そんな彼女に変化が訪れたのは四年生の秋ごろのことだ。
「ッ! !」
閉じた戸を豪快に吹っ飛ばしてはっちゃんは俺の自室に飛び込んできた。
「ちょ、何してんだよ!? こんなことして怒られるの俺なんだぞ!」
俺の同室は用具委員である。日々補修作業に明け暮れているせいか、部屋をきれいにしろとか備品をもっと大事に扱えと口うるさい。奴がこんな現場を見たらと考えるだけでぞっとする。
「そんなことより大変なんだ! とんでもないことが起こったんだよ!」
「えー……?」
俺としては見つかる前に外れた戸を直してしまいたかったのだが、はっちゃんが顔を真っ赤にして涙目になりながら必死で訴えるものだから、ひとまずそれを入り口に立てかけておくことにした。……どうかに見つかりませんように!!
「で、何が起こったって?」
なるべく早めに話が終わるように単刀直入に尋ねた。この状況はやばいのだ。何がと言われても自分でも分からないがとにかくやばい。
あれから、はっちゃんと2人きりでいるとなんとなく落ち着かないのだ。昔はそういうことがあっても全然気にしなかったのに、学園に来てから大勢で騒ぐことに慣れてしまったのだろうか。
「……へ、兵助に好きだって言われた」
「は?」
俺はその瞬間、いきなり頭を殴られたような感覚に襲われた。
いやお前、今なんつった?
兵助に告白された?
「どうしよう……!!」
「いやどうしようって言われても」
OKすればいいじゃん、の一言が出なかった。いやなぜためらう必要があるんだ俺よ。
はっちゃんは前々から兵助に惚れていた。といっても本人はそのことには気づいていない様子で、俺もあえて黙っていたが。
「それで、どうしたの」
「そ、その……付き合ってくれって言って、口吸いされた」
それを聞いてめまいがした。
兵助のほうは豆腐に夢中で、人間相手の惚れた腫れたは眼中にないと思っていたのだが、まさか告白に加えて口吸いまでとは……久々知兵助、なかなか手の早い男である。今度会ったら兵助の助は助平の助だって三郎と雷蔵に言いつけてやる。
「おれ、うれしくて……でも、どうすればいいのか分からなくなって逃げてきちゃった」
これから兵助にどんな顔して会えばいいのか分からない、と彼女は年頃の少女のように涙をこぼし始めた。
泣いた? え、泣いてるの。
あの、竹谷八左ヱ門が?
はっちゃんと数分違いで生まれてからこのかた13年間、彼女がこんなふうに泣いているのは見たことがなかった。
涙をこらえて唇を噛み締めるのは何度か見たことがある。こらえきれない悔し涙を流した姿を見たのは片手で数えるほどなら。
だが、かつて彼女が恋の苦しさにはらはらと涙を落としたことなどあっただろうか。いや、ない。
俺はその様子をしばし呆然と見ていることしかできなかった。だって、俺にとってはそれくらいショッキングな出来事だったのだ。
数秒なのか数分なのか分からない間、ずっとそうしていた。
不意にわれに返った俺はそっとはっちゃんの細い肩に手を置いた。こうしてみると、彼女が自分に比べて華奢な体つきであることを理解せざるを得ない。
「それって要するにさ、兵助のことが……好きなんでしょ?」
俺の言葉に彼女は無言でこくりと頷いた。
だったら、と言おうとして言葉が詰まった。なんだこれ、胸が痛い。いや、心臓が痛い?
