半年の間、朝という憂鬱なシロモノを楽しいものにしてくれていた番組が終わった。月曜日の朝でさえ、これがあると思うと待ち遠しくてしかたなかった。ありがとう「ちりとてちん」。
最終回前日などは、放映終了直後の8時半のニュースでNHKのアナウンサーが「明日の最終回もお楽しみに」と言うから驚いた。>http://jp.youtube.com/watch?v=CfoTZ0NePE0
以下は鬱陶しく考えた私見である。要点をまとめると「人情喜劇としては傑作。しかし落語家を描いた物語としては不満」となる。あまりいいことは言っていない。
常打ち小屋、ひぐらし亭のこけら落としを目前にして妊娠が分かった若狭。こけら落とし記念の高座にあがることは控えることとなり、またつわりもあって忙しく働く人々の助けにもなれない。
落ちこんでいた若狭は、草原の息子、颯太の勧めでこけら落としの口上を述べる徒然亭一門を照明室から見ることになる。18歳のころ、文化祭の舞台で三味線を引く清海たちに一人ぼっちで照明を当てていたように。本当なら、自分もそこにいたはずの場所を見つめる心に生まれていた思いは、しかし当時とまったく別のものだった。
数ヵ月後、10月11日。祖父、正太郎の命日にあがった高座を若狭は最後と決めた。師の草若が息を引き取った日、やはり草若に見送られて楽屋を出たように、今度は祖父が若狭を見送る。「砥いで出てくるのは、塗り重ねたもんだけや」
突然の廃業宣言に面々は驚いたが、いつもおろおろするばかりの若狭が一人落ちついていた。自分の本当になりたいもの、それは「おかあちゃん」なのだと分かったから。脇役人生の専業主婦は嫌だ、スポットライトをあびる主役になりたいと故郷を飛び出した少女がたどりついたのは、陰にかくれる照明係、自分の出発点だったのだ。
最終話は、周囲の人々のその後が喜代美の出産と共に語られるゆったりとした構成。散々、朝ドラらしくないと言われてきた「ちりとてちん」だが、ここにいたっていかにも朝ドラらしい幸福な人々が現われる。小草若あらため四世草若と清海が「いい雰囲気」なのは予定調和なのか、はたまた今作におけるテーマのひとつたる「AとBの融和」なのか。
そして分娩室に入った喜代美が心配で心配で、どうか届けとばかりに「愛宕山」を繰りはじめた草々(ここでも多用されてきた反照法が現われる)。ふたりの子がうまれたのは「その道中の陽気なこと」というくだりにさしかかったところだった。まさしくその人生を祝福するように(しかし陣痛が始まってから出産までえらく早い)。
ドラマは終わってしまうけれども、そこに生きていた人々は消えずに人生を続けている。そう感じさせるがごとく、「本当の」主役への道を歩きはじめた喜代美の美しい笑顔に、二十年後からのナレーション(上沼恵美子)が重なって物語は幕を閉じる。
最終話まで通して考えると、このドラマは卑下していた自己を肯定し、そこへ回帰していく人々を描いていたということが分かる。つまり直線的な成長ではなく、出発点へと戻っていく円環的な構造の物語だったのだ。登場人物全員、どこか「おさまるべきところへおさまった」という印象が強いのはそのせいだろう。
実は私、最終回は「草々が四世草若襲名、完成した常打ち小屋で口上を述べる。ラストシーンは上沼恵美子演じる数十年後の若狭が”ようこそのお運びで”と高座に上がるところで〆」だと予想していた。名跡は小草若が継ぎ、若狭は廃業と予想はすべて外れてしまったわけだが(笑)。
このおそらく誰も予想していなかった若狭の廃業。これまでの経緯を鑑みると妙に納得させられるフシがある。そもそも若狭が――喜代美が草若に入門した動機は、小草々含む他の門人とは異なる。いずれもが師の芸を受け継ぎたい、と落語家を志したとされているが、喜代美のそれは思い人の草々に近づきたい一心、A子のいない場所(自分がスポットライトを浴びられる場所)に行きたいという思いだったと描写されてきた。
算段を好む四草でさえ、エリート商社マンの地位を蹴って草若の「算段の平兵衛」に感動してこの世界に入ってきた。本当に算段だけで生きている人間なら、そんなことはしない。
喜代美本人、また周囲の人々の台詞で何度も「(若狭は)落語が好き」「師匠の芸を伝えたい」と語られてはいたが、そうした台詞にそぐうような描写がまったくなく、説得力の薄さがずっと不思議だった。喜代美が好きなのは落語ではなく祖父の思い出であり、草若の芸を伝えたいというより、伝えようとする草々の助けになりたいとしか見えなかった。
そうした喜代美のある意味「不純な」動機を否定はしない。始まりがなんであれ、最終的には落語と真摯に取り組んでいくのだろうと思ったからだ。が、いつまでたってもそのあたりには触れられず、喜代美と落語のかかわりについても深くつっこまれずドラマは終わった。創作落語が実体験を語っているだけなのはドラマとしてご愛嬌としても(喜代美は落語の世界の住人と何度も言われているし)、「徒然亭若狭」が客観的にどんな落語家なのかも劇中では描写されていない。むしろ落語に対する苦悩は小草若一人が負っていた感がある。
だいたい「ちりとてちん」は、嫌になるくらいの伏線の細やかさ、演出の巧みさで話題になったドラマである。私自身、失踪していた小草若が復帰を決意するシーンで、かつて小浜の落語会に小草若もその場にいた…と語られたところなどは舌を巻いた。
