放課後。長きに渡って夏期休暇を浸食した課外授業から解放されたとあって、生徒は抜けなく喜々快々といった様子だ。そんな歓喜の渦をかき分け、俺は部室棟に向けてひた歩いていた。目的は語るべくもなし、あることを確認するためだ。
(俺を信じるのなら、あそこは……)
 ジョン・スミスは北高の文芸部室が涼宮以下五名から成るSOS団の活動場所だと言った。
 俺の夢はどうやらその筋書きに沿って展開されているようだ。だがようよう考えずともこれはおかしなことで、涼宮と俺が同校の同教室の学友であるのなら、古泉も北高生徒でなければ話が通らない、となる。そもそもそれらは――存在を認める譲歩が必要だが、この場合認可したとしよう――いわゆるパラレルワールドで成立した全て、であって、俺達が暮らす今現在のこの時空で涼宮と俺がクラスメイト、加えて怪しげな活動をしていたとあってはややこしいことになる。情報が操作されたらしいこの世界は、操作される以前の状態では古泉と涼宮が同校の近しい仲だったことを、主に古泉が示唆している。しかし、例えばそれも操作された結果だと言うのなら、それ以前にSOS団が存在している歴史があり、改変され、またそれ以後の涼宮が光陽園に通っていた歴史も改変され……二重の改変が行われた結果が現在の俺達、となってしまう。前述しただけでも意味がわからんな。
 だというのに目下、これ以上に状況が込み入っている。改変される前の俺達の軌跡がいかな真実であるかは、もし涼宮が現象するのならば明かされるかもしれんが、今のところ北高に関連する涼宮と、古泉に関連する涼宮、どちらが現象しようとしているのか分からないのだ。
 当然、古泉は同校に通う涼宮に会いたいのだろう。そして、俺もそうであると思っているはずだ。
 
 ……よもや俺が、俺中心の妄想のような記憶に依って涼宮像を描いているなどとはおくびにも考えまい。俺だって思いたくもないんだがね――
 
 ――涼宮が北高にいて、俺と、仲間といる一つの風景を、現実にしたいとさえもの思ってしまうなんて。
 夢がひどくてかなわないのだ。瞼を下ろすと、油断したなとあざ笑って踊るんだ。なあ、畢生知らずに死んでしまえばこんな気持ちにはならなかっただろうが。お手上げだ。認めよう、俺の矮小な高望みを。なあ、楽しそうな俺。楽しそうな涼宮ハルヒ。……涼、宮、ハルヒ……。
 
「いてっ」
 ぐろぐろと考えていた自業の仕舞で、俺は階段の中ほどでつっかかり、危うく作らなくてもいい怪我をするところだった。
(……くそ、確かめることだけ考えろ)
 見たいのは部室の様子だ。どんな些細であれ変化していることを望む。次第によっては、この北高がどんな涼宮のためにどんな方向へ向かっていくかを解する手掛かりになる。かもしれない。できれば、委員長のように消えてしまった情報があるならそれも取り返せるような欠片があればいいんだが。
(涼宮の情報を隠すために廃部ってことになったんだとしたら、条件が変わった今は復活してるかもしれねえ。だったら部屋のもんを物色すりゃなにか……)
 進展が、と思考しかけたところで俺は足を止めた。
 ――ついでに、頭の回転も止まってしまった。
 
「……は?」
 部室棟の三階に到着した俺の視界には、何年も人の出入りが朧になってしまった文芸部が飛び込んでくる。はずだったが。
 
 部室は、無かった。無くなっていた。
 ……いや、部室がではない。
 部室を取り巻く空間そのものが、すっぽりと。黒々と穴を開けて。消失していた。
 
「は……」
 不意打ちが過ぎて少し笑っちまった。いよいよもってファンタジイ、非・日常の領分だ。
 漆黒というのは基本的に人工色だが、そうとしか形容できない色味の大きな穴は、ちょうど真円の隕石が衝突したかのように壁や床を切り取っていた。廊下に殿と鎮座するアウター・ゾーンに、ぽつぽつと行き交う文化部の生徒は見向きもしない。
 ……つまりそういうことなのか。
 ……なんだよ、もう、どういうこったよ。自分で考えろってことか。この前まで教え込まれた体系の中で暮らしていた小市民にゃ敷居が高えよ。
 
