恐らくは、あいつが涼宮ハルヒという女だ。
 俺は夢に度々出てくるディティールの見えない人間の一人がそいつであると、半ば確信している。立派な根拠など何もなく、良く言って超感覚的、悪く言ってただの思い込み、妄信だ。
 会ったこともない人間と俺らしき男が、夢の中で騒ぎ続けてうるさいったらありゃしねえ。夏休みが課題と課外と他人に食い潰されていく。由々しい、由々しいぞ。
 カレンダーを見る度減っていく長期休暇に、背中から焦りがぬるりと這い出てくる。気づけば大切なホリデイは、残り一週間も無いという有様だった。
 
 想像上の人間に悩まされるなんておぞましいこった。第一、居たらなんだってんだ。俺は今までそいつらと関わらずして生きてこれたんだ。まっとうにな。今更、一つの可能性を提示されたってどうしようもない。……どうしたいのかって? ……どうもしたくねえ。消えてくれ。 してほしいことは一つだけだ。速やかに、俺の頭から消えてくれ。でないと、
 
(でないと?)
 
「……でないと、さすがの僕も生命の維持が難しいでしょう……聞いてますか?」
 
 古泉がいやにねちっこい所作で俺の眼前で手を振るので、俺は我に帰った。
「あ? ……ああ」
「……ですから、あなたにご心配して頂けるほど生活は乱れてはいませんよ。きちんと食事も睡眠も摂っていますし、学業にも支障をきたすようなことはありません」
 言う割には隈が隠しきれてないようだがな。まぁ、口がよく回るだけ元気なようだ。
 
 俺は古泉と、久しぶりの集会を開いている。
理由は勿論、文芸部部室の件についてだ。ついでに、こそこそと何を不摂生して嗅ぎ回っているのか聞いてやらんでもない、と思ったんだが、そこは早くも煙に巻かれた感がある。
 
「んで、お目当ての情報は調べがついたのか」
「それはおいおい話しましょう。それより、あなたが早急に伝えたいという話を聞きたいですね」
 誰が早急に伝えたいなんて言ったんだよ、誰が。これだけを話すために会う気になったのは確かだが。電話だと時間を食いそうだったしな。
「あー……」
 さすがのオカルト野郎相手でも、これはどう話したもんか少し逡巡する。
 
「――うちの学校でパソコンが無くなったって話しただろ。あれが……なんていうか、どうもあの話自体が無くなったっつーか、さ。……次の日行ったら、学校じゃ誰一人その話を覚えてなかったんだよ、どうも。俺を除いてな」
 言いきって、俺は一つ息を吸った。
「……っていう話をしたら、信じるか」
「……それはそれは」
 古泉は面食らったようでもなかった。むしろ、俺が用意してきたのはこの手のネタだと待ち構えていたツラだ。
「では、今日は課外授業に行かなくて良いのですか?」
「いや、今日は半ドンで……って、そこじゃねーだろ今」
 こいつは時々おちょくりにしては半端で、天然にしたら寒気がすぎる返しをするので油断ならない。がっつり直接会うのはなんだかんだで久しいはずなんだが、この男と応対するには時間以外のところに大問題があって、そこに注力するため小問は省略される。大体サボりまくってそうなお前に言われたかーない。
 
「――〈話〉が消えた……ですか。いささか衒学的表現ではありますが、幸い僕が考えている仮説もそういった類のものでしてね」
 へー、ま、そうだろうさ。青白いながら余裕綽々、意気揚々、憎さ余らず憎さ百倍のその秀顔を見れば分かる。
「……そうかよ。じゃあ電話したときにはピンと来てたくせに、俺には隠してたってわけか」
「いえ、初めから僕の調べ物の進捗を逐一報告しても良かったのですが。現時点に至るまでのあなたに言って、あなたのご記憶に留めて頂けたでしょうか? 否ですね。どうせ聞き流される話なら、その間に自分のことを進めたかったもので」
 ……筋は通っている。俺がこいつの話を耳から流さずに聞くのは修練がいるし、古泉だって俺に内々をあけすけに話す義務などないのだ。
 
