その女の声は、確かなデジャビュ(確かなデジャビュ、とはまたけったいなもんだが)を伴って、俺の耳の懐かしいところを震わせた。
「……ハルヒ?」
理解するより先に、声が勝手に滑り出た。
ハルヒ。
「馴れ馴れしいのは勘弁してやるわ。それより聞いて。アンタ達、あたしを、……探してるの?」
女は少し間を開けながらも、明瞭に問うてきた。
何もかもが突然で俺は黙してしまう。今になって頭が追いついてきたが、俺は初対面の(初対面ですらねえ)女を呼び捨てにしてしまった挙句、その響きに安心を覚えていたのだ。
「……お前は、涼宮……なのか?」
確信を得たいが為口をついた言葉を、自分でも反芻し妙な感情に爪先まで支配される。
「そうよ」
淀みは無かった。
「待ってくれ。今どこにいるんだ――そうだ、俺達はお前を探してたんだ。半年前から、いやもっとだ、ずっと」
事はあぐねにあぐねて、気づけば外気に虫鳴きがこだまする季節だ。最も、今の俺は暑さ寒さなんて混ぜくたに彼岸にぶち投げてやりたいほどどうでもいいがね。
「最初は眉唾だと思ってたんだが……なあ、お前ってヤツは、何者なんだ」
「何者とは失礼ね、そのままお返ししてやるわ。アンタ達はどこのどちらのどういったもんで、どうしてあたしを探してるの? そのせいでそっち……いえ、周りに起こってること、分かるでしょ?」
眼前には已然として黒い点が、気の触れた星々のように散らばっている。やっぱりこれはお前が現れるせい、なのか? それと……当然といえば当然だが、「この」涼宮は……どうやら俺のことを知らないようだ。……多少なりとも愕然とした自分が信じられない。まるで質の悪い童貞の色恋沙汰だ。加えて一人芝居。
「俺は……」
お前の知り合いさ。ただし脳内での。――警察か塀で囲まれた病院に突きだされるようなことを理由として言えるはずもなく、悲願の相手が耳越しにいるというのに俺は曖昧な唸りで口を濁すしかない。
「……すまん、うまく説明できないんだ。けど、お前のことは知ってる。お前も探されてることを分かってるみたいだから言うが、もう一人お前に会いたがってるやつもいる。古泉一樹って野郎だ。そいつはお前の同級生なんだろう?」
「同級生、……」
何故だか涼宮は俺のぼろぼろの返答には気をやらず、その単語だけを拾って考え込む声色を見せた。
「……そうなの。――ええ、アンタらがあたしを探してることは知ってたわ。〈見えた〉から。でも……あたしはアンタ達が誰か、分からないの。……思いだせない、の。高校に入ってからのこと、ぼんやりしてるから」
「え……」
高校に入ってから――西宮北? 光陽園? あるいはどちらでも、ない?
「それも分からない。だから、あたしはアンタ達に会っても何もできないわ。それに……多分だけど、あたしは望んで今の状態を選んだから。あの街を出ることは自分で決めた。そんな気がするの」
「……今は、どこにいるんだ?」
「……」
電話越しに涼宮が沈黙すると、それ以外の環境雑音は全く聞こえず、端末の静かな唸りだけが耳を打つ。
「言ってもいいけど……信じてくれる?」
なんだって信じるさ。今の俺の受け口は地球全土分の面積を合わせた海よりも広いぜ。
「……今のあたしには、カタチが無いの」
形?
