初恋も二度目なら

 突然三郎から告げられた事実に、目が回りそうになりながらもなんとか八左ヱ門の部屋にたどり着く。つい3日前に来たばかりだというのに、随分と久しぶりのように思えるから不思議だ。
「八左ヱ門、いるか」
思っていたよりも上擦った声が出て、自分は緊張しているのだと初めて気付いた。兵助と付き合いだしてからはあまり訪ねないようにしてたからなぁ……思わず苦笑してしまう。
 しばらく待ってみるが、返事がない。中の気配を探れば本人がいるのは丸分かりなのだが、どうやら居留守を決め込んでいるらしい。
 そういうことなら勝手に上がらせてもらうことにする。
「入るぞ」
障子を開けると、敷き布団が部屋の中央に敷かれているのが見えた。かけ布団はどこ行ったのかと部屋を眺めれば、隅のほうでこちらに背を向けて丸くなっている布団の塊が1つ。
 そっと布団をはがすと、細い肩がびくりと跳ねた。ちらりとこちらを伺うように、怯えた瞳に情けないほどうろたえた顔の少年が映る。
 一瞬、ショックで言葉が出なかった。
 こんな八左ヱ門は見たことがなかった。幼いころの八左ヱ門はいつだって前を向いて俺を守ろうと立つヒーローだった。兵助といたときの八左ヱ門は些細なことに喜びを感じてあふれんばかりの笑顔をこぼす年頃の少女だった。こんな、世界のすべてを敵に回したような目をする少女じゃなかったはずだ。
 八左ヱ門をこんなふうにしてしまった原因が、片瀬さんにあるかもしれないと思うと心が千々に乱れる。正直、考えたくもないことだ。
「……ああ、か」
少し前から思いっきり視界に入っていたはずなのだが、そこでようやく俺を認識らしい。こちらに顔を向けて上げられた声は存外に明るいものだったが、それを無表情のまま発せられると逆に怖い。
 元から痛みがひどい髪はボサボサの状態で、顔にかかっていてもまるで気にしたふうでもなく放っとかれている。暗く沈んだ瞳は死んだ魚を連想させるようで恐怖心をあおるが、意外なことに赤く泣き腫らしていると思っていた目元は涙の跡すら見当たらなかった。
「雷蔵から聞いて来たんだ。大丈夫か?」
「らいぞうから……ああ、うん、おれは大丈夫。
 もともとね、おれなんかより紗耶香さんのほうが美人で女らしいのは分かりきったことだし、兵助があの人を放っておけないのも仕方のないことだよ。だってあの人ね、こっちの世界のこと何も知らないんだもん。おれだって心配して付きっきりになっちゃうよ。だからおれが全部悪いんだ、あんな人に嫉妬するから兵助は」
「八左ヱ門」
無理やり口角を上げようとして失敗している様は、見ていて辛い。それに耐え切れなくなった俺はそっと両頬を手で包むように触れる。
「……?」
「無理に笑わなくていい。泣きたいときは泣いていいよ」
プロの忍になればそうも言っていられないだろうけど、俺たちはまだたまごなんだ。俺の前でくらいは、すべてをさらけ出してほしかった。
 八左ヱ門はこの言葉に驚いたように目を見開く。しばらく目を見張っていると、じわじわとガラス玉のような目から涙が溢れてくるうちに、目に小さな光が揺れ始めた。
「あ……!」
言葉にならない短い叫びが決壊の合図だった。涙がこぼれると同時にくしゃりと顔を歪めて、くずおれるように俺の胸の辺りにその顔を埋める。時折くぐもったしゃくり声が小さく耳に届く。俺はそっと後頭部を優しく手ぐしで梳いてやった。女の子がこんなに髪の毛ボサボサじゃさすがにかわいそうだ。