「……分かったよ。できるだけ覚えて帰る。できるだけな」
「そうしてもらえると助かります。こちらもできるだけ噛み砕いて話しますので」
 小馬鹿にされている感のある発言を意図的に聞き流し、俺は古泉にさっさと本題に入れと顎で促した。
 
「まず、僕達の周辺――あるいは世界規模で起きている事象について、私見を述べさせて頂きます。あなたをもってしても、先程『話そのものが消えてしまった』と言わしめたように、非常に奇妙なことが起きていると言えるでしょう。これらの原因等は全て、推測するしか現時点の僕らには手立てがありません。何せ、肝心の原因の手掛かりとなりそうな事柄や人は、あなたも体験されたように『消えた』としか言いようがないのです」
 それって、……涼宮ハルヒや、関係する人物達のことを言ってんのか? 確かに前に聞き込みをしたときも目ぼしい収穫は無かったが、あれは――
「察しがいいですね。別の話だ、とおっしゃりたいのでしょう? そうかもしれませんね。涼宮さんの件は失踪事件として処理すべき問題であり、この件とは関わりが無いと。しかしあの部室が涼宮さんと、いえ、僕達と遠からぬ関係性があったのは事実では? ――誰一人、涼宮さんのことを覚えていないのは何故でしょうね? 文芸部が昨年まで存在していたことを、あなたの学校の人間が忘れてしまったということに似ているとは思いませんか?」
 ……。
 似てない、とも言えない。か。
「そうでしょう。これら複数の案件の根が繋がっているとしたら、わずかながら僕達の考えにも進展があると言えます」
 じゃ、お前の考えるその根ってのはなんなんだよ。
「――そうですね。どう表現しましょうか。――まず、この宇宙が多重である、という仮定を受け入れて頂きたい」
 待った。……まだ分からんが、何やら今後が思いやられるぶっとび論の予感がするぜ。
「仔細は諸説ありますが、おおよそ宇宙は一空間ではない、とする仮説です。僕達にも馴染みのある平行世界、パラレルワールド論もこれに属します。例えば、この銀河の観測不能な光年の先には地球と全く同じ星が存在していて、自分とほとんど同じ生活を送っている人間がいる、とかね」
 ああ……。要は「俺」とやらが言った話を信じろってことか。
 
「概ね、そうです。あなた――失礼、ジョン・スミス氏という個人から与えられた情報を受け入れる、というのは僕としては決して穏やかではないのですが、ね。これはつまらない感情に起因することなので置いておくとして」
 ほう。お前が感情を持ちだすとはなかなか愉快じゃないか。
「ええ、まったく愉快ですよ。彼が言っていたことは――今だから、ではありますが――信憑性は重々ある、と言えるでしょう。それを否定したがっているのは、まったく僕の心象によるものですからね」
 なんだ? いきなり常軌を逸したトンデモ野郎が出てきたもんだから、電波君担当のお鉢を奪われた気にでもなったのか?
「まあ、そうです。――簡潔に言って、僕はあなたに嫉妬しました。しています」
 
 ……。
 いや、いやいや、俺にじゃねーだろ。
「さて、嫉妬したのは確かだと思うんですが、その内訳が分からなくて困っているのですよ。あなたが現れたことで涼宮さんに男として明確に、順位を自覚させられたことに対してなのか、」
 俺を無視して一人の世界に沈んだ古泉は、顎を指で軽く叩きながら言った。
「僕があらゆる万象の、物事のトリガであり得ることはないのだと、突きつけられたことに対してなのか」
 
