(俺は俺でやってきたんだ)
 
 頭では分かっているのに、夢はひどくなる一方だ。
 
(……、……)
 どこからか耳通りのいい声が聞こえる。俺が振り向くと、そこには涼宮ハルヒ。とあいつら。と〈俺〉。
 誰も俺に話しかけてはいないのだった。そこでは、俺は真の意味で傍観者になれた。だがどうしたことだろう。思ったほど嬉しくない。別に、俺が輪の中にいないからくさってるわけじゃない。ただ、そこにいるのは見ず知らずとも言えず、かといって見知りあいとも言えないやつらで、なんとなく俺自身がそこにはまっていないという状況が気にくわないような、そんなような。あ、これってくさってんのか? いいけどよ。
 
(……、……)
 ああ、うるせえ。内輪で騒ぐのは勝手にすればいいが、俺のパーソナルスペースでやらんでくれ。一見クラスの中心的男女がわちゃわちゃやってるようで気分が悪いんでな。
(……)
 や、おまえらは中身がクラスの中心どころか、はみだしすぎて校舎から手足抜けてるようなもんだがな――
(……)
 そう、特にお前だよ、お前――
(……によ、なんか言いたそうね)
 ――ああ、お前への小言を貯蓄しすぎて一財産は築けそうだ。
 
(キョン)
 
 ハルヒ。
 
「……」
 というわけで、今朝も目覚めは最悪と言っていい。早くから元気な蝉の声と日差しが遮光された窓から入り込み、俺は強制的に覚醒する。
 ……さっきまでいた世界が現実より現実めいている。とさえ思ってしまうのがうらめしい。
 ずっと気分が悪い。ここにいる俺が俺なのに、遠くにいる俺も俺で、俺は俺であるはずなのに俺も俺で、ああ忌々しい! 俺はいよいよパーになっちまったんだろうか。まだ若い身空だと思ってたんだがな。まあ、霹靂的大病に年は関係ないが。
 ぎりぎりと体力を削る夢に蝕まれ、俺の残機は少ない。
「何が涼宮ハルヒだよ、……」
 考えると辛抱たまらなくて、何かに心折られてしまいそうで、俺は声を絞り出したのだが、負け言は独りきりの自室に空しく響いた。
 この時点で気力は無いに等しかったが、今日という日はこんなもんで音を上げている暇は無かった。――頭を痛くするどころではない出来事が起こったのだから。
 
 異変が始まったことに気付いたのは、課外授業最終日の一時間目が終わった休み時間だ。この日をこなせば終日休みの日が終わりまで続くとあって、周りはにわかに活気づいていたが、俺には対岸の祭りにしか思えず。出席だけは欠かさないのも特にこれといった理由があるわけでもなく、まして勉学に意欲があるはずがないのはこれまでの文脈で多分に汲み取って頂けるであろう。
 
「キョン、お前あのチェンメ回ってきたか?」
 谷口がいきなりそう切り出してきたので、悪い眠気の取れない俺には宇宙語に聞こえた。
「……チェーンメール?」
「これだね」
 腕をつっかけたまま一見で興味のない風体をかもす俺に、親切にも国木田が脇から携帯を見せてくれた。その画面には一斉送信された形跡のあるメールが一通。
 俺は半開きの眼でそれを読んだが、文の意味を解したところで完全に、一瞬に意識が覚醒した。
 
〈緊急:私は涼宮ハルヒです。私のことを知らない者は、このメールを回してください。知っている者は、直ちに以下の番号に連絡をください〉
 
 液晶に浮かんだ無機質な文字の羅列に、どてっ腹に蹴りを入れられたような気分になった。
「ハルヒ……」
 落ち着け、違う。涼宮じゃない。もっと現実に即した候補者がいるだろう。こんなことをするのは。
「なんだよ、知ってんのか?」
 谷口は自身も携帯を取り出しながら、どーしたもんかななどと呟いている。
「……いや、……知らねえ」
「ふーん。んー……やめとくか」
「え、珍しいね。電話しないの? こういうとき、騙されてもいいから行動する主義じゃなかったっけ?」
「や、そーなんだけどよ。なあんかこの名前聞き覚えがあるようなないような……とにかく第六感がこいつはやめとけって騒ぐのよ。きっと実在したとしても、とんでもねえ地雷女だな」
 ……待て。聞き覚えがあるようなないような、だと? お前ら、冬に聞いた時には知らん顔しやがっただろうが。くそ、それも忘れたってのかよ?
 状況が変わってきているのは間違いない。俺の夢、こいつらの記憶、つまり、涼宮ハルヒについて隠されていたことが。
 ……それも気になるが、今は連絡をつけて根掘り葉掘り魂胆を聞き出すのが先だ。早急に。迅速に。誰に?
 あいつに。
 