 唾を嚥下すると、俺は半ば脊髄反射のように携帯を取り出していた。……こんなときいのいちに頼れるのがあの野郎というのは甚だ遺憾だが、背に変えられる腹が無い。
 コール音の一ループさえじれったく感じる。早く出ろ。で、こじつけでいいから理屈をつけろ。早く……。
「……『電波の届かないところに……』」
 だあっ、こんな時に! 何してやがる!
 歯噛みして発信を切り、おぞましい暗黒穴を睨みつけたって、俺ごときの眼力で好転はしない。……触ってみるか? いや、やめる。普通に嫌だ。普通に怖い。罵られたってやらないね。ほら罵倒しろよ、ただしこんな事態にも勇猛果敢に立ち向かった実績のあるやつだけな。
(あいつ、今日は学校にいるのか? ……来てなさそうだ)
 一応は夏休みだし、涼宮コールセンターなるものを作ってしまったのだから、つきっきりで家に籠っていてもおかしくない。が、他に行く場所の見当がそこそこの付き合いにも関わらずつかないので、光陽園学院に行ってみることにするか。……て、あの進学校様は守衛もいるし入れない。校門前で待ち呆けるしかないか。だるいが、さすがに〈だるい・不等号小なり・やばい〉だ。
 方針が決まりゃ善だろうが悪だろうが急げ、だな。こんな不思議ブラックホールをいつまでも見てたら具合がよろしくなくなる。
 脇目も振らず階段を駆け降りる。その間にもリダイヤルしてみたが、応答は変わらず。一段飛ばしで一階に着地し、その勢いで走りだす。上履きがうまく下駄箱に収まらなくても気にしなかった。下校中の生徒はまだまだ盛んだというのに、俺の見ている世界にはいっせいに無視を決め込まれているような被害妄想の心地がする。
「お、キョン」
 後方から聞き知った悪友の声がするが、無視。
「おい、……」
 何か言っているが、無視。
 ローファーをつっかけたまま、外へ。俺はこんなに心中乱されているのに、天道が変わりなく眩しく目を突き刺す。
「っ、……」
 薄くなった体内酸素と相まって視界がくらみ、たまらず双眸を瞬かせる。
 
「……?」
 息を整えても、なかなか光が戻りきらないので、もう一度瞬き。
(……?)
 まだ戻りきらない。もう一度。
 
「……、……」
 まだ戻らない。が、わかった。
 俺が見えていないせいではなかった。
 ……街が。
 
 不気味なほど教科書な深さの青の空に、整った入道雲が浮かんでいる。そんなこと以上に背筋を寒くさせるのは、……空のあちこち、いや、景色のあちこちに黒い穴がぽっかと空いているのだった。ちょうど先刻見た穴と同質らしき穴が。
(……なにが、)
 起こった。頭から血が引いていく、一どきに喉が乾いていく。
(関係があるのか)
 涼宮ハルヒと。……違う。俺達がやったことと。
 黒点は当然のように、そこかしこに漫然と――退屈さえ滲むように――在った。今までにっちもさっちもお高く止まっていやがった分際で、随分と唐突に心臓に負担なことをしてくれるじゃねえか――悪態を突くのは最後の防壁だ。
(古泉、)
 お前にも見えてるんだろう? この景色が。油売ってないで早く来い。涼宮に会うどころか、ここにいて大丈夫なのかも怪しいぞ。
(……街が)
 三度目の通話を発信しながら考える。あの穴の空いた部分のものは大丈夫なんだろうか。まさか、まるっきり消えてしまったのか? 例えばそこに人がいたとしたら、そいつは? ……。
(! もしかして)
 あいつ、巻き込まれたのか――?
 耳元からまたもや流れる機械的な応答を聞き、考えたくない予想が首をもたげる。
 唐突に差し出されるはずもない救いの手を探すように、俺は周囲に視線を巡らせた。誰も、一様に、日常の中にいる。教室から外を眺める者、クラブ活動にいそしむ者、談笑しながら帰る者……。
 