「そう。体がね。無いのよ。無いっていうか、どこにでもあるって言ったほうが正しいかも。だから誰のことも見ようと思えば見えるし、聞こうと思えば聞こえる。……なんでこうなっちゃったのかは分からないわ。でもアンタ達を見つけてからよ、意識がはっきりしてきたのは。今まではずっと……どこかに浮かんでるみたいなかんじだった。それが引っ張られる感じになって、気になって〈見て〉みたの。そしたらあたしの名前で色々やってるみたいじゃない。――ま、あたしに会いたいって言うけど、この通りだから無理なの」
雲の中で夢の話をしているような説明だが、受け入れると一度判を押してしまった以上否定もできない。
「……や、声だけでもいいんだ。特にあいつ、その古泉一樹ってやつはな、お前と話ができるだけでも泣いて喜ぶ」
誇張・脚色は一切無しに。
「……そうなの?」
あ、ちょい待てよ。話ができても、涼宮が覚えてないとなるとどうだろう。落胆の意味で泣いたりしてな。いやしかしな、これまでの草の根も生えない干地をひた歩いていたような状況に比べればまさに僥倖と言えよう。それに、話してる間にひょっこり思いだすこともあるかもしれん。その時は……あれ?
その時涼宮は、古泉の言っていた涼宮になるんだろうか? それとも――
(……俺の妄想の中の人間が出てきたらたまんねえ。あれはあんまり古泉が涼宮、涼宮言うもんだから、ちょっと……想像野が暴走しちまったんだ)
だが、北高に影響が出てるってのがおかしいんだよな。
「――そう、あたしと会う会わないより、そっちのほうが問題よ。なんとなくの感じでしか分からないけど、あたしのことが流れ出てるせいで、あちこちがおかしなことになってる。アンタも見えてるんでしょ?」
ああ。……けどどうしてだ? お前は元々居たはずの存在なんだろう。それが戻ってくるってのに、どうして全力で世界に迎合されてないような事態になっちまってんだ。
「……あたし、……」
問いかけると、短いが深いためらいが聞こえた。それは俺の知っている涼宮はしない噤みだ。と思った。
「分からないの、自分がどこにいたのか……。言われてみればアンタと知り合いだったかもしれないし、そうじゃない気もする。例えあたしの帰る場所があるんだとしても、そのせいでむちゃくちゃになった場所に戻りたいとは思わないわ。だから、あたしを引っ張り出すのはやめて欲しいの」
おいおい、引っ張り出すとは随分ご挨拶だな。家出するときには構って下さいと言わんばかりに痕跡を残していくのが定石ってもんだろう。定義したのは俺だが。
「やめるって……聞くのもなんだが、どうすりゃいいんだよ。涼宮ハルヒなんて人間は実在しませんでした、って拡声器で言ってまわったりか? お前はどうなる? またどこかで夢うつつで暮らすのか?」
「アンタらが始めたことでしょ。あたしは……多分そうなるわ。それでいい。それでいいのよ」
己に芯から言い聞かせるような、強い断定だった。
「……あのな、一人で納得されても困るぜ。こっちだってお前に投資した時間ってもんがある。この有様は……とりあえずだな、古泉と話し合えば少しは埒が開くかもしれん。お前、見えるって言ってたよな? 古泉の場所、分かるか?」
俺は頭で考えるより随分に涼宮を止めたがっていた。どんな言葉でも切れなく紡がなければ、小指ほどの関心でも惹かなければ、涼宮はすぐにでもどこかへ行ってしまいそうだったから。
「……ちょっと待って、探してみる。……」
電話口の向こうからは、本当にまったく、皆無、ノイズと呼べるものは聞こえてこない。会話が途切れると本当に涼宮がこの先にいるのかすら霧中になり、少し怖くなるほど。
「……! いた」
快活な涼宮の声が、静寂を切り裂いた。
「この間見た時、アンタと長々あたしのことを話してたやつよね。いたわ」
「ホントか! どこだ?」
「屋上、の……ここは……病院だわ、病院の屋上。どこだっけ……」
「病院?」
「……あ! 甲南びょうい……わっ」
「! どうした?」
「ひ、引っ張られ――」
ぷつん。
