妙な夢を見る。
 そこには、流れのままに貴重なはずの青春の休暇を食い潰している俺はいない。俺のような形をした男が一人、誰かと一緒に遊んでいる、のが見える。
 じっと見やっているとどうも、酷く楽しそうだ。上辺ばかりの無愛想が板についてきた俺としてはお前、なあに調子に乗ってんだ、とやっかみの一つもかましてやりたくなるくらい――他人様から見ればあいつ髪切った? そうでもなくね? のような、少しの程度の違いだったとしても――自分とは到底思えないその浮かれぶりに、俺は面映ゆさを鬱積させる。
 
 夢の中で俺と一緒にいるそいつ、いや、そいつらだ、そいつらの顔を俺は一人も見覚えがない。だが、……もしかしたら、覚えがないと思いたいだけかもしれなかった。輪郭がぼやけてよく分からないんだ。
 ……何故だか、分かりたくないような気も、した。
 
 ……で、おかげ様々で、毎朝目覚めが無駄にセンチメンタルで仕方ない。脳が見せる無意識だか有意識だかの空想の俺が、現実より充実した生活を送っているらしいとは腹立たしい。それに、そんな夢を見る素因が俺の内性にあるのだと思うと情けなくもなる。こみあげる感傷、なんて違う畑の人間が使いそうな言葉がよくよく理解できることになろうとはね。
 こういうことがあるんだから、人の性格なんてどう転ぶかわからんよな、と心中で訳知り顔をしながら、今日も俺は夏期課外のホームルームを聞き流す。
 つもりだったが、今日は担任の入りから少しいつもの朝と様子が違った。
 その理由はすぐに知れた。紛失、あるいは盗難事件の知らせだった。
 部室棟の教室から、備品が一点消えたというのだ。無くなったのは時代錯誤のPC98。パソコン。
 使用されているコンピュータ研究会の部屋のものではない、とすると、実は俺には一つの心当たりがあった。ついでに、全くの邪推も一つ。
 
 忘れもしない去年の一二月X‐Day。俺と古泉はその教室――正確には文芸部室だ――に入ったのだ。……古泉と。また古泉だ。なんだこの呪縛は。せっかく縁を切れそうってときに、俺の脳のメモリを占有するな。
 ……俺と古泉がなぜそこに行ったかというとだ、これまた古泉の弁による。この場所が、古泉が記憶している涼宮ハルヒがいた最後の場所だというのだ。出会って数日の男が力説する、スピリチュアルなこもごもを聞かされる俺の心労を察して頂けるだろうか。このまま疲れた顔が張り付いて癖になっちまったらどうしようかと思ったね。
 それでも古泉は退かず、部室を見に行きたいと言い出した。これには流石に声を荒げざるを得なかったが、落ち着けと言っても自覚のない本人は落ち着いているとの一点張りだ。折衷案として、俺一人が部室棟に行ってみることも提案したが(かなり優しい)、自分の目で確かめたいと聞きゃしねえ。ほとほと面倒な奴と関わりを持っちまったと、俺は巡り合わせを恨みながら古泉を案内した。半ば俺が案内される形で。
 ちなみに、他校生のはずの古泉は俺のジャージを上下着こんで、なぜか俺よりも泰然としていやがった。くそ度胸だ。
 その日文芸部の鍵はかかっておらず、部員も誰もいなかった。俺は内心バッティングしなかったことに胸を撫で下ろしながら、部室を物色する古泉を保護者のような面持ちで見守った。文芸部員には俺が知っている奴がいるはずだ、とも古泉に言われたが、そもそも文芸部が活動しているかどうかすらまったく知らず、知る気もなかった俺は答えようがなかった。
 部屋の本棚はきちんと整頓されていて、俺には縁のない本がずらりと並んでいた。全く活動していないわけでも無さそうだった。だが、後日古泉が文芸部員だという女子生徒を探したのだが、ついぞ北高に在籍していることは確認できなかった。結局俺は今日まで、誰が部に所属しているのか知らないままだ。
 
