っていた。
「お久しぶりです」
久しく聞いていなかった声は耳通りが良くて、嫌だ。
だが、それより驚いたのは、顔色の悪さだ。
(痩せたか? こいつ)
薄倖を顔に張り付けたようなその表情に、深窓系、という言葉がふいに浮かんだ。
「宿題ですか?」
薄い笑みと事務的な口調だけは以前のまま、古泉は問いかけてくる。
「そんなとこだ」
色々と問い詰めたいのは俺の方だが、どうもこっちから切り込むのも違う気がして、無難な返答に落ち着くしかない。
「お前は」
聞きかけて、古泉の小脇に抱えられた数冊の本に目をやって辟易した。
ちらと見えた書題は「多重宇宙―新量子の観点から―」、「物質・反物質 非対称の……」、……目で追うだけで胃もたれしそうなラインナップだ。
「……それ、涼宮に繋がる情報なのか? 意味あんのか?」
俺の指示語の意味を解した古泉は、さもあらんと首肯する。
「ありますよ。ひいては涼宮さんを含んだ大局の場所にまで、ね」
その出所の分からん自信はなんなんだ。大局ってなんのことだ。説明してほしくもないが説明しろ。しなくていいけど。
「おかげで最近は少々寝不足です。――こんな、出口の見えないことに骨身を削るのは愚かでしょうか?」
聞かれても。自分が発言した内容でくつくつと笑う優男は、美形という底上げを無碍にするほど不気味である。
「……いや。お前らしくていいと思うぜ」
まともに答えるのもバカくさくて、俺は皮肉にもなっていないことを放り投げた。
「それはよかった」
それを意に介さずピントのずれた返しをする古泉は、更に俺の頭を痛くする言を続ける。
「僕は自分で僕らしさというものを保証できかねますからね」
「……」
いよいよ俺が無言になると、
「――自分らしさというものに自信が無くなってきたんです」
いや、言葉を足せとは思ったがそういうことじゃなくて。分かりやすくもなってねえし。
そんなもん、突き詰めたら誰だって分からなくもなるわ。自然と思ったりやったりしてることが積み重なって〈らしさ〉になってくんだろ。
「そうでしょうか」
……だからあ、お前は納得する気が無いなら聞くんじゃねえよ。
下手に頭のいいやつってのはなんでこう……変な融通のきかなさがあるかね。
「お前、小難しい本ばっか読んで疲れてんじゃないか。そっちだって夏休みなんだから――」
友達や女とどうこう……と忠言しようとしたが、この場に一人いる俺では説得力が素粒子ほども無いことに気づき、やめた。
それでも含むところを理解したらしい古泉は、病人のような顔をわずかに歪めて笑った。
病人のような。……俺が気にかける必要も義理もその気も無いことだが、常世など眼中にないような顔色の古泉を見ていて、一つ疑問を抱いてしまった。
「……お前」
「ちゃんと学校行ってんのか?」
古泉は答えなかった。
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