初恋も二度目なら

 最近兵助がおかしい。

 教室移動の際に勘右衛門から渡されたメモに目を通すと、その1文だけが走り書きで書かれていた。

胎動

 その内容に首をかしげる。はて、今朝食堂で会ったときはいつもどおり八左ヱ門をはじめわれわれから豆腐をせびっていたし、特に不自然な点はなかったはずだが。
 勘右衛門が言う「兵助がおかしい」とは、一体何なのだろうか? その疑問に頭をひねっていたら、隣に座る雷蔵が肘で脇腹を突いてきた。顔を上げると、先生がこちらを見て問題を解けと睨んできた。どうやら授業に集中していないと思われたらしい。苦笑いしながら席を立つと、黒板の問題を読む。そのまま問題を解いてしまうと、元の位置に戻る。
 席に座ると、机の上にあったメモが見当たらない。ひょっとして誰かが取ったのかと両隣を見ると、私の左隣にいた雷蔵がメモを凝視していた。矢羽音も使わずわざわざこんなものを回してくるくらいなのだから、おそらく雷蔵や八左ヱ門には見せないほうがいいものなのだろうが……どう取り返そうかと考えあぐねているうちにふと雷蔵が小さく「やっぱり」と呟いた。
「やっぱり?」
やっぱりとはどういうことなんだ。問い返そうとすると、雷蔵が無言で人差し指を自分の唇に当てた。今は授業中だから声を出すなということか。
 雷蔵は別の紙を取り出すと、さらさらと筆で何かを書いてよこした。毎度のことながら豪快な字に苦笑しつつも、その内容を覗き込む。

 僕もちょっと変だなって思ってた。

 何がだ? いつもどおりに見えたけど。

 ここ数日になって急に八左ヱ門と目を合わせようともしなくなった。


 ぴたりと、返事を書き込もうとした筆が止まった。
 声をかけようかと迷っているらしい雷蔵が、心配そうに私の顔を覗き込む。不安に思っているのだろう。

 どういうことだ? あの2人、そろそろ求婚も秒読み段階に入っているところだろう。

 どのタイミングでプロポーズするのか、雷蔵や勘右衛門と一緒に賭けていたことを思い出す。は「そういうことで賭けごとをするのは好きじゃない」と参加しなかったが。
 兵助はもともと恋愛に関しては鈍いところがあるから、私の見解としては今さらほかの女とどうこうなるとは思えない。ひょっとしたら純粋に結婚を意識して戸惑っているのではないのか。

 僕もそう思っていたし、勘右衛門も少し前に相談されてたみたいなんだけど

 そこでぴたりと雷蔵の筆が止まった。この先を続けることに迷いが生じたのか、雷蔵の視線が落ち着かずに宙をさまよい始める。こうなったらしばらくは話にならないだろう。
(授業が終わったら勘右衛門を捕まえて作戦会議しないといけないようだな……)
今後のことについて思考をめぐらせた後、再び意識を授業に向け始めた。


 授業が終わり、まだ迷っているらしかった雷蔵に声をかけて、連れ立ってい組の教室に向かう。勘右衛門に取り次いでもらうと、向こうも私の行動を予測していたらしい。
「鉢屋」
勘右衛門は呼ばれてから間をおかず、まるで私たちが来るのを待っていたかのように入り口に現れた。
「勘右衛門、さっきのことで話があるんだが」
「分かってる。ここじゃなんだから雷蔵たちの部屋でいいかな?」
「分かった」
食堂に向かう兵助の後ろ姿を横目で見て、勘右衛門の提案に賛成する。なるほど、私たちがあからさまに内緒話をしているというのに、それを気にかける様子もなく食堂に向かうとは、確かにいつもの兵助にはあり得ないことだ。
 はっきりと明確に示されたわけではないものの、どこかいやな予感がして仕方がない。
「で、兵助たちのことなんだけどさ」
部屋の中に入って座るなり、勘右衛門が重い口を開く。
「俺の見たところ、かなりまずい状況になってる」
単刀直入に告げられたその事実に私は雷蔵とともに顔をしかめる。勘右衛門がそう言うのだから相当だろう。
「ほら、夏休み明けごろに紗耶香さんが降ってきてさ」
「紗耶香さん? ……ああ、あの食堂の」
一瞬誰のことを言っているのか分からなかったが、すぐにあの可愛らしい顔が脳裏に思い浮かぶ。空から降ってきた天女という触れ込みの、上級生たちを次々に虜にしていっている少女だ。
「そうそう。その紗耶香さんを受け止めたのが兵助なんだけど、そのときからあんな感じなんだ」
「「はあ?」」
思わず雷蔵と同時に声を上げてしまった。
 だって、いくらなんでも展開がおかしい。突っ込みどころ満載だ。
「確かにあの人、美人だし優しくて、くのたまより毒気がないから僕もちょっといいなとは思うけど……」
でも、それだけでしょ? そう言外に含ませる物言いで雷蔵は勘右衛門を見る。私も同意見だ。
 あの片瀬紗耶香という娘は、確かに美人だ。それにくのたまと違って毒がない。だが、美人がいいというのならくノ一教室の中にもあれと同じかさらに上の美人はざらにいるし、毒がない女を好むのなら町娘でもいいはずだ。総合するとそこそこ大きな店の看板娘くらいといったところか。どちらにせよ、あそこまで競争率が高いというのには少々首をひねってしまう。
 恋とはそんな理屈ではないと言われてしまえばそれまでかもしれないが、トータル5年以上の付き合いの八左ヱ門を捨ててまでというのは私には想像のつかないことだった。
 ふとそこで、脳裏にの顔が浮かんだ。大切な幼馴染で好いた女でもある八左ヱ門がそんな状況になっていると知れば、あいつが黙っているはずがない。
「けど、それってまずいんじゃないのか」
知らず口からそんな言葉が漏れる。ほかの2人もその言葉が意味するところを薄々感づいていたのか、自然と表情が暗くなる。
はこのこと知ってるのか?」
「兵助が紗耶香さんに惹かれてることまでは知らないけどさ……八左ヱ門が気落ちしてるのを見てかなり頭にきてるみたい」
「だろうな」
私だって、兵助が友人でなければ間違いなくと同じ気持ちになるはずだ。実際、今だって兵助に苛立ちを感じ始めている自分がいる。
「……こんなことになるなら、ひょっとしてと」
「勘右衛門」
やや強い口調でその先を制す。
 私たちはの気持ちも兵助の気持ちも分かっていた。その上で両者を天秤にかけた挙句、がまだ自覚していなかったのをいいことに後者を選択したのだ。後になって友人たちが傷ついたからといって、あの時点からやり直すことなどできるはずもない。
 ああ、だけど。今でも、が八左ヱ門を見るときの視線に捨てきれない感情が混じっているのを私は知っている。本人の中では一応折り合いがついてきたようだが、それも何かの拍子にいつ決壊するかという危うさがあった。
 だから、今まで何かを言おうとして迷った結果無言を通していた雷蔵が、ふと漏らした言葉に私と勘右衛門も頷かざるを得なかった。

「いずれにせよ、修羅場になる予感しかしないね」