 ともかく、窓際に古いパソコンが置いてあったのは覚えている。恐らくはあれが無くなったというのだろう。……あんな野暮ったいもの、どうやって無くなるんだ。盗難だとしたら、ロクに動かなそうなPCなんぞ欲しがって学校から盗み出すというリスクを冒す野郎がいるのか。
 そんな酔狂な人間を知らないわけではない。部室に入った日もパソコンを熱心に調べていた古泉だ。やつなら一台や二台くすねるのはやりかねないとは思うが、何故今頃になって、ということと、どうやって持ち出したのかが問題だ。……本人に確認をとるのが最短にして最良ではある。
 ……確認か。俺に正直に話すかどうか分からないが。しばらく用の無かった携帯のメモリの一件を眺め、しばし考える。
 
「はい」
 数分後、俺は廊下の隅で人目を避けながら、懐かしくも胡散臭き野郎の声を端末越しに聞くためにボタンを押していた。
 
「うちの学校でパソコンが一台無くなったんだが」
 古泉が応答するや否や、俺は色々と前略して用件を言った。
「そうなんですか」
「お前か?」
 言っておくが、いくら俺でもこいつじゃなかったらこんな不躾な聞き方はしないぞ。古泉の方も、俺に対して久しぶり〜とか世間話をする気はない声色だからな。
 
「どういう意味でしょう。無くなったとは? 盗まれたということですか?」
「……あー。あの文芸部にあったパソコンだ。お前、魔がさして持ってってないよな?」
「あぁ、そういうことですか。機会があればもっと詳しく調べてみたいとは思っていましたが。あれを僕一人で持ち出すのは困難を極めそうですね」
 相変わらず遠回しな喋りだが、つまりやってないってことか。
「そうか。それならいいんだが」
 それじゃあ、まさかPCに足が生えて逃げたんでもあるまいし、物好きがどこかに持って行ったということになるな。
「確かに、あの部屋の物となると少し気になりますね。それでご報告を?」
「……あぁ? 別に報告じゃねえよ。お前を疑ってかかっただけだ」
「なるほど」
 気を悪くしたようでもない古泉はどうでもいいが、あんなもん持ってってどうするんだか。ま、世の中マニアがいないと回らんからな。
 
「しかし……無くなった、ですか。ふうん」
 ……?
 なんだよ。タメるな。
「いえ。何かご用があればいつでもどうぞ。では」
 ぷつ、という音と同じくらい無機質な声で、一方的に通話は終了した。……しこりを残して。
 
 翌日の昼休み、俺の足はなぜか部室棟に向いていた。古泉が思わせぶるのは一種のチックだから相手にするだけ損だ、とは分かっているんだが、俺自身がなんとなくこの件は気になるし、嫌な夢や妙な既知感覚は未だ継続中だしで、もやっとしたものを散歩で解消するのも悪くないと思ったわけだ。
 
 だらだらと牛歩しているうち、俺はふと気がついて足を止めた。
 昨日の今日なんだから、施錠されてるかもしれないな。つーか、されてないほうがおかしいな。
 なんで来る前にこの考えに至らなかったのか。日和ってんな、俺。……だが今から戻るのもだるい、行くのもだるいとくれば、俺は前のめりのだるさを選ぶね。
 なんて自答してるうちにだらだらと階段を昇りきり、文芸部の部屋前に到着した。……もしかして俺、現場に戻る犯人みたいに思われないよな? と不安になりつつ、期待はせずにドアノブに手をかける。
 ガチャリ。
 
 ……開いた。
 開いちまったな、と思う間もなく、埃臭さが強烈に俺の喉と目と鼻を刺激した。
「げほっ」
 思わず咳込むほどの量だ。おい、掃除しろよ文化部、とつっこみながら部屋を見渡し――
 ――俺は閉口した。
 
 埃臭いのも当たり前だ。部屋は、以前訪れたときとは全く様子が違っていた。
 置かれていた備品、長机等は丸きり無くなっており、例のパソコンが置いてあったと思われる机だけが――大量の埃をかぶって――あった。とても〈部〉として活動しているようではない。ぎっしりと英知が並べられていたはずの本棚に、本は一つも無い。用途を為していない棚に、空しく蜘蛛の巣が張っている。
 今年は部員がいないのだろうか? ……そうだとしたって、半年そこらでここまで様変わりするものなのだろうか。空き教室でも大掃除期間中ぐらいは当番がいるはずだが……。
 