そうした「売り」を持つ脚本のはずが、喜代美の落語に対する思いの描写に関しては奇妙に薄く、ものたりなかった。しかしそれにはれっきとした理由があったと廃業宣言で分かった。ラストで「おかあちゃん」になりたい、という結論を出すから落語へ本腰を入れさせるわけにはいかなかったのだ。だからこそ必要になってくるのが喜代美の対の存在に配された小草若。つまり喜代美にさせられなかった落語家としての苦悩、葛藤、成長を彼が担っていたことになる。
やはり見ているこちらが嫌になるほど脚本が細かい。
だが、物語全体の流れからいえば喜代美の選択は必然的な結末だったとしても、それは中盤の展開、特に三世草若の死去あたりを無視したかのようなのも事実だ。
若狭は言う。「これでも十三年修行した落語家やねん」と。彼女が過ごした十三年間と、おかあちゃんみたいになりたい、という結論にはほとんど繋がりがないように見える。むしろそれ以外の部分、A子への劣等感にさいなまれつづけてきた時期を乗り越えた結果だろう。邪推が許されるなら、喜代美にとって落語は添え物だったとも思えてくる。はたして喜代美は落語家としての修行から何を得たのだろうか?母になる、という決意が修行(を含めた諸々)に裏打ちされてこそのものであったなら、とその点はまことに残念だ。作中何度も出てきた、塗り重ねてきたものだけが模様になる、という台詞はここには生かされていない。
確かに人情喜劇としての近作を考えれば、喜代美のこの選択は妥当なものだ。しかし、それが非常にステレオタイプな母親像への回帰である、ということは留保する必要があろう。
おかみさんと落語家の「兼業」が正解などと、古いことを言うつもりは毛頭ない。朝ドラは女性の主人公が職業で大成し、幸せな結婚をする、という基本モデルを持つが、さんざん朝ドラらしくないと評されてきた近作もそのパターンにおさまったといえる。専業主婦が職業か、という向きもあろうが、作中で語られている通り、「おかあちゃん」はみんなを陰から支える照明係(太陽)という立派な職業だ。欲を言えば、追いやられた場所で自己肯定したような演出ではなく、自分以外の誰かも立派な脇役としての人生を送っていることを知り、そこから肯定するという流れに持っていってほしかったが。
もちろん基本モデル云々は偏見だ。しかし、開始当初はともかく、ここ最近、特に十数年くらいに製作された番組に限って言えばそう間違っちゃいないのではなかろうか。なぜ夢をかなえなければいけないのだろう。なぜ良人を得、子どもをもうけなければいけないのだろう。朝ドラの世界にはパッケージングされた幸福が存在しているように見える。
それを魅力的に彩るのが脚本の仕事だが、さて「ちりとてちん」はそれに成功したのだろうか、はたまた失敗したのだろうか。
また、おかあちゃんになる、という喜代美の言葉がちぐはぐに思えたもうひとつの理由。それは草若が彼女に遺したものはなんだったのか?という疑問だ。
死病を患った草若は、お客に受けないと悩む若狭に「創作落語をやれ」と言う。不器用で覚えの悪い弟子に教えてやりたいことは山ほどあるのに、もう自分には時間がない。だからせめて落語を続けていけるように、創作落語という道を示してやりたい。そんな思いがこもった師匠の言葉を、若狭は受け取ったのではなかったか。自分には教えてやれないが、自分の落語は兄弟子だちに受け継がれている。そこからいつかお前の「地獄八景亡者戯」をやれ、という台詞はなんだったのだろう。
このエピソードが感動的なものだっただけに、落語を廃業するという行動はなおさら大きな違和感となって残る。
ついでに書いておくと、喜代美がおかみさんに専念するのはともかくとして、「ひぐらし亭に来る落語家みんなのおかあちゃん」の意味がどれだけ考えても分からない。おかみさんに専念するのはまだ納得できるんだ、まだ。お客、落語家みんなのための小屋のはずが、名前といい大きく描かれたひぐらし紋といい、徒然亭の徒然亭による徒然亭のための小屋である。なんだか唐突に徒然亭が上方落語界を代表しているがごとく描写され、感慨よりも疑問の方が先立って受け取られた。はっきり言って、喜代美は「みんなのおかあちゃん」と言えるほど落語に関わってないし懐も深くないよな。そういう器ではない。
さて私にとって若狭の廃業よりも意外だったのは、小草若の襲名である。なにせ草若の芸風は草々が受け継いでいると繰り返されてきたのだ。ネタ数、実力ともに比較にならないほど差があるのだから、名跡を継ぐのは草々だろうとばかり思っていた。
しかし草若死後、次第に小草若の葛藤は襲名より他に解消の道はない、と描かれるようになり、あれよあれよという間にあの最終回である。ところで草々は「名跡は小草若こそ継ぐべき」と言っていたが、自分が継ぎたいとは露ほども思わなかったのだろうか?思わなかったとしたら、それも妙な話だ。
しかし鞍馬会長は、ほかでもない、三世草若の息子にこそ継いでほしかったんだろう。「また草若に会えた」という台詞からしても。ところで戦地から復員した鞍馬太郎が天狗芸能に入社し、二世草若やその弟子(若き日の三世草若)の芸に惚れこんで以下略、みたいな話は(略)。
…願望が表出したようだ。失礼した。そういえば製作が決定したというスピンオフ作品、それは絶対にないと承知で戦後編を希望したい。「ちりとてちん」はドラマとしてきれいに風呂敷を畳んだから、その後の人々よりも世界観が広がるような番外編が見たいものだ。言うだけはタダだから構わないだろう。