ある日、女の子が空から降ってきた。
委員会の後輩いわく、「紗耶香さんはきっと天女さまなんです」とのこと。まあ、拾われたときの状況や服装の奇妙さを不自然なく説明するには無難なところではないだろうか。先輩方の中には彼女を警戒している人間もいるが、どこをどう見ても敵の間者には見えないらしくて戸惑っているらしい。
だが、俺は知っている。彼女は天女ではない。ましてやくノ一でもない。
彼女が学園長にどこから来たのかと尋ねられた際に答えた「私、未来から来たんです!」という、普通だったら頭がおかしいとしか思えないような発言が真実であることを、この学園内で俺だけが知っている。
彼女の名前は片瀬紗耶香。この室町時代からはるか500年もの未来からやって来た、高校2年生である。
落ちたショックで失神していた片瀬さんが保健室に運ばれ、彼女を受け止めた際に傷が開いた兵助が伊作先輩に再び安静を厳命されていたとき、俺は今後の展開に頭を痛めていた。八左ヱ門は2人を運び込んだ後、治療の邪魔とすげなく放り出されて戸の向こう側で体育座りしながら床にのの字を書いている。先輩、後でフォローにまわされる俺の身にもなってください。
叱られている兵助の横でまじまじと彼女の顔を見る。心なしか、最後に見たときよりも若干大人びた顔つきになっている気がする。俺がここで14年間過ごしたように、平成の時代もまた時が流れているのだろうと思うと、切なくなってくる。
ふと首筋の辺りにちりちりとした視線を感じて振り返ると、兵助と目が合った。しかしそれは一瞬のことで、すぐに兵助は布団に寝かされている少女に視線を落とした。
「……彼女、一体どこから来たんだろうな」
当然の疑問だ。崖どころか木もない校庭のド真ん中の上空から落ちてきた人間が、ただの人のわけがない。
「案外、未来とかだったりして」
「そんな馬鹿な」
ほとんど無意識的にぽつりと呟いた答えに、兵助は呆れたように肩をすくめ――痛みに顔を引きつらせた。ああ、だからさっき先輩が注意していたのに。
「まあ、本人に聞けばいいんじゃね? 俺は帰るわー」
これ以上この話を続けてたら、いつどこでボロが出るか分かったもんじゃない。話題を切り上げて、俺は安静のためという名目で保健室から出ることにした。
「悪いな、君も怪我人なのに手当ての手伝いさせちゃって」
「本当ですよ。ついでに保健室の前でいじけて鎮座ましましている奴も回収していきますね」
「それなら俺も……」
「だが久々知、君は駄目だ」
俺に便乗しようとして腰を浮かせた兵助の長い髪を、伊作先輩がいい笑顔で引っつかんだ。あの顔で怒られるのは怖いが、あれは単純に後輩が自分の見ていないところで無茶されるのが不安なのだろう。
保健室お泊まりコースと相成った兵助の悲鳴を背に、俺は外に出て戸を閉めた。足元には体育座りのままうずくまっている八左ヱ門の姿。兵助のあの声を聞いても膝に顔を埋めてじっと動かない様子を見ると、おそらく待っているうちに眠ってしまったのだろう。
「八左ヱ門、起きろ」
このままじゃ風邪を引くと思って肩を軽く揺すると、八左ヱ門は思い出したようにばっと顔を上げた。
「兵助は!?」
「兵助なら伊作先輩の怒りを買って保健室お泊まりコース決定。2人とも幸い大したことはないみたいだよ」
「よ、よかったぁ……」
気が抜けたのか、その場にへなへなと崩れ落ちる八左ヱ門。それを手を貸して立たせると、俺たちは早々に長屋へと引き上げていった。
結局、あれから一度も片瀬さんには会っていない。そもそもあれを『会った』と表現していいのかどうか……。
漏れ伝わる情報をかき集めるたび、彼女があの片瀬紗耶香であるという確信が強くなっていく。だが、14年も前のことだからイマイチ記憶が頼りにならない。
本人に会って確認すればはっきりするのだが、いかんせん俺にはその勇気が出てこない。だって、ぶっちゃけ3年も前に告白未遂やらかしただけの相手なんて覚えてるわけないだろ常識的に考えて。
もし名乗り出て、彼女に「ごめん、覚えてない」なんて展開になったらさすがに心が折れる。というか下手すると俺ストーカー扱いだよ!
