「ごめんね、待たせちゃって。はい、お茶」
礼を言って湯飲みを受け取ると、俺はその中身を一口すすった。今の季節にはまだ熱い茶はつらいものがあるからこの温めの温度がありがたい。そのまま乾いた喉を潤し、中身が半分ほどになった湯飲みを置くと、おもむろに会話を切り出した。
「そういえば片瀬さんって意外に肝が据わってるよね」
「え?」
さもその場でふと思ったかのように話を振ると、片瀬さんはきょとんとした顔で聞き返した。
「いや、普通いきなりこんな状況になったら混乱するだろうに、随分落ち着いてるみたいだったからさ」
「どうして混乱するの? 夢にまで見た展開なのに」
本当に何の不満があるのだろうかという目で片瀬さんが俺を見る。本当に分からないんだけど、夢にまで見るような展開ってあったっけ?
タイムスリップしてどこぞの城の若さまと結婚したいとか歴史上の人物に会いたいとか、そういう展開ならまだ分かるんだけど、この学園内や関係者にそんな人はいない。学費が高いこともあってそれなりに裕福な家の子は多いけれど、平成に比べればどうしたって生活水準は下がってしまうし第一そういう奴って許婚がいることがほとんどだ。
うんうん考え出してしまった俺を見かねてか、片瀬さんが戸惑ったように口を開いた。
「ひょっとしてくん、忍たま乱太郎って知らない……?」
「? 乱太郎ならうちの委員会にいるけどそれが何か」
関係があるのか、と続けようとしてぴたりと口が止まった。その名前には平成の時代でも聞き覚えがあった。いやでもまさかあり得ないだろ常識的に考えて。
NHKのギャグアニメの世界に入っただなんて、そんな馬鹿な。
けれど、片瀬さんの目は間違いなくそれが事実であると訴えていた。それに何より、おぼろげな記憶からも偶然で済ませるには多すぎる類似点が思い浮かぶ。
「わたしね、ずっと忍たま乱太郎の世界に来たかったんだあ」
小さな子どもが大好きな童話に入りたいと願うときと同じ瞳で、片瀬さんがうっとりと笑みを浮かべる。
「くんは知らないだろうけど、最近の忍たまってすごいのよ。かっこいい上級生がたくさん出てくるの」
俺が学園に入ったときから上級生はいましたが。……いや、アニメに出ていないのなら視聴者にとってはいないのと同じことか。世知辛い世の中である。
「それでね、わたしその中でも五年生が大好きなのー! いきなりこっちに飛ばされたときはどうなるかと思ってたけど、今の逆ハー状態はもう夢みたい!」
夢みたい、か。一応こっちもこっちで現実なんだけどなあ。学園内は一応安全ではあるけれど1歩外に出たら戦やら山賊やらで常に死の危険と隣り合わせだし、その学園だってしょっちゅう学園長の命を狙う忍者とのドンパチがあったりする。生徒にとっては一種の見世物のようなものだけれど、素人にしてみれば十分危険な環境だ。
先ほどの言葉で、この状態は片瀬さんにとっても不測の事態だということは分かった。だけどのんきにはしゃいでいる片瀬さんの姿を見ていると、そこら辺のことをまだよく分かっていないのではないかと思える。
けれど、それよりも少し気にかかることがあった。五年生が大好きということは、兵助の気持ちに関してはどう考えているのだろう。ちょっと聞いてみようか。
「それじゃあ兵助のことはどう思う? あいつは片瀬さんのことが本気で好きみたいだけど」
何せ恋人である八左ヱ門を捨てたくらいだし。内心でそう付け加える。
八左ヱ門を泣かしたことに関してはむかつくけど、兵助は俺にとっても友人だ。できることならあんまり不幸な結末は迎えてほしくはないと思うわけで。
「兵助くん? うーん、そうねえ」
片瀬さんはその場で少し考え込むしぐさを見せてから、残念そうな表情で「でもなあ」と続ける。
「わたしのために恋人と別れてくれたみたいだけど、もう落ちは別の人に決めちゃってるの」
「落ちって……それって兵助のことは別に好きじゃないってこと?」
「うーん、そういうのとはちょっと違うんだけど」
結局どういうことなんだろう。歯切れの悪い返事がどことなく腑に落ちない。あんまり人気者だと誰と付き合おうか迷って優柔不断になってしまうものなんだろうか。
「それで、結局誰が好きなの?」
興味半分で思わず問いかけた言葉に、片瀬さんはよくぞ聞いてくれましたとばかりに微笑む。
「その子ね、竹谷八左ヱ門くんっていうの!
