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奇跡と、無遠慮な信頼と――「鋏の託宣」から

 「鋏の託宣」を読んでからこっち、ひかえめに言っても頭が爆発した状態が続いている。もちろんその原因は、われらが市長ようやくのおでましにほかならない。発売を何日か前にひかえたあたりから「あー、出るわサルア。間違いなく出るわ」と謎の確信を得ていたのだが、まさか本当に出るとは思わなかった。せっかく「こんなこと言ってたけどやっぱり現実は(略)」とネタにしようと思っていたのに。
 私はtwitter上で、これは夢ではないのか、出番も台詞もあるなどと明らかに現実であるはずがない、などと激しく動揺をあらわにしたツイートを繰り返した。すると、ある方からこのようなmentionをいただいた。「世界の滅亡が近いのだから、もはや何が起こってもおかしくないのでは」と。なんということだ、サルアの出番は世界の存亡と等価値なのか。つまりサルアは全世界質量降臨そのものだったのだ。
――などと夜な夜な暴走する妄念をキーボードに叩きつけ、わけのわからぬ話をtwitterで展開している。珍しくその一部がまとまった形を取ったので、こうして日記に載せてみる次第。

 「鋏」におけるサルア君についてはさまざまな感想を抱いた。「サルア君てばほんとにオーフェンのこと好きよネー」などと冗談交じりに考えたのはそのうちのひとつだ。実は昔から薄々思っていたのだけれど、さすがに口にするのは憚られたんだけれど、あの様を見てしまってはとうとう認めざるを得ないと悟ってしまったのだけれど、そうとしか言いようがない。
 余人がいると本音を隠す、つまりはオーフェン相手以外には市長としての顔を貫くということで、私にできるのはもはや「なんなんだお前は」と呆然とするのみだ。確かにその立場上、腹を割って話せる人間は少ないだろうし、オーフェンとは二十年来の協力関係にあり互いの事情にも精通している。だとしても他にいないのかよなにか。ラチェットが「父さんの付き合いの範囲は昔から変わってないから駄目なんだと思う」的なことを言っていたが、サルアのほうも相当だ。あとよくよく考えたら、オーフェンのほうもなんでサルアが自分には私人として話すと確信しているのかと言いたい。聞きたい。
 もともと、サルアは鋼の後継キリランシェロに妙な思い入れを持っている。それがよくわかるのは、たとえば「背約者」での、「オーフェンのことはオーフェンって呼んであげて」というクリーオウの台詞に答えを返さなかった場面だ。このときサルアはおそらく、クリーオウのほうに理があると感じただろう。思ってもみないことを言われたというより、痛いところを――自身がキリランシェロの名にこだわっていることを突かれた、と。レティシャのように、「自分にとってはあくまでもキリランシェロだ」と自然に考えていたということはない。嫌がらせで「キリランシェロ」と呼びかけるくらいだからだ。この点、クリーオウの前ではオーフェンと言い直したアザリーは対照的である。
 初登場の「狼」の時点では、腕に覚えがあり、またその立場からキリランシェロの名を聞き知っていたため、腕試しに斬りかかった程度のことしか見えない。とはいえ、このときすでに「俺のところにいつか来る」とつぶやいている(しかも、喜悦に目を光らせて)。これで何もないと考えるほうがおかしい。
 「終端」で登場した際、オーフェンと名前で呼びかけたことで、てっきりこの思い入れからは卒業したのだと考えていた。
 しかし「鋏」を読了してからひと月ほど経ったある日、ふと恐ろしい考えが私の頭をよぎった。ひょっとして、サルアは相変わらずオーフェンを名前で呼んでいないのではないか?