「……なんだそりゃ」
 一瞬だけ、深く遠くを見ているかのような顔になった古泉に渋面を突きつけてやると、すぐにいつもの軽薄な笑顔が戻ってきた。
「なんということでもありませんよ。その時の僕はそう感じてしまったというだけです。――話が逸れましたね」
 濁った二酸化炭素を空中に吐きだし、古泉は本題に戻る。
「宇宙が一つではなく、現代の通説では計り知れないものが広がっていると受け入れれば話は簡単です。どんな不可思議な現象にしろ、
僕達の知らない、知りようも無い力が働いている、と考えればいいのです」
 ……それ、思考停止って言わないか?
「はい。こんな馬鹿げた話より信頼がおけて納得のいく解釈を探すべく、今まで腐心してきたと言っても過言ではありません。しかし力及ばず、今全ての事柄に結びつけられる答えは一つ、『超常現象は存在する』ということなのです」
 そりゃあ、それなら涼宮の件も部室の件も説明がつくだろうが。ワイルドカードじゃないか? それが許されるならなんだって「不思議な力のせい」にできちまうぞ。
「それに、それじゃ実質涼宮探しなんてお手上げじゃないか。宇宙人にでもさらわれたってんのか? そんなら本当に、俺達にできることは無くなっちまうよ」
 宇宙船に乗って見知らぬ宙域で手に汗握るスペース・オペラができるわけでもなし。涼宮がいるっていう希望を抱くなら、そいつは今も世界の地図に載らないような秘境を探検してるとでも考えた方がマシだろう。
「いえ、……『彼』の話を信じるならば、推論を立てることくらいはできそうです。並行宇宙ないしは惑星が存在するのだとしたら、『彼』の例を見るに、互いへの移動手段があるようですから。宇宙人にさらわれたというのはあながち間違いではないかもしれませんね」
 言っている古泉もどこか投げた口調で微苦笑を浮かべている。無理もない。
「俺はそれでもいいが、お前は困るんじゃないか? 宇宙のどっかに行っちまった奴をどうやって探すんだよ」
「さあ、どうすれば探せるのでしょうね。目下の目的はその手段の発見ということになりますかね? これでも僕は匙を投げる気はないんですよ?」
 ……じゃあ、せいぜい頑張ってくれ。俺は投げる。
「――とまあ、この通りほとんど手も足も出ない状況なので、違う部分も考察してみました。と言っても、こちらも僕の主観が多分に含まれてはいるのですが」
 ほう。期待はしないが言ってみろ。
 
「この世界に全く想像もつかない超次元的な力がある、と考えるのは楽ですが、非発展的なので。あなたの話と今までの涼宮さんの近辺情報の扱いから、共通点があるのではないかと」
 共通点?
「世界、いえ、もっと限定的な社会にとって最低限つじつまが合うように情報が操作されている可能性がある、と考えます」
「……どういうことだ?」
「多数の人間にとって説明に齟齬が発生するような事象――人が消えた、などとというのは顕著ですね――そういったものは自動的に修正されている、という考えはできないでしょうか」
「修正……?」
「まず、涼宮さんのことを誰も覚えていないと言う点から奇妙なんです。僕の方がおかしいのだと言われてしまえば反証できません。あなただって他人事ではないはずです。今やあなたの学校で紛失事件があったという事実は消し去られ、あなたがどんなに主張したところで妄言ととられてしまうのではありませんか?」
 ……そうだろうな。けど、なら、なんで今になってこんなことになってるんだ?
「それはなんとも言えませんが……今まではそこに干渉せずとも、情報の統制が取れていたのではないでしょうか。その部室に気を向けていたのはあなたと僕だけでしたからね。その状況になんらかの変化があったのか、あるいは他の部分で……何か変わったと感じることはありませんでしたか?」
 
 変わったこと、と聞いて、俺の脳裏をあの夢がちらついた。
 最近までは無かったことだ。同じような夢が毎日続くことも珍しいだろう。……だが、正直に告白するのはなんだかためらわれた。それは完全に認めてしまうことに等しいからだ。こいつの意見を、なにか俺の及びのつかない恐ろしいものを、……涼宮ハルヒという存在を。
 
「いや、……特に」
「……そうですか」
 言葉に詰まった俺をどう見たか、古泉は小さく息を吐いた。
「僕はあります」
「え?」
 知らず目を逸らしてしまっていた俺は、少し驚いて古泉を見た。
 
「先日、やっと涼宮さんに会えたのです。夢の中でね。これは会えたとは言えませんか? あは。元気そうでしたよ。とてもね。僕が西宮に来てから、あんな楽しそうな涼宮さんは見たことがありません。そうだ、あなたも一緒にいたんですよ。一緒に。あ、涼宮さんの方と一緒にね。僕はどうしても、夢の中に自分の姿を描けなかったのです。そこであなた達と談笑する僕を。どうしてでしょうね。いつだって渇望しているのに」
 