続く断続的な機械音が、通話終了を告げる。
「ハル……涼宮? おい、……」
応答は無い。
通話時間のカウントは止まっている。虚ろに画面を見つめても、再び着信する気配は無し。
「こうなん……病院?」
聞きとれた単語を反復する。地名からして、確かにこの辺りにありそうな病院だ。って、なんだってそんなとこにいやがる。
涼宮はどこへ行ったのだろう。行ったというより飛ばされた、無理に連れて行かれたような雰囲気だったが――くそ。古泉の方を先に当たるしか無いか。
俺は手近な空車のタクシーを捕まえ、財布の残金の確認もぞんざいに目的地を告げた。
十分ほど飛ばしただろうか。無事にそれらしき場所に着いたはいいものの、勝手の分からない場所で落ち着かない。……気分が優れないのはそれだけが理由ではない気もしたが、どうしてかはうまく言語化できん。
壁に表示された院内図を見、エレベーターで最上階まで上がる。すれ違った看護師に怪訝な視線をよこされるのも構わず駆け足で。
屋上への階段を見つけた時、妙な偏頭痛が走った。……ここも記憶にあろうがなかろうが、今は、いい。例え何か俺の及ばない力に誘導されているのだとしたって、知ったことか。
勢いを多分につけてドアを解放する。
「古泉!」
屋上には患者のものであろう洗濯物が風にはためいていた。こんな事態でも大気は地平に平等に循環していくのだなあ、などと恐慌状態を一周して据わりがよくなった詩的表現に思考を割く暇は無く。
見晴らしのいい街景の大分が、黒い球体に塗りつぶされていた。俯瞰してみると明らかに、初めに見た時より辺りが浸食されているのが分かる。
淀んだパノラマの中心には、フェンスに背を預けた古泉がいた。
「おめでとうございます」
古泉は病人の面を隠そうともせずに笑った。
「ハァ?」
「どうやら天王山はあなたが勝ち取ったようだ。――見えますか? 世界の変容が。これが彼女を取り戻す代償なのだとしたら、ゆくゆく涼宮さんは因果律の外にいるお人だと畏敬の念を新たにしましょう。そして、それこそが彼女の悲願でもあったのです。大別して特別な存在、と呼ばれるものになることがね。惜しむらくは、今の彼女がそれを喜びとして認識できないということですが」
……もうお前に話の順序とか、平易に物事を伝える努力は求めないとして、だ、
「会ったのか。涼宮に」
「そんなに怖い顔をしないでほしいな。あなたもでしょう? ええ、先程ね」
さっき……涼宮を「引っ張った」のはお前か。
「意図して涼宮さんを呼べたわけではありませんよ。ただ、視線が合った気がしたのです。そして願ってしまった。そこにいるのならただ一度でいい、ほんの一時の邂逅でもいいから――と」
「涼宮はどうした」
急いて聞くと、古泉は嫌な笑みを底の底まで深めた。ものの分からぬ子供にするように嘆息し、息をするついでといった調子で呟いた。
「いますよ。そこに」
ほら。
数拍置いてその言葉を噛み砕いた俺は、無様なほど慌ただしく首を回した。
どこだ、と尋ねる前に、貯水槽の影に隠れていた影法師が目に映る。
「! ハル……」
座り込んでいた影はゆっくりと立ち上がり、俺の目の前に人の形を現した。
――その瞳は強く。
背格好は凛として。
ダークトーンにまとめられた私服を身に纏い、頭に黄色いカチューシャを乗せて。
――髪は肩で切り揃えられたミディアムボブ。しなやかに風に揺れる。
それは、「俺が」言葉通り夢に何度も、何度も描いていた――ただ、その表情だけが暗い――
涼宮ハルヒ、だった。
「……」
ハルヒは俯き加減のまま、俺を見止めては何か言いかけて、結局口を閉じる。
「――」
俺も言葉が出なかった。残酷なノスタルジアの去来に胸から喉を苛まれて、息が詰まる。
「おめでとうございます」
歪な静寂の中、性根の腐ったオウムだけが繰り返しせせら笑った。自棄を滲ませながら俺を見て、しかしその向こうの涼宮だけを見て。
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