 「終端」以降、サルアの出番はいずれもオーフェンとの会話だ。その中で、「オーフェン」とはっきり口に出して言ったのは最初の台詞「噂になってるぞ。魔王オーフェン」一度きりである。邪推すれば、これも直に呼びかけたというより、あくまで手配書に載った名として読み上げたともとれる。二つ名の魔王のみならずわざわざ名前まで台詞に入れたのは、主人公が読者の前に姿を現す最初のシーンだから、という理由もあるかもしれないが。
 もちろん一番ありうるのは私の考えすぎという線だ。少ない――いや、多い? 分量については客観的な判断ができかねるのだが、ともかく限られた出番、限られた台詞の中に”たまたま”会話相手の名前を差し挟む余地がなかっただけなのかもしれない。それに第三部から第四部に至る二十数年の間、一度も名前を口にしなかったなどとはありえまい。そんなことは現実的に不可能だ。
 けれども、「名前には意味があると思っている」というオーフェンの台詞や、クリーオウの言葉に対してサルアが見せた逡巡を思い返すにつけ、「まさか……」という懸念がつきまとうのだ。
 だとすると思い入れの深さたるやよほどのものだが、どうしてまたそこまで。
 これは単なる劣等感とは、異なる種類のものであるようだ。なぜなら、すでにサルアは兄ラポワントに対して尊敬と劣等感を向けており、同種の感情を別の人物に持つというのは、いささか不自然なように思われる。また、キリランシェロにコンプレックスを抱いている人物といえばハーティアがいる。サルアとハーティアをだぶらせる必要性は、物語上ほとんどないだろう。
 ではなぜ、死の教師が魔術士相手に思い入れを持つのか。といったところで浮かんでくるのがオレイルの存在だ。
 少し話はそれるが、優秀な人間を輩出する名家に生まれ、出来のいいお兄ちゃんと比較されて育っただろうサルア君にとって、オレイルに「見込まれて」弟子となったというのは、さぞ自尊心を満たしたことだろう。だって大陸における剣の帝王とまで言っちゃうんだもの。またオレイルいわく、自分に弟子入りしたのはサルアにとって貧乏くじだったとのことだが、この師弟は良い関係を築いていたように私は思う。
 さて、チャイルドマンのキムラック侵入の件は、伝えられている話と実際とでは隔たりがある。クオとオレイルが撃退したとなっているが、詩聖の間への侵入と最終拝謁まで許したのだし、死の教師たちは手も足も出なかった。そのあたりの事情を、サルアはオレイルから直接聞いている。「剣」が自尊心のよってたつところだったサルアに、師の戦士としての命を絶ったチャイルドマン、その後継者キリランシェロの存在は彼にある種の感慨を抱かせ、自分自身の相似形として見るようになったのではないか。
 さらにもうひとつ。サルアは、未来と門戸をみずから閉ざしたキムラックの現況を打破したいと望んでいた。そんな彼の目に、単身で教会を危機に陥れた魔術士なる存在はどう映ったろう。これを考えるとなかなか面白い。思えば、「背約者」で女神の来臨を前にして、サルアはオーフェンに「どうするんだ」という台詞を吐いている。どうするもこうするも、なぜオーフェンにそれを訊くのか。その心がちょっとわからなかったのだが、彼が魔術士の”力”に、もっといえばチャイルドマンの、キリランシェロの力をこそ、重要とみなしていたとすれば筋が通る。
 ラモニロックとて、自らを殺してくれる術を持つ者としてチャイルドマンを待ち望んでいたではないか。サルアが、己には決して持ち得ない力を有する魔術士を、「なにかをもたらす者」と見ていてもおかしくはあるまい。であるからこそ、「背約者」での「ようやくお前は来てくれた」という台詞につながるのだ。
 その思いは、憧れや期待とはまた違うだろう。やや大げさに話を膨らますと、ドラゴン種族が神という奇跡を望んでいた話と通じるものがありはすまいか。

 一方、オーフェンのほうはサルアをどう認識していたか。本文に登場する「友人」なる単語にぞわっとするものをおぼえつつ考えてみよう。
 「鋏」で彼らは決別したわけだが、私はそこに失望を見た。自分の贔屓にしているキャラクターが、主人公に失望されるのを読むのは、なかなかに肝が冷える。
 ところで、サルアはオーフェンを失望させるに足ることをやらかした。これを遡ってみると、オーフェンは「こいつはやらかさない」という信頼を寄せていたというところにたどり着く。この信頼は「無遠慮な信頼」とでも表せよう。公正な表現とはまったく言い難いものだが。