「俺だ」
 例のメールに書かれていた番号にかけると、俺は最大級無愛想に一言だけ告げた。
「なんでしょう」
 電話口に出たのは、寸分違わず予想していた相手だ。
「なんのつもりだ」
「質問の意図を把握しかねますが。僕は今まで通り、『涼宮さん』を捜索しているのです」
「粗っぽいやり口になったもんだな」
「それは粗っぽくもなりますよ。これだけ時間が経過すればね。それとも、あなたの心象にもよくありませんでしたか?」
 ち、図星だよくそったれ。俺まで騙されそうになっちまった。
「――こんなもん十いたら九がイタズラでかけるやつだろ。男声が出たらさぞがっかりだろうな」
「それは向こうもこちらの記載した要綱を無視して行動に及んでいるわけですから、リスクはイーブンでしょう。僕は涼宮さんを知っている者だけが電話するようにと但し書きしていますからね。このためにわざわざ新規に機種契約までしてきたのですから、僕の方が物理的にも労力を払っています」
 お前の事情なんざ話されてもわからんだろう。それよりどうなんだ。一応聞いてやるが、涼宮の知り合いは現れたか?
「今のところは、いいえ、です。付言しておきますと、本件の目的はそこにはありませんから、期待値はハナから持ちませんが」
 違う目的があるのか? 俺だってこれで成果が上がるならとっくに涼宮の情報に行きあたっているとは思うが、この前までと今ではまた環境条件が違うかもしれないから分からない。
「そこです。あなたもいいかげん認めてくださったようですが、世界に何がしかの変化が訪れています。攻め込むなら今だと思いませんか? 今まで押してもリターンの無かったことも、違うリプライが得られるかもしれません。零と一は遥かに違います。涼宮ハルヒという名を『知らない、全く聞いたことが無い』と、『知らないが、聞き覚えがあるかもしれない』では……価値が大変に異なるのはおわかりでしょう?」
 ……そうだな。それは俺も今日までの道程で分かっているさ。
「もう一つ――こちらは目がどう出るか分かりませんが――試したいこともあります。もし、この件が今までの涼宮さんの案件と同じように消されてしまうのならば希望は断たれるでしょう。しかし、そうでなければ……」
 本物の涼宮ハルヒが出てくるやも……ってか?
「――その可能性を確かめるために、です」
 ……なるほどな。やり方は気に食わんが、今までより不思議と共感を覚えるぜ。
「それは僕の如何というより、あなたに変節があったからでしょう? 心当たりはご自分が一番分かっていらっしゃるとは思いますが」
 俺の夢のことまで暗喩しているわけではないんだろうが、心臓がちくりと痛んだ。俺はどうしてこいつに対して、俺の内包する涼宮を知られることを恐れているんだろう。後ろめたいから? なぜ?
「……っと、休憩時間終わるから、切るぜ」
「はい。芳しい報告ができるよう努めます」
 それはお前の努力次第じゃないと思うが――揚げ足を取るのはやめておいた。単純に予鈴が鳴ったからだ。
 
 三時間目の授業中。配られるプリントにみっちり印字された計算式に目が滑りつつ、後ろに回すために振り向いたときだ。
 俺の後ろの席に、誰も座っていない。
 あれ? さっきまではいたような。真面目で物静かな委員長が。
 暑さに負けて早引きでもしたのかと思いながらも、俺は余ったプリントを教卓に戻し、文房具の不規則な音だけが響く教室で机に突っ伏すことにした。
 三時間目が終わり。俺はふと後ろを向いたが、机の脇に鞄はかけられていない。どうやら本当に早退したようだ。
「こう言っちゃなんだが、委員長って影薄いから、いなくなってもすぐには気付かないよな」
 流れで俺の席の周りに集まった谷口と国木田の前でうっかり零してしまったのだが、これが思わぬ結果になった。
「委員長?」
 谷口はぽかんと俺を見ている。……嫌な予感がするんだが。お前ら、最近ことごとく俺と話が合わないな。
「……来てただろ? 今鞄無かったからさ」
 暗澹の予知を抱えながらも、俺の後ろの席を指さしてやる。
 
「は? おいおい、そこに座ってんのは――」
 谷口はそう言いかけて、息を飲んだ。
「……あれ? 座ってんのは……」
「……なんだよ」
 頼むからはっきりしてくれよ。これ以上俺を不思議現象に巻き込まないでくれ。
「あれ? 空席じゃなかったっけ? あ、でも座ってたっけ……あれ? そういえば誰か……」
 おいおい、国木田までやめてくれ。
 やめてくれ。俺の違和感と同じことを言うのは。
 ――そう、俺も感じてはいたんだ。俺の真後ろの席。そこには誰かが「いた」。俺の頭を痛ませる誰かが。……ん、じゃあさっきまで座っていた委員長はどこに行ったんだ? 他の席は変わりないようだし……。
 混乱する俺のポケットの中で、携帯が震えた。悪い、と告げて席を立つと、俺は廊下で発信者を見、急いで通話ボタンを押した。
 