落涙

 どれくらいの間、そうしていただろうか。
 ここに来たときはまだ日が高かったはずなのに、とっぷりと日が暮れたころになってようやく落ち着いたのか、むくりと八左ヱ門が起き上がった。当然のことながら目はウサギのように赤くなってしまっているが、心なしか先ほどよりも気が晴れた様子にほっとした。
 そういえば涙にはストレス性物質が含まれているから、泣くのはストレス解消に効果があると聞いたことがある。聞いたときは半信半疑だったが、この分だと本当なのかもしれない。
「ごめんな、なんか心配かけて」
力なく笑う八左ヱ門の顔を見て、不意に頭の中で三郎が「さっさと告白したらどうだ」とささやく。いや、実際はそんなことは言ってない。確かにそういう選択肢があるとは言ったが……。
「どうしたんだ?」
「いや、なんでも……そういえば、3日間ご飯はどうしてたんだ?」
話題をすり替えるためにふと気になったことを口にする。三郎や雷蔵が簡単な食事くらいは持って来てくれていたのだろうが、食べていたのだろうか。
「あー……」
適当に言葉を濁したまま視線を逸らされる。……やっぱり食べていなかったのか。思わずため息をつく。
「とりあえず、消化のいいものを持って来るからちゃんと食べろよ」
「うん。……風呂にも入ったほうがいいかなあ」
「まずは食べてからだな」
3日間も飲まず食わずで風呂になんか入ったらブッ倒れかねない。
 あれこれ考えながら、まずは食堂に向かうことにした。夕食の時間帯からは少し遅れているからすぐに戻れるだろう。
「すいませーん」
食堂の勝手口からおばちゃんに声をかけると、ひょっこりとおばちゃんが顔を出した。
「あらあんた、夕食のときいなかったけどどうしたの?」
「ちょっと同級生が風邪を引いてしまったみたいなので様子を見に行ってたんです」
「あらら、保健委員も大変ねえ」
とっさに出た言葉に、おばちゃんは同情した様子で頬に手を当ててまなじりを下げる。
「それで、風邪を引いた子は大丈夫なの?」
「はい。食欲も出てきたようなんですが、ここ3日間何も食べていなかったみたいなので消化によくて栄養のあるものを頂けないかと……」
片付けに入ろうとしたところに申し訳ないのだが、さすがにこれ以上何も食べさせないというのは保健委員として心配なことこの上ない。
「あら、3日も食べないなんて体に悪いわ。待ってて、私が何か作ってあげる!」
台所の奥のほうから片瀬さんの声が聞こえてきた。奥を覗き込むと、そこには腕まくりをして早速料理の準備を始める片瀬さんの姿が!
「なんだか悪いわねえ、今日はもう上がっていい時間なのに」
「いえ、これもお世話になっている皆さんのためですから!」
けなげな言葉をつむぎつつ、その手は手際よく食材を切り刻んでいく。それを見て安心した俺は、料理ができるまでの間待っていることにした。
 そして、15分ほどが経過したころに「できました!」という元気な声とともに出されたメニューに、俺とおばちゃんは絶句してしまった。
 お盆の上に乗っているのはハンバーグステーキ定食。
 ぶっちゃけ、どう考えても病人とか病み上がりの人間に食べさせるものじゃないです片瀬さん……!
「さ、紗耶香ちゃん……さすがにこれを病人の子に食べさせるのはちょっと重過ぎると思うんだけど」
俺がどう反応していいか迷っていると、引きつった笑顔のおばちゃんが助け舟を出してくれた。うん、確かにこれは胃が弱っている人に食べさせちゃいけないものだ。
 叱るというよりも優しく諭すといった形容のほうが似合う指摘に、しかし片瀬さんの表情はみるみるうちに暗くなる。なんだかこっちが悪いことをしている気分になってくる。
「ごめんなさい、私ったら……」
「な、泣かないで! 別に怒っているわけじゃないのよ」
「そ、そうだよ! あーこれはうまそー、でも病人の胃には重いから俺がもらおっかなーなんつって」
目から大粒の涙をこぼし始めた片瀬さんを2人がかりでなんとかなだめ、改めておばちゃんに卵粥を作ってもらい、ようやく部屋に戻ってきたころには四半刻ほどがたっていた。
「……結構遅かったけど何かあったのか」
「聞かないでくれ……」
げんなりした顔の俺を見て、八左ヱ門は気になる素振りを見せたがあえて何も聞かないでくれた。正直助かる。
 片瀬さんって、実は料理苦手なんだろうか……?