「まったく小松田さんってば、あんなヘマやらかすなんて……!」
宿題を終えて命からがら学園に戻ってきてから数日後、八左ヱ門は俺の部屋で怒っていた。
実は、小松田さんのミスが原因で俺と兵助は六年生の宿題をやらされる羽目になったらしい。それで死に掛けたというのもぞっとしない話だが、それでもちゃんとやり遂げた辺り、俺もなかなか捨てたものではないと思う。
何と言っても宿題を提出したときの先生方の顔といったら! 今思い出しても吹き出してしまう。
「お前も何笑ってるんだよ。小松田さんが原因でこんな怪我させられたのに」
「えー、だってもうしばらく朝寝坊しても怒られないんだもん」
「お前……1週間後に地獄を見るぞ」
生活習慣改めろ! と八左ヱ門は目を吊り上げる。普通は立場が逆なんじゃないだろうか? 俺、保健委員だし。
「あれ?」俺はあることに気が付いた。「そういや八左ヱ門、授業はいいのか?」
あのとき毒もかなり吸い込んでいた俺は、大事をとって怪我が治るまで部屋で休むことになっていたが、本来なら今は授業中のはずだ。保健室にも寄らず、なぜ俺の部屋にいるのだろうと首をかしげる。
「保健室に寄ったら教科の授業だけでも受けてくるって出たんだと」
「だったら八左ヱ門も授業受けてくればいいのに」
「出る間際に先輩からも怪我して部屋で休んでるって聞いて飛んで来たんだよ!」
仰天したんだからな! と怒ったように言われて思わず苦笑した。けれど、兵助のついででも心配してくれるのはうれしい。ちゃんと俺のことも気付いて心配してくれる。
大丈夫だ。八左ヱ門が俺より近しい相手を作ったからといって、俺との関係がすべてなくなってしまうなんていうことはないのだ。
そのことに気付くと、ずっとあった軋むような胸の痛みが今までよりもずっと小さくなった。この分なら、いつかは心から2人の幸せを望むようになれる。そうして俺もほかの誰かと結ばれて家庭を築いて、今の小さな痛みを笑い話にできる日が来る。
「……おい、どうしたんだよ呆けた顔して黙り込んで。大丈夫なのか?」
八左ヱ門が不審そうな目で俺を見る。われに返った俺は慌ててごまかした。
「え? あぁ、俺は大丈夫だよ」
そう、大丈夫なんだ。
「本当に大丈夫なのか? お前も結構な怪我だって聞いたけど……」
「きゃああああああああっ!」
新野先生でも呼んだほうがいいのではないかと八左ヱ門が思案げに外を見た瞬間、悲鳴が聞こえてきた。続いてどよめき。
「何だろう? なんか急に外が騒がしくなってきたけど」
にわかにざわめき始めた生徒たちが気になったのか、八左ヱ門が立ち上がって外を見に行こうとするのに付いて俺も部屋の外へ出ていく。すると、戸を開けた瞬間に信じられない光景が目に飛び込んできた。
――かたせ、さん?