「古泉、」
「どうですか」
 どうもこうもおかしなことに……あ? どうですか、だと?
「――さっそく変化が現れましたか?」
 古泉ははっきりと高揚していた。俺が学校での次第を話すと、電話口の向こうで押し殺した笑いさえ漏らしたように聞こえた。
「やはりね。すぐにも僕らのアクションが揉み消されるなら大変でしたが、形知れぬ先方がそうしない、あるいはそうできない状況になったのか……どちらにせよ好機です。この調子で、涼宮ハルヒという表象をどんどん流布していきましょう」
「って、ちょっと待て。俺の話全部聞いてたか?」
「はい? なにか不足がありますか?」
「や……俺のクラスメイトがいなくなっちまったかもしれないって。涼宮の件と連動してるのかはわからんが」
「聞こえていましたよ。今のタイミングで何かが起こるという同時期性からして、それ即ち涼宮さんと根因を同じくするものだと考えて差支えないと思います。もしも人間が消失したというのなら、それは涼宮さんの情報が再び世に現するに必要な事項、必須な過程ということでしょうね」
 古泉はカンペを無感動に読み上げるように淡々と意見を述べた。
「じゃ……どうなるんだ?」
「どうなる? なんですか、歯切れの悪い。涼宮さんがいない世界ではその方はあなたのクラスメイトとして存在していられた。しかし、いる世界ではそうはいかない。そういうことでは?」
「え……」
 じゃあ委員長は……どこか違う場所で生きていることになったか……最悪死んだってことなのか?
「ええ」
 ええ、って……。じゃ、……どうにか……しないとじゃないか?
「どうにか、とは?」
 ……わかんねえけどさ。ほっといたら友人だって家族だって――
「情報自体が置換されるのですから、僕達が気を揉んだところでできることはないですよ」
それは……正論かもしらんが。俺達がこのまま涼宮のあれこれを続けたら、被害をこうむるやつがまた出てくるやもってことなんだろう?
「そうですね。それがどうかしましたか?」
 ……。
 
 通話を終えてから、俺の耳の中では古泉の平素とまったく変わりのない声がハウリングしていた。
 俺達が今までやってきたことの結実が見えるか、水泡に帰すかという分水嶺だ。殊更古泉としては、必死にならないほうがおかしいのだ。
 だが。あいつは涼宮だけを見つめすぎて、胸中の歯車、正常な循環をこなすバランサー、のようななにか、をぶっ壊してしまってはいないか。長らく病人のような色合いだったので忘れていたが、古泉は元々もっと憎たらしいぐらいに生気溌剌としていたのだ。いや、横溢さは今の方がよりあるのだが、どうにも不健康な意気だ。
 しかし俺には、それを受け入れてどうすればいいのか見当がつかない。改めて俺は行動に移す力がおう弱であった。かといって、もし委員長がこれから先周りの記憶から消えたままであったなら、まったくまんじりとせず、ともできない。自分でもどうしたいのか、さてはしたくないのか、分からない。
 四方が塞がった俺は、問題のもっと根ざしたところに思考を飛ばしてみることにした。
 ――大体、涼宮ハルヒは光陽園学園の生徒だ。それがなんでウチの学校に影響が出る?
 ……。……いや。
 
 本当に、そうなのだろうか。
 ……本当に涼宮ハルヒは古泉の言う通り、光陽園学園に通う高校生で、気が強くて黙っていれば美人だがめったに笑わない、腰まで届くほど長い髪が特徴的な女、なのだろうか。
 
 俺がこんな、そも大前提のことに疑問を抱くのには、惰弱だが理由がある。
 俺の夢に出てくる涼宮が、古泉が壊れた蓄音器の如く輪唱し続けてきた「涼宮ハルヒ」と同一の人物だとは、俺にはどうしても思えないのだ。
 主体の極めて得体の知れぬ夢幻を信ずるか、客体の得体の知れぬ男を信ずるかは正味どっこいどっこいだが、俺は自意識の帰結として僅かに己の方を信じている。いざのいざとなって他人に依拠する人間はよほどそいつを信頼しているか、考えることをやめた奴だけだ。
 うまくは言えないが、俺の見ている涼宮は違う。ああ、涼宮は涼宮で別人とまではいかないのだが、同じ情緒を蓄積させたとは思えない。僅かなようで大きな違いがあって……うるさいな。そう、いくら唸って言葉をひり出したところで、意味の通らない空言さ。
 だが、これだけは確として言える。俺と古泉の見ているものは――一致していない。
 だから、涼宮が本当に現れることがあるのなら――それは俺にとっての涼宮なのか。古泉にとっての涼宮なのか。
 ――それが全くのブラックボックスである、ということ。