 釈然としないまま、俺は文芸部を後にした。長く居座るには空気が悪すぎた。
 鼻の奥に不快感を残しながら教室に戻ると、俺の席は悪友の谷口が占領していた。その近くにいるのは、普通そうに見えてなかなか癖のある友人国木田だ。
 常なら軽く小突いてどかしてやる所だが、俺は大股で二人に近づくとそのまま質問をぶつけた。
 
「なあ。文芸部屋って、今誰が鍵の管理してるか分かるか?」
「ハァ?」
 谷口は、目の前に言葉の通じない星の生命体が来たかのような顔をした。
「空き教室なんだから、施錠されてねーんじゃねーの」
 当たり前だと言わんばかりの口ぶりをしやがるので、俺は多少イラつきながら、
「盗難があったばっかなのに開放されてたぞ。管理不届きだろ」
「……あぁ?」
 真っ当に反論したつもりだったのだが、谷口は元々おかしな面をさらにおかしい風味にして俺を見る。
「盗難?」
 話の疎通性の難に思わず怒りそうになったが、そこで参考書に付箋を貼っていた国木田が顔を上げた。
 
「へー、盗難? そんなことあったのかい?」
「……」
 俺は二の句が継げなくなった。国木田は俺をからかう口調でもなく、純粋に自分が今知った事件に興味を持っているようだ。
「なら文化部の人達が騒ぎそうだけど……キョンが情報源なんて珍しいね」
 詳しく聞かせてよ、という国木田の楽しそうな声は半ば体をすり抜けていく。
 
 待て。どういうこった。
 こいつらは担任の話を聞いてなかったのか。 ……その可能性は俺自身によって否定される。昨日、谷口と国木田と、パソコンが無くなった件についてしばし雑談したのは記憶に新しいのだから。
 じゃあこいつらが健忘症なのか、俺の記憶違いなのか。……それで済めばいいが、あの異様に人の手が入っていない様子の教室を思い返すと、俺達だけの問題だけではない気がしてきた。――
 
 ――昨日は備品が「消えた」。
 それが、つまり誰かが持ち去ったからなどではなく、まったく文字通りの意味であったとしたら? そのままの意味で、その場から消失してしまったのであったら?
 ……そして今日は、消えたという〈事実〉も「消えて」しまった?
 
 ……なんとも飛躍しすぎな憶測だ、と笑いたかったが。目の前の友人らの裏の無い顔を見ているとそうもいかん。
「……なあ。文芸部って、いつから使われてないんだ」
「さっきからなんだよ、文芸部文芸部って……さーなあ。俺達が入学した年にはもう無かったんじゃねーの? いまどき流行るかよ」
「部のオリエンテーションのパンフレットにも載ってなかった気がするなあ。あまり興味無かったから読み飛ばしたのかもしれないけど」
 
 俺達が、入学した年から?
 じゃあ、あの冬に見た、小奇麗で電気のついていた部屋と本の山はなんなんだ。少なくとも、あの時点では部として活動していたはずだ。……じゃあ、誰が活動していたんだ? ……。
 
 俺の不安は、担任にパソコン紛失の件を聞いてみたことで決定的となった。返ってきたのは「そんな報告は受けていない」との言。他の教師にも聞いてみたが、誰もが口裏を合わせているかのようにそう言った。
 俺一人だけがからかわれているんだろうか? ……それとも、本当に忘れちまったのかよ。昨日は真実だったことを。絶対的に起きた出来事だったことを。……。
 狐につままれたような感覚の中思考していくうちに、俺はもう一つ、絶望的な事実に辿り着いた。
 ……俺だって、何かを忘れてしまっていないという保障は無いのだ。
 ……いや、俺が例外である保障が無い、と言った方がいい。俺だけは正しく世界を認識できている、という拠のない自信は、それを相対かつ正しい視点から肯定してくれる存在がいなければ、自惚れに過ぎないのだから。
 俺が間違っていたのか、皆が間違っていたのか、だ。それとも……。
 
 頭の隅から、またあの景色が襲い来る。
 誰かと一緒にいる俺。誰かが笑う声。誰かと一緒に笑う声。女の声。太陽のような顔で笑う女。
 
 涼宮ハルヒ。
 俺はお前を、忘れているのか。