そもそも学園内では前世の話は全くしてなかったしなあ……さすがに入学するころには、あれは信じてもらえないだろうと判断できるくらいには分別ついてたし。
こうして今みたいに、片瀬さんに男どもが群がってくる光景を肴に昔を懐かしむくらいがちょうどいいのかもしれない。そう結論付けて、俺はその場を立ち去ろうと椅子から立ち上がったとき、ふと上級生たちの群れの隙間から片瀬さんと目が合った。
一瞬のことだったから気のせいだろうと、すぐに視線を外してトレーを返却口に置く。そしてそのまま立ち去ろうとして、背後から声がかけられた。
「……、くん?」
「え?」
背後から呼び止められて振り返ると、驚きに目を見開いた片瀬さんの姿。その周りの生徒たちも彼女が俺の名前を知っていることに戸惑いを隠せない。まさか以前から面識でもあったのか、という疑いを込めたまなざしを向ける者すらいた。
俺はというと、片瀬さんが俺のことを覚えていたことに対して驚いていた。確かに平成の時代とは顔も名前も一緒だったから、ひょっとしたらという期待があったことは否めない。だが、今の彼女の立ち位置を考えると正体をバラすことは悪影響にしかならないだろう。なんたって平成の時代からやって来てまだ日も浅い彼女に、まるで旧知の仲のように親しげに名を呼ぶ相手などまだいるはずがないのだから。
0.5秒もの熟考の末、俺は知らない振りをすることにした。
「確かに俺はですけど、誰かから聞いたんですか?」
「えっ」
片瀬さんは戸惑ったように声を上げる。続けて問おうと次の言葉を探しているようだったが、それを見つけるよりも先に食堂に顔を出した人物がいた。
「すいませーん、は来てますか……あ、いたいた。お前、まだ食堂にいたのかよ。お前のクラス次実習だろ?」
「八左ヱ門」
「が『実習の準備があるからとっとと来い』って怒ってたぞ」
「うへぇ、が? ……それじゃあ、失礼します」
「え、あ、ちょっと……」焦った様子を見せる片瀬さんに一言断ってから、俺は慌てて食堂を出た。片瀬さんには悪いけど、これ以上あいつを待たせて怒らせるわけにはいかない。
「おーい!」
下級生の模範となるべき上級生が白昼堂々廊下を走り回るわけにもいかない。できる限り早足で教室に向かっていると、後ろから八左ヱ門が追いついてきた。ちょっお前、走るなって先生に習わなかったのか!?
「って、紗耶香さんと面識あるのか?」
「え?」
横に並ぶなり振られた話題に、俺は思わず聞き返してしまった。訝しむような八左ヱ門の視線に慌てて「……いや、ないけど? それがどうかしたの」と答えると、なぜか渋い顔をされた。
「んー……なんかさっき兵助に『に紗耶香さんと面識があるのか聞いてみてくれ』って言われた」
「なんで兵助がそんなことを」
「さあ? 落ちてきたときに助けた相手だし、と知り合いだったらいろいろと疑いが晴れるんじゃないかと思ったんだろう」
「あらら……」その答えを聞いて俺は思わず引きつった笑みを浮かべた。兵助もあの場にいたのか。あんまり人多かったから気付かなかったが、彼女の立場にしてみれば、自分というものがありながらほかの女を気にかけられるというのは心中穏やかではいられないだろう。
兵助が女心に疎いのは八左ヱ門と付き合い始める前から知っていたことだが、今回に限ってはなぜかいやな予感がする。気のせいであればいいのだが。
「そんなこと言われても俺、あの人と話したの今日が初めてだぞ?」
「あれ、そうなんだ? 紗耶香さんが初対面のはずのの名前知ってたって聞いたから、てっきり……」
「俺にお前の知らない交友関係があるとでも? 幼馴染だろうが」
前世うんぬんは半分ネタだと思われているためか、八左ヱ門はそれ以上深く考えることもなく「それもそうか」と納得したように頷いた。
「でもまあ、一度紗耶香さんと話してみたらどうだ? あんな美人に言い寄られるなんてこの機会を逃したら一生ないぞ」
「断言すんな! まあ別に構わないけど、さ……」
「? 一体どうした……ああ、あいつか」
ふと前方から殺気を感じて足を止めると、数歩進んでから八左ヱ門が不審げに振り返る。続いて前に顔を戻してからようやく合点したように頷いた。
俺の視線は、は組の教室前に立つ1人の男の顔で止まっていた。
そいつは能か何かに出てくる般若の面のような表情で、先ほどからじっとこちらを睨み付けている。言わずもがな、先ほど八左ヱ門に伝言を頼んできたその人である。
「じゃ、おれはこれで……」
「ちょ、待って八左ヱ門! 幼馴染を置いて逃げるなあああああああ!!」
すぐ隣にあったろ組の教室の戸をくぐって、1人だけそ知らぬ顔で逃げる八左ヱ門。俺は必死の思いで八左ヱ門に縋ろうとし――襟首をつかまれた。
いつの間にか足音も立てず俺の背後に回っていたのか、が重い口を開いた。
「昼休み前からずっと探してたっていうのにこの馬鹿、どこをほっつき歩いてた……!!」
恐怖に声も出ない俺をそのまま引き倒して教室まで連行していく。
「きゃああああああ命ばかりはお助けをぉぉぉおおおおおお!?」
命の危険に周りに助けを呼ぶ俺の頭を「何アホなこと言ってんだこの馬鹿!」と殴りつける。そのまま教室まで引きずられていく俺に、戸から顔だけ出した八左ヱ門が「ガンバ!」と口パクで無責任な言葉を伝えた。
「ちくしょうこの裏切り者ー!!」
「うるせえ近所迷惑だろうが!」
また頭部に鈍い痛み。ちくしょう、あんま殴るとグレるぞ!?