つられて止まりそうになる息をなんとか整えてから、心臓の痛みをあえて無視してもう一度口を開いた。
「だったら、まず兵助にそのことを伝えるべきだと思う」
「……」
はっちゃんは少しの間、黙って目を伏せていた。
俺はそれをじっと観察して、ここ半年で彼女が驚くべき変化を遂げていることに気がついた。
目にかかる睫毛は意外に長かったし、ぷっくりと膨らんだ唇を見ていると吸い付きたい衝動に駆られる。そういえば最近身長が伸び悩んでいるとか言っていたっけ――今はまだ俺よりはっちゃんのほうが身長が高いけれど、いつかは俺も彼女を追い越すのだろう。
さらしをまだ巻き慣れていないのか、風船のように膨らんだ胸は制服の上からでもはっきりと自己主張し、腰から尻へのラインは俺たちにはありえない丸みを帯びてきている。
二次性徴を迎えて、彼女は明らかに『女』へと変わろうとしていた。俺とは違う、兵助とも雷蔵とも三郎とも勘右衛門とも違う、存在に。
それを意識した拍子に自分の喉がごくりと鳴った音で、俺は一気に自分が何を考えていたのかを理解し、自己嫌悪に陥った。幼馴染が悩んでいるときに俺はなんてことを……! その場で頭を抱えて転げまわりたい気持ちになる。
いっそ本当に転がってしまおうかと考え始めた矢先に、はっちゃんが口を開いた。
「ありがとう、……おれ、兵助にちゃんと返事しに行ってくる」
そう宣言するや否や、彼女は袖で乱暴に涙で濡れた目元を拭うとおもむろに立ち上がると、そのまま外へ飛び出した。
「はっちゃん!」
思わず彼女を呼ぶと、はっちゃんはひょいっと顔だけ覗かせた。「何?」
「え、あ、……ごめん何でもない」
何かを言いたいはずなのに、それをどう言葉にしていいのか分からずに思わず謝ってしまう。そんな俺を大して気にすることもなく、「変なの」と昔と変わらず大口を開けて笑うはっちゃんの姿に俺はなぜか安心して、一緒に笑った。
ひとしきり笑い終えると、彼女が急にかしこまった様子で俺に向き直る。
「あのさ」
「ん?」
「本当にありがとう。がいてくれてよかった」
そんなに改まって礼を言われたことなどなかっただけに、俺はどぎまぎとしてしまう。
「……お礼にあんみつおごってくれよ」
俺の精一杯のギャグにはっちゃんは再びぶはっと吹き出した。「お前あんまり甘いものばっかり食べてると太るぞ!」と捨てゼリフを残して、今度こそ彼女は兵助のもとへと走り出した。
その背中が見えなくなるまで見送ると、どっと力が抜けた。はっちゃんと一緒にいてこんなに疲れたことって初めてなんじゃないだろうか――そんなことを考えながら外に蹴飛ばされた戸を見やる。
「ったく、何も外まで吹っ飛ばさなくてもいいのに……」
兵助もとんだ女に惚れたものだと呆れ混じりに呟いて戸を持ち上げると、ぽたりと1滴の水が障子に落ちて染みになった。
まさか雨でも降ってくるのか? そう思って空を見上げても雲ひとつない青空が広がるばかり。
おかしいとは思いつつも、なんとか戸を直して一息ついたところで畳に水滴が落ちた。
ひょっとして。俺はそこではじめて自分が泣いていることに思い至った。
けれど、なんでだ。はっちゃんは俺にとって大事な幼馴染だし、兵助のことだって友人だと思っている。そんな2人が結ばれて、喜びはしても泣き出すようなことは何もないはずだ。兵助は俺より背が高いし実技も教科も優秀で、顔だっていいし先生にだって信頼されてるから、俺よりもはっちゃんを幸せにできる――あれ?
あれ?
これじゃまるで俺がはっちゃんのことを……
「……あ、」
駄目だ、それ以上考えるな。頭のどこかで誰かがそう叫んだが、もう遅かった。
兵助に告白されたと聞いてショックを受けたのも、2人きりになると落ち着かなくなるのも、ふとした変化に胸が高鳴るのも、全部、ぜんぶ。
俺は八左ヱ門を、友達としてじゃなく、幼馴染でもなく、1人の女の子として――。