最近は体調を崩して具合が悪いみたいで会ってないんだけど、部屋に行っても三郎くんが『風邪が移るといけないから』って言って会わせてくれないの。まったく、せっかくの看病イベントがつぶれたらどうしてくれるのかしら」
『看病イベント』とやらを邪魔されたことにぷりぷりと怒る片瀬さんの目に、俺はひどく傲慢なものが見えて視線を外した。三郎は八左ヱ門の体調を気遣っただけだというのに、なんていい草なんだろう。片瀬さんの、好意を寄せる相手の見舞いに行こうとした行為は別段責められるものではないから仕方ない、とは思いつつもそんなことを考えてしまう。
「兵助くんにも協力してくれるよう頼んだんだけど、八左ヱ門くんとはなかなか会えなくて」
「え? ……兵助に頼んだの?」
聞き捨てならない言葉に俺は戦慄した。だって、自分のために恋人と別れたとさっき言っていたじゃないか。そんな男に元恋人――おそらく彼女は知らないだろうが――を紹介してくれと言ったというのか。
それは無神経にもほどがあるだろう。嫌悪感に眉根を寄せるのをなんとかこらえるが、たとえ実際にそうしてしまっても目の前ではしゃいでいる彼女は気付きもしないだろう。
あいつの八左ヱ門に対する仕打ちには心底腹を立てていた俺だが、この仕打ちはさすがに兵助に同情してしまう。よく片瀬さんに八左ヱ門の秘密をバラさなかったものだ――バラしていたらまず確実に学園中に話を広められてしまっているだろうから。
「それで兵助くんに聞いたんだけど、くんは八左ヱ門くんと幼馴染なんですってね」
一気に声のトーンを落として片瀬さん――片瀬紗耶香が問う。というよりも確認するといったほうが正しいだろうか。瞬間的に部屋の温度が下がり、空気が張り詰めたものへと変貌した。
思わず身構えようとするが、指先が思うように動かないことにそこで初めて気が付いた。忍の卵たるものがなんという体らたくだ、内心で舌打ちする。保健委員の耐性を越えるようなしびれ薬など一般人が持っているはずがないと油断したのが悪かったのか。
「ようやく効いてきたみたいね」
俺の体が思うように動かない様子を見て、片瀬紗耶香はぱっと顔を輝かせた。いたずらが成功した子どものようなそれは、この場にはひどく不似合いなものだ。
それにしても、こんな無味無臭のしびれ薬など一体どこで手に入れたというのか。疑問に思っていると、外から伊作先輩が後輩を呼ぶ声が聞こえてきた。
「乱太郎ー!」
「伊作先輩、どうなさったんですか? そんなに慌てて」
「いやそれが今、薬の在庫を確認したんだが昨日調合したしびれ薬が大量になくなっていたんだ」
「しびれ薬がですか?」
「少量なら命に別状はないんだけど、致死量が無断で持ち出されているんだ。私はこれから先生方に報告しに行くから、乱太郎はほかの委員と手分けして生徒に注意を呼びかけておいてくれ!」
「わ、分かりました!」
2人分の気配がその場から遠ざかっていくのを感じながら、俺はまずいことになったと思った。先輩の言っていた持ち出されたしびれ薬というのは、今まさに俺に使用されたものだろう。しかも致死量とか言ってなかったか。
片瀬紗耶香をにらみ付ける。しかし圧倒的有利を悟っているのか彼女は美しい、しかし天女とは程遠い毒々しい笑みを浮かべるだけ。明らかに殺意を持っている。