 オーフェンは相対した他者を”冷静に”信頼する。あたう限り正確に、他者が自分にどこまで預けるのか、そして彼自身も相手に預けられるかをはかる。言い換えれば、相手の能力を見極める。「ここまでは自分と協力してくれる。ここからは敵対することもありうる」と、相手それぞれの能力、信条、責任に見合った線引きをこなす。魔術士らしい、いや決戦能力に秀でた彼ならではの態度かもしれない。
 彼は過小評価も過大評価も(おそらくは)しない。かといって、判断を誤らぬわけでもない。ゆえに、失策もおかす。だが冷静であるため、一見失策や裏切りには無防備と思えるほど相手を信頼し、そして必要とあらば冷淡に相手との関係を(鋏によって)切る。
 「終端」でオーフェンがサルアに接触したのは、原大陸への渡航をぜひとも成功させたかったからだ。つまり、アーバンラマが――ドロシーが開拓団として送り出す難民をまとめる人材を欲しがり、オーフェンはその条件にあてはまる人物に心当たりがあった。
 ではサルアの有していた「オーフェンが信じるに値するもの」とは何か? 教師であり(難民たちが信用するリーダーとなれる)、なおかつキムラック教徒でありながら魔術士を敵視していない、という特異条件。あとまあ、まんざら知らぬ仲ではないのでサルアの人柄もオーフェンは多少は知ってもいた。けれども彼が寄せた信頼とは、その実とても無遠慮なものなのだ。
 ここで思い出していただきたいのは、「終端」での、オーフェン先生による世界設定おさらい講座だ。あれは読者からすれば「『嘘だったんだぴょーん』ってマジかよぉぉぉ」なびっくりアタック的なものでしかない(しかも新たな事実は断片的にしか示されず、当初の予定通り刊行がここで終わっていたら読者は苦しんだこと請け合いである)。だが聞き役のサルアにしてみれば、これは「非常に際どい話」だ。一連の場面をサルアの心情に寄り添って読んでみると、がぜん緊張感が漂いはじめる。
 この世界では、魔術は誰もが修得できる技能ではなく、あくまで遺伝的素養によって発現する能力だ。身近に手から破壊光線を出せる”生物”がいたとしたら、非魔術士は一線を引いて見てしまうのも普通のことかもしれない。事実、西部編のころは魔術士蔑視が何度か描かれていた(「機械」「狼」など)。もっともこのころはまだ作品のテーマというよりも、ストーリーに緊張感をもたらす仕掛けにとどまっていた。これが第四部ではメインテーマとして表れてくるのだから、わからないものだ。
 そしてキムラック教徒は魔術士を汚らわしく、また根絶やしにすべき世界の敵と見ている。魔術士を撲滅し、世界を正しい姿にすることが教義の根本であり、教会の正当性を保証する。メッチェンでさえ「わたしたちは人間。あなたたち魔術士には敵わない」という台詞を口にする。オーフェンはそれに対し、「まるで俺らが人間じゃないみたいだな」と返す(……)。
 他方、サルアは魔術を便利な能力と言ってのけ、魔術による治療にも抵抗がない(おそらくメッチェンは難色を示すのだろう)。さらには、落ち込んでいるオーフェンを励ましたり……あれは励ましてるよね? まあともかく他にもマジクを諭したりと、そんな義理もないのに親切に接する。であるからこそ、「終端」でのオーフェンのスカウトにつながるのだが、じゃあサルア君がオーフェンと何らのてらいもなく付き合えるのかというと、決してそんなことはないんだなあ、これが。
 おそらく意図的に、サルア自身の信仰についての描写は抑えられている。魔術士に敵意を持たないのは、キムラック側の協力的な登場人物としてオーフェンと接し、話を回すためだろう。かといって、彼が信仰や教会を軽んじていたわけではないことは、描写の端々から読み取れる。そもそも「背約者」で起こしたクーデターも、キムラックの行く末を案じるからこそ企てたはずだ。その動機には、いかにも不良少年らしい、閉塞した秩序への苛立ちが多分に混じっていたのだとはいえ。
 すでに言ったように、オーフェンの語る神話はサルアにとって、つまりキムラック教徒にとって非常に際どい話だ。教義の根本から否定されるのだから。実際、聞いていて心地よいものではなかっただろうことは、「踏んではならないところに腰まで沈み込んでいる」という箇所からもわかる。信仰が試されているとすら。……「あそこそ」連載時も思ったが、どうして聞く前に予想できなかったのかね君は。
