学園までひたすら一直線に走っていると、辺りがだんだん紫色のもやに包まれていってることに気が付いた。
まさか先回りされてたのか? 今からでも方向転換したほうがいいだろうかと足を止めると、あっという間にもやは周りの景色を紫一色に染め上げてしまった。これでは下手に逃げられない。
まずいことになった、と内心で舌打ちしながら武器を構える。辺りは紫煙に包まれ一寸先も見えないが、このもやに囲まれる前からとうに仲間とははぐれている。
このもやはおそらく毒だろう。忍たま1人を始末するためだけに仲間をも巻き添えにする辺り、この懐の密書はあの城にとってよほど重要なものらしい。正直ため息をつきたかったが、こんな中では1呼吸が生死を分けかねないのでこらえた。
大体何なのだ、この宿題。
普段ならば個人個人のレベルに合った課題が出されるはずなのに、今年の夏休みに限ってこんな――本来なら六年生でもてこずりそうな実技の課題を、よりにもよってクラスで一番実技が苦手な俺に押し付けられているのか。同じ六年生の課題でも、教科のほうならまだ何とかできるというのに!!
かといって、「レベルが高すぎて俺にはできません」なんて口が裂けても言えなかった。今にして思えば、せめて一言、先生に進言すべきだったかもしれないがすべては後の祭りだ。
だって今、俺はまさにその課題に挑んでいるのだから。
俺の正面から2時方向の木の上に1人、8時方向に2人、11方向から1人、背後から4人。相手の発する音から大体の数と位置を把握する。……はて、確か城を脱出した際に追いかけてきた忍の数から、俺が道中に倒した数を引いてもあと10人はいたはずなのだが。
あとの2人はどこにいる? 伏兵の気配を探ろうと集中しようとしたとき、上方から手裏剣が飛んで来た。慌てて拐で弾き飛ばすが、危ないところだった。だが、敵はこちらの動揺が落ち着くまで待ってくれない。
背後の敵は逃げている間にだいぶ引き離したはずだが、このまま合流されるとかなりまずい。なんとか増援が来る前にこの場の敵を片付けるか脱出するかしなければ、待っているのは確実に死だ。
ともかく場所を変えなければ。このままこの位置に留まっていたら袋叩きにされる! まず俺は2時方向の敵が木の上から飛び降りた音を聞くと同時にそちらに向かって飛びかかる。
「!?」
視界の利く領域に入った敵の忍は、俺が正確な位置をつかんでいたことに驚いたのか、わずかに目を見開く。だが完全な不意打ちに体勢を崩されつつも、突き出された右の一撃を防いだ――かに見られた。
しかしそれは俺の予測どおりの行動だった。慌てず騒がず素早く手首を返すと、棒の長い部分がくるりと回転ししたたかに敵の肩口を打ち付ける。本当は手首を狙ったんだけど、武器は落としたからまあいいか。
今の攻撃で左肩を脱臼したのか、だらりと垂れたままの腕を右腕でかばおうとする。この場で無理やりにでも入れようとしたのだろうが、それは顔面に叩き込まれた左の一撃のせいでかなわなかった。
鼻の骨が折れるほどの攻撃で脳震盪を起こしたのか、1人はそのまま地面に倒れ込んだ。地面に落ちた苦無を拾って無造作に心臓に向けて深く突き刺す。止めを刺し損ねると後で厄介なのだ。敵方に情報が漏れるとかほかの相手をしてるときに不意打ち食らうとか。
この間、時間にすると10秒足らずのはずなのだが、仲間がやられたことに気づいたらしい。8時方向にいた2人がこちらに向かって走ってくる。この視界の悪さで正確に状況判断を下すあたりはさすがはプロ忍といったところか。
俺は振り向くと、相手の向かってくる方角をしっかりと見定めてから、その場にしゃがみ込んで左手に持った武器をブーメランの要領で投げつける。数瞬の間をおいて1人が盛大にコケる音。
確か、あの辺りには城に忍び込む前に、もし脱出後に追われることがあったらこの場におびき寄せて使おうと思っていた罠が――あ、作動したっぽい。どうやらうまく落とし穴に仕掛けておいたスパイクに刺さってくれたっぽい。気配が1人分途絶えた。
よしッ! 計画通り!!