「あなたはわたしを襲おうとするの」
恋人に愛をささやくようにわけの分からないことをのたまいながら、片瀬紗耶香が俺の懐に手を入れる。中をまさぐられ、ややあって取り出されたのは普段から俺が愛用している苦無だった。
「理由はなんだっていいわ。わたしを自分のものにしたとか、適当なくのたまを見繕ってその子にそそのかされたことにでもすればいいんだし」
ああ、なんか話が見えてきたぞ。要するに邪魔者である俺を殺しても怪しまれない、同情を引くような筋書きを考えているのか。
「かわいそうな八左ヱ門くん。親友がそんなことをしたと知ったらきっとひどく裏切られたと思うでしょうね。
そんな彼を被害者のはずのわたしが彼を優しく慰めるの。そして2人は――」
その先は言葉にしなかった。代わりに片瀬紗耶香の瞳が恍惚を帯び、笑みがいっそう深くなる。
「な、にを」
馬鹿なことを。続きの言葉は声にならなかった。
おそらくこの女の思いどおりにはならない。いくら片瀬紗耶香が来てから腑抜けているとはいえ、学園も馬鹿じゃない。忍たま上級生がただの女に隙を突かれて殺されるようなことがあるはずがないし、怪しまれて確実に死因を調べられる。毒が仕込まれていたことを突っ込まれれば彼女の計画は簡単に瓦解する。
だが、それを今の片瀬紗耶香に説明しようとしても舌が回らないし、第一それで引き下がるとは到底思えなかった。
「さようなら、くん。あなたという邪魔者を排除して、わたしはわたしの望むエンディングを迎えるわ」
手にした苦無を大きく振りかぶり、目に凶器を宿らせながら片瀬紗耶香はそれを振り下ろした。
痛みは、来なかった。
「な、んで」
片瀬紗耶香が呆然とした表情で俺の前に下りてきた人物を見つめる。その視線は相手の胸元に釘付けになり、顔は先ほどまでとは違って真っ白になっていた。
「は、ちざえもん」
やっとのことでこちらに背を向けている人物の名前をしぼり出す。
どうしてなのかは分からないけど、おそらく天井裏に隠れていたのだろう。凶刃にかかろうとしたその瞬間、上から突然八左ヱ門が間に割って入って俺を庇ったのだ。その証拠に、片瀬紗耶香の手に握られた苦無には八左ヱ門の装束とさらしの切れ端が引っかかっている。
「話はすべて聞かせてもらったよ。あんた、自分が今何をしているのか分かっているのか」
すっくと立ち上がって片瀬紗耶香を詰問するその背中には、はっきりと怒気が見て取れた。これは本気で怒っている。しかし詰め寄られている当の本人は片思いの相手に悪事の現場を見られた上、その人物が同性である証拠を見てしまったショックからか、八左ヱ門の言葉が聞こえた様子もなくぶつぶつと何かを呟いていた。
ええと、俺、助かった?
急にふっと意識が遠のいて仰向けに倒れ込むと、われに返った八左ヱ門が慌ててこちらを振り向き、俺の体を抱き起こそうとする。
「、大丈夫か!?」
八左ヱ門が慌てた様子で俺を揺さぶる。毒盛られてるからあんまり動かさないでほしいんだが。
だんだん息苦しくなってきた。ひょっとしてこのまま肺や心臓の筋肉まで麻痺したら俺死ぬんじゃね?
「しっかりしろ、死ぬんじゃない! 、……!」
ああ、泣かないで、はっちゃん。
俺の意識はそこでぷっつりと途絶えた。