 ただし、そういう泥を率先して飲みこむような真似ができるほどには合理的だ。メッチェンが避けたのなら、同じく指導者の立場にある自分は聞かねばならない、という責任感もあるだろう。またこのとき、オーフェンは暗に、渡航後のカーロッタとの抗争の中で、この話しを利用しろとサルアに突きつけてもいる。
 だがこれらは緊迫感にはまったく足りない。第三部で、カーロッタらとの抗争で何が起こっていたかをほのめかしたにすきないからだ。私がひやりとしたのは、「(神について)簡単に説明してしまうのは、無信仰の魔術士らしい態度ではあるが、そこは議論しても詮無いところだろう」というこの一文だ。信仰を持つ者と持たぬ者。それがサルアとオーフェンの決定的な違いであり、断崖といっていいほどの溝である。縁あって近しくなり、どれほど順調に協力を続けようとも、埋め合わせのできないものがそこにはある。
 サルアの内心が、また試された信仰がどのような変化を迎えたのかについては触れられておらず、「ガラじゃねえんだよ。本当にな」という台詞から推し量るしかない。生き延びるためには泥を飲みこみ、受け入れるしかない、と考えていたのかもしれない。このときはまだ。事実、第四部では「生きる理由を殺して生き残る理由は何か」というモチーフが繰り返し登場する。魔王術しかり、ベイジットしかり。
 けれども両者に溝が存在する限り、オーフェンはサルアの信仰を傷つけ、悪くすれば踏みにじりすらするだろう。オーフェンが無神経だというのではない。もし、他のキムラック教徒と接触するときは可能なかぎり慎重だったはずだ。原大陸で開拓民から信頼を得たらしいところからもそれはうかがえる。そういう、信仰を持つ者と持たぬ者の齟齬を、慎重に/わきまえた態度で接するということが、サルアに対してだけはおそらく「できない」。なぜなら、サルアはオーフェン同様、合理的で冷静に線引きをしてものを考えられるからだ。
 もちろん、サルアがときに納得できなかったり(そも、開拓の話を持ちかけられたとき、すでに彼は歯噛みしている)、オーフェンに対して腹立たしい思いを抱えていることもオーフェンは気づくだろう。それでも教師として、開拓団のリーダーとして「理解し、協力する」と信頼する。「受け入れられなかったらそれまでだ」と突きつけて――平然と信頼するのだ。踏みにじるという行為は、まさしくそうしたときになされる。これが無遠慮な信頼だ。
 思い入れた対象から寄せられる信頼。これほど鬱屈の溜まるものはなかろう。
 また、例の魔王の力についての告白、あれも信頼を寄せる一助になったのではないか。あのときオーフェンは、キエサルヒマ結界を消失させ、結果もたらされた「変化」を、戦争を目の当たりにし、それでも前に進もうと尽力していた。生き延びるために。だからこそ彼に憑依した万能の力は、彼を苦しめる。
 オーフェンの苦悩に対し、おそらくサルアはもっとも適切な態度で接したのだと思う。「わかりきった話を聞いてくれ、否定してくれ」と投げかけたボールを受け止めてもらえたからこそ、オーフェンは「ありがとう」と言ったのではなかったか。
 「メッチェンの腕も治せる」というあの言葉、これは「子供を産める身体にもできる」とまで言い及んでいるとみるのは、ひょっとすると考えすぎかもしれない。最初に読んだとき、ちらりと浮かんだきり脇に置いていたのだが、twitter上でのやりとりからそう読んでも構わないと思うようになった。言われたサルアのほうも、怯み、動揺しているからだ。困惑を隠しすらしている。隠す、つまり静めるか抑えるかすることを、彼はできていない。それほどの重みだとみていいだろう。
 オーフェンは礼を言い、サルアも荷のひとつくらいは肩から下りただろうかと心配する(おお、なかなか友人っぽいではないか)。手助けをしてくれたこの教師を、だからオーフェンは「こいつはやらかさない。こいつはわかっている――」と認識し、信頼を置くようになったのではないか? そしてサルアも、以後人間種族の中で最も厳しく、辛い立場にいつづけたオーフェンに対し、その態度を続けるしかなくなった。もうやめた、と放り出したり、突き放すことは許されなくなったのだ。
 ところで、オーフェンは多少継続したつきあいのある人間であれば「友人」としているようだが、サルア君はオーフェンに友人扱いされてると知ったら、とてつもなく胡乱げな顔をしそうではある。だとしても彼らは二十数年来に渡って協力し、原大陸の人間社会の維持につとめてきた。おそらくそうであったはずだ。
 だが抱き合わされてきた「相反するもの」がとうとう鋏を入れられたのを、われわれ読者は目にしたのである。