しかし1人がやられても、もう1人は構わずそのままこっちに突っ込んできた。手にした刀を薙ぐように水平に切りつけてくる。しまった、左じゃなくて右のを投げればよかったか、などと思いつつ背後に跳ぶと背中に木の幹がぶつかった。痛い。
しめた、と敵の覆面の下の口が弧を描いた気がした。
袈裟切りにされそうになりながら慌てて木の向こう側に隠れると、刀身は深く木の幹を抉った。そのまま刀を引こうとしたようだが、思いっきり刺さったせいで抜けないらしい。諦めて別の武器を取り出す前に木の影から躍り出て1人を昏倒させる。
と、目の前に迫る刃。
本能的に後ろに仰け反ると、少し離れた背後の木に八方手裏剣が刺さったのが見えた。あと一瞬反射が遅れていたらあれは確実に俺の目を貫いていた。ぞわりと背筋が冷える。
その勢いを殺さず宙返りして後ろに下がると、そうはさせまいと攻撃の手を緩めない敵。着地点の足元に手裏剣を打ち込まれたせいで体勢ががくんと崩れる。やばい、と思ったときには右の拐で手裏剣を受け止めていたところだった。
それにしてもなんだこいつ。この視界で手裏剣を正確に投げてくるとか正気の沙汰じゃない。
明らかに先ほど倒した3人とは格が違う敵に、これは逃げたほうがいいと本能が告げる。俺の手に負える相手じゃないと。
姿を見せない敵に気圧されたのか、知らないうちに1歩下がった右足に地面の感覚がなくなる。
「しまっ――!」
後ろを振り向いたときにはもう遅かった。
そのままバランスを崩す。紫煙から抜け出し、宙に投げ出される身体。
悲鳴は上がらなかった。
――おい、死体は確認できたか?
――いや分からん。だが、この高さから落ちては生きてはいないだろうな。
――情報を吐かせることができなかったのは痛いが、まあいい。密書はちゃんと回収しておけよ。
――了解。……ったく、妙なガキだったがてこずらせやがって。
崖の上から会話が途絶え、気配が消える。会話の内容からすると、このままここにいたらいずれ探し出される。死んだと思われているうちにとっとととんずらさせてもらおう。
崖から落ちた際には動かなかった手足を使ってなんとか起き上がるが、その瞬間に激痛が走って顔をしかめた。これは手足やあばらの2、3本は折れているかもしれないと、保健委員の勘で推理する。
あの高さから落ちて、動ける怪我だけで済んでいるのは木がクッションになってくれたからだ。下が森でなければ即死だった。
ふらふらと、おぼつかない足取りに舌打ちしながらも歩き出す。俺は生きて帰るんだ、卒業もしないうちにこんなところで死ぬなんてまっぴら御免だ。
長い長い夜が明け大陽が東の空に輝き始めたころ、戦闘中に吸った毒のせいかかすみ始めた目で、遠くに学園を見た。
背後を振り返るが、どこにも気配はない。おそらく今も俺の死体を捜している最中なのだろう。ここまでの痕跡は消しておいたから、生きていることに気付いたとしても追って来られる可能性は低い。
普通ならここで一安心するところだが、俺は保健委員だ。いつ何時その可能性が現実のものになるか分からない。ぎゅっと気を引き締め、学園へ向かう足をさらに速めた。
ほうほうの体になりながらもなんとか学園にたどり着くと、すでに新学期が始まっていたらしい。忍術学園の正門が私服の生徒でごった返していた。
早く戻って保健室で寝たいんだけどなあ、などと思いながら集団を眺めていると、その中に見知った顔を見て一気に力が抜ける。
「はっちゃ、ん」
思わず幼いころの呼び名が口を突いて出た。駄目だなあ俺、自分から直そうって言ったのに。
しかし八左ヱ門は何かに気付いたようにばっと顔を上げて振り向くと、一目散にこちらに向かって駆け寄ってきた。あれ、ひょっとして今の聞こえた?
心配そうに歪む顔に不謹慎だとは思いながらも、気付いてもらえたといううれしさに顔がほころぶ。
しかし、八左ヱ門を迎えるように伸ばした手はあっさりとすり抜けられた。
「え?」
俺など目に入らないといわんばかりに横をまっすぐすり抜け、その背後へと駆けていく八左ヱ門。「兵助ーッ!!」え、兵助?
後ろを振り返ってみれば、入門表へサインする列の最後尾に紺色の制服がうずくまっているのが見えた。背中には何本もの矢が刺さって、来た道には点々と血の跡が落ちている。
「兵助、しっかりしろ兵助!!」
八左ヱ門がいの一番に駆け寄って兵助の肩に手を貸す。八左ヱ門の助けを借りた兵助はよろよろとした動きで、最前列まで一緒に歩いていった。列への割り込みにも、並んでいた生徒たちはその怪我を見ては咎める者など誰もいない。
あ、そうか。そこで俺は理解した。八左ヱ門は俺に気付いたんじゃなくて兵助が大怪我して戻ってきたのに気付いて、あんなに慌てて走ってきたんだ。
なんだ、と自分でも驚くほど落胆したのが分かった。そりゃ、彼氏があんな大怪我してたら誰だって顔面蒼白になるよ。
なーんだ。
今度こそ立っていられなくなった俺はその場にへなへなと座り込む。すると、2人を見ていた中の1人がこちらに気付いて、列を抜け出してきた。
「おい、大丈夫かよ!? お前も顔が真っ青だぞ」
同室の友人の珍しく心配そうな顔に力なく笑うと、友人は1つ舌打ちをしてから俺を俵担ぎにした。お前っていい奴だなー。これじゃしゃべると舌噛むから礼も言えないけど。
俺、泣きそう。