思わず出た名前は言葉にならなかった。それくらい、目の前で繰り広げられる光景はにわかには信じがたいものだったのだ。
校庭で授業を行っていた生徒たちが遠巻きに見守っているのは、上空から明らかに重力を無視しているとしか思えない低速度で落下している1人の少女。しかし、このまま地面に墜落すればただではすまないことは火を見るよりも明らかだった。
どうしたものかと横を見れば、八左ヱ門もこの展開に頭が付いていかないのか、目を見開いたまま呆然と事態を見守っている。
このまま放っておくわけにもいかないし、俺が助けに行って受け止めたほうがいいんだろうか。……一応怪我人なんだけど。
少しの間逡巡して、傷が開くのを覚悟で校庭へと飛び出そうとしたとき、彼女の真下に誰かが飛び込んだのが見えた。
「兵助!?」
八左ヱ門が血相を変えて叫ぶ。俺の位置からでは野次馬でよく見えなかったのだが、どうやら兵助が助けに入ったらしい。
鈍い音が聞こえた。どうやら受け止めたらしい。
「ぐっ……」
「兵助ぇッ!!」
人1人を受け止めた衝撃は怪我人にはきつかったらしい。小さな呻きを漏らして膝をついた兵助に、八左ヱ門がこらえきれなくなって校庭に飛び出した。俺も後を追いかけるが、もともと八左ヱ門のほうが足が速い上にこっちはまだ傷が完治していないものだからだいぶ遅れる。
「、何やってるんだ! こっちだこっち!」
「ちょ、待ってよ!」
お前は俺も怪我人だってことを忘れている。つい3日前に死に掛けた人間相手とは思えない人使いの荒さだった。
先に八左ヱ門が野次馬をかき分けてくれていたおかげで、さして苦労せずに兵助のところまでたどり着いた。失神しているのか、その腕に抱えられてぐったりとしている少女の顔を見て俺は自分の予想に確信を持つ。
遠目ではひょっとしたら別人かも、なんて思っていたけどこの子の服装を見れば一目瞭然だった。この時代の人間には変わった着物のように思えるが、彼女が着ているのはブレザー――それも、俺が平成で通っていた中学校の付近にある進学校の制服だ。
「兵助、その人は……」
「ああ。いきなり何もない上空から落ちてきたんだ。怪我はないようなんだが目を覚まさない……くっ」
「兵助!」
受け止めた拍子に開いた傷が痛むのか、兵助が顔を歪める。八左ヱ門が悲痛な声を上げて俺のほうを見た。
「分かってる。俺は兵助の傷を診るから伊作先輩呼んで来て」
「分かった!」
いても立ってもいられないとはまさにこのことだ。八左ヱ門は脱兎のように保健室へと駆け出していった。
それを見届けた俺は伊作先輩が来るまでの間に兵助の傷の様子を見るため、上着を脱がし始めた。普段は人前で弱みを見せることを好まない兵助だが、まるで抵抗しないということはやはり傷口が開いたことに気付いているらしい。
1分もしないうちに上半身の衣類をすべて剥ぎ取られ、病的に白い肌や血のにじんだ包帯が白日の下にさらされる。周りが息を呑む気配がするが、正直何もしないでガン見されるのはうっとうしい。どうせならほかの保健委員を呼びに行くなり保健室の様子を見に行くなり倒れたままの彼女を運ぶなりしてほしいのだが。
血のにじんだ箇所にそっと手を触れてみれば、兵助がぐっと言葉を詰まらせる。巻かれた包帯の上からではいまいち傷の具合がどうなっているのか分からない。
「ここで包帯取っちゃうのもアレだしなぁ……」
ホコリやら砂やらが傷に触れるのは避けたい。そうぼやくと俺は兵助に視線を送る。もし本人が自力で歩けるようなら近くの自室まで避難したほうがよさそうだ。
だが兵助は自分の怪我の具合よりも抱きとめた少女のほうが気になるらしく、気遣わしげに口を開いた。「俺はいい。それよりもそっちの子は大丈夫なのか?」
兵助の言葉に俺はちらりと視線を送ってから答えた。
「落ちたショックで気を失っているだけだ。心配ないよ」
一瞥しただけでそう告げたからだろうか、兵助が疑わしげな目で俺を見る。けれど、外傷もないし、結構な高さから落ちたものだからショックで失神しているだけだと思える。どちらにせよ、分からないのにむやみに動かすというのはよろしくない。
「ー!!」
早いとこ新野先生か伊作先輩が来てくれないだろうか、と思い始めていたところに八左ヱ門の声が聞こえた。声のした方向に顔を向ければ、こちらに走り寄ってくる八左ヱ門の後ろにやや遅れて伊作先輩が肩で息をしながら追っているのが見える。
「先輩、兵助の傷が……」
「分かってる。とりあえず2人とも保健室に運ぼう」
やっとのことで現場にたどり着いた伊作先輩は、息を整える間も惜しむように的確に指示を与えると、兵助に肩を貸そうと手を伸ばす。八左ヱ門はいまだ気を失ったままの少女を抱え上げると、伊作先輩の後について行った。
「俺も保健室行こうかな……」
おそらく伊作先輩が来たということは、新野先生は今は留守なのだろう。今行ったら確実にこき使われるだろうが仕方がない。
のろのろと立ち上がると、俺は小さくなった4人の影を追って保健室へと歩き始めた。