 どこか生気の無い薄ら笑いを浮かべながら、古泉は湧き出る泉のようにしゃべくった。その様に、俺はぎくりとした。見透かされているんじゃないかと思ったからだ。夢だって? お前もなのか。
 
「毎日そんな夢を見るんです。一つ残念だったのは、はじめ僕は涼宮さんの顔を正確に思い出せなかったんですね。否が応にも記憶から零れていたことに怒りを感じました。けれど、毎日涼宮さんが会いに来てくれる。おかげで段々と思い出せてきた気がするのです。……涼宮さんがいた日々。誰に否定されようともこれは、これだけは事実なんです。涼宮ハルヒという人間が、存在した。それが誰かの、なにかの都合で無かったことにされるというのならば、僕は……」
 
 ふいに言の葉を止めた古泉は、突然こいつにはまったく似合わないような、ひどく子供っぽい顔で笑った。
 ……俺は背筋が寒くなった。脈絡のない言動もそうだが、その笑顔が不気味だと感じたから。古泉の目は俺を見ていない。言葉さえ、俺に語りかけているのではないのかもしれなかった。
 お前は今なにを考えたんだ。
 
「――そう、思い出せてきた、のです。事態は完全に停滞しているわけではありません。そのはずです。なら、まだ打つ手はあるかもしれません」
 その「手」ってのは、事をややこしくするようなもんじゃないだろうな。
「さあ、まだ僕も方針を決めかねていますが、必ずや進展へのきざはしになるようにしてみせますよ。付き合って頂けるのなら是非ご助力を願いたいですね」
 古泉は心身不健康な思春期の子供のように笑っている。まあ俺らは思春期の子供なんだが。
 そういやこいつ、ろくな生活してないんじゃないっけ。体内時計の狂いは自律神経に影響するって言うし、このまま放っておいたら、殊更やばい行動に走らないだろうか。
「……」
 などと沈黙していると、古泉は俺の返事を待たずに口を開いた。
「例え、相手が我々の思考が到底及ばない未知の物体、いや物体ですらなかったとしても――何も見なかったことにして日常に戻るなど、今更僕にはできないんです。僕が涼宮さんを忘れていない意味はあると思いたい。いえ、無いのならばこれから作るまで」
 長たらしい主張はいつにも増して鬼気迫っている。カルトの勧誘員にでもなったらご結構な成績をあげられそうだ。
 気付けば辺りは長い昼が終わり、すっかり夜の帳が降りて、夏の熱気がほとぼりを覚ましつつあった。
 
「今日はありがとうございました。僕も自分の考えを整理できました」
 仰々しく礼をされても、ビタイチかしこまった気分になれないな。――情報を得るだけ得たら自分語りを始めるという、デートだったら次はない男の典型のような行動をした古泉は、なんだか勝手に満足したらしく、にたにたと笑いながら俺に別れを告げた。その足取りがどこか覚束ないことに気づいてしまい、俺は少しだけとまどった。つまり、話が通じるうちにこいつに釘を刺しておくべきか、否か。……やめた。
 俺は心の卑しいところで、こいつの言動を俯瞰していた。面白くはないが、暇潰しにはなる。そうだ、俺はこいつの親族でもないんだから、手綱を握る義務は無いんだ。せいぜい適度に観察させてもらうさ。
……それに。
 本当に古泉の企みで何かが変わるのなら、それはそれでいい、とも思うように俺はなっていた。……むしろ、
(変わってくれたほうが、)
 ……ばかな。
 あいつ一人で何ができる。俺は何を期待しているんだ。
 
(俺は、)
 
 やめろ。ダメだ。
 それは言葉にしたらおしまいなんだ。それは何もかも――俺の生きた証、感じたもの、これから生きる日常全てを――否定する。
 木偶のように立ちつくす俺の近くで、見知らぬ親子が揉めている。駄々をこねる娘を、母親が諫めていた。
 ――やっぱりあれが欲しい――こっち買ってあげたでしょ――とりかえて――ダメよ、我慢しなさい……
 
「やだ! あっちのほうがいい!」