「あれ、通じねえなぁ……」
 いつの間にやら俺の背後に追いついていた谷口が、電話を構えて渋い顔をしている。
「て、おいキョン、さっきシカトこきやがったな」
 俺は谷口の顔を見ずに、携帯だけを注視していた。
「通じないのか」
 俺は阿呆の子のような体でぼそりと聞いた。
「ん? あぁ」
 電話が通じない。俺はもう一度電話帳を画面から開く。今度は古泉でなく、アドレス帳の上からかける。
 コールは一、二、三、……出ない。発信を切り、別のやつに発信。一、二、三、……出ない。また別のやつに。……同上。
 
 これは……。古泉に電話が通じない、んじゃなく――
(基地局なんかがやられてる……ってことないよ……な。……あるのか?)
 だとしたら十あって八九、あの穴のせいだ。あれは見かけ倒しじゃなく、空いた部分をどうにかしてしまうような力があるのは確実になる。
 ――考えたら、わけのわからない焦燥に駆り立てられて走り出す。後ろから谷口の文句が聞こえるが、無視。
 下りこそが恐ろしいマラソンだが、俺は一片躊躇せず通学路の長い坂を駆け降りた。橋を渡り、平地に出ると住宅街を抜け、駅が近くなればそこには光陽園学院がある。
(あってくれよ……)
 じわりと足元から最悪の予感。つ、つ、と点在する黒い不吉をできるだけ見ないようにする。今少し、という地点で交差点に引っかかった。息を整える。鼓動が耳にせりあがる。ばくん、ばくん、ああうるせえ落ち着きやがれ。ここを過ぎればもう学院だ。ここを過ぎれば――
 
「……」
 交差点を渡った先にあったのは、確かに光陽園学院の校門だった。
 だが、その向こうは。黒い半球に塗りつぶされていた。
 精緻な孤を描くそれは、この大きさになるとただの一塊ではないらしい。薄い膜の下に無尽に循環する渦のような流れが見える。ときたま全体が躍動し、巨大な心臓のような動きを見せる。穴というより、もはや明と質量を持った生命球体と表現した方がいい。中身がなんであるかは想像もしたくないが、とにかくこれに光陽園学院は飲みこまれてしまったのだ。ともすれば中にいたであろう生徒を教師を事務員達を、丸ごと。
(おい、古泉……)
 お前、食われちまってねえよな。頼むよ。
 どこにも通じない電話を汗ばんだ手で握り締める。俺の体を吊り支えていた細紐が余さず刈られてしまったかのように、疲労が上からGを伴って振りかかる。くずおれそうになるのは堪えたが、耐え難い圧力に胸を押さえる。
 俺は何をすればいい。どこにいけばいいんだ。誰でもいい、指針をくれ、誰でもいい。
 
〈ヴーッ……〉
 すると突然、身震いでなしに手が揺れたので驚いた。嫌な汗でじっとと塗れた手の中で、携帯のバイブが着信を告げている。
(着信……?)
 古泉かと思ったが、先程俺が仮定した電波が通じない状態がこんなに早く復旧するとも思えない。
 
 発信者は……非通知。短い間に大いに逡巡したが、汗で滑る右手を左手で叱りつけ、俺は受話口を耳元に押し当てた。
「……はい」
 
「――あたしが言うのもなんだけど、アンタら、そろそろやめといたほうがいいわよ。論理体系が崩れ始めてる」