「あれ、もうこんな時間だ」
持ってきた食事を八左ヱ門と一緒に食べると、そろそろみんなが寝静まるような時間帯になってしまった。そろそろ戻らないとまずいんじゃないのか、と心配そうな視線を送る八左ヱ門に軽く笑う。
「それじゃ俺は部屋に戻るけど、もしまだ不安だったら……」
泊まっていこうか? そう続けようとした俺の言葉をさえぎって「大丈夫だってば」と笑う八左ヱ門の顔は、まだ少し元気がないようにも見えるが常とさほど変わらないものだった。
これならきっと大丈夫だろう。腰を上げて伸びをすると、八左ヱ門がそわそわと落ち着きなく視線をさまよわせ始めた。
「あのさ」
「うん」
「その……なんというか、ありがとな」
語尾は小さくなってしまって聞き取りづらかったが、なんとか最後まで聞き取ることができた。けど、なんというか改めてそんなことを言われると照れてしまう。
「なんだかおれ、いつもに頼ってばかりだな。おれもに何かしてやれればいいんだけど」
「別にいいよ。俺だって八左ヱ門には助けられてばっかだもんな」
それに、好きな娘に頼られてうれしくない男がいるだろうか。心の中でだけ付け加えると、俺はおやすみを伝えて部屋の外に出た。
部屋から出ると、縁側に立って俺を待っている人物がいた。
「遅かったな」
「三郎?」
やや驚いた俺に肩をすくめながら三郎はこちらへ歩み寄り、耳元で「学園長があの娘の件でお呼びだ」とささやいた。確か彼女に関してはどこの城とも関係がないことは確認済みだったはずだ。
「それって上級生全員召集されるのか?」
もしそうだとするなら、八左ヱ門も呼んだほうがいいのだろうか。でもまだ完全に立ち直ったともいえない今の状態では召集に応じたとしても戦力になるかどうか……そんな考えに反し、三郎は「違う違う」と首を振った。
「学園長が呼んでいるのはお前1人だ。詳しい内容は会って聞いたほうがいいかもな」
それを聞いて俺は少しほっとしたが、それだと別の意味で緊張してしまう。よくも悪くも俺は地味なほうだから、八左ヱ門たちみたいに個人で呼び出しを食らうといったことがほとんどないのだ。
ひょっとして俺も突然の思いつきに巻き込まれるんだろうか――よく学園長の思いつきに付き合わされている幼い一年の3人組の顔を思い返し、同情した。なんだかんだで他学年との交流とか訓練にもなるから無駄なことはないとは分かっているのだが、どうしても身構えてしまう。
あれこれと呼び出しの内容が何か考えているうちに、いつの間にか学園長の生活している庵に着いてしまった。三郎から伝えられてすぐに赴いたのはいいけれど、外から呼びかけてから「ひょっとして今の時間はもう眠ってしまっているのではないか」と思い至る。しまった、日を改めてから訪ねるべきだったかと考えてももう遅い。
あああどうしよう学園長ったら変なところで子どもっぽいところがあるからこんなこと根にもたれたらどうしよ「入ってよいぞ」失礼しま……え?
「入ってよいと言っておるじゃろうが。何をしておる」
呆然としていたら、訝しげな学園長の顔が障子から覗いた。「え、あ、失礼します」われに返った俺はひとまず部屋の中に入ることにした。
「まあ、こんな時間では茶も出せんがとりあえず座りなさい」
暗に来るのが遅いと批判されているのか、それとも夜半に訪ねたことを咎められているのか。どっちにしてもなんか当てこすられている気がする。気のせいであってほしいが。
「お主を呼び出したのはほかでもない。片瀬紗耶香という娘についてじゃ」
「はい。それは三郎から聞かされましたが……片瀬さんは確か、先生方の調べによりどこぞの間者とかくノ一という線はなくなったのでは?」
学園の教師ですら完全に欺くというのはよほどの熟練でもなかなか至難の業だ。その先生方が判断を下されたのだからまず間違いはないと信じたい。
「うむ。確かにどこの城とも関係がないということは証明されておるし、彼女自身もそう言っておる。本人も見た限り、身元が全く分からんという以外は一般人そのものじゃ。
じゃが、裏を返せばそれはあの娘に関して分かっているのはそれだけということじゃ」
「確かにそうですね」
「その上、今の生徒たちの大多数は片瀬紗耶香に懸想して腑抜けているか、恋仲の相手を奪われて片瀬紗耶香に殺意を抱いている者ばかりじゃ」
学園長はそこで言葉を切ると、嘆かわしいとばかりに顔をしかめてかぶりを振った。やはり老いたりとはいえ往年の天才忍者、今の状況は把握しているらしい。
「学園としては、そういう状態はあまり好ましくはない。しかし一度『間者ではない』と判断を下しているのにもかかわらず、教師が表立って素性を調べるというのも今の状態では余計なあつれきを生んでしまう可能性があるのじゃ。
そこでわしは考えた。先生が駄目でも、あの娘にたぶらかされておらん生徒が本人にさりげなく聞いてみればいいのではないかと」
あれ、なんか雲行きが怪しくなってきた気がする。
それを察してしまった俺の引きつった顔を、学園長のキラリと光った鋭い目が映した。
「聞けばここ最近、片瀬紗耶香はお主のことを皆に聞いて回っているという。
これはこの忍務、お主が一番適任じゃろうて」
「ちょちょちょっと待ってください!」
夜中だということも相手が学園長であることも忘れて、思わず俺は立ち上がってしまった。だって、冗談じゃない。確かにそういうことなら俺以上の適任者はいないだろう。けれどそれには大多数の生徒たちを敵に回さなければならないという試練が待っているのだ。
「どうしたんじゃ、一体」
「いやあの、それって要するに俺が彼女に近づかなければいけないということですよね?」
「そうせねば話が始まらんじゃろうが」
「もし俺も片瀬さんに惚れていたらどうするんですか」
俺にとっても片瀬さんは初恋の人だ。もしかしたら昔の恋が再燃しちゃって、とかいう話もあり得るんじゃないかと思うわけで。
「それはあり得んじゃろう」
「えぇ?」
しかし学園長は即答で俺の懸念を笑って否定した。そこまで自信満々に言い切る根拠は何なのだろうか。
「片瀬紗耶香に惚れておるのなら彼女を放ってほかの女の様子を心配して夜中まで部屋に入り浸ったりはせん」
「ああ、それは確かに……って学園長?」
ふとそこでとある疑問に気が付く。学園長の言う「ほかの女」って誰のことだ? 俺はくのたまなんかとは全くといっていいほど縁がないのに。
「何を不思議そうな顔をしておる。先ほどまで竹谷八左ヱ門のところにいたではないか」
「あ、れ?」
至極当然のように八左ヱ門の名前を出されて俺は混乱した。八左ヱ門が女だと知っているのは本人を含めても俺たち6人だけで、先生方も誰も知らないはずだ。だって、知っていたら途中で忍たま長屋から引き上げられるに違いなかったから。
でも、学園長は知っている。確実に。
「い、いつからですか?」
「三年に上がった辺りからかのう」
すんなり出た答えにめまいがした。2年間ずっとバレバレだったってことじゃないか!
「安心せい。今のところこのことはわししか知らん。あ奴は忍たまとしても優秀じゃから、お主がうまくこの忍務を果たしてくれれば誰にも知らせんと誓おう」
「……八左ヱ門を人質になさるおつもりですか」
数秒遅れて出た言葉は思っていたよりも険のあるものになってしまった。が、仕方がない。学園長は八左ヱ門の立場が不安定なことを利用している。
「まあそう構えるでない。忍務を引き受けてくれたら、このことを不問にすると確約すると言っておるだけじゃ。
残りの1年半、確実に隠し通せるのなら無理に引き受けんでも構わんが、その場合は露見した際のことも相応の覚悟しておかねばならんというだけのこと」
取引とも脅しともつかない言葉に、俺は悩んだ。5年近くを乗り切ったのだからあと2年足らずくらいは隠し通せるはずという思いと、もしもの際の保険をかけておいたほうが安全だという打算が頭の中でせめぎ合う。
そして、俺が出した結論は、
「……やれるだけのことはやってみます」
だった。